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角鹿のブログ一覧

2023年01月23日 イイね!

和歌山県の歌

https://w
串本節 Kushimoto-bushi( 江利チエミ Eri Chiemi )( With loose English translation of lyrics )

和歌山県の歌でよく知られているのは?
串本節、と言う人が多いハズ。いい歌ですね。これは珍しい江利チエミの歌う串本節、です。
串本は和歌山県のある紀伊半島の最南端、その前に大島がある。
民謡は串本節が有名だが、和歌山県には昔、県民を鼓舞する歌があったらしい。
その幻の和歌山県の唄が発見されて話題になっている。

幻の和歌山県勢歌、ボカロで再現 戦前「大毎」紙面に楽譜

 1939(昭和14)年に発表されたが、歌い継がれずに幻となった和歌山県テーマソング「県勢歌」。県立博物館(和歌山市)の調査で、大阪毎日新聞(現・毎日新聞)の記事から楽譜と歌詞が見つかった。判明した全容を館のパネル展「よみがえる『和歌山県 県勢歌』」で紹介。音声合成ソフト・ボーカロイドによる歌唱を館ホームページや会場のQRコードで公開している。展示は3月5日まで。

 県では48年、現在も歌われる山田耕筰作曲、西川好次郎作詞の「県民歌」が制定されている。20年ほど前から時折、「終戦前に歌った県の歌について教えてほしい」と、高齢者から歌詞や楽譜の問い合わせが県に寄せられたが、既に関係資料は処分され回答できなかったという。2022年10月になり作曲者、鈴木富三さん(1997年死去)の横浜市在住の遺族、鈴木徹さんから、富三さんの妻の記憶を頼りに書いた楽譜や、作曲当時の写真など具体的な情報が寄せられたため、館が本格的な調査を開始した。
  https://mainichi.jp/articles/20230116/k00/00m/040/097000c

 (毎日新聞のリンク ↑)
 
 
 令和5(2023) 年1月7日(土)~3月5日(日)
パネル展 よみがえる「和歌山県 県勢歌」
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 昭和14年(1939)5月に和歌山県統計協会によって制定された「和歌山県 県勢歌(けんせいか)」は、この種の県民歌としては全国的にみても先駆的で、和歌山県の自然・歴史・産業が盛り込まれ、曲調は明朗潑剌としたものになっています。当時は学校を中心に歌われることが奨励されたため、高齢の県民の中には、記憶されている方も多いようですが、公的な記録が失われているため、これまでこの曲の正確な情報を示すことができませんでした。

 このたび、作曲者の鈴木富三(すずきとみぞう)(1910〜97)の子息・鈴木徹(とおる)氏からこの曲に関する情報と再現された楽譜等を提供いただき、それらをもとにした調査により、忘れられていた「和歌山県 県勢歌」がよみがえることになりました。

 これに合わせて県立博物館では、「和歌山県 県勢歌」の歌詞や楽譜、当時の新聞記事などを紹介する下記パネル展を開催します。

下のリンクでボーカロイドでの県勢歌の唄が聴けます。
 https://hakubutu.wakayama.jp/exhibit/kenseika/
 

 申し訳ないけど、私としては、いま歌われている新作の和歌山県の唄よりも、こっちのほうが聞いていてメリハリがあって歌詞も明確で断然いい。歌詞も曲も心地よい。和歌山県のみなさんは、どうだろうか。 


  
 よみがえる 和歌山県 県勢歌
 
 https://hakubutu.wakayama.jp/cms/hakubutsu-management/contents/uploads/2023/01/%E3%82%88%E3%81%BF%E3%81%8C%E3%81%88%E3%82%8B%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E7%9C%8C%E7%9C%8C%E5%8B%A2%E6%AD%8C.pdf
 
 
 
