• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

角鹿のブログ一覧

2021年06月28日 イイね!

十三峠紀行 その②大和川の付替え工事

 大和川は昔は大和盆地から亀の瀬を経由し現在の柏原市に入ると南部から流れてくる石川と合流して北へと流れていた。
 これは地形の傾斜によるものだが大和川水系では大雨が降るたびにたびたび大洪水、水害が発生していた。
北へ向かって伸びる大和川の支流は川底が高く土砂が堆積した天井川となっている。そこに大雨が降ると増水した石川の濁流を合わせ飲み込んだ川が暴れ龍のように氾濫し周囲を水浸しにする。田畑橋や家屋を容赦なく押し流し水没させる。毎年の被害への備えはしているものの何十年に一度の大洪水には為す術もない。

 河内平野の村人にとっては恨みの大和川である。
 もともと大阪は大きな内海だった。だが南からは大和川、北からは淀川が大量の土砂を運んできた。この二つの川が大阪湾の内海を少しづつ埋め立て大阪の陸地を形成したのだ。
 とくに南部の石川を合わせ北上する大和川が大量の土砂を運んできた。この大和川の土砂流によって大阪は自然に内海が埋め立てられて陸地になったのである。そこまではよかった?のだがその後も網目のように水系を拡大した大和川が河内・摂津へ洪水被害をもたらすのである。
 
 大和川は深い固定した川筋ではなく泥湿地斜面を気ままに流れ洪水のたびに流れを変えるような暴れ川だった。そういう大和川だったがやがて流れが固定されるようになった。それが新たな問題を生んだ。
 もともと大和川は流れが強く周囲の土砂を削り取り流れてくる土砂流なので川筋が固定されると川底に土砂がたまるようになった。川底が周囲の田畑より3メートルも高い高い天井川となってきたのである。こうなるとひとたび洪水が起こったとき周りの低地へ大量の水が溢れ出し被害はさらに大きくなっていった。

大阪湾の変遷

以下の画像は「平野区誌」より

縄文時代早期(約9400年前)
縄文時代、海水が上昇。
alt




縄文時代早期(約8000年前)
海水が内陸部に入り内海となる。
alt


縄文時代前期の後半(約5500年前)
上町台地だけは半島として残り河内湾が誕生した。
alt

縄文時代中期の初頭(約4500年前)
その後、川から流れてくる土砂が堆積し河内湾は塞がれ状態になる。
alt


弥生時代中期(約2000年前)
河内湾は淡水化が進み少しずつ陸地化していった。
alt
十三のいまを歩こう 新之介のブログより

 
 

 大阪は昔から制御不能の大和川の治水対策が最大の課題だった。
 河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える「大和川の付替え」構想は古くはなんと奈良時代以前からあり、日本書紀、続日本紀に記述がある。実際に大和川に関する治水工事の歴史は古墳時代に遡る。
 たとえば現在の大阪天王寺区・阿倍野区に「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの地名がある。これは『続紀』巻第三十九にある延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂が河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更の工事の名残の地名だと言われている。
 
 
◎付替え前の主な大和川洪水の記録

832年 8月の大風雨により河内・摂津に被害。
1544年 畿内大洪水により、河内・摂津に甚大な被害。
1563年 5月の8日間にわたる断続的豪雨により、河内国の半数が浸水、死者16,000人余。
1620年 5月、志紀郡の堤防が決壊、水田24,000石分の被害。
1633年 8月、柏原村をはじめとする各村の堤防が決壊、民家50軒、死者36人、水田20,000石分の被害。

alt

新大和川という赤い字の下が付け替えられた「大和川」。その上に扇状に広がっているのが旧大和川。

 そのため大和川の洪水被害地域の村々は大和川の流れを柏原の大和川と石川の合流点から真西へ向け、住吉・堺方面へ流す案を何度も幕府に嘆願していた。大和川を真西へと水路を変えられれば洪水がなくなる上、これまでの川が干上がり新田開発が可能となる。これで村は一石二鳥の利益を得ることができる。
 しかし陽が差せば日陰が生まれるのも世の常である。
 大和川の新たな付替え予定地にあたる村々では人工的な水路変更により甚大な被害を被ることになる。
 昨日まで田畑だった先祖伝来の土地が川底に沈むのだ。同じ村が運河によって行き来もままならない分断状態に引き裂かれることにもなる。人の住む集落密集地を避けて工事図面を引くとしてもそこにはたいがい先祖の眠る墓地がある。そうなると墓を移転させなければならない。おまけに工事によって損害を被るだけで何も得することはない。
 これは村の死活問題である。大和川付け替えなどやってほしくない。当然この地域では激しい反対運動が起こった。村の有志が江戸まで反対請願へ下ったという記録もある。
 
古文書
alt

↑反対の嘆願書(写真:柏原市立歴史郷土資料館)

