
1995年(平成7年)1月17日。早朝、5時48分ころ。
ベッドの中で、地震の揺れを感じる。
ゴーという低い唸るような音を、揺れの前に聞いた。
かなり長い時間揺れていたが、この地震が遥か遠く、阪神・淡路で起こった地震の揺れだと気付くのは、しばらくあとのことになる。
いつものように、朝の支度をして、7時過ぎに自宅を出た。
何となく眺めていた「ズームイン朝」では、数年前に入団した松井選手が、今年の抱負を語っていた記憶がある。そのくらい、いつもの朝。普段通り。
関西地方で、かなり強い揺れを感じる地震があったと言う情報は聞いたが、実際の映像が入っていなかったため、この時私は、まだ気付いていない。
出勤時は、車の中でいつものように達郎さんのCDをかけていた。ラジオを聞いていたら、この時点で気付いていたかもしれない。
出勤後、職員室でも、地震のことはさほど話題になっていなかった。
朝の地震を感じた人は、私以外にはいないようだった。
いつも通りの冬の一日が始まった。
当時、担任していたのは、一年生。
「今日、私の誕生日なんだよ~♪」と、朝からニコニコ教えてくれた女の子、チカちゃん。
給食を食べる時に、クラスのみんなで♪HAPPY BIRTHDAY の歌を歌ってお祝いしてもらうのが楽しみだと、いつものように職員室まで迎えに来てくれて話していた。
私がそれを忘れられないのは、三年後にもう一度その子たちの学年の担任となり、チカちゃんは「私の誕生日は、嬉しいけど悲しい日でもあるの」と話していたことを鮮明に覚えているから。
二時間目が終わり職員室へ戻ると、先生方が全員、いつもはつけていないテレビに釘付けになっていた。
・・・・・・・・まさか。
信じられない。
これが、日本? 神戸の街?
ヘリコプターからのテレビ中継の映像は、倒れた高速道路の橋げた。
その奥で、いくつかの場所から煙が立ち上る住宅街。
途中の階が、押しつぶされてなくなっているビル。
ぐにゃりとビルが道路に崩れ倒れている。
駅の形が変わっている。
そこで暮らしている人たちは一体・・・。
高速道路を走っていた車は?
早朝だから、ビルや駅には、まだ人は少なかったはず。
ここで被害に遭った人はそんなにいないはず。
地震が起こってしまった時間が、昼間でなくてよかった。
でも、地震が起きたのはまだ暗かった夜明け前。
この寒空の下で、神戸の人たちはみんな、無事に避難できているの?
あの煙の下では、火事が起こっているの?
そこに住んでいる人は?
倒れた家屋に閉じ込められている人は?
自分が生まれてから、はじめて目にする光景は、映画やドラマのセットのようで、すぐには現実に起こっていることだとは受けとめられなかった。
写真や古い映像でみた「関東大震災」「東京大空襲」「広島・長崎原爆投下」「伊勢湾台風」「三陸大津波」。
どれも過去の出来事で、戦後の日本で、これだけの大災害が起こるのを見たことはなかった。
幼い時から「静岡には大地震が必ず来る」、そう言われ続けて育ってきた。
大きなプレートがぶつかり合わない、断層もないと言われていた関西は、地震が起こらない地域で羨ましいとさえ思っていた。
まさかの、震度7。
自分が生まれてから初めて、この日本で起こった、甚大で深刻で最も悲しい大規模な災害。
どうしよう。
自分に、何ができる?