 ここで県民の歌というものが他にもあるのか?という疑問を持たれる方もいるかもしれない。あるいは、我が県の県民歌を知らんのか、と言われるかもしれない。
 私が知っている県民こぞって歌うのは長野県の「信濃の国」で、これは歌えないと長野県民ではないとさえ言われるほど有名である。1900年(明治33年)発表されいまだに歌い継がれている。これは県民歌の草分けかつ代表格だろう。
 そこでちょっと安易だが(Wikipediaより引用)してみた。現在、形式的にも県民歌の存在しているのは、44であり、東京都の歌などは占領軍のGHQの命令で制定したというから驚きだ。また兵庫県はなぜか行政が県民歌は存在しないと否定しているらしいが実際にはあるという。なぜ兵庫県が県民歌の存在を否定するのか、なぜなんだろう。そのほうが気になる。ほかには県民歌のない県もあるそうだ。 
そこで全国県民歌事情をちょっと考察してみよう。
 
 都道府県民歌を制定していない府県
 
2012年(平成24年)現在、大阪府・広島県・大分県は都道府県民歌を制定していない[4]。ただし、大分県には2004年(平成16年)まで県民歌に準じた扱いで県民手帳に紹介されていた非公式の楽曲「大分県行進曲」が存在する。

大阪府と広島県はそれぞれ1996年(平成18年)のひろしま国体、1997年(平成19年)のなみはや国体開催に合わせて体育歌や府旗掲揚場面演奏歌を制作しているが、いずれも認知度は低いか無いに等しいのが実情である。

兵庫県は長年にわたり「未制定」とするのが通説であったが、実際は1947年(昭和22年)に「兵庫県民歌」が制定されていたことが神戸新聞社の取材で明らかになった。県は2014年(平成26年)までこの県民歌の存在を否定し続けていたが、廃止の事実は確認されていない。

旧外地の州歌
「旧外地の自治体歌」も参照
旧外地のうち台湾では、台北州・台中州・台南州など一部の州が内地(日本本土)の県民歌に相当する州歌を制定していた。朝鮮の13道および関東州では道歌・州歌の制定は確認されていない。
 
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E9%81%93%E5%BA%9C%E7%9C%8C%E6%B0%91%E6%AD%8C
 (Wikipediaより 県民歌の項目です ↑)
 あなたの県の県民歌ご存知ですか?


 さて和歌山県といえば私は佐藤春夫をまっさきに思い出す。詩人として知られているがいまの人は彼の詩を読まれたことがあるのだろうか。「秋刀魚の歌」はいかにも和歌山生まれの彼らしい詩だ。私は初めて和歌山を列車で旅したとき駅のホームで「さんま寿司」を買って食べた。一匹の脂ののったサンマを甘酢で締めた絶品だった。和歌山には、こんなおいしい寿司があるのかと思った。
 佐藤春夫の「秋刀魚の歌」は実は哀しい詩だ。
 
 
さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。

 この詩の最後の、この箇所を読むと、なぜか、何度読んでも泣けてくる。

 ご存知の方には言わずもがなだが、佐藤春夫は谷崎潤一郎との間に一人の女性をめぐる派手な確執があった。谷崎潤一郎と冷たい仲になった奥さん。谷崎の友人の佐藤春夫はその奥さんを哀れに思っていたのだがいつしか奥さんと佐藤春夫が恋仲になっていった。そのころ、谷崎は奥さんの実の妹が気に入って「なら佐藤君、おれの女房をあんたに譲るわ」という話になった。そのまますんなり行けば、まあ、そうある話ではないけれども波風立たずに済んだのだが・・・・・。その顛末はややこしいので以下のリンクでごらんください。
 
 
谷崎潤一郎は奥さんを譲渡する、しないで友人ともめる/『文豪どうかしてる逸話集』⑤
https://ddnavi.com/serial/575920/a/2/

 最後は佐藤春夫記念館の話。
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 新宮に旅したとき、速玉大社を参拝した。その境内の一角か、隣接地に佐藤春夫記念館という洋館があった。おお、我が敬愛する大詩人の記念館がこんな場所にひっそりとあるとは。さっそく見学させていただいた。二階もあって狭い階段を上り下りした。一階には佐藤春夫の吹き込んだレコードがあって彼の自作の詩を肉声で聞くことができる。
たしか、この「秋刀魚の歌」のレコードもあったように思う。 
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 またこの記念館には新宮に関する資料も展示されていた。
 かつて新宮には大規模な浮島遊郭があって、その経済規模は新宮市の予算よりも大きかったとか書いた古い新聞記事も展示されていた。詳細はおぼえていないけど、そんな記事を読んで昔の新宮の賑わいが凄まじいものだったことがわかった。やはり、熊野川を筏で下ってくる奈良、和歌山の木材の集散地としての繁栄が新宮を発展させたのだろうと思う。
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 新宮(浮島遊廓跡地)現在の浮島の森の北側

