生駒山に来るといつも巨大な幻の奈良湖を夢想してしまう。
かつて大和盆地は大きな湖だった。いまの大和盆地をすっぽりと湖底に沈めていたのがいわゆる「奈良湖」である。
奈良盆地は今から200~300万年前は「奈良湖」(大和湖)と呼ばれる湖であった。この湖は約1万年前まで存在した。
いきなり何を寝ぼけたことを言い出すのかと思われるかもしれません。
しかしこれは夢想でもなんでもなく事実そうだった。
現在の大和盆地近在に住んでいた縄文時代の人々は毎日目の前の大きな湖を眺めながらその湖畔で暮らしていたのだ。
大和盆地に存在した巨大湖に欠かせないのは現在の生駒山である。
奈良湖が存在したのは大雑把に言えば生駒山が水をせき止めていたからである。
生駒山がもしなかったら奈良湖もなくて今の大阪と大和(奈良)盆地を隔てる巨大な壁が消える。
大阪と奈良は一つの巨大な平野だったはずだ。
「女町エレジー」という歌がある。吉野さくら、藤圭子、三笠優子など演歌系の歌手が歌っている。
生駒山のいまの生駒聖天の風俗街、生駒新地の花街情緒を歌った唄だ。youtube で聞いてみてください。
この唄の三番にこんな文句がある。
「山と山とに囲まれた ここは大阪奥座敷」
たしかに生駒山は大阪から見れば東の突き当りだ。当たり前だが生駒山を境にして東が奈良、西が大阪ということになる。
大正3年(1914)大阪上本町と奈良を電車で結ぶ鉄道が開通した。これが大阪電気軌道(「大軌」=今の近鉄の前身である)の奈良線である。生駒山を貫通して電車を通すトンネルが掘られ、奈良県側出口に「生駒停留所」が設けられた。この鉄道開通により大阪方面から生駒山中腹にある生駒聖天の宝山寺参詣者が急増。さらに大正7年には生駒停留所と宝山寺を結ぶケーブルカーが引かれた。宝山寺への急斜面の参道には飲食店、旅館、商店がひしめき、まもなく風俗遊興の場として花街が生まれた。
生駒トンネル
1914年に開業した頃の旧生駒トンネル
宝山寺門前町は生駒新地とも呼ばれ、鉄道開通の翌年には早くも芸妓の置屋が大阪から進出した。
そして生駒の料理屋、待合(まちあい)と芸者置屋の揃った「三業地」が形成される。大正10年には三業者が話し合って花街を仕切る「生駒検番」が創設されている。
昭和5年には、モダンなダンスホールができてダンサーが100名もいた。
この年の生駒新地の花街で働く芸妓、ヤトナ(酌婦)、ダンサー、仲居、女給が500人を超えていた。まさしく生駒は大阪奥座敷の歓楽街なのであった。いまその面影はほとんど失われている。以前、この「みんカラ」ブログに生駒宝山寺前の旧色街探訪のレポートを書いたと思うのでご興味のある方は過去の拙ブログを探してみてほしい。
いまでも生駒新地に花街情緒を求めて訪れる風流な方もなくはないようだ。
2015年02月16日
奈良見物④「生駒新地」(宝山寺新地)。←拙ブログ。
蛇足とは思うが生駒山の大阪側には八尾市、東大阪市がある。奈良県民も大阪府民も生駒山の半分は自分の領域なのである。
東大阪市は もともとは布施市、河内市、枚岡市だった。この三市が合併して1967年2月1日に大阪府下31番目の市として発足している。余談だが私の知り合いのお琴の先生は「私の生まれたのは布施市よ」と今でも言っている。あとから合併してできた東大阪市という呼称にはどうにも馴染めない口ぶりである。
またここで奈良湖に続いて二番目の湖について書くのはまことに恐縮だがちょっとだけよ、ということで。八尾市、東大阪市のあたり一帯は古代には河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であった。
だが次第に海から分離して大きな湖となった。生駒山を挟んで東には奈良湖、生駒山の西には大和川の支流が広がる湿地帯と巨大な内海の「河内湖」があった。
かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であった。
その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化していったのである。
生駒山西側の縄文人たちも奈良湖周辺と同様に河内湖を見下ろしながら生駒山山麓で暮らしていたのだろう。
そのはるか昔生駒山は広大な海に頭だけを出している孤島だった。
海面が徐々に下がるにつれて岩頭の裾野が広がる生駒山が姿を現してきた。
それでもまだいまの奈良盆地は京都側の北に遮るものがなく開かれていた。そのためり大阪湾と奈良盆地は生駒山を挟んでひとつながりの海だった。
海面がさらに下がるとこの北側の開口部が閉じられることとなりついに奈良盆地は周囲を山で囲まれて巨大な湖となったのである。これを奈良湖という。
おおざっぱにいって縄文時代はこの奈良湖のあるような地形だった。
なんでそんなことがわかるかと言えば考古学的な分析による遺跡調査の結果である。奈良湖の周辺ぐるりに縄文時代の遺跡があって時代の古い遺跡ほど標高の高い部分に残されている。私は叶うものならこの奈良湖の景観を一望してみたいものだと念願している。縄文時代の人々は実際に奈良湖の周りで魚を取って食料にしたり泳いで遊んでいたのだろう。
もしかして大和平野の底に巨大なクジラの骨が眠っているのではないかと想像してみたりする。奈良盆地は奈良湖の前は間違いなく海の底だったのだから。
