かつては、奈良町のランドマークだった元興寺の五重塔跡地の見学を終えて、瓦屋根の民家の間を南に歩く。奈良町風情といえば、黒瓦と格子戸造りの家並みである。
「格子戸の家」という、純然たる昔の奈良家屋を公開して見学できる施設もある。

◆商家だった家には、昔の看板が、残っている。
奈良町の昔ながらの格子づくりの町家が続く道を歩いていくと、ものの5分ほどで、道の向こうにアーチのような、道路をまたぐ空中の看板が見えてきた。たまたま、坂の上から、ゆるやかな勾配で下っていく先に、その看板が見えた。
赤い下地に「ビッグナラ」と、白い字で抜けている。

◆かつての、木辻遊郭の大門だった場所に、スーパーの看板がある。

◆スーパー「ビッグナラ」の入り口にある地蔵堂。
◆スーパー「ビッグナラ」。赤く塗られた外観が、「青丹よし」の奈良カラー、を思わせる。
「ビッグナラ」というのは、地元のスーパーさんだ。入り口の脇の、お地蔵さんのお堂があるなど、奈良の下町情緒が濃厚に漂っている。二階建てで、正月前とあって、店内はけっこう賑わっていた。
このあたりが、木辻町という場所で、日本最古の遊郭と言われる「木辻遊郭」のあった場所である。元興寺から、歩いてきたのは、実は、木辻遊郭と元興寺とは、古い因縁があると、言われているからだ。もともと、ここに遊女を集めた遊興地ができたきかっけは、平城京遷都に伴い、飛鳥にあった法興寺が、この奈良町に移転してきた。
その、建築工事の工事人足たちを目当てに、建築現場とほど近い、木辻に遊女が集まる一画が形成され、それが、次第に遊興地として形成されていったと思われる。
元興寺が、奈良町に建設されるのは養老二年(718年)と言うから、いまから、1300年ほど前の話である。

◆格子戸のある民家の風情。
平成22(2010)年は、平城京への遷都が行われて1300年になる記念の年だった。それまでの都だった、20㎞ほど南に位置する藤原京(いまの、奈良県橿原市あたり)から、和銅3(710)年3月、に、都が平城京(いまの、奈良市)へ移されたのである。これが、1300年前のこと。都が移り、橿原に近い飛鳥の地にあった法興寺が、奈良町へ移り、そして、木辻に遊女が集まって遊興地となった、ということになる。
1300年前の都がそっくり残っており、その中の遊郭のあった町が、いまも、残っており、その場所を実際に訪ねることができるのである。まことに、驚くべきことかもしれない。世界中探しても、こんなに歴史の長い国は、日本以外には、ありえないだろう。
法隆寺の五重塔にしても、7世紀末から8世紀初めの建立とされており、やはり、1300年も、倒れることなく立ち続けているのである。しかも、木造建築物である。
この、地震の多い日本において、阪神淡路大震災で、コンクリートのビルが倒壊するなかで、法隆寺の五重塔は、びくともしなかった。その結果、とんでもない、耐震構造が五重塔に秘められていることが、いま、だんだん解明されつつある。

◆遊郭にはつきものの、銭湯が、いまも営業している。
さて、元興寺はじめ、南都七大寺が建立され、平城京は日本で最も華やかな都となる。それとともに、元興寺の門前に位置する木辻界隈も、聖俗の屯する悪所としての賑わい続けていたと思われる。
木辻だけではなく、奈良町には、五カ所・十座とよばれた声聞師集団の住まう場所があちこちにあった。声聞師というのは、陰陽師などを兼ねる一種の芸能者であるが、この配下には、遊女も兼ねる白拍子もおり、のちの遊郭のはしりとなったと言えよう。
近世になると、木辻は遊郭、傾城町としての形がはっきりと整ってくる。
江戸前期の延宝8年(1680年)ころに完成した『色道大鏡』には、「南都の傾城町は、木辻鳴川といひて、縦横にあり。」と、書かれている。

◆木辻町で見かけた魚屋さん。スーパーの近くで、いまも、営業している。
また、天保の改革の行われた天保13年(1842年)、風紀取り締まりのために奈良奉行所が木辻町へ「木辻町遊所御免之始」(注・木辻の遊郭はいつごろできたのか?)という問い合わせている。これに対する回答書面が残っているが、木辻町は、「町内には確かな書類も残らず「御免之、年暦」(注・遊郭の免許を下された年月)は不明であるが、言い伝えによると元和年間(1615〜24に遊廓が設置された」と、回答している。

◆昔のままの景観が保存されている奈良町の通り。
このあたりのいきさつについて、井岡康時氏の論文「奈良町木辻遊廓史試論」には、「奈良奉行として奈良町政を担当した中坊秀政の治世の時代であり、幅はあるものの、中坊によって町政の基盤が築かれていくなかで散在していた遊所が整理され、木辻に集中させる形で遊廓の設置が公認されたと想定できるのではないだろうか」と、推察している。
ただ、このときの木辻遊郭の範囲だが、木辻町だけでなく、北側に位置する鳴川町も含まれており、地理的に言えば、正確には、「木辻・鳴川遊郭」とすべきものである。
実際に、鳴川町も歩いてみたが、木辻町とあわせると、かなり広大な地域となる。
「ビッグナラ」のアーチ看板は、かつて、遊郭の入り口を示す大門の跡、である。
昔の遊郭は、周辺の町家と区別されて仕切られており、ただ一箇所、大門だけで、出入りした閉鎖的な空間であった。いわば、遊郭は、別世界であり、つかの間の夢を買う仮想空間、現実を忘れさせてくれる劇場空間であった。
江戸時代の後半になると、木辻遊郭の力が拡大し、奈良町だけでなく、郡山城下にまで、支配力が及んでいる。
いまの、大和郡山にある、東岡町と洞泉寺町の煮売屋が、遊女を置いて遊郭としての営業をするについて、木辻遊郭の許可が必要となり、木辻から遊女を貸し出したり、世話料として、白銀30枚を郡山から木辻に払わせている。
大和の色街、木辻の名前は、広く知られ、井原西鶴の書いた『好色一代男』にも、木辻の名前が出てくる。

