
※画像は、LED飛行船Ⅳのジャケットで、本文とは関係ございません。
日本人3人(2人?)の先生方、ノーベル物理学賞受賞、おめでとうございます!
松下電器産業(現パナソニック)で研究を続けて、名古屋大学で成功させた赤崎先生。赤崎先生の下、地道に研究を続け大きな功績を残した天野先生。そのお二方よりも、日本人らしからぬ言動で知名度の高い、LED・発明・裁判といえば、の中村先生。
そんな中、今回の報道で私の心に響いたのは、天野先生に関する記事でした。
静岡県出身の初のノーベル賞受賞者だと翌日の朝刊で知って、ネットの記事も読んできました。
・・・。なるほど。中学までは勉強嫌いだったから、浜松北高校ではなかったのですね。 ※←勝手な推測です。
まあ。奥様も素敵な方!
お嬢さんも、賢い方なのですね。
私は、理系の勉強や研究をしているというだけで、無条件で尊敬、平伏してしまう文系人間なので、小保方マジックにも惑わされてしまいましたが、天野先生の行き様、人生哲学には、大いに感動しました。
かたや、中村さんに対しては、・・・以下省略。 世の中、いろんな方がいらっしゃるものですね。
私は、天野先生のファンになりました。
研究とは「人の役に立つこと」=「勉強嫌い」一転-ノーベル賞の天野さん
時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014100700909
名古屋大教授の天野浩さん(54)は学生時代、赤崎勇さん(85)の研究室で取り組んだ青色発光ダイオード(LED)に関する研究テーマを
「まさにこれが世の人の役に立つこと」と感じ、30年以上にわたって研究に没頭してきたという。
名大の教員紹介サイトで、天野さんは
「中学生までは勉強嫌いで、何のために勉強しているのかほとんど理解していませんでした」と意外なエピソードを披露。大学の講義で、ある教授が話した
「工という字は、人(一)と人(一)をつなぐ学問だ」との言葉に感動したことがきっかけで
、 「勉強とは人の役に立つためにすることだ」 と初めて実感したという。
青色LEDの開発は「まさに人の世の役に立つこと」と確信し、研究に取り組んできた。名大サイトでは、自身の研究成果が照明の省エネ化などに貢献していることについて、「皆さまのお役に立てたことはこの上ない誇りです」とし、「自分の体験を次の世代の若い人たちに伝え、さまざまな分野で自分以上の素晴らしい経験をしてもらいたい」と記している。
また、受験生に向けたメッセージとして
「将来の目標を持っている人と持っていない人は、大きく異なります。たとえ未来ビジョンを持っていても、夢のままで終わらせたら何も起こりません」と指摘。
「不安に負けないで、(夢に)正面から取り組んでください」と呼び掛けている。(2014/10/07-20:40)
「妄想」信じ続け快挙=役立つ技術へ「アイデア次々」-ノーベル賞の天野さん
【グルノーブル(フランス)時事】
2014/10/08-22:02
「今となっては妄想だったかもしれないが、確信があった」。青色発光ダイオード(LED)の開発でノーベル物理学賞に選ばれた天野浩名古屋大教授(54)は8日、滞在先のフランス南東部グルノーブルで、「受賞はうそだと思った」と満面の笑みで語った。
グルノーブルにある先端科学技術の研究拠点「ミナテック」で行われた記者会見。ノーネクタイにグレーのジャケット、オレンジ色のウエストポーチを身に着け登壇した天野さんは、「信じられない」と英語で述べた。
共同受賞者で恩師の赤崎勇名城大教授(85)を「窒化ガリウムを使ったLED研究の先駆者」、中村修二米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)は「製造技術のエキスパート」と称賛。「それに比べ、私を加えてもらったのは何か」と謙遜した。
受賞決定は、乗り換えで待っていたドイツ・フランクフルトの空港で知った。約300通のメールのうち、1通が受賞通知。「びっくりしたが、ひょっとしたら、とも思った」と目を細めて振り返った。
東日本大震災後、日本の全原発が停止。天野さんは
「LEDは省エネルギーに貢献した」と胸を張る。
