
来年のNHKの大河ドラマは「豊臣兄弟!」です。弟の豊臣秀長が主役です。豊臣秀長は大和・和泉・紀伊三か国100万石の大名となり、その本拠地に城を築きました。その場所が我が郡山です。
本日、NHKの放送に先駆けてその豊臣秀長ゆかりの場所を所属団体のウォーキングで廻りました。
まずJR郡山駅の隣にある市民交流館に集合して、

いざ出発。
最初に郡山城の外堀緑地に。

ここの門は北門。
【箱本十三町】
豊臣秀長は、城下の東南に商工業者を集めて自治権や独占営業権を与え、強力な城下町振興策を進めました。これらの町は「箱本十三町」と呼ばれ、江戸時代の郡山藩主にも受け継がれました。
箱本十三町観光案内所。
藍染屋として認められた店に。
御朱印箱。認め状が入っていると。
少し南に下がって、
【源九郎稲荷神社】
天正13年(1585年)9月、翁の姿をした源九郎と名乗る白狐が大和国の長安寺村の宝譽(ほうよ)という僧の前に現れ、茶枳尼天(稲荷)を郡山城の南に祀れば城の守護神になろうと告げた。宝譽は郡山城主の豊臣秀長にこのことを告げると、秀長は城の南に洞泉寺を建立して宝譽を住持とし茶枳尼天を祀らせ、自らも洞泉寺の境内に源九郎稲荷大明神を祀らせ、城の鎮守としたと伝えられている。(wikipediaより)
すぐ隣に洞泉寺が。
【洞泉寺】
縁起は源九郎稲荷神社と同じです。
少し南西に行くと、
【郡山八幡神社】
群山八幡神社は、郡山城築城以前の室町時代創建と言われる大和郡山の鎮守。
創建時は現在の郡山城跡にあったのですが、豊臣秀長による郡山城増築・拡大に伴って1594(文禄3)年に現在の場所に移転したそうです。
御祭神は、誉田別命(ほんだわけのみこと)・比売大神(ひめおおかみ)・気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)。
ここから約800m程度西方にあるのが大納言塚ですがその途中、

近鉄の線路の下に堀の跡が。
【大納言塚】
豊臣秀長の墓所。天正19年(1591)、郡山城内で没した秀長はここに葬られました。当初、この近くに豊臣秀吉が建てた大光院という菩提寺があり、墓地を管理し菩提を弔っていました。しかし、豊臣家が滅んだあと、大光院は京都に移され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託されました。その後墓地は荒廃しましたが、安永6年(1777)、春岳院の僧、栄隆と訓祥が郡山町中と協力して外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立しました。五輪塔は高さ2メートルで、地輪の表面には戒名が刻まれています。
少し北東に戻ると、
【永慶寺山門】
豊臣秀長の時代に郡山城の南御門として建築され、当時の郡山城の遺構として大和郡山市に残る唯一の建造物です。幕末に永慶寺山門として移築されたといわれています。
ここから少し北に向かい郡山城の西口から入ります。
【郡山城】
歴史上、郡山城の記述は10世紀には登場しますが、本格的な城郭としたのは筒井順慶でした。さらに天正13年(1585年)豊臣秀吉の弟豊臣秀長が大和国・和泉国・紀伊国三か国100万石余の領主として郡山城に入ります。秀長は城を100万石の居城に相応しい大規模なものに拡大し、城郭作りや城下町の整備を急いだため根来寺の大門を移築したり、当時大和は石材に乏しかったために、天守台の石垣には墓石や石仏(地蔵)までも用いました。
西口。
元「城内高校」があった場所は今は西公園として。
24日から郡山城お城まつりが始まりましたが、桜はまだ。
追手向櫓と追手門。
両面石仏。
極楽橋。2021年に再建されました。
天守台。
石垣の中に逆さ地蔵が。

でも分かり難い。
郡山城の南出口から東に向かい、最終訪問地へ。
【春岳院】
郡山城跡近くにある高野山真言宗の寺院。開基は鎌倉時代の石造塔(七重)が現存することから鎌倉中期とする説あり。当初かは東光寺と称したが戦国武将、豊臣秀長の菩提寺となって以降、戒名から春岳院と号するようになる。御本尊は阿弥陀如来(室町時代)。堂内には弘法大師像をはじめ密教諸仏と秀長の木造及び肖像画を安置する。(大和北部八十八所霊場HPより)

建物も古く荒廃していましたのでクラウドファンディングで修繕費用を募ったら目標金額に達したので最近工事が始まりました。依って暫くは見れません。
今日は当地も3月とは思えぬ暑さで、薄着でウォーキング出来ました。
大和郡山市内には秀長さん所縁の場所が多いので、来年には多くの観光客が来てくれるのではと期待していますが、さて、どうか?
 
				  Posted at 2025/03/26 18:28:26 |  | 
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