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新宮 浮島遊郭全景の 絵葉書写真

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 http://kokontouzai.jp/archives/3568
 

秋刀魚の歌           佐藤 春夫


あはれ
秋風よ
情こころあらば伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉ゆふげに ひとり
さんまを食くらひて
思ひにふける と。

さんま、さんま
そが上に青き蜜柑みかんの酸すをしたたらせて
さんまを食ふはその男がふる里のならひなり。
そのならひをあやしみなつかしみて女は
いくたびか青き蜜柑をもぎて夕餉にむかひけむ。
あはれ、人に捨てられんとする人妻と
妻にそむかれたる男と食卓にむかへば、
愛うすき父を持ちし女の児は
小さき箸をあやつりなやみつつ
父ならぬ男にさんまの腸はらをくれむと言ふにあらずや。

あはれ
秋風よ
汝なれこそは見つらめ
世のつねならぬかの団欒まどゐを。
いかに
秋風よ
いとせめて
証あかしせよ かの一ときの団欒まどゐゆめに非ずと。

あはれ
秋風よ
情あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。
そが上に熱き涙をしたたらせて
さんまを食ふはいづこの里のならひぞや。
あはれ
げにそは問はまほしくをかし。
(大正十年十月)


佐藤春夫 青空文庫
https://www.aozora.gr.jp/cards/001763/files/56872_58817.html


●特別付録●
(昔の雑誌に、よく、特別付録なんてついてましたね)

コメントをいただいて、そういえば、「運動会の歌』をブログに書いたなと思い出しました。これも、和歌山県の歌、なので、ご紹介します。ご笑覧ください。



和歌山限定だったなんて…初耳でした!
「待ちに待ちたる運動会」
https://minkara.carview.co.jp/userid/573300/blog/36409625/


和歌山県限定の「運動会の歌」
https://minkara.carview.co.jp/userid/2337428/blog/36654403/
Posted at 2023/01/23 12:19:40 | コメント(1) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2016年05月02日 イイね!

暑い頭を冷やせる?算数の問題です。



なにげなくネットを見ていたらこんな数学問題が出ていました。

1000人に一人しか解けないという謳い文句なのですが。

いろんな計算式がアップされています。

いささかトンチ問題みたいです。

 ≪ヒント≫ 数式の上と下の関連付けに注目すると・・・・。

http://tekkamaki10.com/?p=6235

解答と解説。↑。

ではこれが簡単にわかった人もわからなかった人も次の算数問題はできますか?

◯分数の問題
 
①1/2  +  2/3 =

 
②3/4 × 2/3=


③1/2 ÷ 4/5 =


◯体積の問題

   1L(リットル)は(   )dL(デシリットル)です。
   
  
◯速さに対する単位の変換

   時速90kmは分速何mでしょうか。   
  
◯台形の面積を求める

            12cm 上辺
         ・・・・・・・・・・・・・        ーーー
        ・          ・        ↑
       ・            ・     高さ14cm
      ・              ・      |
     ・                ・     |
    ・                  ・    ↓
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  ーーー   
            16cm  下辺
  
  上の台形の面積はいくらでしょうか。
  
   以上、問題終わり。  


  正解は下の方に書いてあります。
  ちなみにこの問題は
  
  「解けますか?小学校で教わった算数」
   という問題集でなんと100円ショップに行ったら売っていました。
   
  うーん算数苦手だったしほんとに解けるのか?
  と思って100円+消費税8円合計108円で購入してきました。
  ついでにボールペン5本セットも。
  なかなか書きやすいです。
  