大学時代の同級生が神戸にいる。
無事でいるのだろうか。
消防や警察の人だけでは、とても人出が足りない。
自衛隊は、助けに行ってくれているのだろうか。
建物の下で、助けを待っている人。
すぐそばに迫る火事に怯えている人。
なんとか、一人でも多く、助かってほしい。
休み時間が終わり、3時限目は運動場での体育の授業。
チャイムの後、集合した子供たちに、さっきテレビで見た神戸や関西地方の地震の被害について話した。
みんな、息を呑んで黙って聞いていた。
いま、私たちにできることはなにか。
祈ること。
一人でも多くの人が助かるように、お祈りしよう。
そして、不安な気持ちで、同じ時間を過ごしている、同じ国に住む人たちの無事を、祈ろう。
全員で、西の神戸の方へ向かって、祈った。
・・・・・・・・
平成7年は、ボランティア元年とも言われるそうだ。
日ごとに増える、犠牲者の数。減る行方不明者の数。
ぎゅうぎゅう詰めの避難所での生活の不便さを思うと、心が痛くなった。
あつかましい無遠慮なマスコミの取材に、腹が立った。
自分が住んでいるところは何も変わっていないのに。
いてもたってもいられない、何かしたい。
募金した。家庭で眠っているタオルや毛布、生活用品などを寄付した。
何か役に立ちたい。けれど、道路も寸断され、素人が勝手に向かっても迷惑になるだけだから、自分で考えて、自分にできることをする。
日本人みんなが、被災されている人たちを心配し、他人事ではないと感じでいた。
他所の国のように、略奪は起こらなかった。
ライフラインが止まっても、順番に水や食料を求める列が整然と並んでいた。
さすが日本人だと、誇りに思った。
消防や警察、そして、自衛隊のみなさんが頼もしい仕事をされていた。
似非平和活動家、日教組教育、プロ市民、左翼、マスコミのせいで悪者にされがちだった自衛隊の皆さんの獅子奮迅の活躍、被災者の皆さんに見せる笑顔。
口先ばかりの左翼政治家は、何の役にも立たず、むしろ邪魔をした。
誤解され脚光を浴びることもなく、黙々と訓練を重ね非常時に備えてきた人たちの無言のうしろ姿から、本当に国を思うとはどういうことか、学ばせていただいた。
当時の総理大臣が、すぐに自衛隊の派遣要請を出さなかったことを知り、憤った。
どうしてこんな政党が政権についてしまったのか。口惜しかった。
この残念ながら避けようのない、予想もできない未曽有の大災害から、私たちは多くのことを学んだ。
日頃の訓練から地震の備えができていた静岡出身の学生さんが、慌てふためず靴を履き、上着を着て、大事な手荷物だけ持って落ち着いて避難できていたことを、地元の新聞報道で知った。
県が備蓄していた非常用の食糧や毛布などをすぐに役立ててもらったことも、嬉しかった。
毎年毎年、しつこいくらい行っていた本県の防災教育は生きていたと分かり、今後も子供たちの命を守るため、非常時のために、真剣に訓練していこうと思った。
もしも、学校が避難所になった時、子供たちや地域の方々のために、自分にできることを一生懸命に努めようと思った。
自分の家でも、倒れそうな家具や食器棚を固定して、家族が寝る場所には物が落ちてきたり倒れてこないように気をつけた。
湧水が出る場所が近所にあるから安心していたけれど、地震のせいで枯渇するかもしれない。
数日分の水や食糧を蓄え、非常の持ち出し袋を用意した。
地域の人たち、町内会の繋がりや協力がとても大切だと言うことも実感した。防災訓練や町内会の行事には積極的に参加して、自分が若い人たちや子供たちとの架け橋にもなろうと思った。
犠牲になった方や被害に遭われた方の思いを無駄にしないために、復興に向けて奮闘された人たちへの敬意を忘れずに、次に起こるかもしれない災害に備え、自分や家族の命を守り、そして、誰かの役に立ちたいと思う。
いまは公務員の立場ではないけれど、自分にできることは何か考えて、行動したい。
これからも、20年前の阪神・淡路大震災、4年前の東日本大震災を忘れず、教訓とさせていただく。
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日頃から日本国の安寧をお祈りくださっている天皇陛下とご皇族の皆さま。
ひとたび災害などがあれば、被害に遭われた方に常にお心を寄せ、励まし、お祈りくださっています。
今回も両陛下は、20年の節目に兵庫県まで足を運ばれ、阪神淡路大震災の犠牲者の冥福を祈り、被災した方々を励まされ、復興へ向けて尽力してくださった方々を労ってくださいました。
そんな有り難きご皇室の中で、国民の心に寄り添ってくださらず、「自分たちの生活が一番」だと思っていらっしゃるのではないかと疑念を持たざるを得ないご一家がいらっしゃいます。