恐れ乍らのご訴訟。
こういう書き出しでの賛成、反対の対立する村からの陳情文書が残されている。

賛成の立場から河州摂州両国の百姓が主張あしたこと。

①大和川の流れを川違えしていただければ、水害に苦しんでいる十五万石余の百姓が永久に助かる
②大和川が運ぶ土砂で、新開池・深野池や川々は大坂河口までことごとく埋まってしまう。
③一年の内にも度々家まで水につかり食べるものもなくなって困っている。
④川違えの実施が延び延びになって十五万石余の百姓は何の為すべもなく餓死するしかない。
 恐れ乍らご慈悲をいただき、お願いの通りの川違えをしていただければ、私ども一同、末代までのお助けと有難く存じ奉ります。


これに対して川違えで田畑が運河の犠牲になる河州志紀郡船橋村柏原村から住吉手水橋迄の村の百姓の反論である。

①川違えを指示されますと、川底になってしまう村々は水底となり、住むことも出来ず路頭に迷う。
②新川筋の南側は悪水が流れ込みやすい地形で四五万石も水場になってしまう。
③新川より北側のかなりの村は日損場(にっそんば)=水不足、になってしまう。
④とにかく、川違えの実施は摂州河州数郡の百姓の命にかかわる。ご慈悲の上、これ迄のように中止して下されば有難い。
alt
写真を拡大してみるとわかりやすいです。

左の大きな階段状の白いのが淀川 右の海につながる濃い青色が新たに付け替えられた大和川
中央の全体に広がる薄い茶色は新田開発される旧大和川水系
一番下の真ん中が大阪城
「南・奥河内から情報発信🎵 フォロバ100💛💙💚」ブログより

 大和川付け替えが請願されてから約50年。1703年、幕府はついに付け替えを決定する。
 当初三年はかかると予定されていたが、工事は実際には8ヶ月足らずで完了した。
 工期が短くなった一つの要因は川底を掘り下げないで平地を川底にして左右に土手をつくる簡便な工法をとったことがある。それでも土地によって一筋縄ではいかず瓜破や浅香では台地を掘り下げるなど難渋を強いられた場所もあった。
alt

工事は分担して同時進行で進められた。幕府と各藩の請け負った工区。↑

 かかった費用は71,500両。現在で考えると約140億円である。幕府はそのうち37,500両ほどを負担し、残りを工事を任命された各藩が分担した。だが結果的に得をしたのは幕府で、旧大和川流域の新田開発の入札で幕府には37,000両ほどの収入があった。幕府の工費負担はこれでほぼ回収されている。こういう計算が成り立ったので幕府は大和川付替えを決断したのかもしれない。
 工事に要した人員は毎日1万人で日当も支払われている。
 旧大和川水系は新田に生まれ代わった。川床に開発された新田には砂地が多く、木綿の栽培に適していた。そこで綿花が盛んに栽培され、木綿栽培が盛んになった。
 現在旧大和川の上には学校やグラウンドなどの公共施設が多くあり、花園ラクビー場もその一つである。
 
 つい先日大阪の八尾市、東大阪市へ行った。そのとき柏原市を通ったが巨大な大和川の堤防を見た。ああこれが大和川付け替えの土手なのだなと実感できた。この巨大な土手ならどんな大洪水が来ても大丈夫のように思えた。なにしろ古墳時代から大阪は治水工事を営々として続けている土地柄なのである。大阪は水の都と言われるが治水の都と言ってもいいくらいだ。
 新しい大和川の土手はその後も補修されて立派な堤防となり大阪府民に散歩やサイクリングなどで利用されている。
 
alt 
 
 古町墓地 (柏原市古町)
旧大和川左岸の堤防上にあります。

これでやっと大和川と別れ、次回の、その③は一路「平群町」をめざします。それにしても大阪府を大和川が南北にど真ん中で分断しているとは驚きですね。しかも地元の熱心な請願が半世紀も続けられて実現したという。テレビの大河ドラマにしてもらいたいものです。
Posted at 2021/06/28 10:34:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 旅行/地域
2021年06月27日 イイね!

十三峠紀行 その①生駒山と奈良湖

生駒山に来るといつも巨大な幻の奈良湖を夢想してしまう。
かつて大和盆地は大きな湖だった。いまの大和盆地をすっぽりと湖底に沈めていたのがいわゆる「奈良湖」である。
奈良盆地は今から200~300万年前は「奈良湖」(大和湖)と呼ばれる湖であった。この湖は約1万年前まで存在した。
いきなり何を寝ぼけたことを言い出すのかと思われるかもしれません。
しかしこれは夢想でもなんでもなく事実そうだった。
現在の大和盆地近在に住んでいた縄文時代の人々は毎日目の前の大きな湖を眺めながらその湖畔で暮らしていたのだ。
alt