「新しいアイデアが次々と出てくる」といい、人に役立つ技術の実現へ、「今後も研究を続けたい」と力を込めた。
日本の科学技術が世界最先端から遅れているとの指摘もある。だが
「日本の物理界は悪くなっているのではなく、少しずつ進歩している」と分析。
「特にエレクトロニクス分野は決して悲観していない」と強調した。
授賞式は12月10日、スウェーデンのストックホルムで行われる。晴れの舞台に臨む衣装は「持っていないから、貸衣装でしょうね」と笑った。(2014/10/08-22:02)
天野さん、夢か現実か区別つかず ノーベル物理学賞、座右の銘紹介
【グルノーブル共同】
2014/10/ 8 21:51
ノーベル物理学賞に決まった名古屋大教授の天野浩さん(54)=浜松市生まれ=は受賞決定から一夜明けた8日、滞在先のフランス南東部グルノーブルで日本のテレビ各局への出演などに追われた。NHKのインタビューに対し「夢か現実かいまだに区別がつかない」と語った。
天野さんは7日、滞在するホテルで取材に応じた。記者団に座右の銘を問われ
「憂きことのなおこの上につもれかし 限りある身の力試さん」という言葉を挙げた。
江戸時代の儒学者、熊沢蕃山の言葉とされ
「つらいこともどんと受け止め、元気に行こうという意味」と説明した。
<ノーベル物理学賞>「研究者へ」強い思い 天野氏、人望厚く
静岡新聞 @S
(2014/10/ 8 14:28)
「穏やかで、頼りがいある」「将来は研究者になりたいとの強い思いがあった」−。長年にわたる研究の末、県内で初めてノーベル物理学賞を受賞した名古屋大教授の天野浩さん(54)。故郷・浜松で同じ時代を過ごした同級生や恩師は、懐かしむように当時を思い起こした。
「自分のことのようにうれしい。小さいころ一緒に撮った写真は宝物」。幼稚園、小・中・高校が同じだった幼なじみの藤野隆久さん(54)=浜松市東区=は快挙の報を聞き、興奮気味に語った。
「一度もけんかをした記憶がない」ほどの穏やかな人柄。自宅が近かった縁で、幼稚園から中学まではほぼ毎朝一緒に通園、通学した。自宅を早く出た方が相手の家に行く約束だった。藤野さんが寝坊しても嫌な顔ひとつせず、いつも「おはよう」と明るく出迎えた。
勉強だけでなく、運動も得意だった。小学生時代に所属した町内会のソフトボールチームでは捕手を務め、攻守でチームを引っ張った。「コントロールが悪い私のボールを、何度も体を張って捕球してくれた」と藤野さん。頼れる女房役として、チームメートからの信頼が厚かった。
頼りがいある人物像は進学しても変わらなかった。県立浜松西高で1〜3年時の担任を務めた伊藤保さん(78)=愛知県新城市=が天野さんに抱いた印象は「寡黙な努力家」。ただ、引っ込み思案ではなく同級生からの人望もあった姿は今も覚えているという。
研究者への思いは、高校時代には強く意識していたようだ。1年の時の面談では、天野さんから将来は電気か建築関係の研究をしたいと打ち明けられた。「その後、勉強を重ね、自らが歩む“道”を決めたのだろう」と懐かしむように振り返った。
<ノーベル物理学賞>天野さん偉業に浜松歓喜
静岡新聞 @S
(2014/10/ 8 06:35)
ノーベル物理学賞の静岡県内初の受賞者誕生に7日、天野浩さんの出身地・浜松市の関係者や共に学んだ旧友からは喜びの声が上がった。
親戚からの電話で吉報を聴いたという母親の天野祥子さん(79)は同市中区の自宅で「ただびっくりした」と偉業を喜んだ。「小さい時から数学が得意な子どもだった。赤崎先生のことを慕っていた。赤崎先生に会わなければ受賞は無かった」と赤崎勇名城大終身教授への感謝を口にした。
「派手にはしゃぐようなことは好まない。今はただおめでとうと伝えたい」と静かに喜びをかみしめた。
弟の孝さん(49)も「とにかく集中力がすごい人。夜中まで部屋の明かりがともり、近所でうわさになるほどの勉強好きで、高校入学後には大学入試問題を簡単に解いていた。良く勉強も教えてもらった」と思い出を語った。「大学時代は家に帰らず大学に詰めていたと聞いた。苦労が報われ良かったなと言ってあげたい」と兄の偉業をたたえた。