長年ウォッチングをして心に期する思いは多々ありますが、一番悲しく、情けなく思うのは、日本が大災害に見舞われた時のご対応。
阪神・淡路大震災の時は、直後に中東へ外遊へ行かれ、紅白のドレスを着て満面の笑みを浮かべ、ラクダレースに興じ、訪問国の国王陛下から「お国が大変なことになっているからお帰りになった方がいいのでは」と諭され、しぶしぶ二日繰り上げての帰国。お見送りの空港では、中東訪問用の長いドレスを着る配慮もやめ、憮然とした表情。(愛地球博では、震災のせいで死海が見られなくて残念だったとの皇太子殿下・談も・・・orz)
あげくに、被災地へ赴かれたのは、震災からひと月後。
天皇皇后両陛下は、1995年1月31日 阪神淡路大震災の被災状況ご視察のため最小限の準備と警備を命じられ、異例の早いタイミングで現地に入られました。皇后陛下は、皇居の庭に咲いていたスイセンの花を手ずから摘んでご持参、被害の大きかった菅原市場跡に手向けられました。この時の17本のスイセンは大切に保存加工され、神戸布引ハーブ園に現在も展示されているそうです。
また、イギリスのダイアナ妃が来日し、どうしても被災地へお見舞い、慰問に行きたいと懇願されましたが、我が国の皇太子夫妻がまだ訪問していないのではメンツが立たないと、お断わりすることになってしまいました。

そっくりな装とは、 ゲストに非礼ではありませんか。
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、天皇皇后両陛下、秋篠宮両殿下が避難所などを日帰りで何か所もお見舞いにお出かけになるなか、都内の避難所へもなかなか赴かず、ご進講(関係者を呼んで話を聞いたりレクチャーを受ける)もほとんど受けず、一ヶ月後の月命日4月11日には、なんと東宮御所で愛子さんのお楽しみ会をご学友をたくさん招いてにぎやかに開く(両殿下は笑顔でカメラ、ビデオ撮影を熱心にして回っていたそう..orz)など、被災地の方々へ心を向け祈ってくださっているとは到底思えないお振舞い。

宮内庁HP 皇室のご活動 ご日程ページ より
さらに、新婚旅行先を日本に選んでくださり、お国から同行させた僧侶のみなさまと被災地で祈りを捧げ、被災地の子供たちを力強く温かく励ましてくださったブータン国王ご夫妻の晩餐会には欠席(入院中の陛下のご名代として皇太子殿下がホストなのに)、お出迎え、お見送りなさらず、お目にかかってご挨拶さえもなさらなかった我が国の皇太子妃。
お見送り当日は、国王ご夫妻の滞在先、迎賓館の目の前、学習院初等科には出かけているのに、・・・なんという失礼千万。反日国であるオランダ国王ご夫妻来日のときは、なぜか体調が整い、ほとんどの行事にご出席。

2011年11月16日 皇居豊明殿でのブータン国王ご夫妻歓迎宮中晩餐会
※皇太子殿下のお誕生会ではありません。

僧侶の皆さんと共に祈りを捧げてくださる、ブータン国王陛下ご夫妻
国難に国民全員で立ち向かおうとしているさなかでのこのようなお振舞いは、ご皇室やこの国を大切に思う人間にとっては耐え難いこと。
いけないことはいけない、
ダメなことはダメ。
「ご皇室の一員」だから、「在日」だから、「朝鮮人」だからと、その人の行動を指摘したり批判したりすることに、例外はないはずです。
ご皇室の中でどんな話し合いがもたれているかは下々には伺い知れないことで、天皇陛下にすべてお任せすればよいことだとは承知しているつもりです。
ただ、事実を事実として受けとめ、自分の中で昇華しようとしているだけなのです・・・。
2ちゃんねる既婚女性板(通称・鬼女板)最強のスレッドまとめ Dosuko Wiki より ・・・・・・
■1995年(平成7年)1月17日阪神・淡路大震災発生、変更はできないからと中東三カ国(クウェート、アラブ首長国連邦、ヨルダン)訪問強行、21日にはめでたい紅白衣装を披露しマスコミを( ゚д゚)ポカーソとさせる事件

阪神・淡路大震災発生4日後。その時神戸の街では・・・。
震災の状況を承知でこの紅白の衣装を着られるなんて、○○○○ですか。
■1995年1月24日 アラブ首長国連邦ラクダレース見物中、貴賓席で雅子妃に話しかける徳仁殿下とあまり熱心に相手をする様子のない雅子妃

少しの憂いも見せずに満面の笑み。彼の地の方々の目に、皇太子妃殿下はどう映ったのでしょう
■1995年1月25日 アラブ首長国のムハマド王太子と会食・会談、果物いっぱいのゴージャスなもてなしを受ける皇太子夫妻。砂漠の国では最上級の歓待である

どうしてこのような満ち足りた表情ばかりなのでしょうか。心の隅に神戸の人々のことは・・・?
