「理系」と「文系」の二者選択を迫られたのは、高校一年生の終わり。
高校二年生から、進路にあわせて「理系」と「文系」にクラスが分けられるからだ。
私たちの学年では、8クラスのうち5クラスが文系、3クラスが理系となり、男女比も、文系では女子が、理系では男子が圧倒的に多くなった。
高校の同じ部活の友人女子はほとんどが文系だったけど、中学までの気の合う男子友人は、ほとんど理系に行ってしまった。
この時はじめて、(文系より、理系の男の人の方が好きかも…)、と思った。
自分は、小学校の先生を志望していたから、文系の「国立コース」。
当時は、「センター試験」というのがなくて、私立と国立では受ける試験がそれぞれ違い、試験の教科、科目も違っていた。(歳がバレちゃうねw)
試験科目が国語、数学、理科、社会、英語の5教科5科目(理科1科目・社会1科目は選択制)で合計800点満点の、いわゆる「共通一次試験」を受験した世代。
それに加え、二次試験のための受験科目もあった(国語、数学、英語、実技<音楽・ピアノ、美術・デッサン、体育>から、三科目選択)。
高一までに勉強した数学や理科は、理解できないほど苦手ではなかったけど、その後、物理や化学、微分積分などの勉強を極めていく意欲はまったくなくて、できれば、教育学部に入ったら日本史や世界史、考古学の分野を学んでいきたいなあと考えていた。
苦手な教科や分野はなるべく作らず、万遍なく知識や技能を身につけて、得意で好きな分野は極める!
音楽も美術も書道も体育も家庭科も、なんでも得意!
そんな教員になりたいと思っていた。
自分の兄弟は、兄も弟も理系タイプだった。
数学や理科が得意で、機械いじりも好きだったから、(男の人は、生まれつき理系が得意な頭脳になっているんだろうなあ)と思っていた。
自分は、電気や機械などに関わる「基本的なこと・簡単なこと」だけは理解できるけど、ちょっと複雑になるとわからない。
ちょっとわからなくなると、それ以上わかろうとする気持ちも湧いてこない。
残念だけど、自分の頭はそんな仕組みになっているのだろうと諦めていた。
だから今でも、自分で車や電化製品を修理したり、改良したりする人のことを尊敬するし、無条件でかっこいいなあと思ってしまう。
理系の人の方が、お給料もいいしね。
しかし。
現在、自分で農業機械を運転したり操作したりする必要もあり、わからない、できない、とばかり言ってもいられなくなった。(自分が困るし、叱られる)
教えてもらうとその時だけはできるけど、仕組みが理解できていないから、すぐに忘れてしまう。
簡単な仕組みを教えてもらって覚えようとしても、そんな時間や余裕もない。
手順を覚えるのは、意味がわからない勉強を丸暗記するようなものだから、つらい。
覚えられず、すぐに忘れてしまう自分が、イヤになる。
そんなとき、自分の中の「理系脳」が働いていないことを悲しく、残念に思ってしまう。
どうしてこんなにわからないんだろう、苦手なんだろうと・・・。
こんな年齢になってしまった
自分のこと だけど、この先、「理系」の思考回路をうまく働かせて、いざという時、自分で機械や電化製品、車などを最低限、動かせたり直したりするようにしたいと考えている。
そして、自分に関わることではないのだけれど、
この先の日本にとって 「理系」と「文系」と分かれて勉強することが本当にいいことなんだろうかと、疑問にも感じている。
その一つは、自分の息子たちに関わること。
息子たちが高等学校や大学などで学ぶなら、「理系」の分野を勉強した方が、この先の時代を生き抜いていくのに役に立つのではないか。
ただ、息子たちは戦国武将や歴史を知り、学ぶことが好き。
お小遣いを出し合って『マイフライパン』(ティファール24㎝)を買って、毎日おやつとして卵料理やホットケーキをつくっている。
そして、田んぼの仕事や畑仕事にも興味がある。
だから、「理系」に限らず、いろいろな勉強も楽しく学んでほしいと願っている。
もう一つは、今の日本の問題に関わること。
日本の国があるべき道、本来の往くべき道へ進み始めているように実感している今、その足をひっぱり邪魔している人たちは、みんな「文系」の人間たちなのではないか?