◆かつて、木辻遊郭だった通りには、いまも、当時の家屋が残る。
さらに、明治時代になっても、木辻町は遊郭営業を続けていた。
ちなみに、明治14年、大阪府が管轄していた大和国の貸座敷の営業許可区域をみると、「添上郡奈良ノ内、元林院町、木辻町、添下郡郡山ノ内東岡町、洞泉寺町」と定めている。この地域が、明治以降においても、主な遊興地すなわち、遊郭であった。ただ、この中の、木辻町は、正確には、鳴川町も含めて、木辻・鳴川遊郭、である。
いまは、もう、そのような営業をしている店はない。当時を偲ばせるのは、それらしい家の造りをした民家であり、町の佇まいである。「ビッグナラ」の看板から、ほど近い場所で、和風旅館を営業している「静観荘」がある。この、旅館の建物は、昔の遊郭の雰囲気をいまに残している。かつては、こういう感じの置屋が、軒を連ねていたはずである。
◆和風旅館「静観荘」。かつて、遊郭だった建物が、残されている。とくに、玄関のあたりの造りには、趣がある。

◆「静観荘」のある坂道の光景。木辻遊郭の中心部である。
「ビッグナラ」のアーチ看板の坂を上ったところに、「称念寺」というお寺がある。
江戸の亨保年間に書かれた『奈良坊目拙解』(村井古道)には、このあたりは竹林であり、いまの「称念寺」は、名も無き辻堂というい寂しい場所であったが、この場所にあった茶屋が、一人、二人の遊女を置くようになってから、次第に、傾城町へと変貌していった、という記述がある。したがって、「称念寺」あたりが、木辻遊郭の発祥の地と、言ってもいいのかもしれない。

◆木辻遊郭の古い文書にも出てくる「称念寺」の門。
「ビッグナラ」の看板のある四つ角に、一軒の本屋がある。この、本屋もかつての遊郭の一軒なのだろうが、ひときわ異彩を放っている。それは、店の外に、モノクロコピーで、グラビアアイドルの写真などが、ベタベタと、張られている。アイドル写真と並んで、興福寺の手が6本ある阿修羅像の拡大コピーもあるなど、ビジュアル構成が実にユニークだ。
◆木辻の古書店。独特のビジュアルで、目を楽しませてくれる。
そうしたビジュアルの合間に、人生訓とか、今日の言葉とか、生きるとは、詩、など、手書き風の教訓風の張り紙がある。家の外側が、そういう張り紙で埋め尽くされている。わずかに狭い店の入り口があるのだが、その内側も、積み上がられた雑誌などで、一杯であり、とても、入れそうもない雰囲気なのだ。店自体が、何かを主張してやまない古書店が、かつての、木辻遊郭跡の、辻の一角に存在している。
この、「ビッグナラ」の看板を見上げる辻の一角だけが、かつての悪所の入り口のような、妖しげな風情を湛えていた。
古本屋の名前は「やすらぎ書房」とある。
いま、木辻に遊郭はないのだが、このうそ寒い浮世の浮き沈み、その中で、つかの間の安らぎを求めたい男が、いなくなったわけではなかろうものを。木辻郭の灯は絶えたとて、この、辻の古本屋がありんすえ。店外に張られた色褪せた張り紙のなかで、グラビアアイドルたちは、「それでも、人生、頑張って」と、声をかけるかのようである。雨ざらしにされて、かすれたインクの表情が、妙に艶めかしく、アイドルたちは、通り過ぎる人々を、物言わず、ぢっと見つめている。
遊郭といえば、店の中で、女たちが、思い思いの格好で、表を通る人に愛想笑いを投げかけている光景が目に浮かぶ。それを、冷やかしながら、男たちが通り過ぎて行く。そんな、郭の光景も、今は昔。すっかり、住宅街に変貌した木辻の小路で、「なんか、文句あるの!」と、挑戦的な眼をした現代の白拍子、アイドルちゃんたちの個性的な相貌(かお)が、古本屋の壁で、存在感を示している。
地元では、この存在は、評判いいのか、不評なのか、それは知らないが、やや傾き加減のこの家屋は、「ビッグナラ」看板とともに、いつまでも、消滅しないでいてほしいものだ。

◆グラビアアイドルが、見つめてくれる。現代の白拍子なのか。
ここから、南に少し歩けば、京終(きょうばて)町だ。桜井線の無人駅の「京終」(きょばて)駅がある。このあたりは、平城京の終わり、京の終(は)てる場所なのである。
今日は、これで、奈良町をじぐざぐに歩きながら、縦断したことになる。
京終駅の線路を渡ると、小川が流れていた。土手には、小径があり、その上にひろびろとした澄み切った冬の青空が広がっていた。

◆南京終町を流れる小川。旅の終わりに冬枯れた土手の小径を歩く。
江戸時代までは、ここから、奈良町の方向を眺めたら、ひときわ高くそびえる、あの元興寺の五重塔が見えたはずだ。
その光景を思い描いてみたが、何も浮かんではこない。
ただ、いっさいの感傷を洗い流すように、真冬の冷たい風が、吹き抜けていくばかりだった。
冬の日は短く、はやくも家々の庇の陰には、夜の帳が佇みはじめていた。