■1995年中東訪問ヨルダンのフセイン国王から「お国が震災で大変なんだから早く帰ったら」と勧められようやく2日切り上げ帰国決定、帰国の途につくクイーン・マリア空港にてサルワット妃がすぐそばにいるのにムッとした表情のまま事件

公人中の公人が、公の場でこのような表情をすること自体・・・。
まさか、早く帰国するように仰ってくださったご配慮に感謝しているのではなく、恨んでいる?
■文藝春秋 1995年3月号
皇室にあえて問う――
民の惨状を余所目になぜ中東へ向かわれた -
江藤 淳 -
※ 江藤淳氏は、雅子妃の母方の親戚にあたる学者。GHQによる言論統制について調査し、『閉ざされた言語空間』に著した。拙ブログ
【目から鱗】プレスコードは生きていた【なるほどんぶり】参照
「成婚以来、思うところあり発言を差し控えてきたが、今日という今日は黙っていられない。言うべきことを言わぬのは不忠の臣だからだ」
「
皇嗣とその妃が国家国民の一大事に、外国をふらつくとは何事」
「畏れながらながら
両陛下も、両殿下も、さながら外務省特別職員のごとし」
「皇太子殿下が会見で、どうしても行かねばならなくなったという意味の発言をした。とするとごり押ししたのは外務省となる。
宮内庁はそれを押し切れず、外務省の意のままで、どうするのか」
「
関東大震災の際、折衝の宮は俊敏に指示を出し、非常に国民を心配された。各宮家では家を開放し、炊き出しをして救済をした。妃殿下方も手仕事で参加された。」
「昔、皇室とはこうだった。だからこそ国民は支持し、皇族はまた、こうしなくては国民の信頼を勝ち得ないことをしっていたから、ここまでなさった。今は一体どういう関係になっているか」
「
国家に何かあったとき、やはり支えとなるのは皇室と軍。
ずっとそういう伝統で保ってきた国柄なのに、
戦後の左巻きの風潮のなか、どんどんおかしくなり、国の根幹にかかわっている。そして今回のようなこと(皇太子夫妻の、阪神大震災後の外遊)が平然とおこっている」
「今一度、
日本にとっての皇室と軍の重要性をしっかり考える機会をもたないと、日本は今後、もっと大変なことになるぞ」
「
水や食料にも事欠き、寒さと余震の不安に苛まれている多くの民を余所目にして、ベドウィンの踊りを御観賞になり、身を乗り出してサッカーを観戦しラクダレースをご覧になる。
これは一体何なのでしょうか。
見るべきはサッカーなのか。
われわれ国民が皇室に見ていただきたいのはそんなものではない、
神戸の被災者たちの姿です。即刻苦しんでいる人々の傍近くに寄って、彼らを励ますことこそ皇室の義務なのではないでしょうか。 」
■帰国後、天皇陛下に向かって「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」と口答え事件
私の友達にそんなことを言う人は一人もいません
1995年(平成7年)、徳仁皇太子との結婚3年目にして、あろうことか天皇陛下に口答えした雅子夫人の発した言葉。
皇太子妃として皇室入りしたくせに「お世継ぎ」についての意識の低さが如実に表われている言葉である。また2004年5月の皇太子「人格否定」発言における、その皇太子妃の人格を否定した人物は他ならぬ天皇陛下であるとの解釈が存在する。そもそも嫁が義父と自分(=嫁)の友達を同列に扱うなど一般庶民ですらやらぬことなのに、畏れ多くも天皇陛下に対しそれをやらかしたといったことなど、皇太子妃としてはあまりに致命的なまでに適性を欠いていると言わざるを得ない。
・・・・・事件の経緯とソースは以下に引用 ・・・・・・・
『週刊文春』2006年2月23日号
p.27より引用
「お世継ぎ」をめぐって天皇皇后と皇太子ご夫妻の間には見解の相違が存在することが顕在化したのはご成婚から三年目のことだった。
皇太子ご夫妻は九四年、九五年と続けて中東諸国を歴訪されているが、そのご帰国後の九五年、天皇のお言葉に雅子さまが直接異を唱えられたことがあった。
その日、天皇は雅子さまにこう語りかけたと伝えられている。
「国民みんなが待っているからね」