新聞やテレビ局などの左翼マスコミ、反日としか思えない野党の政治家たち、これらの使えない人、邪魔な人たちの多くは、思いこみが激しくプライドの高い「文系」の人たち。
「理系」の人たちは、各企業の工場や研究所などの現場で、実際に社会に役立つモノづくりの製造、研究の分野などで活躍している。
そして、そんな「理系」の人たちは、「文系」マスコミや政治家たちのようにメディアという「公器」を悪用して、大きな声をだしたり自己主張したりして人の邪魔をしたりはしない、慎ましく立派な人たちなのではないかと。
そんなことを考えていると、これからの子供たちの教育、日本の教育には、どんなことが大切なのか。
ある時期に、漠然と「理系」「文系」に分かれてから、その分野しか勉強しないような教育過程でいいのだろうかと、疑問が生まれてきた。
そこで、今回のブログでは
『理系バカと文系バカ 』 (PHP新書) 新書 – 2009/3/14
竹内 薫 (著), 嵯峨野 功一 (編集)
を参考にさせていただき、考えてみたいと思います。
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まず、こちらの記事をご覧ください。
少し古い記事なのですが、この頃よりも「私立文系人間」マスコミの弊害は、もっともっとひどくなっているのではないでしょうか。
マスコミが「文系バカ」ばかりなのは危険である
j-castニュース
2009/3/25
麻生太郎首相から遡って20人の歴代首相経験者のうち、理系出身者は何人いるかご存知だろうか。答えは2人。中央工学校土木科を卒業した田中角栄元首相と、水産講習所(現東京海洋大学)出身の鈴木善幸元首相だけだ。日本の政界では法学部や経済学部を出た「文系」が「理系」を圧倒する構図が続いている。
その図式はマスコミも同じだ。サイエンスライターの竹内薫氏は
『理系バカと文系バカ』 (PHP新書)の中で、
「私立文系人間」に支配されたマスコミの危うさ を次のように指摘している。
■ テレビ局には「理系人間」がほとんどいない
”
・・・日本を動かす官僚や議員たちが「文系」 なら、人々に大きな影響力を与えるマスコミも文系体質だ 。マスコミの中でも影響力が大きいのは、やはりテレビだろう。このテレビ局に就職する人の多くは「私立文系」と言われる人たちだ。テレビ局だけではない。新聞社や出版社もそうだ。
私立文系と呼ばれる人たちのほとんどは、学生時代ひたすら文系科目だけを学び、数学や物理学、生物学などには全く触れることなく、知識だけでいえばすごく偏った状態で、大変大きな影響力のあるメディアを握っている のだ。
この偏りは危険である。
以前、私がコメンテーターをしていたニュース番組での話。一緒に番組を作り上げていくスタッフに、いわゆる理系出身者がほとんどいなかった 。現場で私の科学解説を支えてくれるべき理系スタッフがゼロだったのだ。
・・・一流と言われている大学を出て、メディアを握っているのに科学知識は限りなくゼロに近い 。おそらく、大学受験するために、「文系」と決めた段階で、数学や物理は「こんなものは必要ない」と、いっさい排除してしまったのだろう。
新聞社には理系出身の記者もいるのだが、日本を代表するテレビ局のニュースを担当しているスタッフに理系がほとんどいないというのは驚きだった。
・・・大きな影響力を持つテレビ局の人材が文系に偏っていると、偏った番組内容になってしまう 。「文系バカ」のディレクターに科学技術が「分からない」からといって、その情報が「いらない」ことにはならない。怖い情報の選別が起きているのだ 。
”
(竹内薫著、嵯峨野功一構成『理系バカと文系バカ』〔PHP新書 121頁~124頁〕より)
<転載、了>
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選挙により日本人が現政権の存続を選択したことが気に入らない「アホの朝日新聞」。
自分たちの偏った思想が正しいと思い込んでいる「TBS、朝日、NHKなどの偏向テレビ局」。
「選挙こそ究極の世論」なのに、いつどこでだれが回答したのか分からない、本当に実施したのか、すべての統計をとったのかも不確実な疑わしい「独自の世論調査」など持ちだしてきては、「選挙で選ばれた政権は民意を反映していない」などと、たわけたことをいう。
バカじゃないの? アホじゃないの?
