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青と緑の稜線のブログ一覧

2014年10月10日 イイね!

【祝♪】天野先生に興味津々【ノーベル賞受賞】

【祝♪】天野先生に興味津々【ノーベル賞受賞】※画像は、LED飛行船Ⅳのジャケットで、本文とは関係ございません。

日本人3人(2人?)の先生方、ノーベル物理学賞受賞、おめでとうございます!

松下電器産業(現パナソニック)で研究を続けて、名古屋大学で成功させた赤崎先生。赤崎先生の下、地道に研究を続け大きな功績を残した天野先生。そのお二方よりも、日本人らしからぬ言動で知名度の高い、LED・発明・裁判といえば、の中村先生。


そんな中、今回の報道で私の心に響いたのは、天野先生に関する記事でした。

静岡県出身の初のノーベル賞受賞者だと翌日の朝刊で知って、ネットの記事も読んできました。

・・・。なるほど。中学までは勉強嫌いだったから、浜松北高校ではなかったのですね。 ※←勝手な推測です。
まあ。奥様も素敵な方!
お嬢さんも、賢い方なのですね。

私は、理系の勉強や研究をしているというだけで、無条件で尊敬、平伏してしまう文系人間なので、小保方マジックにも惑わされてしまいましたが、天野先生の行き様、人生哲学には、大いに感動しました。

かたや、中村さんに対しては、・・・以下省略。 世の中、いろんな方がいらっしゃるものですね。

私は、天野先生のファンになりました。


研究とは「人の役に立つこと」=「勉強嫌い」一転-ノーベル賞の天野さん
時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014100700909

名古屋大教授の天野浩さん(54)は学生時代、赤崎勇さん(85)の研究室で取り組んだ青色発光ダイオード(LED)に関する研究テーマを「まさにこれが世の人の役に立つこと」と感じ、30年以上にわたって研究に没頭してきたという。

 名大の教員紹介サイトで、天野さんは「中学生までは勉強嫌いで、何のために勉強しているのかほとんど理解していませんでした」と意外なエピソードを披露。大学の講義で、ある教授が話した「工という字は、人(一)と人(一)をつなぐ学問だ」との言葉に感動したことがきっかけで 「勉強とは人の役に立つためにすることだ」 と初めて実感したという
 青色LEDの開発は「まさに人の世の役に立つこと」と確信し、研究に取り組んできた。名大サイトでは、自身の研究成果が照明の省エネ化などに貢献していることについて、「皆さまのお役に立てたことはこの上ない誇りです」とし、「自分の体験を次の世代の若い人たちに伝え、さまざまな分野で自分以上の素晴らしい経験をしてもらいたい」と記している。
 また、受験生に向けたメッセージとして「将来の目標を持っている人と持っていない人は、大きく異なります。たとえ未来ビジョンを持っていても、夢のままで終わらせたら何も起こりません」と指摘。「不安に負けないで、(夢に)正面から取り組んでください」と呼び掛けている。(2014/10/07-20:40) 


「妄想」信じ続け快挙=役立つ技術へ「アイデア次々」-ノーベル賞の天野さん
 【グルノーブル(フランス)時事】
2014/10/08-22:02

 「今となっては妄想だったかもしれないが、確信があった」。青色発光ダイオード(LED)の開発でノーベル物理学賞に選ばれた天野浩名古屋大教授(54)は8日、滞在先のフランス南東部グルノーブルで、「受賞はうそだと思った」と満面の笑みで語った。
 グルノーブルにある先端科学技術の研究拠点「ミナテック」で行われた記者会見。ノーネクタイにグレーのジャケット、オレンジ色のウエストポーチを身に着け登壇した天野さんは、「信じられない」と英語で述べた。
 共同受賞者で恩師の赤崎勇名城大教授(85)を「窒化ガリウムを使ったLED研究の先駆者」、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)は「製造技術のエキスパート」と称賛。「それに比べ、私を加えてもらったのは何か」と謙遜した。
 受賞決定は、乗り換えで待っていたドイツ・フランクフルトの空港で知った。約300通のメールのうち、1通が受賞通知。「びっくりしたが、ひょっとしたら、とも思った」と目を細めて振り返った。
 東日本大震災後、日本の全原発が停止。天野さんは「LEDは省エネルギーに貢献した」と胸を張る。 「新しいアイデアが次々と出てくる」といい、人に役立つ技術の実現へ、「今後も研究を続けたい」と力を込めた
 日本の科学技術が世界最先端から遅れているとの指摘もある。だが「日本の物理界は悪くなっているのではなく、少しずつ進歩している」と分析。「特にエレクトロニクス分野は決して悲観していない」と強調した。
 授賞式は12月10日、スウェーデンのストックホルムで行われる。晴れの舞台に臨む衣装は「持っていないから、貸衣装でしょうね」と笑った。(2014/10/08-22:02)


天野さん、夢か現実か区別つかず ノーベル物理学賞、座右の銘紹介
【グルノーブル共同】
2014/10/ 8 21:51

ノーベル物理学賞に決まった名古屋大教授の天野浩さん(54)=浜松市生まれ=は受賞決定から一夜明けた8日、滞在先のフランス南東部グルノーブルで日本のテレビ各局への出演などに追われた。NHKのインタビューに対し「夢か現実かいまだに区別がつかない」と語った。
 天野さんは7日、滞在するホテルで取材に応じた。記者団に座右の銘を問われ「憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の力試さん」という言葉を挙げた。
 江戸時代の儒学者、熊沢蕃山の言葉とされ「つらいこともどんと受け止め、元気に行こうという意味」と説明した。


<ノーベル物理学賞>「研究者へ」強い思い 天野氏、人望厚く
静岡新聞 @S
(2014/10/ 8 14:28)