県立浜松西高3年でクラスメートだった堀内秀哲さん(53)=同市東区=は「マイペースで目標に向け、こつこつ努力するタイプだが、ガリ勉ではなく朗らかだった。数学は抜群のできで、先生も『分からないことがあれば天野に聞け』と言うことがあった」と懐かしんだ。
天野さんは特別講師として何度か浜松西高を訪れ、授業や講演をしたことがある。堀内さんは「(外部講師を招くことで)生徒の刺激になっているようだ。西高からノーベル賞受賞者を出し、生徒のモチベーションも上がるのでは」と期待した。
小・中・高と同じ学校に通った片桐利真岡山大工学部准教授(54)は「勉強をきちんとしていて高校時代はいつも成績が良かった。おちゃめな面もあり、小さい頃はほうきでチャンバラしていた」と振り返った。小学生の頃、アマチュア無線がはやり、片桐さんが講習会に通って取った技師の免許を、天野さんが独学で片桐さんよりも早く取った時は「彼には勝てないと思った」という。
出身校の同窓会関係者にも喜びが広がった。浜松西高同窓会長の御室健一郎浜松信用金庫理事長(69)は「西高OBからノーベル賞受賞者が誕生したことは大変名誉だし、驚いてもいる。学校と相談しながらお祝いを考えたい」と声を弾ませた。
浜松西高OBでもある名古屋大同窓会遠州会会長の庄田武さん(81)は「高校と大学の後輩と聞き親近感が湧いた。ものづくりのまちから優秀な人材が生まれ、うれしい」と喜んだ。
天野教授の妻「夫が候補だと知らなかった」
日本テレビ系(NNN)
10月9日(木)18時1分配信
ノーベル物理学賞に選ばれた名古屋大学大学院の天野浩教授の妻・香寿美さん(53)がNNNの取材に応じた。
香寿美さんは、先月からロシアのノボシビルスク市の国立教育大学で日本語の教師をしている。
香寿美さん「(Q:ご主人に会って何て声をかけたい)まず、『おめでとー!!』です。『すごいじゃない!よくやったね~、さすがパパ!!』ですね」
そして、夫のことをこう語る。
香寿美さん「家では多くを語らない。仕事のことも言わない。まさか夫がノーベル賞受賞者の候補になっていたことさえ、私はまったく知りませんでした」
天野教授から届いたメールを見せてもらった。
天野教授のメール「なんか騒がしくなっちゃったけど、今まで頑張れたのはママのおかげだよ。ありがとね。ひろし」
香寿美さん「具体的にノーベル賞頂いたとか、そういった文言はありませんでした。夫もビックリして驚いていて、その心境がその一文で伝わってきますね」
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社員発明「企業のもの」=報酬規定義務付け―政府
時事通信 10月9日(木)15時35分配信
政府は9日、社員が職務上の研究で発明した特許を「社員のもの」とする現行の職務発明制度について、企業が発明に貢献した社員に報酬を支払う社内ルールを定めることを条件に、「企業のもの」に変更する方針を固めた。
研究開発に取り組む社員の意欲を維持しつつ、「発明の対価」をめぐる企業の訴訟リスクを減らすのが狙い。特許庁が来週開く有識者委員会に改定骨子案を示し、了承を得た上で特許法改正作業に入る。早ければ開催中の臨時国会への法案提出を目指す。
現行法では、社員の発明について、企業が将来の商品化などを視野に特許を申請する場合、「相当の対価」を社員に支払って、特許を取得する権利を譲り受ける必要がある。
LED訴訟決着から10年、いまだ「しこり」消えず 古巣の日亜化学工業は「中村氏個人の開発技術だけではない」
J-CASTニュース
2014/10/ 8 19:15
青色発光ダイオード(LED)の開発者、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授(60)のノーベル物理学賞受賞を受け、かつての勤務先である日亜化学工業(徳島県)がコメントを発表した。
発明対価をめぐる訴訟にも発展した「古巣」からのお祝いメッセージは、「大変喜ばしい」とする一方で、開発における社全体の貢献を強調するものだった。
和解後も両者不満「対価は過大」「日本の司法は腐ってる」