 大和盆地に存在した巨大湖に欠かせないのは現在の生駒山である。
 奈良湖が存在したのは大雑把に言えば生駒山が水をせき止めていたからである。
 生駒山がもしなかったら奈良湖もなくて今の大阪と大和(奈良)盆地を隔てる巨大な壁が消える。
 大阪と奈良は一つの巨大な平野だったはずだ。

alt

 
 「女町エレジー」という歌がある。吉野さくら、藤圭子、三笠優子など演歌系の歌手が歌っている。
  生駒山のいまの生駒聖天の風俗街、生駒新地の花街情緒を歌った唄だ。youtube で聞いてみてください。
  この唄の三番にこんな文句がある。
  
「山と山とに囲まれた ここは大阪奥座敷」
 
 たしかに生駒山は大阪から見れば東の突き当りだ。当たり前だが生駒山を境にして東が奈良、西が大阪ということになる。
 大正3年(1914)大阪上本町と奈良を電車で結ぶ鉄道が開通した。これが大阪電気軌道(「大軌」=今の近鉄の前身である)の奈良線である。生駒山を貫通して電車を通すトンネルが掘られ、奈良県側出口に「生駒停留所」が設けられた。この鉄道開通により大阪方面から生駒山中腹にある生駒聖天の宝山寺参詣者が急増。さらに大正7年には生駒停留所と宝山寺を結ぶケーブルカーが引かれた。宝山寺への急斜面の参道には飲食店、旅館、商店がひしめき、まもなく風俗遊興の場として花街が生まれた。
 alt

 生駒トンネル 1914年に開業した頃の旧生駒トンネル

宝山寺門前町は生駒新地とも呼ばれ、鉄道開通の翌年には早くも芸妓の置屋が大阪から進出した。
 そして生駒の料理屋、待合(まちあい)と芸者置屋の揃った「三業地」が形成される。大正10年には三業者が話し合って花街を仕切る「生駒検番」が創設されている。
 昭和5年には、モダンなダンスホールができてダンサーが100名もいた。
 この年の生駒新地の花街で働く芸妓、ヤトナ(酌婦)、ダンサー、仲居、女給が500人を超えていた。まさしく生駒は大阪奥座敷の歓楽街なのであった。いまその面影はほとんど失われている。以前、この「みんカラ」ブログに生駒宝山寺前の旧色街探訪のレポートを書いたと思うのでご興味のある方は過去の拙ブログを探してみてほしい。
 いまでも生駒新地に花街情緒を求めて訪れる風流な方もなくはないようだ。
 2015年02月16日
 奈良見物④「生駒新地」(宝山寺新地)。←拙ブログ。
  
 蛇足とは思うが生駒山の大阪側には八尾市、東大阪市がある。奈良県民も大阪府民も生駒山の半分は自分の領域なのである。
 東大阪市は もともとは布施市、河内市、枚岡市だった。この三市が合併して1967年2月1日に大阪府下31番目の市として発足している。余談だが私の知り合いのお琴の先生は「私の生まれたのは布施市よ」と今でも言っている。あとから合併してできた東大阪市という呼称にはどうにも馴染めない口ぶりである。
 
 またここで奈良湖に続いて二番目の湖について書くのはまことに恐縮だがちょっとだけよ、ということで。八尾市、東大阪市のあたり一帯は古代には河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であった。
 だが次第に海から分離して大きな湖となった。生駒山を挟んで東には奈良湖、生駒山の西には大和川の支流が広がる湿地帯と巨大な内海の「河内湖」があった。
 かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であった。
 その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化していったのである。
 生駒山西側の縄文人たちも奈良湖周辺と同様に河内湖を見下ろしながら生駒山山麓で暮らしていたのだろう。
 alt

 そのはるか昔生駒山は広大な海に頭だけを出している孤島だった。

 海面が徐々に下がるにつれて岩頭の裾野が広がる生駒山が姿を現してきた。
 
 それでもまだいまの奈良盆地は京都側の北に遮るものがなく開かれていた。そのためり大阪湾と奈良盆地は生駒山を挟んでひとつながりの海だった。
 
 海面がさらに下がるとこの北側の開口部が閉じられることとなりついに奈良盆地は周囲を山で囲まれて巨大な湖となったのである。これを奈良湖という。
 おおざっぱにいって縄文時代はこの奈良湖のあるような地形だった。
 なんでそんなことがわかるかと言えば考古学的な分析による遺跡調査の結果である。奈良湖の周辺ぐるりに縄文時代の遺跡があって時代の古い遺跡ほど標高の高い部分に残されている。私は叶うものならこの奈良湖の景観を一望してみたいものだと念願している。縄文時代の人々は実際に奈良湖の周りで魚を取って食料にしたり泳いで遊んでいたのだろう。
 もしかして大和平野の底に巨大なクジラの骨が眠っているのではないかと想像してみたりする。奈良盆地は奈良湖の前は間違いなく海の底だったのだから。
 alt

