• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

角鹿のブログ一覧

2021年09月15日 イイね!

幸せとは

占いの世界では、たとえば生まれた日時の星座の位置や、姓名、血液型などで、ある種の「宿命」を背負うものと考えているようだ。「宿命」の「宿」は「とまる」と訓よみ、いのちの全体性である「命」の流れまで予あらかじめ決まっていると考える。それが「宿命感」である。
 
 なるほど世の中には、自分の力ではどうにもできないことが確かに多い。男か女か、長男か次男かなども、完全に受け身で与えられれることだし、何より我々は生まれる環境も親も選べない。「宿命」という考え方が生まれるのも無理はんまいのかもしれない。
 
 しかし同じ境遇に生まれ育ち、似たような人々の間に暮らしたとしても、人はそれぞれじつにさまざまな人生を生きる。この認識から、おそらく「運命」という言葉が生まれたのだろう。
 
 「運命」の「運」は「うごく」と訓み、これは天と人との関かかわりが予定もなく変化し続けるという見方である。
 ただこの「運命」も、人がどの程度関わることができ、意図的に流れが変えられるのか、いや、せめてある程度の影響だけでも及ぼすことができるのか、などといった観点で、これまた考え方が分かれる。
 
 運命の全体には逆らいようがないとしても、やがて波のようなその変化に「乗る」こと(荘子そうじ)や、その波の上に「立つ」こと(孟子もうし)が勧められる。後者は「立命りつめい」で、日本では大学の名前にも使われた。

 それらに似た態度なのだが、日本の奈良時代には運命の流れに「為合しあわせる」意味から、「しあわせ(為合)」という和語が生まれる。室町時代になるとこの「しあわせ」に「仕合」の文字が当てられ、相手も天ではなく人を想定するようになる。人が刀を持って向き合うことを「仕合」(今は「試合」)と表記したことからもわかるように、「しあわせ」とは相手の出方に対してどう対応するか、というかなり技術的な問題だった。うまく「仕合わせ」られれば「しあわせ」の語源であり、明治以後に用いられた「幸」や「幸福」の意味合いとはまったく違う。

 そう考えると、世間でよく聞く「運がいい」とか「悪い」という判別は、結果論でしかないことがわかるだろう。波そのものには善意も悪意もなく、要はその波に乗るなり立つなりできたかどうか、つまりうまく「仕合わせ」られたかどうかなのだから、これは本人の心構えや技術に依よるところが極めて大きいはずである。

 さてそこで問題なのは、どうしたらうまく波に乗り、そこに立ち、不慮の波に仕合わせることができるか、ということだが、これは実際の波乗りと違って目に見えない波だから難しい。
 一つ言えるのは、人間の意識は極めて不自由で、一つしか掴めないということだ。思い込みが強い、という言い方もできる。
 流れの全体を把握できないのは勿論、意識というのは掴んだら放さず、それをすぐに名詞的に分別する。たとえば「運がいい」という証拠、あるいは「運が悪い」証拠、というように。
 そして意識は、たいていの場合、脳から何かを捜せという指令を受けており、それを求めてあちこち彷徨さまよった挙げ句、たいていはそれを見つける。まるで優秀な猟犬のような、脳の部下なのである。
 たとえば「今日の自分は運が悪い」と思い込んだ場合、意識は必死になってその証拠を捜す。むろん逆に「今日はツイテル」と思った場合も、その証拠を捜し、それはきっとたいてい必ず見つかるのである。
 一つ目の証拠が見つかれば、二つ目三つ目はもっとラクに見つかるだろう。松茸捜しと同じである。そうしてあっという間に「ツイテル一日」や「ツイテイナイ一週間」ができ上がるという仕組みなのだ。
 ならばまず、「運が悪い」という証拠はけっして捜さない、という強靭な意志こそ、運の重要な下支えになると気づくだろう。
 本当は、運がいいも運が悪いもないのだが、どうしてもそのような判断をしてしまう脳への、これは対抗措置である。