すると雅子さまは色をなしてこうご返事をされた。
「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
あまりのおっしゃりように、周囲は唖然としてしまったという。
『週刊アサヒ芸能』2006年3月2日号
p.5より引用
何事にも控えめで両陛下のご意思をすばやく察知される紀子妃とは対照的に、雅子妃はご自分の意見を明確に主張される。
「例えば、年末に皇太子殿下とコンサートに行かれた際、雅子さまは先に帰られたのですが、これは雅子さまがクラシックをあまりお好きではなかったためなのです」(前出・宮内庁担当記者)
仲のいいご夫妻の間であれば、これとて問題はない。しかし、ご成婚3年目の95年、こんな事件があった。天皇陛下が「お世継ぎ」に関して雅子妃に、
「みんな(国民)も待っているからね」と語りかけられると、雅子妃は、
「私の周りでそのようなことを言う人はいません」
と強い口調でおっしゃったというのだ。そのためその場は、たいへん気まずい雰囲気になったという。
『週刊新潮』2006年9月28日号
p.46より引用
宮内庁OBが続ける。「皇太子ご夫妻と両陛下に最初の溝ができたきっかけは、ご結婚から数年後のある事件でした。陛下が雅子妃に“国民が二人のお子さんを 期待していますよ”という趣旨のお話をされた時、雅子妃が“そんなことを言う人は 私の周りには誰もいません”と断じられたんです。これには陛下が大変驚かれました。もちろん、陛下に対してこんな物言いをなさる人は今まで誰一人いませんでした」
・・・・・・・・・
以上のソースによって言葉遣いにばらつきがあるものの、概ね同内容である。結婚3年が経過しても妊娠の兆候が無く、いわゆる“不妊症”の状態にあったとしても、もっとマシな言い草はあったであろう。
2006年2月文春に掲載された時点で内容が虚偽であったのなら宮内庁からクレームがあったはず(女性誌記事内容が事実と異なるとクレームをつけ訂正を求めている実績が存在する)であるが、同年9月に週刊新潮が改めて同内容を後追いして載せているという事は、文春の記事後、特にそういうクレーム等は無かったという事を意味する。これは信憑性が高い記事と判断するのが妥当である(なお2007年2月の便本以降、宮内庁は報道内容に誤りがあった場合は公式HP上でも訂正・抗議を行うようになっている)。
2011年になり雅子妃のこの台詞は、多くの人が目にする電車中吊りにてご丁寧に蒸し返されてもいる。
『週刊新潮』2011年12月15日号<「女性宮家」創設の議論が天皇家に及ぼした反目と軋轢 「天皇陛下」ご意思にご不満 「雅子さま」沈黙の抵抗>中吊り
「女性宮家」創設の議論が天皇家に及ぼした反目と軋轢 「天皇陛下」ご意思にご不満 「雅子さま」沈黙の抵抗
かつて「天皇陛下」から「国民がお世継ぎを期待しています」と、声を掛けられた「雅子妃」は、「そんなことを言う人は私の周りには誰もいません」と強い物言いで応じられた。今再び、天皇陛下のご意思に沈黙で応える東宮の本意は……。
「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」 、この雅子の台詞を元ネタにして架空の会話を楽しむレスも時折見られた。
天皇(・∀・) 「国民みんなが待っているからね」
雅子(`Д´*) 「私の友達にそんなことを言う人は一人もいません」
周囲( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )( ゚д゚ )
以上、 Dosuko Wikiより引用 ・・・・・・・・・・
この歴史と伝統のあるわが国に、あまりに不釣り合い、不適合な、あまりにご覚悟と素養をお持ちでない方が入内してしまったことが、ご本人とご家族と国民にとっての不幸です。
このまま、重責のあるお立場におられるのはお辛いのではないかと拝察いたしますが、ご本人はどのようにお思いなのでしょうか。
お誕生日の会見は取りやめられ、文書回答と、滅多に出ないご公務でのご様子だけでは、伺い知ることもできません・・・orz