  
  この問題を書いていて普段エクセルを使っていないのでかなり苦しみました。
  というのは分数を書こうにもテキストのソフトでは書けません。
  そこでこんな/を使う方法でしか書けませんでした。
  やっぱりエクセルは必要なんだなと痛感しました。
  また同じく図形の問題もあったのですがお絵かきソフトを使いこなせないと簡単な図形も描けません。
  いろいろやってみましたが台形を書くことができませんでした。
  ペイントとかピクセルで四角形は簡単に出るのですがそこから台形に加工したりサイズを変更して切り取るという図形作成の基本がマスターできていませんでした。トホホ。
  
  そこで点と線を組み合わせてお粗末な台形を作成いたしました((;_;)。
  パソコン教室にいまさら通うのもなあ・・・・というわけでいささか不完全燃焼です。
  で小学校の算数の問題はできたのかって?
  うーん恥ずかしながらかなりできませんでした。
  できたのもありますが、えらく時間がかかりました。
  やっぱり算数は苦手だなといまさらながら自覚させられた次第です。
  こういう算数の問題のほかにも「大人の塗り絵」というものもあってなかなか100均あなどれない。
  「大人の塗り絵」は隠れたヒット商品になっているそうです。
  このような問題や手作業をやるのもボケ防止にもよさそうです。
  



   
★正解★
 ◯分数の問題
   
 ①  7/6 (約して 1と6分の1)

 ②  1/2 分数同士のかけ算では分数同士、分母同士をそれぞれかけます。

 ③  5/8 

     分数の割り算では割られる数に割る数の分子、分母を上下逆転させた数(逆数)をかけます。 
   
   
 ◯体積の問題
 
      10   1Lは10dLです。
      
      
 ◯速さに対する単位の変換     
   
    分速 1500m
   
  ◯台形の面積を求める
  
     196平方cm
     
     台形の面積は(上辺+下辺)×高さ÷2 で求められます。 
   


   小学校の算数で鶴亀算、植木算、切手算などという問題をやった記憶があります。いまもやっているんでしょうか?ネーミングがなんとなく「和算」っぽいですね。
   

Posted at 2016/05/02 15:47:06 | コメント(1) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2016年02月19日 イイね!

「書き時計」。これは凄い。







すでにご覧になられた方もいらっしゃるかもしれません。
話題の「書き時計」。
こういう時計、思いもつきませんでした。
しかも木製の歯車や錘の組み合わせという日本式の伝統からくり技法。
恐れいりました。










★東京・上野の「東京都美術館」で実演と展示決定。

Twitterで18万RT 大反響の「書き時計」東京で初展示

KAI-YOU.net 2月19日(金)19時31分配信


Twitterで18万RT 大反響の「書き時計」東京で初展示


「Plock(プロック)」東北芸術工科大学の公式サイトより


ネットを中心に大きな注目を集めた、木製のパーツ407個を組み合わせて1分毎にからくり仕掛けの時計が時刻を書き換える「書き時計」。



こちらの作品が、2月23日(火)から28日(日)までの間、東京都美術館で展示されることが明らかになった。
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ユニークすぎる「書き時計」にTwitterで18万RT

「書き時計」は、東北芸術工科大学プロダクトデザイン学科4年の鈴木完吾さんによる卒業制作作品。正式作品名は「Plock(プロック)」。

「人間がやったら単純なことでも機械がやったら大変なことを、機械にさせたらどうなるか」をテーマに、アナログ時計とからくり人形の原理を紐解いて独自に設計したというこの作品。

作者である鈴木さん本人による映像付きツイートがきっかけでTwitterで話題となり、現在では18万RTを突破。テレビなどでも取り上げられるほどの大きな反響となった。

いまだに未完成で「今後も研究を継続していく予定」とされているが、からくり時計自身にアナログで時刻を刻ませるというアイデアと創意工夫から生まれた「書き時計」には多くの人が目を奪われ、絶賛の声が寄せられた。
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東京展示のデモンストレーション時間

2月9日から14日に東北芸術工科大学で開かれた「卒業/修了研究・制作展」でも「書き時計」の実物が展示されていたが、訪れることができなかった多くの人から再展示の要望を受け、今回の東京での展示が決定したという。