 「穏やかで、頼りがいある」「将来は研究者になりたいとの強い思いがあった」−。長年にわたる研究の末、県内で初めてノーベル物理学賞を受賞した名古屋大教授の天野浩さん(54)。故郷・浜松で同じ時代を過ごした同級生や恩師は、懐かしむように当時を思い起こした。
 「自分のことのようにうれしい。小さいころ一緒に撮った写真は宝物」。幼稚園、小・中・高校が同じだった幼なじみの藤野隆久さん(54)=浜松市東区=は快挙の報を聞き、興奮気味に語った。
 「一度もけんかをした記憶がない」ほどの穏やかな人柄。自宅が近かった縁で、幼稚園から中学まではほぼ毎朝一緒に通園、通学した。自宅を早く出た方が相手の家に行く約束だった。藤野さんが寝坊しても嫌な顔ひとつせず、いつも「おはよう」と明るく出迎えた。
 勉強だけでなく、運動も得意だった。小学生時代に所属した町内会のソフトボールチームでは捕手を務め、攻守でチームを引っ張った。「コントロールが悪い私のボールを、何度も体を張って捕球してくれた」と藤野さん。頼れる女房役として、チームメートからの信頼が厚かった。
 頼りがいある人物像は進学しても変わらなかった。県立浜松西高で1〜3年時の担任を務めた伊藤保さん(78)=愛知県新城市=が天野さんに抱いた印象は「寡黙な努力家」。ただ、引っ込み思案ではなく同級生からの人望もあった姿は今も覚えているという。
 研究者への思いは、高校時代には強く意識していたようだ。1年の時の面談では、天野さんから将来は電気か建築関係の研究をしたいと打ち明けられた。「その後、勉強を重ね、自らが歩む“道”を決めたのだろう」と懐かしむように振り返った。

<ノーベル物理学賞>天野さん偉業に浜松歓喜
静岡新聞 @S
(2014/10/ 8 06:35)
 ノーベル物理学賞の静岡県内初の受賞者誕生に7日、天野浩さんの出身地・浜松市の関係者や共に学んだ旧友からは喜びの声が上がった。
 親戚からの電話で吉報を聴いたという母親の天野祥子さん(79)は同市中区の自宅で「ただびっくりした」と偉業を喜んだ。「小さい時から数学が得意な子どもだった。赤崎先生のことを慕っていた。赤崎先生に会わなければ受賞は無かった」と赤崎勇名城大終身教授への感謝を口にした。
 「派手にはしゃぐようなことは好まない。今はただおめでとうと伝えたい」と静かに喜びをかみしめた。
 弟の孝さん(49)も「とにかく集中力がすごい人。夜中まで部屋の明かりがともり、近所でうわさになるほどの勉強好きで、高校入学後には大学入試問題を簡単に解いていた。良く勉強も教えてもらった」と思い出を語った。「大学時代は家に帰らず大学に詰めていたと聞いた。苦労が報われ良かったなと言ってあげたい」と兄の偉業をたたえた。
 県立浜松西高3年でクラスメートだった堀内秀哲さん(53)=同市東区=は「マイペースで目標に向け、こつこつ努力するタイプだが、ガリ勉ではなく朗らかだった。数学は抜群のできで、先生も『分からないことがあれば天野に聞け』と言うことがあった」と懐かしんだ。
 天野さんは特別講師として何度か浜松西高を訪れ、授業や講演をしたことがある。堀内さんは「(外部講師を招くことで)生徒の刺激になっているようだ。西高からノーベル賞受賞者を出し、生徒のモチベーションも上がるのでは」と期待した。
 小・中・高と同じ学校に通った片桐利真岡山大工学部准教授(54)は「勉強をきちんとしていて高校時代はいつも成績が良かった。おちゃめな面もあり、小さい頃はほうきでチャンバラしていた」と振り返った。小学生の頃、アマチュア無線がはやり、片桐さんが講習会に通って取った技師の免許を、天野さんが独学で片桐さんよりも早く取った時は「彼には勝てないと思った」という。
 出身校の同窓会関係者にも喜びが広がった。浜松西高同窓会長の御室健一郎浜松信用金庫理事長(69)は「西高OBからノーベル賞受賞者が誕生したことは大変名誉だし、驚いてもいる。学校と相談しながらお祝いを考えたい」と声を弾ませた。
 浜松西高OBでもある名古屋大同窓会遠州会会長の庄田武さん(81)は「高校と大学の後輩と聞き親近感が湧いた。ものづくりのまちから優秀な人材が生まれ、うれしい」と喜んだ。


天野教授の妻「夫が候補だと知らなかった」
日本テレビ系(NNN)
10月9日(木)18時1分配信

 ノーベル物理学賞に選ばれた名古屋大学大学院の天野浩教授の妻・香寿美さん(53)がNNNの取材に応じた。
 香寿美さんは、先月からロシアのノボシビルスク市の国立教育大学で日本語の教師をしている。

 香寿美さん「(Q:ご主人に会って何て声をかけたい)まず、『おめでとー!!』です。『すごいじゃない!よくやったね~、さすがパパ!!』ですね」

 そして、夫のことをこう語る。

 香寿美さん「家では多くを語らない。仕事のことも言わない。まさか夫がノーベル賞受賞者の候補になっていたことさえ、私はまったく知りませんでした」

 天野教授から届いたメールを見せてもらった。

 天野教授のメール「なんか騒がしくなっちゃったけど、今まで頑張れたのはママのおかげだよ。ありがとね。ひろし」

 香寿美さん「具体的にノーベル賞頂いたとか、そういった文言はありませんでした。夫もビックリして驚いていて、その心境がその一文で伝わってきますね」

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社員発明「企業のもの」=報酬規定義務付け―政府
時事通信 10月9日(木)15時35分配信

 政府は9日、社員が職務上の研究で発明した特許を「社員のもの」とする現行の職務発明制度について、企業が発明に貢献した社員に報酬を支払う社内ルールを定めることを条件に、「企業のもの」に変更する方針を固めた。
 研究開発に取り組む社員の意欲を維持しつつ、「発明の対価」をめぐる企業の訴訟リスクを減らすのが狙い。特許庁が来週開く有識者委員会に改定骨子案を示し、了承を得た上で特許法改正作業に入る。早ければ開催中の臨時国会への法案提出を目指す。
 現行法では、社員の発明について、企業が将来の商品化などを視野に特許を申請する場合、「相当の対価」を社員に支払って、特許を取得する権利を譲り受ける必要がある。 


LED訴訟決着から10年、いまだ「しこり」消えず 古巣の日亜化学工業は「中村氏個人の開発技術だけではない」 
J-CASTニュース
2014/10/ 8 19:15