 同じことを、ユングは「希望の「元型げんけい」と言った。一つの出来事の価値は単独ではわからず、三つ四つと繋つながって初めて明確になるのだから、それまでは「希望」をもったまま判断を保留せよというのである。
 
 中国の故事成語「塞翁さいおうが馬」という話も聞いたことがあるだろう。これも「希望の元型」と同じで、吉凶を判断せずに受け流す強い翁おきなの物語だが、現実にはかなり大変なことだ。がんになっても、交通事故に遭っても、それだけでは不幸とは限らない……。そう思わなくてはならないのだ。
 しかし意識に捜させるものが明確であれば、それ以外を鷹揚おうように受け流すことも、いつしか上向きの運気に乗っている自分を発見することも、さほど難しくはないはずなのである。
「くらしラク~る♪」 2011年5月増刊号(PHP)


この一文を読んでなるほどと思う。

幸福、幸運など「幸せ」の元の意味はそれがどういう事態であっても直面している状況へうまく対応することだというわけです。
いまで言う「幸せ」という状態を指すのではなく、状況へ「仕合せる」ことを意味し、さらに語源を辿れば「為し合わす」とうことになる。
自ら能動的に「為す」「する」ことが「為し合わす」ということだ。
状況や相手の動きへどう動いて事態を収めるのか。この為し、合わせることが「しあわせ」の語源だという。その結果、うまくいけば現代使われている意味での「幸せ」ということになる。

そうしてみれば「幸せ」とは決して「状態」を指す言葉ではない。
際限なく押し寄せてくる現実という状況への波乗りをする人間の「行動」「営為」そのものなのだ。

いま国家レベルの大騒動になっている武漢肺炎コロナウイルス病毒についてもウイルスそのものは善でも悪でもない。このシナが撒き散らしているコロナという波に日本はどう「為し合わせて」いくべきなのか。その仕合わせ如何によっては結果として「幸せ」になれるかもしれない。

やはり幸せとは決断、行動の仕方など状況へどのように対応するかという人の心の動きによって決まるものなのだ。

水前寺清子の歌に「三百六十五歩のマーチ」がある。
この歌には、幸せを掴むために休まないで歩けと。



 
掴んだと思った幸せもたちまち壊れ指の間からさらさらと砂のようにこぼれて落ちていく。

この世は無常である。

幸せといい不幸といい限りある命の前にはそれらは束の間の幻想であり無情の徒花に過ぎない。
だが人の世は無常だからこそ人との出会いや人を愛することが限りなく美しく尊く思える。

さよならだけが人生だ。
諸行は無常である。

それだけに二度と巡り会えない今日という一日との出会いがその別れゆく時間の刹那がせつなくも輝いてみえる。
   
Posted at 2021/09/15 20:56:36 | コメント(0) | トラックバック(0) | 読後感想文 | 日記
2021年09月05日 イイね!

後始末

後始末

最近の学校教育のなかで「後始末」ということを教えているのだろうか?
といっても昔は教えていたものだろうか。少なくとも私の記憶では小学校で「後始末」という言葉を聞いたことがない。
そんなことはなんとなく自然に身に着けていたものだろう。
子供の教育というのは常識的に考えて、学校教育、社会教育、家庭教育とが噛み合って成り立っている。家での躾もしないで学校へ丸投げし何か問題が起こればどうしてくれるんだと学校へ責任転嫁する親もいる。学校教育も昨今のいじめ問題の放置状況をみれば教育現場の無責任体質も深刻だ。
とりあえずこれを読まれた学校関係者の方がおられるなら子供たちに「後始末」という言葉とその大事さを教えられることをお勧めする。

ネットでGOO辞書を見ると以下のような例文が出ていた。

・・・僕らはこういう静かさの中に――高山植物の花の香に交じったトックの血の匂いの中に後始末のことなどを相談しました。しかしあの哲学者のマッグだけはトックの死骸をながめたまま、ぼんやり何か考えています。僕はマッグの肩をたたき、「何を考えているのです・・・ 芥川竜之介 「河童」