「東北芸術工科大学卒業・修了展 東京展」の中で展示される「書き時計」は、会期中毎日、作者本人がデモンストレーション時間を設定するという。その時間以外は静止状態での展示となるため、注意が必要だ。

デモンストレーション時間(予定)
10:30-10:45
11:30-11:45
12:30-12:45
13:30-13:45
14:30-14:45
15:30-15:45
16:30-16:45
※状況により、入場を制限する場合があります。
※上記の時間と回数は変更する場合があります。

東北での展示でも、「書き時計」の反響もあってか展示会には6日間で1万4千人以上の来場者を記録したとのことで、東京でもデモンストレーション時間によっては混雑が予想される。

上の記事のリンク
Posted at 2016/02/19 18:59:25 | コメント(2) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年12月18日 イイね!

「閑話雑記」(かわさき)より再録おもしろ話。③最終回。

  「飲水に悩んだ川崎と二ケ領用水」

   多摩川の流れに接していながら意外なことに川崎は長い間飲水に不自由していたのです。
   大師や田島地区ではなんとか飲める井戸水が汲めたのですが旧川崎町の井戸は組み上げてもしばらく置くと真っ赤なさびが出る状態でした。
   「川崎市水道史」によれば大正4年の水質検査では六〇〇余りの井戸の内五百数十までが飲水としては不適当で残りの井戸も「濾せばなんとか飲める」程度だったようです。
  
   多摩川の水も海水が交じるために飲料には適さず結局頼りになるのは「二ヶ領用水」(にかりょうようすい)ただひとつでした。この用水から水を汲んでは荷車に乗せ各家庭の水瓶に配達する「水屋」という商売があって水屋が人々の命を支えていたのです。江戸時代から町営水道が完成する大正一〇年まで水屋は川崎の名物でした。
   ただ水屋が運んだ「二ヶ領用水」というのは農業用水でした。
  
   市内北西部から今の川崎駅前あたりまではるばると流れてきた「二ヶ領用水」の水を汲み上げてはこれを売り歩く「水屋」という商売が川崎名物と言われた時代だったのです。
   このように井戸の水質が悪いのに加えて農業用水を飲水にするとあっては伝染病にかかる者が一年中絶えなかったのも無理のないことです。中でも腸チフスは川崎の風土病のように思われていてそのころ腸チフスにかからない者は川崎っ子ではないなどとあまり自慢にもならないことが言われていたのでした。
  
   大正五年ごろ川崎の工場で働く労働者の多くは東京や横浜方面から電車で通勤せざるをえませんでした。
   あまりに急激に増加した労働者人口に川崎の住宅事情がついていけなかったというのがその原因ですがどうもそればかりではなかったという話もあります。いくらでも金を出して川崎に住宅を都合できた高級サラリーマンでさえわざわざ川崎を嫌って遠くから電車通勤していた例が多いからです。
  
   嫌われた原因は当時の川崎にまだ水道がなかったことにあります。
   海に近すぎるせいか井戸を掘っても飲むに適した水は得られず用水堀だけが頼りの町だったのです。
   「フナやメダカじゃあるまいし用水堀の水が飲めるか」
   そう言われてもしかたのないようなそのころの川崎でした。
   大正五年当時でさえ川崎にはまだ水道がなく用水堀の水だけが人々の生活を支えていたのです。
  
   中原地区の宮内で多摩川の伏流水をとり戸手の浄水場まで送ってそこから旧川崎町に配水をしようという計画がもちあがったのが大正五年のこと。そして大正十年には悲願の水道がついに完成。これが川崎における本格的な水道のスタートでした。
   旧川崎町に水道の引かれる以前の大正九年の統計では赤痢、腸チフスなどの伝染病患者は年間一五九人の多さに達していました。それが水道施設後の大正一二年になるとわずか二四人に減っているのです。水に悩まされていた川崎の事情がいかにもよく現れている記録です。
   (以上 「閑話雑記」よりの抜粋)
 