 また余談だが琵琶湖もかつては奈良湖のそばにあった。400~300万年前 琵琶湖の元となる湖は現在の三重県伊賀上野あたりにあった。それが地形変化によって北へ押し上げられて現在の滋賀県の位置まで移動したのである。この地形変化はいまも続いており遠い将来には大阪湾が次第に裂けて琵琶湖につながり琵琶湖も北に向かって裂けて日本海とつながる。九州も有明湾から阿蘇、大分にかけて裂けて瀬戸内海とつながる。こうした一連の地殻変動が予想されている。
 
 そんなアホなことがあるかと言われても地球の地殻変動は止められない。
 海に頭だけ出していた生駒山が地上に姿を現し琵琶湖が移動している。また巨大な奈良湖の底が抜けて大和盆地になっている。広大な湿地帯を灌漑した弥生人は今の田原本あたりに巨大な集落を形成し稲作を始めた。それが弥生時代最大の集落遺跡の唐古鍵遺跡である。また金魚養殖の盛んな大和郡山の無数の池は奈良湖時代のの名残なのである。 

 余談だが唐古鍵遺跡の、稲作文化と弥生人の関連を指摘した論文を書いたのは学歴も人脈もない極貧無名の考古学者の森本六爾である。森本は今の唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から「弥生時代は稲作の農耕社会」と喝破した。だが不遇のうちに彼は34歳で世を去る。後に森本の卓見が認められて広まりいまでは定説になった。しかし弥生時代は稲作時代だったことを最初に見抜いた森本六爾の名を知る人は少ない。
 alt

 松本清張が彼を主人公にして「断碑」という短編小説を書いている。
 考古学に取り憑かれた短い人生と彼を献身的に支えた妻、森本六爾の考古学への執念。松本清張は彼独特の対象を突き放す冷徹な解剖学者のような視線で強烈な光彩を放った森本六爾の人生を切り取って見せてくれる。松本の筆致は無残なまでに冷酷で好きにはなれないが少なくとも森本六爾を世に出したのは彼の仕事の成果の一つである。
 この小説は松本清張が森本六爾のために書いた墓銘碑である。
 だが松本清張に文句をつけるのもおこがましいがもう少し暖かい視線で森本六爾夫妻を描けなかったのだろうかという気がしないでもない。 
 「断碑」は「或る小倉日記伝」(新潮文庫)に収載されれいる。この文庫には俳人の杉田久女をモデルにした短編も収録されている。ここでも杉田久女を最後は狂女扱いしているがあまりにも松本清張の筆致は冷酷である。というか冷酷に過ぎるのではないかと杉田の縁者ではないのだが恨みも言いたくなる。
 
 余談の余談だが司馬遼太郎は松本清張の文章を高く評価していた。
 日本語の文章を文芸作品から法律まであらゆるものを書ける文体にした作家が三人いる、と司馬遼太郎は言った。
 最初は夏目漱石である。次が松本清張、そして井上靖だと。その詳しい説明を司馬が問わず語りに語るのを聞いてどこかに書いたのだがその雑誌もどこかに行ってしまって確かめようもない。
 ただこの三人の名前を司馬遼太郎があげたことだけは記憶している。
alt

 

 生駒山に近づくと長い年月を集積した自然の営みが思い浮かんでくる。
 人間は自由に生きているようだが時間という空間の中ではそこらの草木と同じである。
 人間の暮らしを可能にしているのは悠久の時間の流れである。
 今吹いている風もまた縄文人の感じていた風と変わりはしないのである。

奈良湖の水は何故、どのように抜けたのか?
ここにもやはり生駒山が絡んでくる。
生駒山地の南端の信貴山と明神山・二上山の間を大和川が蛇行して大阪へ向かって流れている。大和川に流れ込んだ大和盆地を流れる156の支流の水はすべてこの峡谷に集まってくる。

ここを亀の瀬といい恐怖の地すべり地帯である。つまり何らかの原因によって生駒山地がこの部分で裂けたのだ。奈良湖の水はこの生駒山地の亀裂から一気に大阪へ向かって抜けていったのであろう。いくつかの画像をあげておいた。大和盆地には多くの水系があるがそのすべては亀の瀬を通る大和川に集約される。
もし亀の瀬が地すべりを起こして封鎖されたら上流の大和盆地では溜まる水が周辺一帯を飲み込むだろう。さらにダム湖を作った亀の瀬が決壊したら下流では山津波の大洪水が発生し被害は甚

大となる。alt


亀の瀬の奈良県側は香芝市、王子町、上牧町、三郷町、河合町、川西町、安堵町、斑鳩町、平群町などがある。もともとこれらの町は最後まで奈良湖の底の水溜りだった場所で水害の多い土地側である。
亀の瀬で堰き止められた水が一気に流れ込む大阪側はどうかといえばこちらも被害甚大となる。