・・・ 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」 とお千さんは、伊達巻一つの艶な蹴出しで、お召の重衣の裙をぞろりと引いて、黒天鵝絨の座蒲団・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」

・・・二 とにかく、しかし、そんな大笑いをして、すまされる事件ではございませんでしたので、私も考え、その夜お二人に向って、それでは私が何とかしてこの後始末をする事に致しますから、警察沙汰にするのは、もう一日お待ちになって下さいまし・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」

・・・全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。よろず、ただ呆れたるより他のことは無しである。 剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて・・・ 太宰治 「花吹雪」

・・・ 妹を引取って後も、郷里との交渉やら亡き人の後始末やらに忙殺されて、過ぎた苦痛を味わう事は勿論、妹や姪の行末などの事もゆるゆる考える程の暇はなかった。妻と下女とで静かに暮していた処へ急に二人も増したのみならず、姪はいたずら盛りの年頃では・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」



文学作品の中の「後始末」の使い方である。芥川の書いているのは死骸の処理も「後始末」ということだ。たしかに、人が亡くなると遺体を後始末しないといけない。

同じGOO辞書には社会現象としての「後始末」も出ている。



原田龍二の不倫後始末に倣った“ゲス未遂”有村昆は人柄も真似られるか?

<岡山県人が伝える湾岸戦争の後始末>

フジロック 陽性者ゼロも問われる“後始末”PCR呼びかけ、追跡調査もなし…


失敗ばかりの夫の後始末はもうイヤ! と嘆く妻が「夫と結婚した理由」を思い出したキッカケ
https://news.goo.ne.jp/article/woman_excite/life/woman_excite-E1629652858323.html
↑下のURLにリンクしました。


 私が「後始末」ということを思い出したのは勘のいい人はおわかりだろうが此の夏のいやもっと前々からのバーベキュー問題である。勝手に里山や渓谷の河原にやってきてバーベキューを楽しみその後始末をしないでゴミを放置したまま帰る人がいる。なんとかこの状況を改善しないといけない。いったいどうすればいいのだろうか。
 私はこういう問題を日本は国会や地方議会で真剣に議論すべきだろうと思う。こんな問題は次元が低いと言っている場合ではない。
 
 旅の恥はかきすて・・・・。
 後は野となれ山となれ・・・・。
 日本の諺にはこういう言葉もある。だがそれを推奨するのではなく、そうしてはいけないぞという戒めだろう。
 最近はなにかにつけて「人権」とか「権利とかわけもわからず自分のやりたい放題を主張する馬鹿者が多い。
 「人権弾圧するな」「人権蹂躙だ」「人権を尊重白」「人権無視だ」などなど。
 けっこうな言い分だ。
 間違ってはいないかもしれない。
 だがよく考えてみるべきだ。
 こういうことが言えるのは国家が国民を十分に保護している国家体制があるから言えるのだ。そもそも国民の権利などは国家が国民に与えるものであって国家権力を超越した個人の権利が保証されているものではない。
 だからいまのシナや北朝鮮のような独裁国家のなかで「人権弾圧するな、習近平、金正恩、よく聞け」などと叫んだら命の保証はない。日本の中ではマスコミや野党議員など虚偽捏造もどきで罵詈雑言、口汚くい罵倒を時の総理大臣に浴びせているがそれで逮捕されることはない。言論の自由、表現の自由は国家が保証しているからだ。
 シナ・北朝鮮・ロシアなどは国民の生殺与奪権は政府の胸先三寸にあるという独裁主義国家だ。独裁政府に都合悪いヤツは即刻逮捕し拘束される。
 日本ではそういうことはない。
 日本という国家が個人の自由や権利を守っているからだ。
 日本人は本人の自由意志に反することは国家によって強制されない。
 だが国家なくして国民なし。
 日本国民には国家を守る義務があるはずだ。
 日本国と日本人、日本文化や伝統を破壊したり屈辱したり汚染したりする権利は誰にもない。
 