       川崎市の位置。東京都と横浜市の間にある。東京都との境界が多摩川である。

東京湾の海に面した工業地帯の川崎区の拡大図。工場や倉庫などが立ち並び日本の昭和の高度成長を支えた。多くの労働者が働いた町である。

   
   「閑話雑記」には水道についての話が多く掲載されている。
   ここに紹介した「飲水に悩んだ川崎」はいくつかの話を併せて多少の手直しをしたものである。
   農業用水の「二ヶ領用水」を飲水に使うしかなかった時代の苦労話がさまざまに語られている。
   飲料には不敵なのだがもともとこの「二ヶ領用水」こそが川崎市の背骨なのである。
   「閑話雑記」にも「「二ヶ領用水」」についての話が実に15回も連載されておりいかにこの人工の用水が川崎にとって重要な存在であったかがわかる。
   川崎市を貫くこの二ヶ領用水はは多摩川を水源として主要部分の全長は32キロメートルにおよぶ。
   川崎市というのは大雑把に言えば、上流の川崎市多摩区(上河原堰・宿河原堰)から下流の川崎市幸区まで「二ヶ領用水」を取り囲むように形成された細長い地形の地域である。
    この用水は神奈川県でもっとも古い人工の運河水路であり一四年かけて江戸時代初期に作られたものだ。
    「多摩川は洪水のたびに流路を変え、しばしば農民を悩ませていた。治水と農業用水の確保を目的として、江戸に入府した徳川家康の命により、代官の小泉次大夫吉次が二ヶ領用水の開削を指揮し、1611年(慶長16年)に完成した。」((Wikipediaより抜粋)
  昭和19年10月市電が開通。44年3月廃止。川崎駅前(川崎区/昭和42年頃/市民ミュージアム所蔵)














「わが街・かわさき」
「川崎映画街で・映画看板と靴磨きのお婆さん。」
川崎区小川町付近 1956年6月10日
小串嘉男さんの撮影。















わが街・かわさき
「サンドイッチマン」
川崎区川崎駅前 1954年1月1日
小串嘉男さんの撮影。
近くにあるストリップ劇場の宣伝であろうか。















わが街・かわさき
「宝くじ当選番号を見る人」
川崎区小美屋デパート前 1954年1月1日
小串嘉男さんの撮影。



昭和14年に閉園した向ケ丘遊園。右上には豆電車に替わって導入されたモノレールが(多摩区/昭和42年/市民ミュージアム所蔵)


    現在では下流の港湾沿岸を中心に工業地帯になっている川崎市だが江戸時代は多摩川に沿って貧しい農家が点在するさびれた村の連なりだった。
    「崎」というのはもともと「細長い土地」という意味である。川崎というのは川のそばに細長く続く土地という意味であろう。じっさい多摩川にそって川崎市はうなぎのような形をしていると言われる。
    江戸時代に現在の川崎市にあたる村々は多摩川の氾濫に悩まされた。せっかく開墾した痩せ地も多摩川の水が溢れればたちまち泥流に押し流されてしまう。この暴れ川を制御するにはまず氾濫する多摩川の縁に水量が増えても大丈夫なように堤防を築かないといけない。そして堤防の内側には農業用の水路を多摩川から引き込まないといけない。
    この大土木事業を指揮したのは地元に赴任してきた徳川幕府の代官である小泉次太夫である。
    小泉次太夫は大堤防を築き洪水を防ぐとともに、その内側に人工の水路である「二ヶ領用水」路を穿ったのである。この工事は慶長2年の測量からはじまり14年後の慶長16年に竣工した。
    こうして川崎の農民は悲願だった安定した農作地を手に入れたのである。この用水路にそって農地開拓は進み海辺の干拓地までも農地に変えていくことができたのである。

   歌川広重、川崎、六郷渡船の図。
       樹木の茂る画面上部が川崎。右手遠方に富士が見える。
       渡っている川は多摩川。江戸日本橋から東海道53次の最初の宿場は「品川」であり、二番目がこの六郷の渡しを渡った「川崎宿」であった。画面では近そうだが実際はもっと広い。ちょうど毎年箱根駅伝で一区区間の最後の勝負どころが多摩川を渡る「六郷橋」だが江戸時代の六郷の渡しもほぼ同じ辺を舟で渡ったのである。

     「武州六郷渡船図」明治元年。 魁斎芳年画

明治天皇の東賀東幸は慶応4年(明治元年・1868年)の秋に行われた。一行総勢2800人は9月下旬に京都を発ち、川崎宿には10月12日に到着した。兵庫本陣で昼食をとった後、六郷川(多摩川)に特設された船橋を渡り、当日は品川宿へ泊まり、翌13日に東京城へ入った。この六郷川を渡った様子を魁斎芳年が浮世絵として残している。 多摩川に川崎側から江戸の六郷川岸までズラッと船を浮かべその上に板を敷いて架設の橋としたものである。画面の上が川崎。錦の御旗を掲げてトコトンヤレトンヤレナ・・・と隊列を組んで渡り江戸城へと向かったのであろう。


    だがこの貴重な用水路「二ヶ領用水」は村々への給水は複雑多岐にわたる水路で行われた。その利用をめぐって農民の間に争いを生むことにもなった。とくに渇水の時期には農民の難儀は筆舌に尽くしがたいものがあり水争いが過激化し紛争も度重なった。用水下流の農家はなんども代官所へ水を回してくれるように嘆願書を出したという記録も残っている。
    そうした水争いの中で最も大きな事件が文政4年に起こった。
    この話を「閑話雑記」より引用してみよう。
   
    今から150年ほど昔の文政4年この年は春から雨らしい雨が降らずこのままでは首をくくることになると用水下流の農民は代官に宛てて必死の嘆願書を出しなんとか水の割当を増やすことに成功したのでした。
    しかしいくら待っても肝心の水が来なかったのです。調べたところ用水の差配を行っている溝の口の村名主の鈴木七右衛門が久地の分水地点で川崎堀口に筵をかけてそのぶんの水を自分の田に流していることがわかったのです。
    堪忍袋の緒が切れた農民は七月六日真夏の太陽が照りつける中を手に手に鎌、鋤、鍬、槍、鉄砲まで持ちだして溝の口に殺到、その数なんと1万数千人と伝えられています。
    鈴木七右衛門の屋敷をめちゃくちゃに打ち壊してしまうという時の幕府をびっくりさせた大騒動でした。
    これがニヶ領用水の長い歴史のなかでも最も大きな事件と言われる「幕末の溝の口水騒動」です。
   










現在の「二ヶ領用水」。春は桜の名所として大勢の花見客で賑わう。


         二ヶ領用水・船島鉄橋を走る205系1200番台電車
          (2006年3月29日撮影、宿河原駅 - 登戸駅間)


  農業用水であると同時に「二ヶ領用水」はまた周辺に生きる人々の飲水でもあった。   
    大正一〇年に旧川崎町へ水道が引かれるまでは川崎市は水質の悪い井戸かこの二ヶ領用水の農業用水を飲料水につかうほかない状況だった。そのころの川崎市はまだ市に水道を引く経済力がなかった。
    そのために病気も蔓延した。
   「川崎町では1921年(大正10年)6月に待望の水道が敷設された。それ以前は二ヶ領用水の水を生活用水として使用していた。そのため1886年(明治19年)のコレラ流行時には、川崎町で患者60人のうち40人が死亡、大師河原村で53人のうち43人が死亡、橘樹郡内では338人の患者が発生、そのうち254人が死亡していた。市の合併話はこの水道敷設から現実味を帯び、大正11年には大師河原村と御幸村への給水が開始されたことをきっかけに、3町村は合併、1924年(大正13年)に川崎市となった。」(Wikipediaより抜粋)
  