大阪平野は大和川の河床よりも標高が低くなっている。亀の瀬が地すべりを起こして大和川の水を貯めた挙げ句、亀の瀬が決壊すると下流域の柏原市、藤井寺市、八尾市、松原市などを水が呑み込むだろう。
 大阪側の被害想定は国交省大和川河川事務所は金額にして4・4兆円と試算している。

十三峠紀行②へ続きます。
最後の画像の左上に「平群町」という地名があります。「平群」は「へぐり」と呼びます。十三峠はこの平群町にある奈良と大阪の境界峠です。次回は平群町を経て十三峠への道を紹介します。今回は前置きを書いていたらだんだん長くなってしまったので分割しました。

下のリンクは「宝山寺新地」(過去の拙ブログ)です。


Posted at 2021/06/27 15:11:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 旅行/地域
2016年07月19日 イイね!

斑鳩文化財センターと法隆寺。


今月初旬、「斑鳩文化財センター」へ行ってきました。
斑鳩町は法隆寺が有名ですがほかにも法隆寺の近くにある藤ノ木古墳」も貴重な古墳文化財です。
「斑鳩文化財センター」は、藤ノ木古墳の学習を中心に斑鳩町の文化財の調査・研究および情報発信の拠点となる施設として斑鳩町が運営しています。
この日は、ちょうどこのセンターの館長をされていた考古学者の樋口隆康先生の回顧展が開催されていました。
斑鳩文化財センターとそばの法隆寺へは近鉄「筒井駅」からバスで行くのが便利です。




筒井駅近くにある郵便局。よくみると広い溜池の上に張り出しています。筒井は金魚養殖で知られる大和郡山に近いのでこういう溜池もあるものと思われます。ちょうど炎天下だったので涼しげに見えました。



筒井駅から法隆寺バス停までは15分くらいです。バスに乗ると次の停留所が「パナソニック」。どうやらこのあたりは工業団地のようです。少し行くと「郡山ゴルフセンター」がありました。かなり大きなゴルフの練習場です。ひょっとしたら奈良の小仏さんもここでゴルフ修行をされているのかな?。バス通りの左右は工場や住宅が広がり7世紀ころに法隆寺が建てられたころの景色は想像もつきません。


法隆寺前の長い松並木。
「斑鳩文化財センター」へはこの松並木を歩き途中で住宅街に入っていくと田んぼのそばにあります。こういうと簡単なようですが初めてだとけっこう迷います。




正面入口。平屋の瓦屋根の造りです。




「斑鳩文化財センター」の庭にあるのがこの真っ赤な石棺。「藤ノ木古墳」の中にあったもののレプリカです。それにしても赤過ぎですね。



展示室の中にある「黄金の馬具」。藤ノ木古墳から出土したものです。この品物はそっくりにつくられたレプリカです。出土した本物の文化財は橿原市の「橿原考古学研究所」に展示されているということです。

斑鳩文化財センターでは藤ノ木古墳発掘に映画を上映してくれました。約20分。この日は私一人だったのですが学芸員の方が丁寧に説明をしてくれました。


樋口隆康先生の回顧展の展示物が周囲のガラスケースの中にありました。



樋口先生愛用のカメラ二台。



帰りに法隆寺へちょっと立ち寄ってみました。この門が「南大門」です。ちょうど最初に画像をあげた松並木の突き当りに南大門があります。


南大門を入ったところから中を撮影。正面が法隆寺の中門です。
中門の左右に立つ我が国最古の仁王像、金剛力士像があります。写真ではわかりにくいかもしれませんが中門全体にシートがかけられており修理中でした。
左右の土塀がなんともいえないいい雰囲気です。
中門の屋根上に突き出して見えるのが五重塔の相輪です。相輪は塔のもっとも重要な部分でいわゆる卒塔婆です。


ちょうど修学旅行の中学生?の一団がやってきました。聞くと「栃木県から」ということでした。





南大門を内側から撮影。↑。



南大門の柱と礎石。このまま1300年ほども立っているとは驚きです。



南大門前の「鯛石」。ひらべったい石が鯛の形に見えます。かなり地味ですが法隆寺通の見どころのひとつ?

炎天下、吉野町と斑鳩町の駆け足の往復でいささかせわしない一日でした。


近鉄筒井駅前の近鉄高架ガード下そばにあるバス停「筒井駅」。近鉄の改札から歩いて一分くらいです。「王寺・法隆寺行き」のバスに乗ると法隆寺前に行きます。



筒井駅バス停から「王寺・法隆寺行き」のバスの時間表。
一時間に二本出ています。

Posted at 2016/07/19 16:24:47 | コメント(3) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2016年06月27日 イイね!