また余談だが琵琶湖もかつては奈良湖のそばにあった。400~300万年前 琵琶湖の元となる湖は現在の三重県伊賀上野あたりにあった。それが地形変化によって北へ押し上げられて現在の滋賀県の位置まで移動したのである。この地形変化はいまも続いており遠い将来には大阪湾が次第に裂けて琵琶湖につながり琵琶湖も北に向かって裂けて日本海とつながる。九州も有明湾から阿蘇、大分にかけて裂けて瀬戸内海とつながる。こうした一連の地殻変動が予想されている。
そんなアホなことがあるかと言われても地球の地殻変動は止められない。
海に頭だけ出していた生駒山が地上に姿を現し琵琶湖が移動している。また巨大な奈良湖の底が抜けて大和盆地になっている。広大な湿地帯を灌漑した弥生人は今の田原本あたりに巨大な集落を形成し稲作を始めた。それが弥生時代最大の集落遺跡の唐古鍵遺跡である。また金魚養殖の盛んな大和郡山の無数の池は奈良湖時代のの名残なのである。
余談だが唐古鍵遺跡の、稲作文化と弥生人の関連を指摘した論文を書いたのは学歴も人脈もない極貧無名の考古学者の森本六爾である。森本は今の唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から「弥生時代は稲作の農耕社会」と喝破した。だが不遇のうちに彼は34歳で世を去る。後に森本の卓見が認められて広まりいまでは定説になった。しかし弥生時代は稲作時代だったことを最初に見抜いた森本六爾の名を知る人は少ない。
松本清張が彼を主人公にして「断碑」という短編小説を書いている。
考古学に取り憑かれた短い人生と彼を献身的に支えた妻、森本六爾の考古学への執念。松本清張は彼独特の対象を突き放す冷徹な解剖学者のような視線で強烈な光彩を放った森本六爾の人生を切り取って見せてくれる。松本の筆致は無残なまでに冷酷で好きにはなれないが少なくとも森本六爾を世に出したのは彼の仕事の成果の一つである。
この小説は松本清張が森本六爾のために書いた墓銘碑である。
だが松本清張に文句をつけるのもおこがましいがもう少し暖かい視線で森本六爾夫妻を描けなかったのだろうかという気がしないでもない。
「断碑」は「或る小倉日記伝」(新潮文庫)に収載されれいる。この文庫には俳人の杉田久女をモデルにした短編も収録されている。ここでも杉田久女を最後は狂女扱いしているがあまりにも松本清張の筆致は冷酷である。というか冷酷に過ぎるのではないかと杉田の縁者ではないのだが恨みも言いたくなる。
余談の余談だが司馬遼太郎は松本清張の文章を高く評価していた。
日本語の文章を文芸作品から法律まであらゆるものを書ける文体にした作家が三人いる、と司馬遼太郎は言った。
最初は夏目漱石である。次が松本清張、そして井上靖だと。その詳しい説明を司馬が問わず語りに語るのを聞いてどこかに書いたのだがその雑誌もどこかに行ってしまって確かめようもない。
ただこの三人の名前を司馬遼太郎があげたことだけは記憶している。
生駒山に近づくと長い年月を集積した自然の営みが思い浮かんでくる。
人間は自由に生きているようだが時間という空間の中ではそこらの草木と同じである。
人間の暮らしを可能にしているのは悠久の時間の流れである。
今吹いている風もまた縄文人の感じていた風と変わりはしないのである。
奈良湖の水は何故、どのように抜けたのか?
ここにもやはり生駒山が絡んでくる。
生駒山地の南端の信貴山と明神山・二上山の間を大和川が蛇行して大阪へ向かって流れている。大和川に流れ込んだ大和盆地を流れる156の支流の水はすべてこの峡谷に集まってくる。
ここを亀の瀬といい恐怖の地すべり地帯である。つまり何らかの原因によって生駒山地がこの部分で裂けたのだ。奈良湖の水はこの生駒山地の亀裂から一気に大阪へ向かって抜けていったのであろう。いくつかの画像をあげておいた。大和盆地には多くの水系があるがそのすべては亀の瀬を通る大和川に集約される。
もし亀の瀬が地すべりを起こして封鎖されたら上流の大和盆地では溜まる水が周辺一帯を飲み込むだろう。さらにダム湖を作った亀の瀬が決壊したら下流では山津波の大洪水が発生し被害は甚
大となる。
亀の瀬の奈良県側は香芝市、王子町、上牧町、三郷町、河合町、川西町、安堵町、斑鳩町、平群町などがある。もともとこれらの町は最後まで奈良湖の底の水溜りだった場所で水害の多い土地側である。
亀の瀬で堰き止められた水が一気に流れ込む大阪側はどうかといえばこちらも被害甚大となる。
大阪平野は大和川の河床よりも標高が低くなっている。亀の瀬が地すべりを起こして大和川の水を貯めた挙げ句、亀の瀬が決壊すると下流域の柏原市、藤井寺市、八尾市、松原市などを水が呑み込むだろう。
大阪側の被害想定は国交省大和川河川事務所は金額にして4・4兆円と試算している。
十三峠紀行②へ続きます。
最後の画像の左上に「平群町」という地名があります。「平群」は「へぐり」と呼びます。十三峠はこの平群町にある奈良と大阪の境界峠です。次回は平群町を経て十三峠への道を紹介します。今回は前置きを書いていたらだんだん長くなってしまったので分割しました。
下のリンクは「宝山寺新地」(過去の拙ブログ)です。
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Posted at
2021/06/27 15:11:15