青色発光ダイオード(LED)の開発者、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)のノーベル物理学賞受賞を受け、かつての勤務先である日亜化学工業(徳島県)がコメントを発表した。
発明対価をめぐる訴訟にも発展した「古巣」からのお祝いメッセージは、「大変喜ばしい」とする一方で、開発における社全体の貢献を強調するものだった。

和解後も両者不満「対価は過大」「日本の司法は腐ってる」

中村氏は1979年に日亜化学工業に技術者として入社した。半導体の開発に10年間携わった後、辞職を覚悟で当時の社長だった小川信雄氏(故人)に青色LEDの開発を直談判し、開発費の支出と米国留学の許可を取り付けた。「窒化ガリウム」という素材に注目して、青色LEDの製造装置に関する技術開発に成功。実用化につなげた。
日亜は1993年に世界で初めて青色LEDの製品化を発表、業績を伸ばすこととなったが、当時中村氏が受け取った報奨金はわずか2万円だった。1999年に日亜を退社し、2年後の2001年に職務発明の対価をめぐって訴訟を起こした。1審では日亜側に200億円の支払いが命じられたが、2005年に高裁判決で和解し、中村氏には約8億円が支払われた。この裁判は発明対価訴訟の象徴的なものとなった。
ただ、和解という形にはなったものの両者とも本当の意味では納得していなかったようだ。日亜は「相当対価は過大なもの」との立場で、支払いを決めた理由については、
「今後、中村氏との間で起こるであろう紛争が一気に解決され、それに要する役員・従業員の労力を当社の本来的業務に注ぐことができる点や、将来の訴訟費用を負担しなくて済む点を考慮した」
と説明していた。

一方の中村氏も和解成立後の会見で「日本の司法制度は腐っている」とぶちまけていた。研究に専念するためもあり、弁護士と相談して和解を決めたそうで、裁判自体は「完全な負け」だと不満をあらわにしていた。
日亜「社として一丸となってやっていた」
両者のわだかまりは訴訟終結から約10年たった現在でも払拭できていないようだ。
ノーベル賞受賞が決まった2014年10月7日の会見で、中村氏は研究持続の原動力について聞かれると「怒りだ」と答え、日亜との対立を改めて説明した。
一方の日亜は7日、中村氏の受賞に際して次のコメントを発表した。
「日本人がノーベル賞を受賞したことは大変喜ばしいことです。とりわけ受賞理由が、中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは、光関連技術の日亜化学にとっても誇らしいことです。今後とも関係者各位のご活躍をお祈り申し上げます」

報道の中には「独力で大量生産技術を開発」と孤軍奮闘ぶりを強調しているものもあるが、日亜のコメントは、中村氏の受賞は個人の力だけでなく、当時中村氏が在籍していた日亜全体の貢献によるものだと強調しているように受け取れる。
和解成立時に発表された社長のコメントに「特に青色LED発明が一人でなく、多くの人々の努力・工夫の賜物である事をご理解いただけた点は、大きな成果と考えます」という一文があったが、これと通じるものがある。
このコメントの真意についてJ-CASTニュースが日亜に尋ねてみると、広報担当者は「中村氏が進めていた青色LEDの開発には多くの社員が携わり、また貢献していた」と話した。具体的な貢献については
「青色LEDの製品は中村氏個人の開発技術だけでなく、さまざまな要素や技術が組み合わさってできている。分担していたので、共同開発したものや、中村氏が直接関わっていないものもある。社として一丸となってやっていたものなので、こうした表現になった。必要な研究機材の投資を社が行ったという側面もある」(広報担当者)
と説明した。

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発見、開発に到るまでの研究や留学の費用、生活費、給料などはどこから出ているのか、・・・なんてことを考えると、ご本人の才能と不断の努力と運に恵まれたこととは言え、なんとも・・・。
企業の一員として、また、大学での研究と、立場は違えど、人のために役に立つ発明や開発は、大変素晴らしく有難いものであるとは思います。

「勉強嫌いだった」とおっしゃる天野先生が感銘を受けたという、「工という字は、人(一)と人(一)をつなぐ学問だ」。 90度横に傾けると、人と人をつなぐ別の文字にもなりますがwww

天野先生ご本人にも、感銘を受けるだけの資質や教養もお有りだったとは存じますが、教職にある方々の力量や情熱も、人を育てていくためには大変重要であることを感じました。

それにしても、名古屋大学って、何気に凄い学校ではありませんか?


Posted at 2014/10/10 23:58:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | 誇り | 日記
2014年10月06日 イイね!

【国士】中川昭一先生【死して保守を走らせる】

【国士】中川昭一先生【死して保守を走らせる】2009年10月3日、中川昭一先生はご逝去されました。

「日本が危ない」。
日本国のために警鐘を鳴らし、日本の名誉を守るため怯むことなく正論を述べ、国賊と闘い続けてこられた故・中川氏。
愛すべき国士・中川(酒)は、反日マスコミの印象操作により、不名誉な濡れ衣を着せられ、国政の場から一時退場を余儀なくされ、政治生命のみならず、本人の生命さえ失ってしまった。

五年前、あの頃の日本の置かれた状況を想うと、ああ、今、ここまで来たのか、少しずつ、しかし確かに変化してきているのだと、明るい希望を持てることを嬉しく、心強く思います。
天国で中川先生が、日本の現状を憂い、日本国を守ろうとしている政治家の皆さんや、志を同じくする国民を鼓舞してくださっているに違いないと思っています。

「日本の水」を守りたいがために、やんごとなき方へ直接声をかけてしまったことも、日本を貶めたい存在に狙われることになってしまった要因の一つかもしれません。

いつかは総理大臣になっていただきたかった「日本の宝」中川昭一先生の想いを、この国を愛し、この国の未来を信じる私たち国民ひとりひとりが、自分にできることを考え、実行し、叶えていくことを、改めて御命日に際し、心に刻みました。

議席を落としたご主人に奥様が掛けた言葉を、テレビカメラの音声が拾っていました。

「日本一! 大丈夫! 頑張れ頑張れ。」
…今でも、胸がいっぱいになります。


ご冥福を心よりお祈りいたします。



「花は一生懸命咲くので好きだ」  中川昭一  御自身が植えたチューリップと共に・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・選挙が終わって ― 『十勝・日本が危ない』 
<衆議院議員 中川昭一公式サイト 中川昭一が語る より>

