下仁田を出て富岡製糸場に着いた頃には、もう16時近くになっていた。
製糸場の見学時間は17時までとなっており、あと1時間位しかないが、この時間だと人も少なく見て回るにはちょうど良さそうなので、入ってみることにした。
こちらは入り口にある検査人館と呼ばれる建物で、守衛所兼事務所といったところか。
中に入ってみたいが立ち入り禁止なので、入り口からちょっと様子伺い。
そこを過ぎるとすぐ目の前には、東置繭所と呼ばれる繭の貯蔵倉庫がある。
明治5年とのプレートが埋め込まれているが、パンフには明治5年から昭和62年までの115年間に渡り、操業し続けたとある。

当初は工女募集の通達を出してもなかなか人が集まらなかったそうであるが、理由は技術指導に来ていたフランス人の飲むワインを血と思い込み、ここに入ると生き血を採られるとのデマが流れたためとのこと。
そのため、深谷市出身の初代製糸場長の尾高惇忠は、自分の娘を工女第一号としてここに入れ、範を示したということである。
ちなみに、尾高惇忠は製糸場の設立に関わった渋沢栄一の従弟にあたり、以下の写真は前に撮影したものであるが深谷にある尾高惇忠の生家である。
東置繭所の1階には資料がいろいろ展示されていたが、あまり時間がないこともあったのでサクッと見て回る程度にして(^_^ゞ、2階に行ってみた。
建物の長さは104mもあるので内部は壮観で、繭を乾燥させるために窓がたくさん設けられている。
時を重ねた建物が見る者を過去へといざなう。

西置繭所は残念ながら保存修理中で、見学用施設から補修中の外壁や屋根の一部しか見ることができなかった。
施設の階上からは、黄昏行く場内の様子を見渡すことができた(遠い目)。
こちらは社宅とあったが、幹部のそれだろうか。
そして、繭から生糸を取り出す作業を行う操糸所。

社会科の教科書にこんな写真が載っていたかも知れない。
子供の頃にミシンで遊んでいた私にとっては、とても惹かれる設備である。
一般的に製糸場というと、あゝ野麦峠に描かれているような長時間で過酷な労働がイメージされるが、ここ富岡はどうだったのだろうか?
ちょっと調べたところ、元々、富岡製糸場は官営として発足して採算が度外視されていたことや、廃藩置県で地位を失った旧士族の娘達などを始めとして、身分に関係なく多くの娘達が全国から集まってきたこともあって、当初は8時間労働の週休1日だったそうだ。
しかし、明治26年に民間に払い下げられて以降は次第に労働条件が悪化し、12時間前後の労働で休みも月に2回と普通の民間製糸場と同じようになり、過酷な労働は大正5年の工場法施行まで続いたようだ。

診療所に通じる所(だったと思う)が、昔の小学校の校舎を思わせるような造りになっていて、懐かしさを感じさせる

場内の一番奥に位置するのが工女達の寄宿舎であり、すぐ近くには鏑川が流れている。
ここから見える夕陽を、彼女たちは当時はどんな想いで見ていたのだろう。

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museum | 日記
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2016/02/28 11:14:18