奈良町散歩。奈良の極上の和食「竈」。


ネパールの古い窓飾り。奈良町の一角。なぜかここに設置されている。不思議と違和感がない。

 奈良にみどころは多いが何度行っても飽きないのが奈良町見物である。
   近鉄の奈良駅から外国人観光客の多い「東向き商店街」のアーケードを通り、三条通を挟んで向かい側に続く餅飯殿(もちいどの)商店街を通る。最後の坂道を抜けると「ならまち大通り」である。だいたいこのあたり一帯が奈良町と呼ばれる町家である。
 昔は広大な元興寺の敷地だったがいまはほとんどが民家になっている。
 同じ南都七大寺であるが興福寺はいまだに堂々たる伽藍を構えているのになぜ元興寺は衰退して見る影もないのか。奈良町に来るたびにそのことが不思議でならない。
 奈良の地元の人以外にはここに書いた近鉄奈良駅から奈良町までの簡単な行き方の説明はわからないと思うが簡単に言えば奈良の中心部に昔ながらの町家があってそこを「奈良町」地区と呼んでいるというようなことである。
 さらに付け加えると奈良町のほとんどの地域は今も残る「飛鳥寺」を平城京に移した「元興寺」の境内だったということ。そんな広大な敷地をもった「元興寺」衰退の理由はいまもってわからない。

 
 こんな感じの路地や町家が広がっているのが「奈良町」である。

 その中に「奈良町にぎわいの家」という家がある。
 「奈良町にぎわいの家」をちょっと覗いてみた。
建築100年の家である。四季折々のさまざまな展示が行われている。奈良町散歩では欠かせないスポットである。二階もあってゆっくりと座敷でくつろげる。


いまでは珍しい竈が置いてある。



 この丸い石が「元興寺の金堂の礎石」だというが実はそうではないらしい。
「こういう加工は平城京時代には無理ですね。本物の礎石は、すぐそばの奈良町物語館の中にありますよ」とにぎわいの家の係員さんに教えられた。そこで教えられたとおりに本物の礎石見物にでかけた。といっても10数秒も歩けば「奈良町物語館」だ。すぐ斜向かいの建物である。


奈良町物語館の内部。吹き抜けの高いつくりで黒い梁が見えている。


奈良町物語館の奥庭にある元興寺の金堂の礎石。本物である。自然石だ。
この石の上に金堂の柱が立っていたのだがすでになにもない。
ただこの石だけが記憶している風景がまちがいなくあるはずだ。
庭に無造作に置かれた自然石だがかつてここが元興寺の金堂が建っていた場所である。元興寺は日本最古の寺「飛鳥寺」を養老2 (718) 年,平城京に移転したもの。南都七大寺の一つであったが中世に衰えた。しかも移転されたはずの「飛鳥寺」がなぜかいまだに残っているというのも不思議ではある。


奈良町の一番南に位置する井上町に「鹿の舟」というなんというか複合施設空間があった。この場所の説明はかなりしにくい。「鹿の舟」のリンクをごらんください。
この二階屋の建物の内部が↓の写真だ。


玄関から入った内部の写真。
奈良の観光案内所、図書室、学習室、和室、蔵を利用した展示室がある。

奈良の蚊帳を貼った学習室。



学習室脇にある図書室。奈良に関する本がコレクションされており自由に読める。
写真では広いようだが直径は大人が両手を伸ばすともうちょっと長いというくらいのこぢんまりとした空間だ。入り口は茶室のように狭い入り口からしゃがんで入らねばならない。雪で作れば大型のかまくら、という風情だ。


二階にあがるとこんな感じ。

二階には広い和室もある。


「鹿の舟」の一角には奈良の和食を提供する食堂「竈」がある。
「竈」の外観。奈良の食材を使った朝食と昼食を提供している。
ほんとうに竈があって炊きたての御飯を食べられる。


竈の薪は吉野町の檜である。檜の置き場。

「竈」で昼ごはんを食べた。
いつもは行列ができるというがたまたま空いていてすぐに入ることができた。
米は奈良県御所(ごせ)の吐田米(はんだまい)である。
知る人ぞ知る奈良県の極上米だ。
御所は金剛山の伏流水が湧きだしており米所として知られる。そのなかでも「吐田米」は奈良県で最高の品質といわれている。

余談だが日本酒の話をすれば御所の「風の森」で収穫された米と葛城山の伏流水を仕込みに使った油長酒造の銘酒「風の森」の評判がすこぶる高い。
酒の種類は純米酒・純米吟醸・純米大吟醸の純米系のみ。
製法はしぼりにこだわるほか無加水、無添加、無濾過、無加熱で造られている。

もうひとつ御所の誇るのが片上醤油である。
「竈」の醤油がこの片上醤油なのである。
この組み合わせを前に私は正直、おっつと思った。
「お主、やるな」
と心の中で呟いたほど。
竈で焚いた吐田米を前に片上醤油の国産丸大豆を使った天然醸造醤油を注いだ。
これしかあるまい。
片上醤油、これは経営者の片上裕之氏が丹精を込めて醤油の味を極めた旨味の極地である。