私を含め、「保守」議員の多くがいなくなったが、
まだ残っている。
彼らがいかに保守の旗印をもう一度立て直し、
日本を守り、真の意味で国民を守るかを真摯に議論してほしい。

心ある国民はそれを是非応援してほしい。

自民党は末期的だが、
今こそ日本の保守の軸を改めて確立するために全力を尽くすべきだ。

さもなければ、
日本は世界の中で埋没しながら自壊してゆく。

P.S. 
過日、
麻生総理の
「就任直後に解散しておけば勝っていたかもしれない。
しかし、経済状況を考えると、とてもそれはできなかった。」
という主旨の報道があった。

それが総理の本音であり、
総理という立場の判断の辛さだと思う。

私は麻生総理に対し、
心から申し訳なく思っている。

何故なら、昨年来、
経済・生活対策を最優先にすべしと一番強く迫ったのは、
財務・金融担当大臣つまり私だからである。

何よりも政局より、政策実行の為に。

総理の選挙を負けさせ退陣に追い込んでしまった。
私も議席を失ったが、
あの時の判断は、
その後の対策が日本と世界を上向きにしつつある現状を見ても、
間違っていなかったと今でも思っている。


私は今後新たに決意を持って進んでいきます。
発信していきます。「日本が危ない」から。


平成21年9月14日
中川昭一


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


[日本再生] 愛国戦士【OP ver.】
http://www.youtube.com/watch?v=AJuPYFbuy6o

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中川昭一の真実
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/512.html

「 人類の歴史上、最大の貢献だ 」ストロスカーン(IMF専務理事)

<目次>

■中川氏、天皇陛下より祭粢料が供えられる
■実はG7で大絶賛されていた麻生、中川氏
■青山繁晴氏が会見時の真相を暴露
■当サイトによる評価
■反日勢力が最も敵視する人物の一人
■朝日新聞が中川昭一議員を貶めようとしたNHK番組改編問題
■盟友"ANA"がマスコミから受けた被害
安倍晋三への攻撃
(1)TBSのプライミング効果
(2)年金問題の責任を負わせられる
麻生太郎への攻撃
(1)椿事件の再来
(2)『麻生クーデター説』を捏造
(4)実績を隠蔽
(5)経済政策を隠蔽 ~報じたのは定額給付金だけ~
(6)その他たくさん。続きは別ページにて。
■辞任について、テレビが報じていない情報
麻生の不安的中 盟友、中川財務相が倒れた瞬間(産経新聞)
中川大臣が辞めるなら、小沢党首は国会議員を辞めなければならない(衆議院議員 土屋正忠 ブログ)
これだけ言っておく(二階堂ドットコム)
中川昭一が気に入らなかった韓国とアメリカ
「中川辞任劇」はマスメディアの自作自演
中川昭一氏に応援の葉書を送るスレより
当サイトの見解
■拉致被害者家族と北朝鮮の監視役を切り離す
■中川夫人より支援者の方へ メッセージが届いております
■中川昭一先生の弔い選挙をインターネットの力で勝ち取る準備
■マスコミに殺されたとも言い切れなくはない
■中川氏の件でマスコミに意見したい方はコチラ
■【支援表明】中川昭一本購入イベント【追悼】
■【お知らせ】著書『飛翔する日本 <特別版>』、『一意専心』販売のお知らせ
■参考書籍



中川昭一辞任の裏側
http://www35.atwiki.jp/kolia/pages/524.html

テレビが報じない中川昭一騒動まとめ

<目次>

■繰り返された悪夢
■中川昭一財務・金融相のG7会見(ノーカット)動画
■中川昭一のご遺志を継ごう!
■フライデー襲撃事件を忘れたマスコミ
■悪ふざけにもほどがある!
■すっぱ抜きで有名なブログ、二階堂ドットコムが指摘した財務省幹部の工作 (実名)
■青山氏解説 中川氏辞任劇の闇
■放送後、青山繁晴が自身のブログで決意
■海外メディアが中川昭一に同情
■世界から本当に馬鹿にされたのは、日本のマスコミ・民主党・煽られる日本国民だった
■イタリア訪問日程
■時事通信の怪しい動き。記事に工作か!?
■本当に世界から笑われているのか、と疑問に思ってちょっと調べました。
■毎日新聞・TBSでも記事の隠蔽工作が。
■読売新聞の怪しい動き
■2ちゃんねらーが掴んだ女記者の情報 (実名・経歴・写真・ホームページ改編前後のデータ)
■バイアメリカンを批判した中川昭一が気に入らなかったアメリカ、そして韓国
■昼食会の参加者続報(二階堂ドットコム)
■「中川辞任劇」はマスメディアの自作自演
■中川財務相辞任騒動の裏で記者クラブは何をしていたのか  財部誠一(日経BP)
■報道されなかったフランスのサルコジ大統領の酔っ払い記者会見(2007年)
■『麻生クーデター説』捏造事件と酷似
■椿事件の再来
■情報提供・意見
■情報提供・意見
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中川昭一 ライブラリ
http://nakagawa-shoichi.jp/


衆議院議員 中川郁子(ゆうこ)公式ウェブサイト
http://nakagawa-yuko.jp/


04.04 衆議院農林水産委員会 中川郁子議員(自民:初)
http://www.youtube.com/watch?v=rLx2yf7AZOg&feature=player_embedded#at=202

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ワラノート 中川昭一のアルバム
http://waranote.blog76.fc2.com/blog-entry-1797.html



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「日本は現金自動支払機ではない」 ホワイトハウスに猛抗議した中川昭一氏をしのぶ
2013.09.27
http://www.zakzak.co.jp/economy/ecn-news/news/20130927/ecn1309270728004-n1.htm


 2008年9月のリーマン・ショックから5年。当時、「日本は黙ったまま、世界のキャッシュ・ディスペンサー(現金自動支払機)になるつもりはない」と、ホワイトハウス向けに伝言した男がいる。中川昭一財務・金融担当相(当時)だ。