論理的な思考をする人だったら、ぜったいにそんなことは考えない。
そんなデタラメで根拠のないデータを電波や媒体にのせることなんて、許されない。
虚偽が許されない国会の場で、はっきりと事実を述べている証言者がいるのに、
「あー、キコエナイ、キコエナイ」と、自分たちに都合の悪い証言は一切発信せずに、
思いこみと希望的観測だけで「報道」と称して一方的な言葉をまき散らすモリカケ騒ぎ。
頭が悪いとしか思えない「国益、公益に反し、公正・公平ではないマスコミや野党の政治家たち」は、いったい、論理的な検証、帰納的推論をすることができるのだろか。
不特定多数の受け手へ向けての情報伝達手段となる
新聞・雑誌・ラジオ放送・テレビ放送 などのメディア(媒体)を用いて、広く一般大衆に知らせることができる「マスメディア」。
一瞬で世の中の役に立たせることも可能な「公器」を、こんな「頭も性格も極悪」としか思えない人たちに委ねてしまい、役に立つどころか害となっている現状には、我慢が出来ない。
「頭が悪い」うえに、己を振り返る姿勢も、謙虚さのかけらもなく「性格も悪い」文系バカだらけのマスコミに、自浄作用など期待できるはずがない。
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さて、話を書籍
『理系バカと文系バカ』 に戻します。
「文系は数学や計算が苦手な人」
「理系は数学や理科が得意な人」
「理系は1つのことを論理的に考えられるがコミュニケーション力が低い」、
「文系はコミュニケーション能力が高いが、知識や批判的視点の不足から論理的に考えることが苦手」
「理系は論理的」、「文系は情緒的」。
一般的な理系と文系のイメージは、以上のようなものでしょうか。
『理系バカと文系バカ』の中に、こんな分類チャートが登場します。
◆文系バカの特徴
1.血液型診断や占いが気になって仕方がない
2.取り扱い説明書は困ったときにしか読まない
3.たいていのことは「話せばわかる」と信じている
4.ダイエットのために「カロリーゼロ」のドリンクをガブ飲みしてしまう
5.アミノ酸、カルニチン、タウリンなどのカタカナ表示に弱い
6.「社会にでると因数分解なんて必要ないよね」と、言った事がある
7.「インド式算数」を学ぶより、電卓を使えばいいと思っている
8.何でも平均値で物事を判断してしまう
9.抗菌コートのトイレじゃないと入りたくない
10.物理学と聞いただけで「難しくて分からない」と思ってしまう
◆理系バカの特徴
1.できれば他人と深くかかわらないで生きていきたい
2.新型、最新テクノロジーの商品を買うために徹夜してでも並ぶ
3.相手が関心のないことを延々と話すー女性との会話も下手
4.独善的でいつのまにか相手を怒らせている
5.「もっとわかりやすく説明して」とよく言われる
6.分からないことは、何でもネットで検索してしまえ
7.感動するポイントがズレている
8.文系より理系の方が人間として「上」だと信じている
9.UFOや心霊現象について語ることは犯罪に近いと思う
10.意外とオカルトにはまりやすい
ふむふむ。
自分は、文系バカなのか、理系バカなのか、どちらのタイプが当てはまるのかチェックする機会にはなりますが、
・・・・・ ちょっと待って!
自分をどちらかにあてはめて決めつけてしまうことこそ、やってはいけない「バカ」な思考。
理系と文系のステレオタイプの中で、人間を一方の側に分類したがるのは、愚かしいこと。
そう、この著書には書かれてもいます。
数学が得意だから / 苦手だからという理由で、高校生の時にあまり深く考えずに理系、文系を選び、「自分は文系だから」というのが科学的な思考や検証ができない、しようとしない、ただの不勉強の言い訳になっているのは、もったいないことで愚かなことだと実感しました。
自分は「理系」コンプレックスで、無条件で「理系」の人を尊敬してしまう傾向がありますが、「理系」の人の中にも、細かいところにこだわりすぎて大局が見えなくなったり、バランス感覚にかけるところがあるという欠点があることも分かりました。
ただ、「理系」だから、「文系」だからと簡単にカテゴライズし決めつけてしまうことなく、これからの時代は、どちらの素養も身につけなくてはいけない。
どんな人にも「コミュニケーション能力」は大切で、物事を論理的に考えることや、豊かな発想力や柔軟な思考力を持つことは、生きていくうえで必要不可欠であると感じます。
さらに言えば、その人の思い癖、性格や人格そのものが重要なのだと。
『自分の中に絶対基準があり、其の基準に合わないものに対して過剰反応を示す』
これこそ、
生きていくうえでの弊害 ではないかと思うのでした。
というわけで、
「夏は冬に憧れて 冬は夏に帰りたい」
「文系は理系に憧れて、理系は ・・・ どうなのかわからない」
自分が持っていないものに憧れて、
自分が持っているものを共有・共感できることを喜ぶ。
だから、理系の人が好き。
そして、ものさしの幅が広い、柔軟でおもしろい文系の人も好きです。
♪ 夏の終り / オフコース
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