御所のはぐくんだ極上米と御所の極上醤油。
口に入れたとき相互に邪魔をしない謙虚さがあった。
ほのかに醤油の甘みが感じられる。
いっさいの雑味がない。
醤油に棘がなくまろやかな旨みが感じられる。
まさに醤油の精、そのものである。
米も醤油も我先にと主張をしない。
ふっと御所のたおやかな陽射し、田を吹き抜ける風を食んだ感じがした。
米の自然な甘みと醤油の旨さが噛むほどにふくよかに複雑に調和する。

竈飯と醤油の組み合わせを前にして目の前に控えるお新香、煮物、味噌汁の出番はなかった。
しばし控えおろうという塩梅だ。
この吐田米と片上醤油との出会いを楽しめる極上にして至福のひととき。
こういう組み合わせを「うまい」と思った奴がいるんだな。
誰かは知らないがこの味のコラボレーションを実現すべく「竈」という飯屋をプロデゥースした人物がいる。
なかなかのセンスの持ち主である。
少なくとも奈良という地元の食材を知り尽くしているのだろうと想像できる。
提供されるほかの食材もまた地元の奈良産だという。

おまけに我が地元の「吉野檜」を竈の薪にして燃やしているではないか。
薪が吉野杉でも吉野桧でもどの程度米の味に影響しているのかはわからない。
だが吉野桧にこだわりを持つならそれも一興である。
しばし片上醤油と吐田米のコラボレーションを楽しんだあとにおかずに箸をつけてみた。
さりげなく一皿に盛られている揚げナスの煮びたしが絶品であった。
自家製の大根の漬物の食感もよかった。
竈で焚いたご飯は文句なくおいしかった。
この御飯こそが主役である。
さらにそれを彩る脇役の醤油、香の物、煮物類にも奈良産の逸品を揃えるあたりがこの店の存在価値というものである。
いやはや恐れいった。

後日家でご飯に醤油をかけて食べてみた。
使用するのはこのところ切らしたことのない「イゲタ醤油」である。
奈良市の奈良町を通り抜けたあたり北京終町にあるのが「イゲタ醤油」の井上本店である。
奈良の地元の醤油屋として江戸末期の創業という老舗だ。
御所の片上醤油と並んで奈良を代表する醤油蔵である。
以前みんカラブログにも書いたが経営者の吉川 修氏は社長であるがまた醤油の神秘を探求する求道者でもある。
国内産の丸大豆と国産小麦粉にこだわリ、添加物はいっさい使用しない醤油である。
さらに醸造は天然酵母による天然醸造。製造期間を短縮する加熱も添加物もいっさい使わない。自然の温度変化の中で最低でも1年半、通常は2~3年の醗酵・熟成を経て「イゲタ醤油」を製品化している。

井上本店の井桁醤油の天然醸造濃口を炊きたてご飯に注ぐ。
米は吉野町の西谷米のキヌヒカリ。
奈良の「竈」で味わった片上醤油とはまた違う官能の触発があった。
醤油には作り手の個性が際立って反映されるものだ。
この「イゲタ醤油」は以前見学した井上本店の醤油蔵の匂いそのものである。
これが日本の伝統醤油だという熟成した濃厚な力強さがある。
はっきりとこの醤油の味は「イゲタ醤油」だとわかる。

かたや片上醤油はさらりとしておりまろやかで軽い。
洗練された華麗で精細な風味が際立つ。
醤油の味の粋を極めた上質の風味がひろがる。
それが片上醤油の個性なのである。
好みといえばそれまでだが最後は造り手の個性、醤油への考えかたの違いであろう。
それほどこの二つの醤油は個性が際立っており醤油の醸しだす表情も違う。
それでいておそらくはどちらも日本の醤油の最高峰に位置する醤油味の精華、味の極地ともいうべき極上醤油であろう。
ともあれこの極上の二つの風味の異なる極上醤油を味わえるのは幸せというしかない。
とくに奈良県人にとっては手軽に入手できるだけにありがたいことである。
醤油といえば地味な存在かもしれないが日本人の食事には欠かせないものである。全国各地ではさまざまな醤油がつくられているだろう。自分なりに研究して自分好みのよい醤油と出会うのも食の楽しみの一つであろうと思う。

ご飯に醤油とは体によくない?ようだが相性は抜群によい。
熱々のご飯にバターを乗せ醤油をかけて食すとさらにおいしい。
誰かのエッセーで記憶がやや曖昧だが英国のオックスフォード大学で日本デーというものがありそこで提供されるのがバター醤油ライスだという話が書かれていたと記憶している。
この食べ物はシンプルなだけに米とバターと醤油の品質が決め手になるだろう。
外国人は日本食の象徴として米と醤油をあげているのではないだろうか。

今回の奈良町歩きでは元興寺の金堂の礎石に出会った。
ついで「竈」で御所の吐田米、片上醤油と出会った。
いつも何か発見のある街歩きが楽しめる。
奈良町はいつ来ても新しい出会いがあり何度来ても飽きない町である。




★関連情報URL★

「奈良町ご案内」
Posted at 2016/06/28 13:06:02 | コメント(2) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記
2016年06月25日 イイね!