 中川さんはリーマン・ショックの直後、財務相に就任。同年10月10、11日両日、ワシントンを訪問、先進7カ国(G7)財務相・中央銀行総裁会議などに出席した。

 10日昼には、ポールソン米財務長官と会談。長官はリーマンの余波で経営危機に見舞われた金融大手、モルガン・スタンレーの破綻阻止で頭がいっぱいだった。当初は中国の国家投資ファンド、中国投資有限責任公司(CIC)に救済出資を求めて交渉していたが、返事ははかばかしくない。

 そこで、ポールソン長官はブッシュ大統領に対して「大統領の方から直接、胡錦濤国家主席に電話して協力を要請することになるかもしれません」と打ち明けるほどの窮地だ。米大統領が中国共産党のボスに頭を下げるのは前代未聞、以降の対中外交上の力関係に響く。それでも計算高い、北京のこと、断られる可能性だってある。ワシントンにとって政治的リスクが極めて高い取引になる。

 中国に代わる「白馬の騎士」候補が三菱UFJフィナンシャル・グループだが、三菱側は渋る。ポールソン長官は、「中川さん、あなたから三菱に救済に応じるように話してくれませんか」と頼み込んだ。

 長官の回顧録によると、中川さんは「力添え」の明言を避けたが、「注視していく」と返事した。長官は「これ以上期待できないほどありがたい言葉だ」と安堵(あんど)した。実際にその後、三菱は救済出資に応じ、モルガンは生き残った。

 舞台は一転して、翌日の11日午前、中川さんはブッシュ大統領主催のホワイトハウスのローズ・ガーデンでのG7財務相歓迎式典に出席。そこに飛び込んできたのは、北朝鮮に対する米国の「テロ国家指定解除」という重大ニュースだった。

 中川さんはそれを耳にするや、ブッシュ大統領に走り寄った。「大統領、どうしてですか。日本人などの拉致問題をどうするのか」と詰め寄る。大統領は「あそこにいるコンディ(コンドリーザ・ライス国務長官)に聞いてくれ」と逃げ出した。

 中川さんは帰国の翌週、訪ねてきた米共和党の要人に向かって、口頭でホワイトハウスへの伝言を託した(筆者はこの場に居合わせた)。その内容が冒頭の言葉である。米国や世界のために資金面で貢献するのに、対北朝鮮制裁解除のように蚊帳の外に置かれる。そこで捨て身の覚悟で抗議した政治家は、他にいない。

 翌年の10月3日、中川さんは不覚の死を遂げた。その後、デフレは加速し、余剰マネーが外に向け以前に増す勢いで流れ出る。アベノミクスの「脱デフレ最優先」の看板も、来年4月の消費増税で色あせるだろう。ほくそ笑むのは、財務官僚と米欧国際金融資本か。

産経新聞特別記者・田村秀男

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 「中川昭一がいたら『日本を売るようなまねはやめていただきたい』と言うだろう」   麻生太郎氏


麻生太郎氏  弔辞


昭ちゃん、
まさか貴方の弔辞を13歳も年上の私が読むことになろうとは全く思ってもみませんでした。

自由民主党は真に得難い人材を失ったと悔やまれてなりません。

昨年(2008年)11月にワシントンで緊急のG20金融サミットが行われました。
世界的に急激な金融の信用収縮発生が予想された状況下です。

そこで日本がIMF・国際通貨基金に10兆円を融資する事によって、
開発途上国の財政破錠を防ぐと提案しました。
財政状況の厳しい日本が10兆円の資金を出すと言ったので、
霞が関では当然反対の声が挙がりました。

しかし、「これは融資であって増資ではない」という私の主旨を一言で理解して、
直ちに財務省に話をつけたのが中川財務大臣でした。
後にIMFのストロスカーン専務理事をして「あの日本の決意が米国、欧州を動かし、
結果として世界を金融恐慌から救ってくれた」との弁を語り、感謝状も戴きました。

日本でその意味を理解している人が今もって極めて少ないのは、
甚だ残念の極みです。

しかし、国際的な金融機関における評価が極めて高いのは事実であり、
後世の歴史家が評価してくれると確信しています。

政治家は我身無念と思えども 国の為なら本懐なり 

貴方にこの言葉を贈りたいと思います。

自民党は保守理念の再構築をしなければなりません。
その時にその中核を担うと期待していた中川昭一先生を失い、我々の気力が萎えたことも事実です。
しかし我々は貴方の遺志に応える義務と責任があると存じます。


死せる中川  生ける保守を走らす


それが貴方が最も望んでいることでしょう。
残された我々は歯を食いしばって頑張ります。
どうぞ安らかにお休みください。
政治家・中川昭一に改めて感謝の気持ちを申し上げ、お別れの言葉と致します。
            


                     
平成21年10月16日 
             
                                麻生太郎

 



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 [慰安婦問題]稲田朋美 (自民党)後半【衆議院 国会中継】~平成26年10月3日予算委員会~

<11分21秒から>
「今日は、中川昭一さんの命日でもありますが。中川昭一さんを中心に、それが教科書にですね、事実であるが如くそれを前提に強制連行を書かれるのはおかしいという運動を展開してきました。しかしなかなかですね、それは成果を産むことはできなかったのでありますが、随分時間はかかったのでありますが、しかし段々と強制連行の記述はなくなっていった訳であります。そして流石にですね、朝日新聞…(以下省略)」



Posted at 2014/10/06 12:02:49 | コメント(0) | トラックバック(0) | 誇り | 日記
2014年10月03日 イイね!

車とわたし<中編>

車とわたし&lt;中編&gt;
☆これまでのお話は、こちらをごらんください☆


さて。
自転車通学と部活動で足腰を鍛錬し、精神的にも強くなってきたように思われた私は、夢を叶えるため、そして、なりたい自分に近づくため、大学合格を目指した。


しかし、途中に、いくつもの試練があった。
現実逃避のため、中学生の時に途中で中断していた山岡荘八著「徳川家康」全26巻を、再び読み始めた。図書室で何冊も借りていくのを見つかり、受験勉強の一環と説明したが、以後貸出禁止となった。
二次試験のための実技の勉強が楽しくて、そちらにばかり夢中になった。


…すこしも精神は鍛えられていなかった・・・・orz


高3の進路決定の面談で、担任から「おまえの第一志望は○○科だけど、俺の後輩がいる▽▽科なら推薦してやる」と言われ、熟考の末、お断りしたら、その日から口を聞いてくれなくなった。
ちーせー男だ!
一次試験の時、私以外の同クラス女子の受験生たちには、お守りだとか言って小さな花をプレゼントしていたらしい。
これだから、小さい頃からちやほやされてる▽▽科出身の自称エリート様は、懐が狭いんだから。
その花を、受験に向かう電車の中で嬉しそうに私に見せる女子も女子だわ。フンっ。

Σ(;゚д゚)はっ。

自分も○ツの穴が小さいところを披露してしまったわ。
なーんにも気にしてませんわ。ほほほっ。

のちに。
実技を教えてくださった外部から講師でいらしていた先生は大学の先輩で、構内でちょくちょくお見かけし、元担任の後輩だという助教授(当時)の先生も、講座をとってから親しくお声をかけてくださる、少しもちいさくない、素敵な方だった。
助教授の先生は、私と同じ町から通勤し、その後私が乗ることになるゴルフのオーナーだったため、車同士ですれ違うと手を振ってくれた。奥様は、スーパーエリート小学校教師。私も新規採用の時からご指導を受けた。そのお兄様は、弟が野球部で大変お世話になった顧問の先生だった。


さて。

晴れて合格し、大学に通うことになったが、初めの一年間は、自宅からバス、電車、バスを乗り継いで通うことにした。片道2時間弱かかるが、一緒の電車に乗る他高校出身の友達とも仲良くなり、電車通学を楽しんだ。
車窓から見える海を見に行きたくて、時には、レンゲ畑が広がる田んぼでお昼寝するため、度々途中下車した。
母と共に大好きだったラーメン屋さんにも、最寄りの駅で降りて、一人で食べに行くようになった。

余裕で一コマ目に間に合う電車から、ちょっとの遅刻で済む一本遅い時刻の電車に、いつの間にか変更していた、精神力の弱い私。その電車に、同じような理由で乗っている友達が、生涯にわたる「腹心の友」となる。
まさに、類は友を呼ぶ。

「腹心の友」とは、学生時代から社会人になってからも、ずいぶん一緒に電車や車で旅をした。
共に食いしん坊で、細かいことを気にせず、私が奇想天外の思いがけない行動をとることを心から笑い、称賛してくれた。
いつも同じ方向を見て一緒に笑い合える友人は、何ものにも代え難い、大切な存在だ。
遠く離れてしまってなかなか会えないけれど、電話で話していても、たわいのないことで爆笑の連続。落ち込んでいても、元気をもらえる。
お互い子育てが終わったら、きっとまた一緒に、旅に行くことだろう。


Σ(ll゚Д゚ll)はっ。
かなり脱線している。
これでは定年後のオジサマが自費出版するような、単なる半生記だ。


そう。「車とわたし」だった。お車へつづく道。ロード・トゥ・ザ・カー・オブ・ライフ。
電「車」も、車の仲間ですし、ね。


☆☆☆☆☆

大学一年の夏休み、普通は八月が中心の休みだが、校舎の耐震工事のため、九月がまるまる夏休みになった。

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!。お安く自動車運転免許をとる、チャーーーーンス!

山形県の合宿免許が、九月は格安料金設定だと知り、友人五人と約二週間の予定で免許を取りに行くことにした。

しかも、仙台まで(山形新幹線は未開通)の往復新幹線代金も、キャッシュバック♪
ふふふっ。青春18切符で行って、差額を帰りのディズニーランド豪遊に回そうぜ!

深夜の快速電車に乗って、出発。
夏休みでないから、鉄道マニアの小学生は流石に乗っていなかった。
当時はまだ、鉄ヲタ、なんて言葉はなかったけど、こんなに電車好きな人が日本中にいるのかと、深夜の快速電車で何度も旅をするうちに知った。
座れないことを予想していたから、段ボール、新聞紙、膝かけなどを持参して正解だった。床に座ることができた。

東京発の電車は、通勤ラッシュ前に首都圏を通り過ぎていたから、ずっと座っていられた。
前の電車で床に座っていたせいか、お腹を痛くしてしまった私は、四人がけのイスの2座席分をお借りして、横になっていた。
外が次第に明るくなっても、横になっていた。
だんだん辺りがざわざわし始めても、横になっていた(熟睡していた)。
通勤通学時間帯になり凄く混んできて、私のことを気の毒な若い浮浪者だとでも思って遠巻きに見ている乗客たちの存在を知ったのは、友人たちの忍び笑いの声に気づいて目が覚めた時だった。
みんなは横並びのちょっと離れた席に座って、他人のふりをして見ていた。
「あっ、すみません。どうぞどうぞ、隣りにすわってください」と座りなおしても、乗客は誰も私の隣に座ろうとしなかった。

都会の風は、冷たかった・・・。


暖かい空気に変わってきたことを感じたのは、聞き慣れぬ言葉を耳にするようになった頃だった。

こ、これは!
イントネーションが、微妙に違う。
語尾が、んだ?
ネイティブ・スピーカーが話す東北弁を、生で聴くのは初めてだった。

電車に乗り込み、おしゃべりしては降りていくおばあさんたちの言葉の意味が、北上するにつれて、だんだん聞きとれなくなっている。
福島に入ると、もう、完全に英語のヒアリングくらい集中力の必要な日本語だった。
それが面白くて、おばあさんに話しかけたり、そっと聴き耳を立て、耳を傾けたりした。

そう、サントリー・ウェイティングバー「アヴァンティ」のように!


何度か乗り換えて、仙台駅に着いた。
新幹線で来たことを装うため、新幹線降り口に移動して、お迎えの人を待った。

不意に、
ずどうしょうがっこうさのひとだべ」(今なら、分かる、すぐ聞きとれる!)
見知らぬおじ様が、私たちに声をかけてきた。

………………
児童小学校?
私たちが教育学部の学生だって、どうして分かるの?
どなたかしら。なんて答えたらいいんだろう。

…この間5秒…

ばすがまっでるから、こっちさこい

あっ。
お迎えにきてくれたんだ!
しかも、新幹線で来たって、ちゃんと思ってくれていそう。(鈍行で来るなんて想定外でしょうねww)


『よろしくお願いしまーす』






後編につづく≫


Posted at 2014/10/03 05:21:39 | コメント(0) | トラックバック(0) | お車 | 日記
2014年10月01日 イイね!

車とわたし<前篇>

車とわたし&lt;前篇&gt;
初めて乗った自分の「車」は、三輪車だった。
アルバムに、三輪車にまたがり、髪の毛をてっぺんで結んで、大きな口をあけて上を向いて笑っている写真があった。

小六で「生い立ちの記」を書くときに持参した写真を、几帳面で神経質でしっかり者の親友(A型、夏至生まれ、何もかも正反対)が、
「大事にするから、この写真、ちょうだい」
と持っていった。当時の自分と、あまりにも笑い方が変わっておらず、可笑しかったのだそう。


一番古い記憶に残る「車」は、ピンクの自転車。ピンクレディーの写真がついているのが欲しいと思ったけれど、ピンク色だけで満足していた。
補助輪は、早くとれた。
兄と、幼馴染とその兄と、自転車暴走族のように、町内中を走っていた。
近所には男の子しかいなかったから、写真に写っていたポーズは仮面ライダーだったり、銀玉鉄砲を構えていたり、泥んこの裸んぼうでホースの水をまかれていたり。
もしも髪が短くてピンクの自転車が写ってなければ、完ぺきな男の子。

自転車暴走族は、その勢力を次第に拡大し、町内中へ探検に行きまくった。

当時住んでいた場所は、なだらかに山裾が拡がる最終地点に近く、家の敷地内には雄大な富士山の伏流水が湧き出る泉があり、守り神のようなアオダイショウがそこに棲み、時々顔を見せた。
周囲には段々に下りていく棚田にような自然な地形を生かした形の田んぼが広がり、夏にはホタルが舞い、古墳のような杜があり、朝と夕方にはお寺の鐘が響き、夜は遠くを走る電車の音が聞こえる、そんな場所だった。

台風が過ぎた後は、田んぼの水路に迷い込んだ養殖場から逃げ出したニジマスを捕りに行った。
囲い込んで捕まえたニジマスに、細い竹でつくった串を刺し、自分たちで火をおこして、あぶって焼いて食べた。外側がこげて、中は生焼けだった。アルミホイルで包み直して火の中へ入れた。
塩をかけるだけでも美味しい、自分たちで捕まえた最高のご馳走だった。


ホタルも舞う家の隣を流れる清流には、メダカやカニが流れの外側の水溜まりに棲んでいて、毎日のようにすくいに行った。
橋のたもとの深みにはハヤが棲んでいて、そこに手を突っ込むと一瞬、何匹ものハヤが手に触れる。
ハヤが警戒せず集合している時、チャンスは一日一回。つかみ取りをしようと毎日挑戦したが、ヌルヌルしているすばしこいハヤは、いとも簡単に子供の手をすり抜け、なかなか捕まえられない。いつか、掴み獲りしたいと思いながら4年生になったとき、区画整理のため、遊び場だった美しい川は、コンクリート製の真っ直ぐな味気ない川になってしまった。
棲んでいた生き物たちも、みんな、いなくなってしまった。

その川で、細い竹に糸と釣針とおもりをつけただけの釣り竿を持って釣りもした。餌は糸ミミズか小麦粉と卵を練ったもの。釣りあげたハヤは食べられないから、元の川に逃がした。
ウナギも釣れたことがあるという伝説を聞いていたが、作り話だと思っていた。

区画整理で川が堰き止められている時に降った大雨の夜、我が家はダム湖に沈むがごとく床上浸水してしまった。フェンスで覆われた犬小屋でくらしていたシェパードは、楽しそうに庭を泳いでいた。
翌朝、水が引き始めたとき、そこにいたものは、ハヤやフナ、カメ、そしてウナギだった。
遥か遠く、駿河湾から十キロ以上もの上流の小さな川にも、ウナギが辿り着いて暮らしていたことに、子供心にロマンと感動を感じた。
それほど美しい水が流れ、多様な生きもの暮らす宝物のような川は、もう以前の姿には二度と戻らない。
本当に、区画整理をする必要があったのか、自然の川の姿のまま残すことはできなかったのか、楽しい思い出と共にずっと、悔しさと悲しみが心に残ってしまっている。


家の隣にあった父親の経営する工場は、同じ校区の北の端、家がほとんどない郊外の山へ移転したため、跡地の広い庭を走り回った。昼は放し飼いにしているチャボやアヒルが虫をついばむお花畑や小さな畑で虫網を振り回して、蜂に刺されたことは一度や二度ではなかった。
アヒルのガーコは、有精卵をもらってきてチャボのお母さんに一緒に温めてもらったら、孵化した。小学校二年生から大学時代まで、チャボたちのリーダーとして我が家で暮らしていた。。

父親が耕す小さな畑では、トマトやナスを作り、真っ赤に熟したトマトはその場で食べた。あの懐かしい太陽の匂いがするトマトの味は、忘れられない。
お花が大好きだった母は、四季折々のたくさんのお花を植えていて、小学校の教室にも、切って持たせてくれた。今でも私がお花が大好きで結構いろんな名前を知っているのは、幼いころに母に教わったのと、ずっと華道を習っていたからだと思う。



さて、自転車暴走族は、町内から、隣りの町内、また一つとなりの町内へと向かった。

3歳の終わり頃、「♪おばけのQ太郎」が弾けるようになるならとピアノを習い始め、5歳ころからは一人だけで自転車でピアノの先生のお宅へ出かけるようになった。
でも、いつまで経っても「おばけのQ太郎」の曲は習わない。面白くないなあ、と思いながら通ううちに、習わなくても自分で弾けるようになっていたことに気づいた。


時々、3歳違いの保育園の弟のお迎えを頼まれて、自転車で迎えに行った。
園庭で遊んでいる弟を先生が呼んでくれるけれど、小学生の姉が迎えに行っても「えらいねえ」と褒められるだけで、なんのお咎めもない時代だった。
弟を後ろの荷台に乗せ、しっかりと自分の腰に手を回させ、出発。
「今日は、一度も足をつかないで行ってみるからね!」
バランスを上手くとり、ブレーキを小刻みに使い、車の行き交う広い道には用心して、姉弟を乗せた自転車は進む。
距離にして500m程だと思うが、当時は長い長い道のりに思えた。
バランスを崩しかけ、あっ、足をついてしまった。
「また今度、挑戦ね!」

片手放し、両手放し、お尻を荷台にのせて漕ぐ、逆さ向き運転、立ち漕ぎ、三角漕ぎ、ハンドルの向きを変えてアメリカンスタイル、二人乗り、三人乗り、四人乗り・・・。
自転車に乗るだけでも、ずいぶんいろんな乗り方や遊びができた。
車の余り通らない道や広場、公園が、子供たちの遊び場だった。


☆☆☆☆☆


アルバムの写真に、兄と私がスーパーカーといっしょに写っている写真がある。
そうだ、そういえばあった、スーパーカーブーム。
我が小学校にも、我が家にもやってきた。
鉛筆を消せないスーパーカー消しゴムを、ボールペンのパッチンでどこまで遠くへ飛ばせるか、教室の机の上で競った。
少しでも遠くへ進むように、タイヤの後ろに、プラモデル用のニス?接着剤のような透明な液体をつけ、乾かした。
ランボルギーニ・カウンタック、フェラーリ、ポルシェ・・・。池沢さとしさんの「サーキットの狼」。
ちょっとデッサンがアヤシイ漫画だなあと思いつつ、見たこともない車に、ドキドキした。

当時、国産車のほかは、VWのビートルくらいしか外車を見ることなかったように記憶している。
一日に、7台ビートルを見るといいことがある、色が全部違うと、ものすごくラッキー、なんて言われて、見かけるビートルを数えていたものだ。
そんなことをまだ小さい頃の息子たちに話すと、VWの車を見つけるたびに、「ワーゲン!」と叫ぶようになった。未だに、突然叫ぶくせが抜けず、同乗者を驚かせるので、苦笑してしまう。

七五三にお参りに行った地元の大きな神社でのスナップも見つけた。
可愛らしい赤と橙色の着物を着せてもらって、相変わらず、大口を開けて笑っているww
一緒に写っていた車は、黒い日産セドリック。

そう言えば、母にどうして父と結婚したか聞いたら、「車を持っていたから」。

・・・母・・・・orz

他の理由や、いろいろ事情もあったことは知っていますが。
10年前に、母が病気で亡くなって、お葬式の席で近所のおばさまから聞いた話。
「あなたのお母さんは、優しくてきれいでみんな憧れていたんだよ。○△(住んでいた地区)の七不思議だって言われてたんだよ、あんたのお父さんがどうしてあんな奥さんと結婚できたのか」

・・・・・・・・・父・・・・・・・・・・・orz

もしも、父が車を持っていなかったら、私はこの世に存在していなかったのかもしれない。
今よりも、車が生活の中で特別なものだった時代が、確かにあった。


☆☆☆☆☆


高学年になると、楽園のような場所から、校区の北はずれの工場の隣に家を建て、お引っ越し。
自転車天国から、別れを告げることに。

多くの友達が住む「楽園」地帯へは、ペダルを一度も使わなくても、重力の法則と慣性の法則で到着できてしまう。つまり、ずっと、ほとんど下り坂。
「楽園」で楽しく遊んだあとは、ひたすら上り坂を帰る。
「楽園」地帯から私の自宅へ友達が遊びに来ると、帰りは「バイパーイ♪」と、みんなご機嫌で帰っていった。


しかし、新しい場所にも楽しみはあるもので、途中に木イチゴが群生する場所を見つけ、摘み取ってジャムをつくってみたり(酸っぱすぎて、どんなに砂糖をいれてもジャムにはならなかった)、蕨やゼンマイ、タラの芽、ギボウシ、こごみなどの山菜を自転車に乗って、広い山野に取りに行った。
秋には、銀杏を拾いに。何日も、自転車が・・・臭かった。
カブトムシやクワガタは、夏の早朝に決まったクヌギの木にたくさんたかっていた。自宅に外灯をつけてからは、スイカ半分をくりぬいて食べた皮を置いておくと、一晩で20匹くらい集まっていたこともあった。



高校時代、自転車通学だった。
朝は20分もあればノンストップでつくから、のんびりできた。
のんびりしすぎて遅刻して、自転車を学校の隣の雑木林に乗り捨て、柵を超えて侵入した事もあった。
何度も、あった。
帰りは、部活の後のヘトヘトの体で坂道を登るのは、きつかったなあ。
一度も足をつかず、立ち漕ぎだけで家に帰ろうと何度も挑戦した。
途中に、トミカビルの急こう配のような坂があり、そこから振り返る町の景色はすばらしい。遠くには、海が見え始める。
が、ひたすら地面をみつめ、ペダルを漕ぐ。
だんだん自転車が進まなくなり、停まり、バックし、あえなく断念。
そう言えば、かつて母がスーパーカブからスクーター「らったった」に乗り換えようとしたけど、試しにバイク屋さんがスクーターで走ってみたら坂道を登れなかったそう・・・orz 

その頃から、自転車に限界を感じ、スクーターやバイクを飛び越え、早く車の運転をしたいと思うようになった。

「スズキのマー坊とよんでくれ」
「スズキアルト、47万円」

そうか、47万円貯めれば、車に乗れるんだ。
(この頃はまだ、中古車を買う、という発想がなかった)

自分でアルバイトをすれば、車だって買えるかもしれない!

この坂道を、車だったらヒョイっと昇って、ビューンと走れる♪

よーし、絶対に車にのるぞーーーーーщ(゚▽゚щ)



・・・まずは、大学に合格しなくては。



中編へ続く≫
Posted at 2014/10/01 08:39:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | お車 | 日記

プロフィール

「高市早苗さん。おめでとう。ありがとう。 http://cvw.jp/b/2096003/48737707/
何シテル?   10/30 06:18
青と緑の稜線(りょうせん) と申します。  稜線とは、空と山の境界線、「SKYLINE」を意味します。 ゴルフⅡ、現在はゴルフワゴン(2台目)に、殊...
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