中村氏は1979年に日亜化学工業に技術者として入社した。半導体の開発に10年間携わった後、辞職を覚悟で当時の社長だった小川信雄氏(故人)に青色LEDの開発を直談判し、開発費の支出と米国留学の許可を取り付けた。「窒化ガリウム」という素材に注目して、青色LEDの製造装置に関する技術開発に成功。実用化につなげた。
日亜は1993年に世界で初めて青色LEDの製品化を発表、業績を伸ばすこととなったが、当時中村氏が受け取った報奨金はわずか2万円だった。1999年に日亜を退社し、2年後の2001年に職務発明の対価をめぐって訴訟を起こした。1審では日亜側に200億円の支払いが命じられたが、2005年に高裁判決で和解し、中村氏には約8億円が支払われた。この裁判は発明対価訴訟の象徴的なものとなった。
ただ、和解という形にはなったものの両者とも本当の意味では納得していなかったようだ。日亜は「相当対価は過大なもの」との立場で、支払いを決めた理由については、
「今後、中村氏との間で起こるであろう紛争が一気に解決され、それに要する役員・従業員の労力を当社の本来的業務に注ぐことができる点や、将来の訴訟費用を負担しなくて済む点を考慮した」
と説明していた。
一方の中村氏も和解成立後の会見で「日本の司法制度は腐っている」とぶちまけていた。研究に専念するためもあり、弁護士と相談して和解を決めたそうで、裁判自体は「完全な負け」だと不満をあらわにしていた。
日亜「社として一丸となってやっていた」
両者のわだかまりは訴訟終結から約10年たった現在でも払拭できていないようだ。
ノーベル賞受賞が決まった2014年10月7日の会見で、中村氏は研究持続の原動力について聞かれると「怒りだ」と答え、日亜との対立を改めて説明した。
一方の日亜は7日、中村氏の受賞に際して次のコメントを発表した。
「日本人がノーベル賞を受賞したことは大変喜ばしいことです。とりわけ受賞理由が、中村氏を含む多くの日亜化学社員と企業努力によって実現した青色LEDであることは、光関連技術の日亜化学にとっても誇らしいことです。今後とも関係者各位のご活躍をお祈り申し上げます」
報道の中には「独力で大量生産技術を開発」と孤軍奮闘ぶりを強調しているものもあるが、日亜のコメントは、中村氏の受賞は個人の力だけでなく、当時中村氏が在籍していた日亜全体の貢献によるものだと強調しているように受け取れる。
和解成立時に発表された社長のコメントに「特に青色LED発明が一人でなく、多くの人々の努力・工夫の賜物である事をご理解いただけた点は、大きな成果と考えます」という一文があったが、これと通じるものがある。
このコメントの真意についてJ-CASTニュースが日亜に尋ねてみると、広報担当者は「中村氏が進めていた青色LEDの開発には多くの社員が携わり、また貢献していた」と話した。具体的な貢献については
「青色LEDの製品は中村氏個人の開発技術だけでなく、さまざまな要素や技術が組み合わさってできている。分担していたので、共同開発したものや、中村氏が直接関わっていないものもある。社として一丸となってやっていたものなので、こうした表現になった。必要な研究機材の投資を社が行ったという側面もある」(広報担当者)
と説明した。
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発見、開発に到るまでの研究や留学の費用、生活費、給料などはどこから出ているのか、・・・なんてことを考えると、ご本人の才能と不断の努力と運に恵まれたこととは言え、なんとも・・・。
企業の一員として、また、大学での研究と、立場は違えど、人のために役に立つ発明や開発は、大変素晴らしく有難いものであるとは思います。
「勉強嫌いだった」とおっしゃる天野先生が感銘を受けたという、「工という字は、人(一)と人(一)をつなぐ学問だ」。 90度横に傾けると、人と人をつなぐ別の文字にもなりますがwww
天野先生ご本人にも、感銘を受けるだけの資質や教養もお有りだったとは存じますが、教職にある方々の力量や情熱も、人を育てていくためには大変重要であることを感じました。
それにしても、名古屋大学って、何気に凄い学校ではありませんか?