奈良の「大安寺」竹供養。

6月23日(木曜日)奈良の「大安寺」で竹供養がありました。

前々から一度は大安寺へ行ってみたいと思っていたので午前中の雨を押して行って来ました。
幸いに雨は昼前にはあがり午後からはカンカン照りの夏日でした。

大安寺は奈良時代に創建され東大寺、興福寺、元興寺などと並ぶ南都七大寺という歴史と格式のある名刹です。
ただいまは伽藍も大部分を喪失、寺運衰退し奈良の郊外にひっそりと佇んでいる古刹となっています。




この日は6月23日の「竹供養」という催しがあり「大安寺」は参拝者で賑わいます。
午後一時から儀式が始まります。


門から本堂までのお練り行列。虚無僧、笹娘、僧侶が列をつくる。


本堂へ僧侶方が入る。その後、参詣者が堂内に招かれてがん封じの読経などの儀式が行われる。



虚無僧は京都明暗寺派ということです。
天蓋、袈裟、印籠など古式ゆかしい虚無僧スタイルと思われます。
天蓋は顔を隠すほかに野外で尺八を吹くときので風よけにもなります。
江戸時代には虚無僧は腰に刀をさしていましたのでけっこう怖い存在だったのです。


護摩法要が行われているようです。



冷やした日本酒が振る舞われます。銘柄はわかりません。


これらの女性は藤影きもの専門学校の生徒さんだということです。
浴衣姿が似合いますね。みなさんアジア系の外国人さんです。




浴衣の笹酒娘さんたち、どこからの留学生か聞いてみたら「ベトナム」「インドネシア」だということでした。



ドイツ人の参加者もいました。


こちらはお酒ではなく「水」が振る舞われています。
車を運転する人のための配慮のようですね。



正面は本堂。ここはろうそくを供養する場所です。









もう真夏日。



大安寺にはインド、ベトナム、唐などから来た僧侶がいた。
なかでもインド僧侶の「菩提僊那」は有名である。
以前の「頭塔」見物のところでも書いたが東大寺の大仏開眼供養ではこのインド僧の菩提僊那をはじめ外国からの渡来僧が重要な役割を担っている。
東大寺大仏(盧遮那仏)の開眼供養は752年(天平勝宝4)4月9日孝謙(こうけん)天皇、聖武太上(しょうむだいじょう)天皇、光明(こうみょう)皇太后らが臨席して行われた。
この儀式には文武百官、僧一万人が参列した。その代表として大仏の眼に墨を入れて開眼したのが大安寺にいたインド僧の菩提僊那(ぼだいせんな)である。

現代において僧侶が一万人も集まることなど想像もできない。
だが実際に僧侶一万人が参列したというから凄い。その名簿も残されている。当時の日本全国のお寺は空っぽになったんじゃなかろうか。
また大仏の眼に墨を入れたときに使われた筆も東大寺正倉院に保存されている。
1300年前の「リアル」がここ奈良には普通にある。
奈良市内で石を投げたら13、400年前の寺院に当たる。
大和盆地の恐ろしさはそういう歴史のリアルな連続性にあると思う。
しかも日本民族だけでなく奈良はシルクロードの終着駅であり古代から国際都市であった。

 菩提僊那は唐から九州大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入り、その中の大安寺に住した。
 751年天平勝宝3年)僧正に任じられ、翌752年(天平勝宝4年)4月9日には東大寺盧舎那仏像の開眼供養の導師をつとめている。こうした功績から菩提僊那は、聖武天皇行基良弁とともに東大寺「四聖」としてその功を称えられている。
 かつての大安寺は東大寺をはるかにしのぐ学僧、高僧が集った仏教最高学府だった。
 栄枯盛衰は世の常とはいいながらまさに釈尊の言うようにこの世は諸行無常ではある。

 

 「竹林の七賢人」という言葉がある。
 竹林は独特の空間である。
 涼しい風が吹き抜ける大安寺の竹林でなにやら儀式が行われた。






 ★関連情報★

「大安寺」笹供養。
Posted at 2016/06/25 22:55:28 | コメント(0) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 日記

プロフィール

「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

掲示板

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

リンク・クリップ

ホンダの黄色 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/01/17 09:30:57
美しき日本   奈良 五條市大塔町 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/01/14 11:02:55
稗田の環濠 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/01/13 11:56:14

愛車一覧

マツダ その他 マツダ その他
マツダ その他に乗っています。

過去のブログ

2025年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation