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角鹿のブログ一覧

2014年12月31日 イイね!

木辻遊郭跡を歩く。

 かつては、奈良町のランドマークだった元興寺の五重塔跡地の見学を終えて、瓦屋根の民家の間を南に歩く。奈良町風情といえば、黒瓦と格子戸造りの家並みである。
 「格子戸の家」という、純然たる昔の奈良家屋を公開して見学できる施設もある。
 

 ◆商家だった家には、昔の看板が、残っている。
 
 奈良町の昔ながらの格子づくりの町家が続く道を歩いていくと、ものの5分ほどで、道の向こうにアーチのような、道路をまたぐ空中の看板が見えてきた。たまたま、坂の上から、ゆるやかな勾配で下っていく先に、その看板が見えた。
 赤い下地に「ビッグナラ」と、白い字で抜けている。
 
 ◆かつての、木辻遊郭の大門だった場所に、スーパーの看板がある。


 ◆スーパー「ビッグナラ」の入り口にある地蔵堂。



◆スーパー「ビッグナラ」。赤く塗られた外観が、「青丹よし」の奈良カラー、を思わせる。 

 「ビッグナラ」というのは、地元のスーパーさんだ。入り口の脇の、お地蔵さんのお堂があるなど、奈良の下町情緒が濃厚に漂っている。二階建てで、正月前とあって、店内はけっこう賑わっていた。
 このあたりが、木辻町という場所で、日本最古の遊郭と言われる「木辻遊郭」のあった場所である。元興寺から、歩いてきたのは、実は、木辻遊郭と元興寺とは、古い因縁があると、言われているからだ。もともと、ここに遊女を集めた遊興地ができたきかっけは、平城京遷都に伴い、飛鳥にあった法興寺が、この奈良町に移転してきた。
 その、建築工事の工事人足たちを目当てに、建築現場とほど近い、木辻に遊女が集まる一画が形成され、それが、次第に遊興地として形成されていったと思われる。
 元興寺が、奈良町に建設されるのは養老二年(718年)と言うから、いまから、1300年ほど前の話である。
 
 ◆格子戸のある民家の風情。
 
 平成22(2010)年は、平城京への遷都が行われて1300年になる記念の年だった。それまでの都だった、20㎞ほど南に位置する藤原京(いまの、奈良県橿原市あたり)から、和銅3(710)年3月、に、都が平城京(いまの、奈良市)へ移されたのである。これが、1300年前のこと。都が移り、橿原に近い飛鳥の地にあった法興寺が、奈良町へ移り、そして、木辻に遊女が集まって遊興地となった、ということになる。
 1300年前の都がそっくり残っており、その中の遊郭のあった町が、いまも、残っており、その場所を実際に訪ねることができるのである。まことに、驚くべきことかもしれない。世界中探しても、こんなに歴史の長い国は、日本以外には、ありえないだろう。
 法隆寺の五重塔にしても、7世紀末から8世紀初めの建立とされており、やはり、1300年も、倒れることなく立ち続けているのである。しかも、木造建築物である。
 この、地震の多い日本において、阪神淡路大震災で、コンクリートのビルが倒壊するなかで、法隆寺の五重塔は、びくともしなかった。その結果、とんでもない、耐震構造が五重塔に秘められていることが、いま、だんだん解明されつつある。


 ◆遊郭にはつきものの、銭湯が、いまも営業している。
   
 さて、元興寺はじめ、南都七大寺が建立され、平城京は日本で最も華やかな都となる。それとともに、元興寺の門前に位置する木辻界隈も、聖俗の屯する悪所としての賑わい続けていたと思われる。
 木辻だけではなく、奈良町には、五カ所・十座とよばれた声聞師集団の住まう場所があちこちにあった。声聞師というのは、陰陽師などを兼ねる一種の芸能者であるが、この配下には、遊女も兼ねる白拍子もおり、のちの遊郭のはしりとなったと言えよう。
 近世になると、木辻は遊郭、傾城町としての形がはっきりと整ってくる。
 江戸前期の延宝8年(1680年)ころに完成した『色道大鏡』には、「南都の傾城町は、木辻鳴川といひて、縦横にあり。」と、書かれている。


◆木辻町で見かけた魚屋さん。スーパーの近くで、いまも、営業している。

 また、天保の改革の行われた天保13年(1842年)、風紀取り締まりのために奈良奉行所が木辻町へ「木辻町遊所御免之始」(注・木辻の遊郭はいつごろできたのか?)という問い合わせている。これに対する回答書面が残っているが、木辻町は、「町内には確かな書類も残らず「御免之、年暦」(注・遊郭の免許を下された年月)は不明であるが、言い伝えによると元和年間(1615〜24に遊廓が設置された」と、回答している。
 
 ◆昔のままの景観が保存されている奈良町の通り。
 
 このあたりのいきさつについて、井岡康時氏の論文「奈良町木辻遊廓史試論」には、「奈良奉行として奈良町政を担当した中坊秀政の治世の時代であり、幅はあるものの、中坊によって町政の基盤が築かれていくなかで散在していた遊所が整理され、木辻に集中させる形で遊廓の設置が公認されたと想定できるのではないだろうか」と、推察している。
 ただ、このときの木辻遊郭の範囲だが、木辻町だけでなく、北側に位置する鳴川町も含まれており、地理的に言えば、正確には、「木辻・鳴川遊郭」とすべきものである。
 実際に、鳴川町も歩いてみたが、木辻町とあわせると、かなり広大な地域となる。
 「ビッグナラ」のアーチ看板は、かつて、遊郭の入り口を示す大門の跡、である。
 昔の遊郭は、周辺の町家と区別されて仕切られており、ただ一箇所、大門だけで、出入りした閉鎖的な空間であった。いわば、遊郭は、別世界であり、つかの間の夢を買う仮想空間、現実を忘れさせてくれる劇場空間であった。
  江戸時代の後半になると、木辻遊郭の力が拡大し、奈良町だけでなく、郡山城下にまで、支配力が及んでいる。
  いまの、大和郡山にある、東岡町と洞泉寺町の煮売屋が、遊女を置いて遊郭としての営業をするについて、木辻遊郭の許可が必要となり、木辻から遊女を貸し出したり、世話料として、白銀30枚を郡山から木辻に払わせている。
  大和の色街、木辻の名前は、広く知られ、井原西鶴の書いた『好色一代男』にも、木辻の名前が出てくる。
  
  ◆かつて、木辻遊郭だった通りには、いまも、当時の家屋が残る。
  さらに、明治時代になっても、木辻町は遊郭営業を続けていた。
  ちなみに、明治14年、大阪府が管轄していた大和国の貸座敷の営業許可区域をみると、「添上郡奈良ノ内、元林院町、木辻町、添下郡郡山ノ内東岡町、洞泉寺町」と定めている。この地域が、明治以降においても、主な遊興地すなわち、遊郭であった。ただ、この中の、木辻町は、正確には、鳴川町も含めて、木辻・鳴川遊郭、である。
  いまは、もう、そのような営業をしている店はない。当時を偲ばせるのは、それらしい家の造りをした民家であり、町の佇まいである。「ビッグナラ」の看板から、ほど近い場所で、和風旅館を営業している「静観荘」がある。この、旅館の建物は、昔の遊郭の雰囲気をいまに残している。かつては、こういう感じの置屋が、軒を連ねていたはずである。



◆和風旅館「静観荘」。かつて、遊郭だった建物が、残されている。とくに、玄関のあたりの造りには、趣がある。



◆「静観荘」のある坂道の光景。木辻遊郭の中心部である。

  「ビッグナラ」のアーチ看板の坂を上ったところに、「称念寺」というお寺がある。
  江戸の亨保年間に書かれた『奈良坊目拙解』(村井古道)には、このあたりは竹林であり、いまの「称念寺」は、名も無き辻堂というい寂しい場所であったが、この場所にあった茶屋が、一人、二人の遊女を置くようになってから、次第に、傾城町へと変貌していった、という記述がある。したがって、「称念寺」あたりが、木辻遊郭の発祥の地と、言ってもいいのかもしれない。

  
 ◆木辻遊郭の古い文書にも出てくる「称念寺」の門。 


 「ビッグナラ」の看板のある四つ角に、一軒の本屋がある。この、本屋もかつての遊郭の一軒なのだろうが、ひときわ異彩を放っている。それは、店の外に、モノクロコピーで、グラビアアイドルの写真などが、ベタベタと、張られている。アイドル写真と並んで、興福寺の手が6本ある阿修羅像の拡大コピーもあるなど、ビジュアル構成が実にユニークだ。
 


 
 ◆木辻の古書店。独特のビジュアルで、目を楽しませてくれる。
 
 そうしたビジュアルの合間に、人生訓とか、今日の言葉とか、生きるとは、詩、など、手書き風の教訓風の張り紙がある。家の外側が、そういう張り紙で埋め尽くされている。わずかに狭い店の入り口があるのだが、その内側も、積み上がられた雑誌などで、一杯であり、とても、入れそうもない雰囲気なのだ。店自体が、何かを主張してやまない古書店が、かつての、木辻遊郭跡の、辻の一角に存在している。
 この、「ビッグナラ」の看板を見上げる辻の一角だけが、かつての悪所の入り口のような、妖しげな風情を湛えていた。
 古本屋の名前は「やすらぎ書房」とある。
 いま、木辻に遊郭はないのだが、このうそ寒い浮世の浮き沈み、その中で、つかの間の安らぎを求めたい男が、いなくなったわけではなかろうものを。木辻郭の灯は絶えたとて、この、辻の古本屋がありんすえ。店外に張られた色褪せた張り紙のなかで、グラビアアイドルたちは、「それでも、人生、頑張って」と、声をかけるかのようである。雨ざらしにされて、かすれたインクの表情が、妙に艶めかしく、アイドルたちは、通り過ぎる人々を、物言わず、ぢっと見つめている。



 遊郭といえば、店の中で、女たちが、思い思いの格好で、表を通る人に愛想笑いを投げかけている光景が目に浮かぶ。それを、冷やかしながら、男たちが通り過ぎて行く。そんな、郭の光景も、今は昔。すっかり、住宅街に変貌した木辻の小路で、「なんか、文句あるの!」と、挑戦的な眼をした現代の白拍子、アイドルちゃんたちの個性的な相貌(かお)が、古本屋の壁で、存在感を示している。
 地元では、この存在は、評判いいのか、不評なのか、それは知らないが、やや傾き加減のこの家屋は、「ビッグナラ」看板とともに、いつまでも、消滅しないでいてほしいものだ。 
 


 ◆グラビアアイドルが、見つめてくれる。現代の白拍子なのか。
 ここから、南に少し歩けば、京終(きょうばて)町だ。桜井線の無人駅の「京終」(きょばて)駅がある。このあたりは、平城京の終わり、京の終(は)てる場所なのである。 
  今日は、これで、奈良町をじぐざぐに歩きながら、縦断したことになる。 
  京終駅の線路を渡ると、小川が流れていた。土手には、小径があり、その上にひろびろとした澄み切った冬の青空が広がっていた。

  
  ◆南京終町を流れる小川。旅の終わりに冬枯れた土手の小径を歩く。
  
  江戸時代までは、ここから、奈良町の方向を眺めたら、ひときわ高くそびえる、あの元興寺の五重塔が見えたはずだ。
   その光景を思い描いてみたが、何も浮かんではこない。
   ただ、いっさいの感傷を洗い流すように、真冬の冷たい風が、吹き抜けていくばかりだった。
   冬の日は短く、はやくも家々の庇の陰には、夜の帳が佇みはじめていた。 
Posted at 2014/12/31 13:56:41 | コメント(2) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2014年12月30日 イイね!

元興寺の大塔遺構。

 奈良町の案内所がある。小さい建物だが、奈良のおみやげものや、奈良町のパンフレットなども、置いてある。係員のお姉さんが、常駐していて、観光客に、いろんな情報提供も、していただける。
 私は、「元興寺」(がんこうじ)を見物しようと、思っていた。この近くにあるだろうと、感じていたが、よくわからない。で、元興寺への行き方を軽く聞くつもりでいた。
 そのとき、ふと、単純に聞くのは、つまらない。ちょっと、ヒネって聞いたら、どうだろうか、とおっさんのくだらないアイディアが閃いた。



◆景観を保存する奈良町の家。メーターにも、こんな工夫が。

 受付というか、案内係ときうか、カウンターのような中には、若いお嬢さんがいた。
「あの・・・・」
「はい」
「このあたりに、頑固なお寺があると、聞いたんですが・・・」
「はあ?」
「え、その・・・頑固なお寺、の場所を、聞きたいんですが・・・・・」
「元興寺ですか?」
 簡単に、当てられてしまった。
 そこで、「あ、そうか、頑固なお寺って、元興寺のことだったんですかね、はは・・・・・いや、頑固なお寺って、聞いたんで・・・はは、元興寺だったんですねえ」とでも、言えば、それで、よかったんだろう。それにしても、かなり、つまらない、オヤジギャグには、違いないのだけれど・・・・。
 なんとなく、着地点が見つからないまま、また、言ってしまった。
「頑固なお寺って、聞いたんで・・・・」
 お嬢さんは、あくまで、真面目であった。
「どんなふうに聞かれたのですか?」
「頑固なお寺と・・・」
「・・・・・・」
「というと、 元興寺って、お寺があると・・・・」
「はい、ございます」
「じゃあ、どういう風に行けばいいので・・・・」
「すぐ、この先の角を曲がっていただければ、すぐです」
「あ、なるほど、そうですか、はい、わかりました」
 地図をもらって、案内所を退散した。



◆元興寺の近くには、古い商家もある。ここは、「蚊帳」を商っていた店。

 きっと、お嬢さんは、つまらないオヤジギャグを、一応は、分かったけど、あまりに、つまらないので、まさか、そんなことを、本気でいう人がいるのか?と、不思議に思われたのかもしれない。あるいは、バカバカしく思われたのかもしれない。
 こんなことを、書いていて、ほんとに情けなくなる。
 気を取り直して、案内所を出て、次の角を、右に曲がると、ほんとに、すぐに元興寺があった。奈良町の、ど真ん中に、元興寺はあった。


◆元興寺の入り口の看板。



◆極楽坊本堂。拝観料を払えば、中に入れる。



◆本堂への門。

  元興寺は、南都七大寺の一つと、聞いていたので、さぞかし、壮大なお寺かと思っていたら、拍子抜けするほど、質素な景観である。なんと、これが、元興寺。
  南都七大寺とは、奈良時代に奈良の都の平城京と、その周辺にあり、朝廷の庇護を受けた寺のこと。
  寺院名は、次の七寺だ。
興福寺(こうふくじ、奈良市登大路町)
東大寺(とうだいじ、奈良市雑司町)
西大寺 (さいだいじ、奈良市西大寺芝町)
薬師寺(やくしじ、奈良市西ノ京町)
元興寺(がんごうじ、奈良市中院町、芝新屋町)
大安寺(だいあんじ、奈良市大安寺)
法隆寺(ほうりゅうじ、生駒郡斑鳩町)
 このうち、法隆寺は、平城京からは、少し遠いのじゃないか、ということで、唐招提寺を入れて、七大寺とする説もあるようだ。


◆境内にある地蔵などの石碑。



◆「扇塚」という石碑もあった。

  この中で、元興寺は、もともとは、五八八年に蘇我の馬子により飛鳥に建立された日本最古の本格的仏教寺院である法興寺が前身である。その後、平城京への遷都により、藤原京の諸大寺が奈良へ移り、法興寺(飛鳥寺)も、養老二年(七一八年)に、奈良へ移り、寺号も、元興寺と、改めた。「元興寺縁起」というパンフレットには、そのように、元興寺の沿革がしるさている。


◆境内は、きれいな敷石が物音を吸収し、その静寂感が古への追憶を誘ってやまない。

  最初は、とても広い敷地を有し大伽藍を擁していたが、なぜか、平安時代に入ると寺の勢いを失い、次第に寂れていったという。南都七大寺のなかで、唯一、衰退していったの理由は、なんだったのだろうか。今の、奈良町全域の大部分が、かつての元興寺の境内だったことがわかっているが、いまは、奈良町の町家の中に、元興寺は二箇所に別れて、埋もれてしまっているのが、現状である。もし、元興寺が昔のままであれば、逆に、奈良町自体が存在していないことになる。


◆元興寺案内図。飛鳥時代の瓦なども温存されている。

  最初に、中院町の極楽坊本堂を見学した。
  ここは、国宝に指定されているそうだ。観光客も多く、飛鳥時代の古い屋根瓦などに、往時の隆盛ぶりを偲ぶことができる。



◆五重塔のあった芝新屋町「元興寺」の入り口の門。小ぶりながら重厚感がある。

  次に、かつて、五重の大塔がそびえていたという芝新屋町の元興寺を見物した。
  先に見た中院町の極楽坊本堂のほうも、元興寺という。奈良町には、元興寺という寺が、二つあるようなのだ。しかも、両方共に、奈良時代創建された元興寺の境内の一部でしかない。言ってみれば、かつての七堂伽藍を誇った元興寺の、一部が、分断された二箇所に残存しており、往時の名残を、いま残る建築物や遺構に、見ることができるという感じだ。
  こちらは、五重塔のあった場所なのだが、五重塔はすでにない。安政六年(1859年)に焼失した。ただ、ここにあるは、奈良時代からの創建遺構であり、五重の塔の、基盤となった一七個の石の基壇がそのまま、残っているのだ。



もう一箇所の元興寺。奥に、塔の立っていた場所が見える。



高さ57メートルもの巨大な五重塔のあった場所。基壇の石だけが、残っている。

  もし、五重塔が立っていれば、絶対に見ることのできない基壇石の全貌が、はからずも、顕になっている。見てはいけないものを、見てしまったのではないか。そんな気にもなったが、この際、めったに見ることのできない、基壇の石である。しかも、一三〇〇年ほども、昔の、その当時のままの、基石である。これは、貴重な眺めではないか。そう思って、じっと、眺めているうちに、風雪に耐えて、この場に居続けている石の表情、佇まいに、だんだん、圧倒されてきた。この、感覚はなんだのだろうか。ただの石であるが、それだけではない圧倒的な存在感があるのだ。
  石の基壇の佇まいは、いまはなき塔を、いまも支えているようである。
  基壇の石たちは、地に埋もれながら、ときおり鳥の飛ぶ澄み切った冬空を、じっと見上げていた。その風情は、失われた五重塔という主人の帰りを、いつまでも待ちつづける忠犬ハチ公のごとくであり、いじらしいほど、疑うことのない剛直一直線の石の眼差しを、私は感じることができた。
  いつか、天空から五重塔が、舞い戻って降臨し、待ちわびたこれらの基石の上に、どっしりと座る日の、そんな奇跡を見てみたいと、思った。


◆境内には、地蔵を祀る祠があった。

  この塔は、高さ72・7メートルあったと、伝えられているが、実際には、57メートルだたっと、先のパンフレットには書いてある。いずれにせよ、東寺の塔よりも高かったというから、とんでもなく高い塔だったことは間違いない。
 なにもないだけに、かえって、石の基壇の表情に、往時、空間にそびえ立っていた大塔が想起させられて、感慨深いものがあった。
 栄枯盛衰は、世の常だが、その名残りの跡を見れば、諸行無常諸法無我、何人も抗うことのできない無常の理を、まざまざと、実感させられる。
 さほど広くない境内も、冬枯れの立木が、寒風にさらされているばかりである。
 侘びしさ、などという言葉が、そこはかとなく思い浮かぶ、今は昔の風情を味わわされた。それが、元興寺五重塔遺跡の見物後の、正直な感想である。



◆元興寺縁起をしるした銅板。かつて、北門が、猿沢池の南側にあったというから、その広大さに驚かされる。そして、現在地の近くには、南大門があったという。間違いなく、元興寺は、北の興福寺、南の元興寺と、並び称せっれた南都最大寺であった。

  正岡子規の俳句が、パンフレットに載っている。
  「虫鳴くや 七堂伽藍 なにもなし」
  たしかに、そうりゃあ、そうだよなあ、もう、南都随一を誇った七堂伽藍は時の彼方に消えていったのであるよ、でも、それをいっちゃあ、おしめえよ・・・・・・・、ひねりもなんにもねえ、そのまんまの、俳句だねえ。
 いかに、そのとおりだとしてもさ、やはり、その、さはさりながら、なんとか、もうすこし、詠みようは、あったんじゃねえのかい、できなかったもんかねえ、と、正岡子規に、未練がましい突っ込みを入れてみたくもなる、一句ではあった。


◆元興寺五重塔。
 記録に残る図面など。石垣:9間2尺四方、柱外法:5間2尺5寸四方(9.65m)
一重目軒:12間2尺8寸  露盤:8尺四方、真木:・・6間2尺(?)、真木:神代木、真木長さ:40間通り木マハリ:1丈5尺  水煙長さ:8尺、輪指渡し:6尺、覆鉢高さ:4尺、指渡し:4尺5寸
壇上ヨリ玉マデ総高さ:24丈(72.7m)。

  だが、正岡子規の句の、とおりなのである。残念ながら、さすが正岡子規である。ここに、立って想うのは、感じるのは、この句にある空虚感、そのものなのだ。万物は流転する。なにもかも、諸行無常なのである。
  ここには、きれいさっぱり、何もない。かえって、何かが残っていることさえ、邪魔なのだ。ただ、ここには、古の追憶だけが、それだけが、あればいいのだ。
  元興寺というイメージの先入観は、すでに木っ端微塵に打ち砕かれた。
  頑固な寺、頑固親父どころか、時のうつろいに、もののあわれを、感じた元興寺見物、であった。ま、これも、リアル奈良、そぞろ歩きの、趣というものであろう。
   

●参考資料●
 元興寺五重塔についての、詳細な記録のサイト。URLを下に追加しました。五重塔基壇の写真などもたくさんあります。
Posted at 2014/12/30 01:39:06 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2014年12月28日 イイね!

二階の古本屋。

 もちいど商店街の中程に、二階へ上がる狭い階段がある。
 その階段の前、横、そして、二階へ上がる階段の片側には、本が山積みになっている。ここが、田原坂の古 本屋なのである。今回だけは、あの古本屋には、寄らないで帰ろうと、深く決意する。奈良へ行くのは、近鉄線を利用する。日帰りの奈良行きなので、荷物を持つ分量は限られている。せいぜい、リュックいっぱいである。そのなかに、古本屋で本を買えば、かさばるので重いし、帰りの近鉄線が混み合えば、置く場所にも困る。
  だが、足が、もちいど商店街に近づくに連れて、だんだん遅くなり、あの二階へ上がる階段を見ると、見ないふりをして通りすぎてしまおうと、心でいくら思っても、足がなぜか、重くなり、階段の真ん前で、止まってしまうのである。
  そこから、ここは、歌の文句じゃないけれど、越すに越されぬ田原坂、と自分の脳内で名付けている関所のような古本屋なのだ。なんか、馴染みの居酒屋についつい、寄って一杯飲みたくなる飲兵衛さんみたいな、話だが、なぜか、この古本屋には、そうした魔力がとぐろを巻いているのかもしれない。
  神田の古書街にも、もちろん、よく通った。せかっく来たのだから、と、神田の古書店を何軒もはしごをする。挙句、買った本を持ちきれず、ダンボール箱に詰めて、近くのコンビニから宅配便で家まで送ることが、多かった。
 本はかさばる上に、重い。本の重さの大部分は、湿気の水分だというが、ほんとだろうか?最近の工業生産の紙がとくに、重い。江戸時代に作られた、和紙の本は、手に取っても非常に軽い。いまも、小唄の本や、絵草紙などを持っているが、ところどころ、虫食いのある江戸本をめくりめくり、挿絵の版画を眺めたりして、けっこう楽しめる。
  さて、この日も、マトンカレーを食べて、見過ごすつもりで、この、もちいどの田原坂へ差し掛かったのであるが、あえなく、撃沈し、足は、勝手に勝手知ったる二階へと、上がっていくのであった。
  年末らしく、階段の上りのとっかかりに、来年の日めくりカレンダーが、飾ってあった。未年の絵が描かれていた。来年は、羊年なのだ。
  ちょっと、見るだけよ、買うのは、ダメダメヨ・・・・・のつもりだったのだが、やっぱり、少しだけ、買ってしまった。
  買ったのは、文庫本中心で、多くはない。多い時は、この店で一五冊から二〇冊くらい買うのだが、それに比べたら、買わないに等しい。
  今回、買った本は、次のようなものだ。

●「吉野葛・蘆刈」谷崎潤一郎 岩波文庫
  こないだから、探していたのだが、出てこないので、また買ってしまった。件の、吉野千本桜という浄瑠璃芝居で、「いがみの権太」の出てくる寿司屋の段、釣瓶寿司屋の話が、谷崎潤一郎の、この小説に出てくるのだ。確実に家のどこかにあるという本を買うのも、癪だが、見つからない本は、ないのと一緒なので、この際、已むをえない。
せめて、この文庫は、紛失しないように、いつでも分かる場所に置いておきたい。それにしても、こんな、狭い書斎の中で、どこに、隠れているのか。考えるだけで、ほんと、ダメだなあと、気分が滅入る。記憶力の衰えを感じる。

●「色街をゆく」 橋下五泉 彩図社
  全国各地に残る遊郭、歓楽旅館の探訪ガイドブックのような紀行文。あまり、詳しくはないが、簡単な探訪の手引本として、軽く読める。
  ちなみに、この本には、奈良編には、木辻と生駒が紹介されている。たった、二箇所だけ、というのが、残念なところである。ほかに、奈良には遊郭の跡が残っている場所として、欠かせないのが、大和郡山だ。ここには、有名な「洞泉寺町」と「東岡町」がある。戦後も、赤線として、営業を続けており、いまも、その家屋が当時の風情を残している。この大和郡山くらいは、紹介してほしかったなと、思う。
  ほかには、「猿沢の池」の側にある勝南院町、元林院町の町筋は、古くから色街として栄えた場所だ。ここは、明治に入ると遊郭の設置が許可される。それ以後、この地は、娼妓も抱える歓楽街となり、大正・昭和初期にかけては置屋16軒・芸奴200人ほどが居た遊興の地であった
  ただ、いま住んでいる人は、昔は、この地が色街だたっというようなことは、あまり好まれない。当然だろうけど。でも、そうだった、ということくらいは、どこかに、残しておきたいというのも、人情である。東京の浅草の川向うに、かつては、永井荷風の小説にも出てくる赤線「玉ノ井」があった。いわゆる私娼窟である。しかし、地元の人は、そういう雰囲気を嫌い、地名も「東向島」と変えてしまった。
 なにもかも、均質化してしまう時代の中で、しだいに消え行く土地土地の風情や風景の記憶。その、一端なりとも、眺めてみたいと、思うのである。よく、昔のものを、保存しようとか、市民運動が起きて、取り壊し反対、などと、デモや抗議集会などを、しているニュースがあるが、なぜか、こういう風俗?に関しては、保存を訴える市民の声が、あがることはない。むしろ、早く消えてしまいやがれ、と、憎まれている日陰の存在なのだろうか?光が差せば日向の裏には、日陰もできる。白い紙にも裏表。陽のあたる表側だけをありがたがり、裏は知らぬというのでは、あまりに、情無しではあるまいか。 

●「自虐ドキュメント 往復書簡」  中村うさぎ マツコ・デラックス 双葉社
 こんな本があることすら、知らなかった。いつの間にか、キワモノがブームらしい。対談集が、これで、二冊目だと帯に書いてあった。二人は、テレビ東京の「五時に夢中」のレギュラー出演者だった。関西では、放送しなかったのかもしれない。この番組は、けっこう、マイナーな面白さがあった。実は、ひそかに、中村うさぎの、愛読者である。これまで、読んだ中でおもしろかったのは、小説「愛と資本主義」。中村うさぎは、現代では珍しい無頼派だと、思う。作家も芸人も、みな、去勢されたようなおりこうさん、常識人間になってしまった中で、中村うさぎは、孤高の無頼漢、我が道を行く。けっこう、茨道なんだけど、そんな、作家はjほかにいない。世間に背を向けているって意味では、まあ、マツコ・デラックスと似たもの同士なんだろうけど、けっこう、マツコは、世間に媚びてるところが鼻につくけど、どうなんだろ。中村うさぎが、マツコの、どこが気に入って、どこが、気に入らないのか、その辺を、この、対談集で見てみたいような気もする。

●「風土」 和辻哲郎 岩波文庫
 昔、読んだことがあるけど、手元にない。文庫本なので、簡単に読めそう。地理の教科書みたいだけど、風土から民族や人間を考察した哲学書っぽい一冊。というか、哲学書だと、されている。人間は、時間的存在でもあるが、同時に、空間的存在でもある、と考えて、その、空間を哲学する意味で、世界の地理を取り上げて、和辻は考察しているのだろう。視点が、独特だと思う。たしかに、乾燥した砂漠で生きている人間と、日本列島みたいな四季のある列島に暮らす人間とでは、宗教から日常感覚まで、違ってきて当然なんだろうし。哲学書は、何が書いてあるかを知るのもいいいんだけど、その書かれたこと、つまり哲学者の思索に触発されて、いかに自分で思索して、自らに問いながら、自問自答しつつ、自分の考えを深めていくことのほうが、大事なんだろうと、思う。

●「日本名僧列伝」 柏原祐泉 薗田香融 現代教養文庫 
  名僧が、それぞれ、なにを瞑想していたのか?そこまで、深く考察して書かれていれば、なお面白いのだけれど、とりあえず、買ってみた。奈良は、神社仏閣だらけなので、奈良の聖地探訪の折に参考になるのではなかろうかと・・・・。

●「鸚鵡籠中記」上巻 朝日重章 岩波文庫
 これは、元禄時代に生きた武士の日常生活をこまごまと書いた日記。当時の武士の暮らしを知るためには欠かせない一級資料。文庫本には、上下二巻が揃いだが、上巻しかなかったので、値段も安かった。自分の仕事だけでなく、殺人、捕物、心中、など世間を騒がせた事件の記述も多く、元禄一五年十二月には、赤穂浪士の仇討ちの件も、書きとどめている。余談だが、こういう日記を読むと、江戸時代の情報の伝達速度は、いま思っているより、はるかに、速かったことがわかる。

●「同和と銀行」森功 講談社文庫
 三菱UFJ銀行大阪淡路支店と同和のドン・小西邦彦の融資をめぐるメガバンクと同和との、大阪府、大阪市行政を巻き込んだ暗闘を抉るドキュメントだ。日本中が狂奔したバブル景気の中で、大阪で、いったい何が起きていたのか。いま、超不景気の中で、あの時代を振り返ってみると、すべては、夢のまた夢の跡、跳んではじけたシャボン玉、なのかもしれない。
   
  ほかにも、買いたい本は、いくつもあったが、一応、眺めただけにした。
  この店は、気さくなお姉さんと、若い男の店員が、二人交代で、店番をしている。今日は、お姉さんの店番だった。痩身で、健康そうな顔色。ざっくばらんな、接客で、一見、劇団の中堅役者のアルバイト、という風情もないではないが、古本業が本業なのだろう。
  いまは、古本屋で、儲かるという時代ではないのに、それでも、頑張っているようだ。もちいど商店街には、ほかにも、二軒ほど、古本屋がある。古書店は、やってみたい商売ではあるが、採算の取れる自信がまったくない。才覚がないので、商売も、会社経営も、とても、無理だ。
  重くなったリュックをかついで、そのまま、商店街を抜けて、奈良町へ入る。
  奈良町の案内所がある。
  そこを、ちょっと、冷やかして、次の見物へ移ることにしよう。
  次の見物目標は、「元興寺」である。奈良町に古くからあるお寺なのだが、その見物前に、案内所へ立ち寄った。
  ここで、若い女性の案内係に、つまらぬオヤジギャクを、言って、結果は、ひょえええ・・・・・・・まったく相手にされない!というみっともない失態を演じるのだが、それは、この次に。
       
Posted at 2014/12/28 20:38:53 | コメント(1) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記
2014年12月27日 イイね!

「鹿肉カレー」談義。

花芝町の皮膚科を出て、東向商店街をぶらついた。
 この、商店街は、観光客も多い。アジア系だけでなく、アメリカ人、ヨーロッパ人も、観光で歩いている。奈良は、国際観光都市というが、その通りである。
 商店街入り口の、柿の葉寿司「たなか」、その並びには、「成城石井」がある。
 柿の葉寿司「たなか」は、奈良の五條市に本店のある名店で、味は折り紙つきだ。奈良の柿の葉寿司といえば、まず最初に名前の上がるのが「たなか」だ。それほど、この店の柿の葉寿司のファンが多い。品質のよさに加えて、販売店網も広く、「たなか」の柿の葉寿司が好きだという人は、ほんとに、多い。とくに、ここの東向商店街の「たなか」は、店員さんの品のいい接待が評判である。こうした、店の雰囲気や店員さんの接客というものも、「たなか」の評判の高い一因だろう。
 もちろん、吉野町住民としては、「やっこ」「瓢太郎」など、吉野山の柿の葉寿司は無監査の別格である。また、地元の「平宗」も愛着がある。吉野町以外では、五條市の「たなか」と「ヤマト」の評価が高い。先日は、下市町の柿の葉寿司「やま十」を初めては食べが、これも力強い味でおいしかった。
 「たなか」の隣にある「城石井」は、ほかに、近鉄・大和八木駅にもある。奈良に、二店舗とは、かなり頑張っている。
 「成城石井」では、自社製のケーキとワイン、生ハムを買うことが多い。だが、ワインは、重いので、たいてい一日の最後、帰る前に買うことにしている。
 この日は、「成城石井」の、斜向かいの、一〇〇円均一ショップ「ダイソー」に入った。
家が寒いので、いったい何度あるのかを計測するために、温度計を三個、買った。ほかには、鈴のついたストラップ、海外で使えるコンセントなど。みな、一個一〇〇円だった。
  その後、南都銀行本店で、現金を下ろそうと、現金自動機のあるコーナーへ入ったが、あまりの人の多さに退散。給料日翌日の26日、それも、12月年末の金曜日だ。近くのコンビニ「サークルK」のキャッシュディスペンサーで、必要な現金をゲットした。いまは、ATMというらしいが、昔は、CD(キャッシュディスペンサー)と呼んでいた。いま、「CDは、どこにありますか?」などと、聞こうものなら、音楽のCD、すなわち、コンパクトディスク(Compact Disc)と、間違われることがほとんどなので、下手にCDなんて、言うことができない。
  ときどきCDが頭に浮かぶが、いや、ATMだな、そう、ATMだぞ、と、脳内翻訳しないといけないので、いささか面倒くさい。JRのことを、思わず「国鉄」と、言いそうになることがあるが、あれと、似ている。こういう話になると、「国鉄の前は、省線と言ってた」という人がいる。たしかに、戦前は、政府に「鉄道省」という役所があって、全国の省営鉄道事業を所轄していた。鉄道省のトップは、鉄道大臣だった。戦後は、国鉄すなわち日本国有鉄道となった。いまの、ヤクルトスワローズの前進は、国鉄スワローズだったことを、覚えている人も多いだろう。
  だが、「鉄道省」があって、「省線」と、呼ばれていた前は、どうだったのか?それは、「院線」と言ったのだが、そこまで、知っている人はあまりいない。言ってみれば、鉄道を所轄する役所の名称の変化に過ぎないのだが、鉄道省の前には、内閣鉄道院という組織があり、そこから「院線」と、呼んでいた時代があった。ただ、院線時代は長くはなく。省線のほうが、人口に膾炙していたはずだ。
  でも、なんで、国鉄が民営化したからといって、JRなんて、横文字にする必要があったのか、いまだに、意味がわからない。
  昭和62年の日本国有鉄道(国鉄)分割民営化に伴い、「国電(こくでん)」に代わるものとして、東日本旅客鉄道(JR東日本)が、「E電」という名称を決めた。だが、こんな言い方をする人は最初からいるはずもなく、「山手線」などの名前で通っている。
 ほんとに、話がどんどんずれて、ほとんど、脱線している。困ったものだ。  
  ATMは、正式には、automated teller machineというらしい。たしかに、現金預入も、払い出しも、振込も、いろいろと機能が多い。文字とおり、銀行窓口のテラーの機械で、日本語訳は、「現金自動預け払い機」という。
  CDは、テラー機能の中でも、単機能しかなく、Cash Dispenserの名前のとおりに、キャッシュを支払うだけだ。「現金自動支払い機」と、言うのだが、いまでは、あまり見かけない。ATMに、CD機能は、吸収されてしまったのだろう。CDという人を、ほとんど、見かけることはない。
  「サークルK」と、その向かい側にある、高速もちつきで有名な草餅屋さんの間の通りが、「もちいどの通り」(餅飯殿商店街)という。少し歩くと、「若草カレー店」があった。カレー専門の店で、いろんな創作カレーがある。
  そろそろ、昼なので、ここで、「マトンカレー」を食べた。マトンカレーは好きなので、
みつければ、必ず頼むが、マトン肉の味が、いまいちな店がほとんどだ。しかし、初めて食べたのだが、この店のマトンは、おいしい。マトンの味がしっかりとしている。辛口のカレーが、マトンとよくあっている。
  この店の主人と、カレー談義をしたのだが、そのついでに、「奈良なのだから、鹿肉カレーなんて、作ってみたら、どうなのか」と、水を向けてみた。主人は、創作意欲は十分なのだが、地元の人の中には、鹿肉へのアレルギーがあり、なかなか、難しいのだという。
 「鹿はここらでは、神様の使いとされており、鹿肉カレーは、絶対にダメだ、という人もいるんですわ」
 たしかに、奈良公園で、「鹿はかわいいね」と、鹿せんべいをあげていた観光客が、今度は、「鹿肉カレー」をおいしく食べる気になるかと、言えば、なかなか、複雑なものがあろう。
 鹿肉についての、多少の薀蓄もないことはないが、マトンカレーをおいしく食したということで、このあたりで、奈良県物第二回目を終了。また、次回へ。   
  
   
Posted at 2014/12/27 19:20:55 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日記
2014年12月27日 イイね!

老女医。

近鉄・奈良駅近くの1000円カットの散髪屋で、髪を切る。
チェーン店ではなく、若い主人が一人でやっている。
奈良に行くときは、この店で、ときどき散髪する。
この店の特徴は、店の雰囲気である。
待合に、新聞や奈良の仏像、奈良の古刹、とか、奈良ラーメン特集とか、奈良の風景・昭和の面影、とか、奈良関係の興味ふかい写真集や雑誌がおいてある。子供向けの本もあり、そういう雑誌、本の選択のセンスがいい。
散髪屋と言えば、スポーツ新聞、漫画週刊誌、などが定番だが、そういうものはない。若い人の感覚が、置いてある雑誌、本にも、感じられる。
入ると、一人がすぐに終わり、待っていた一人が、散髪椅子に座った。なぜか、少し大きめのキャリーバッグを持っている。旅の途中なのか。次が私の番だ。前の人は、ぱっと見で、髪の量がかなり、多い。髪が黒く、ふさふさとして、しかも、かなり、変わった格好の髪型だった。
「このままの髪型で、少し切ればいいのですか?」
「中を、どうのこうの・・・・・」
「そすると、ここを、こういう風に・・・・」
「もうすこし、こっちのほうを・・・」
 なんだか、注文が細かそうだ。
 新聞を読む。あまり、面白い記事がない。
 そのうち、散髪しているほうで、また、声が聞こえてきた。
「二週間前に散髪したばかりなんで・・・・」
 二週間前?こっちは、たぶん二ヶ月前に散髪したか、あるいは、もっと経っているかあもしれない。二週間で、散髪するのか??若い人は、おしゃれなんだな。
 あまり、切るところがなかったらしく、10分も経たないで、終了。
 新聞を半分もめくる間もなく、散髪椅子に座る。 
 そのころから、次々に客が入ってきて、帰るときには、4人ほど、待っていた。
 年末なので、かなり客が多いのかもしれない。
 年末、12月26日、給料日の翌日の金曜日、27日土曜日から年末年始の休暇に入る仕事納めの会社も多いはずだ。とすると、忘年会か、仕事終わりのちょっとした飲み会、なども、多いかもしれない。
 散髪を終えて、ちょっと考えたが、「皮膚科」の医者へ行くことにした。
 一週間ほど前に、突然、左小指の一部が腫れ始め、痛みが消えず、ついには、赤黒くなり、盛り上がって、触ると激痛が走る。これは、なんとか、しなければと、虫さされのムヒとか、傷用のメンソレータムとか、抗生物質のクロロマイセチンとか、よさげなものを塗っていたのだが、まったく、効果が無い。
 そこで、ふっと、思いついて、近鉄奈良駅近くの皮膚科を探すことにした。
 吉野町には、思いつく限り想像をめぐらしても、皮膚科病院がない。田舎で、一番困るのは、やはり、病院だ。
 近鉄奈良駅のそばには、観光客の多い「東向き商店街」という、アーケードのついたきれいな通りがある。その中には、病院は、ないだろうと考えた。
 東向き商店街に、背を向けて、奈良県庁や奈良公園、奈良国立博物館などがある広い幹線道路を横断歩道で渡り、そのまま、まっすぐ東向北町の路地の中を歩いて行く。地名は、花芝町、とある。右手には、検察庁、真っすぐ行けば、奈良女子大の広いキャンパスがある。
 なんとなく、花柳界のあったような、雰囲気の格子戸の民家が、ところどころ、軒を並べている。その通りに面して、ビルの一階に、皮膚科病院があった。入ると、待合の長椅子に三人ほど、先客があった。
 家の作りは、間口より奥が深く長い、格子戸家屋どくとくの造りを連想させた。
 ここには、雑誌の類はあまりなく、一箇所に、週刊誌が二十冊ほど、無造作に積み上げてあった。みると、全部、「週間新朝」だった。一番上のものは、最新号である。これは、いいなと、読み始めていると、全部目を通さないうちに、名前を呼ばれた。
  そこには、黒髪と白髪とまじった長髪の度の強そうなメガネをかけた小柄痩身の老女医が、長いテーブルに半身になり、斜めに椅子に黙って座っていた。
  診察室内は、専門書や何に使うものかわからないものやら、わりと散らかっており、奥にも何か部屋がある。なぜか、ドアの内側にも、薄いカーテンがかかっていた。寒がりの女医なのかもしれない。患者が寒がらないための配慮なのかもしれない。 あるいは、皮膚科というだけあって、患者が服を脱ぐこともあろうし、ドアの内側の白いカーテンは、そのためのものかもしれない。
  だが、カーテンで包まれた部屋の中は、診察室といえば、そうであろうが、占いの館、であっても、それもあり、的な雰囲気が、ないではなかった。
  患部の小指を遠目にちらっと見ただけで、老女医による、こんな、質問、というか、問診があった。
「痒いですか?」
「いいえ」
「痛い?」
「はい」
「どんな痛み?」
「触ると痛いですね」
「何か、思い当たることは?」
「とくに、ないですが・・・・・」
「腫れている部分に膿は?」
「ありました」
「だんだん、腫れが大きくなっていますか?」
「そんな感じです」
 ふつう、患部を仔細に点検するとか、あるいは、何かサンプルを採取して、顕微鏡で見るとか、そういうことは、一切なかった。そして、診断が下された。
「なにか、虫に刺されたとか・・・・」
「虫刺されではない」
 穏やかな口調で、老女医は言った。
「そうですか」
「虫に刺されたのなら、痒みがある」
「はあ」
「それに、季節的に、虫が刺すとも、思えない」
「はあ」
「おそらく傷ができて、そこから、雑菌が入ったものだろう」
「傷口から」
「傷がなくても、指の毛穴から、雑菌が入ることもある」
「毛穴から?」
「そうです。そういうこともあります。何か、触ったとか、傷ついたとか・・・・」
「うーん、特には・・・・」
「魚の水槽に手を入れたことは?」
「ないですね。小鳥の世話はしてますが」
「指を鳥に突かれたことはないか?」
「それはないですね」
 とまあ、こういう問診の末に、傷口からバイキンが入った結果の腫れと、いう診たてとなり、塗り薬と、飲み薬を投与されることとなった。
 で、その後のことは、とりあえず省略するが、3,4時間後、突然、記憶が蘇った。
 先週、土曜日、つまり、6日前のこと。
 ライフ(スーパー)に、食品の買い出しに行き、帰りに、そばにある農協の売店に、立ち寄った。年末とあって、ふだんはない、魚、タコ、数の子、スジコ、珍味、などを、売る魚介類の出店が店外に商品をならべていた。
 わたしは、店内で、地元の人が作った梅干し2ふくろ、地元の農家が作ったみかん2ふくろ、などを、買った。そのとき、家人が「外に干し柿がある」と、言った。干し柿は、好物なので、どんなものか、見ようと思い、店の引き戸を開けて、外へ出た。その出口が悪かった。横の出口を開けたのだが、そこには、件の魚商が、商品を積上げ、並べていた。ちょうど、出口を半ばふさぐような形になっており、引き戸を開けて、外へ出た途端に、そこにあった魚の木箱に、いやというほど、左手を打ち付けたのであった。つまり、左手の小指を、その魚木箱に、打ち付け、血が出るほどではなかったが、そこで、傷ついたのは、間違いない。帰宅後、うがいと、手洗いはしたのだが、それが、不十分だったのか、あるいは、小指を打ち付けた瞬間に、もう、雑菌が皮膚の細かな破断口から、中へ入ってしまったのかもしれない。
 左手の小指に、異常な腫れを感じたのは、その、翌朝、日曜日の朝のことだった。
 なんかおかしい、なんか痛い、なんか、なんんか、で、二日、三日経ち、小指が化膿し腫れていった。    
 「魚の水槽に手を入れたことはないか」という、あの老女医の言葉が、蘇った。まさしく、あの老女医は、原因まで、ずばりと、当てていたのだった。でも、なぜ、魚という言葉が出てきたのか?遠目に、化膿した患部を見ただけで、これは、魚由来の雑菌による腫れだ、と、あの老女医は。見抜いたと思うしかない。
 脱帽した。こういう医者は、名医というほかはあるまい。
 ほんとに、びっくりである。雑菌による腫れ、という推理や診断は、専門医なら、できるかもしれないが、普通、その原因を「魚」だと、見抜けるのだろうか?いやはや、驚いた。その医者の言葉を、脳内で反芻しながら、忘れていた一週間前の記憶が蘇ったのである。
 ついでに、「地元には、皮膚科がない」と言ったところ、「外科はありますか?だったら、外科に行きなさい。外科では、こういう症状も見てくれますよ」と、アドバイスもしてくれた。外科医は皮膚科医も兼ねる、とは、知らなかった。
 まことに、ありがたい名医、良医さんであった。
 一日経って、飲み薬、塗り薬のおかげで、だんだん、腫れがおさまり、赤黒い腫れのうち、黒いが抜けて、赤い腫れに変わってきた。「治る過程で、膿が出るかもしれない」とも、言われた。
 ともかく、快方に向かいはじめている。
 ここまで、まだ、近鉄奈良駅についてから、二時間ほどまでの、出来事。この先は、次回へ続く。
 
 
Posted at 2014/12/27 11:33:43 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記

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「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
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