   大正時代、水道をつくろうという話がきっかけになり近隣の市町村が合併して川崎市が生まれたのだ。
江戸時代には農業用水の「二ヶ領用水」で恩恵を受けてまとまり、近代においては水道架設においてひとつの市として生まれ変わった川崎市。
   いずれも結束の絆は奇しくも「水」である。そして水はまた争いの元ともなり病気の元にもなった。
   京浜工業地帯の一部になってからはニヶ領用水は農業用水ではなく川崎工業地帯の工場の工業用水へと利用先が変わり川崎市の発展へ寄与してきたが反対に農地は減っていった。
   川崎に暮らす人々は昔から農業用水そして飲料水、工業用水と「二ヶ領用水」を通して多摩川の水を利用することで生きてきたのだ。
   いまも川崎市を流れる「二ヶ領用水」はこの地で生きてきた人々の喜びも悲しみも苦しみもまた希望も夢も、それらすべての姿や時代の移ろいを水面に浮かべつつ今日も川崎の空の下を静かに流れているのである。
  
 川崎区と千葉県木更津市を約15分で結ぶ東京湾
           アクアライン。  (写真提供:NEXCO東日本)





◯関連情報URL◯

「二ヶ領せせらぎ館」

関連情報URL : http://www.seseragikan.com/
Posted at 2015/12/18 13:37:59 | コメント(3) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記
2015年12月16日 イイね!

「閑話雑記(かわさき)」より再録おもしろ話②

前回は川崎市加瀬の「白山古墳」のそばで発見された「秋草文壺」についての話だった。
この「白山古墳」を発掘したのは慶応大学だったが実はもう一つのエピソードがある。それが今回の「1500年前の杉の実」という話である。

「1500年前の杉の実」

「白山古墳」(幸区南加瀬)発掘の副産物ともいうべきもののひとつに「杉のたね」があります。
棺を覆っていた粘土の中から見つかったのもです。「ひょっとして発芽するのでは・・・」発掘にあたった慶応大学の研究室に持ち込まれいろいろな努力がすすめられました。
そしてついに発芽。実に1500年という長い眠りから覚めて小さな芽を出したのです。
いまから40数年前のことでした。
このニュースは世界中に報道され人々はあらためて生命の神秘に目を見はったのです。
英国の王立植物園からぜひわけてほしいと申し出があるなど当時学界の話題をさらったこの杉の苗は戦争の始める頃には数メートルの高さに成長しました。
しかし終戦後、日吉の慶応校舎を接収した進駐軍はブルトーザーを使って容赦なく校庭を地ならしし貴重な杉もこのときに根こそぎ葬られてしまったのです。



 「閑話雑記」の話は以上である。1500年も前の杉が蘇ったにも関わらず残念なことをしたものである。当時はそういう学術的にも貴重なものも保存なぞ到底できない占領下のどさくさだったのだろう。日吉キャンパスの接収にしてもいきなり武装した進駐軍がGHQの紙切れ一枚持ってきて「日本人は即出て行け」というような乱暴なものだったようだ。

 以下はこの話にまつわる余談でである。
 実は慶応大学日吉キャンパスは戦争末期に海軍の施設がたくさんおかれたのである。最初は情報収集を行う軍令部第三部が入ってきた。だが太平洋戦争の戦局が悪化し、1944年9月29日連合艦隊司令部が旗艦である「大淀」から慶應義塾日吉キャンパスに移ってきた。
  そして終戦まで日吉キャンパスは連合艦隊の司令部になったのである。
   10月の「台湾沖航空戦」「レイテ沖海戦」の作戦命令、翌年45年4月6日の戦艦「大和」の出撃命令などはこの慶応大学日吉キャンパスの連合艦隊司令部から発せられたのである。

 空襲に備えて校舎の地下には堅固な地下壕の司令部も掘削されていた。

   戦後は日本を占領した進駐軍が日吉キャンパスを接収。敷地にはカマボコ型の兵舎がつくられ連合軍兵士の宿舎となった。この兵舎整備の作業のなかで白山古墳で発見された杉の実から蘇った杉も消滅したのである。

          地下壕の入り口。

       地下壕の司令部。

 
  http://www.jiji.com/jc/movie?p=mov446-movie03
   「慶応大学日吉キャンパス」
   戦時中に「連合艦隊司令部地下壕」が置かれた。地下壕見学の動画あり。  


 
 ◯関連情報URL◯
   「多摩の史跡を歩く」川崎市幸区 加瀬台古墳群
 

Posted at 2015/12/16 19:21:11 | コメント(1) | トラックバック(0) | 四方山話。 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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