 
 「後始末」という人としての当たり前の躾を家でも学校でも世間でも疎んじ忘れた感のある今の日本人。
  ゴミ放置のバーベキュー問題にそのことが端的に現れている。
  河原は国有財産だ国民には河原に入り遊ぶ権利がある。ごもっともな理屈をならべて河原の美化監視員を威嚇する者もいる。
  バーベキュウする自由はあるがその自由は日本の河原や自然あってこそ可能となる。だから河原に入るものは河原に感謝し河原を守る義務がある。最低限でもベーベキューの後始末を努力義務だとすることを否定する人はいないだろう。
  
  
 バーベキューをする自由だけ満喫しその楽しみを与えてくらた河原を汚し環境破壊させる自由はだれにもない。河原にゴミを捨て去り自然環境を汚染し毀損する行為は許されるのもではない。
  プールや海岸で水泳を一日楽しんで帰るときにはゴミや食べ物の残飯や焼き肉のタレや缶詰空き缶や瓶やもろもろをプールの中や海岸にぶち撒けて帰る人がいるだろうか。誰も見ていない山や河原ならそうしても構わないと言うのは心の劣化だ。ゴミを捨てるのは人間そのものが人間ではなくもはやゴミなのだ。
  
  
 わざわざ法律でこういうことを規制する必要もないのだが一応は「公序良俗」の遵守は法律行為でもある。 

 民法第90条は「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」としている。公序良俗は、契約の有効性を論じるときに、その社会的妥当性を判断する基準となる。
公の秩序は国家および社会の一般的利益を、善良の風俗は社会の一般的倫理をそれぞれ意味する。しかし両者は一体的に扱われるべきであり、両者を厳密に区別する実益はないとされている。裁判にあたっても、公序に反するか良俗に反するか、そのいずれであるかを決定する必要はない。(Wikipediaより引用)

立つ鳥跡を濁さず

人よりも鳥のほうが賢く立派に思える。
自然を汚し破壊したら自分たちの子孫が生きられなくなることを鳥は知っているからだ。
Posted at 2021/09/05 10:52:19 | コメント(0) | トラックバック(0) | 日々の雑感 | 日記
2021年06月28日 イイね!

十三峠紀行 その②大和川の付替え工事

 大和川は昔は大和盆地から亀の瀬を経由し現在の柏原市に入ると南部から流れてくる石川と合流して北へと流れていた。
 これは地形の傾斜によるものだが大和川水系では大雨が降るたびにたびたび大洪水、水害が発生していた。
北へ向かって伸びる大和川の支流は川底が高く土砂が堆積した天井川となっている。そこに大雨が降ると増水した石川の濁流を合わせ飲み込んだ川が暴れ龍のように氾濫し周囲を水浸しにする。田畑橋や家屋を容赦なく押し流し水没させる。毎年の被害への備えはしているものの何十年に一度の大洪水には為す術もない。

 河内平野の村人にとっては恨みの大和川である。
 もともと大阪は大きな内海だった。だが南からは大和川、北からは淀川が大量の土砂を運んできた。この二つの川が大阪湾の内海を少しづつ埋め立て大阪の陸地を形成したのだ。
 とくに南部の石川を合わせ北上する大和川が大量の土砂を運んできた。この大和川の土砂流によって大阪は自然に内海が埋め立てられて陸地になったのである。そこまではよかった?のだがその後も網目のように水系を拡大した大和川が河内・摂津へ洪水被害をもたらすのである。
 
 大和川は深い固定した川筋ではなく泥湿地斜面を気ままに流れ洪水のたびに流れを変えるような暴れ川だった。そういう大和川だったがやがて流れが固定されるようになった。それが新たな問題を生んだ。
 もともと大和川は流れが強く周囲の土砂を削り取り流れてくる土砂流なので川筋が固定されると川底に土砂がたまるようになった。川底が周囲の田畑より3メートルも高い高い天井川となってきたのである。こうなるとひとたび洪水が起こったとき周りの低地へ大量の水が溢れ出し被害はさらに大きくなっていった。

大阪湾の変遷

以下の画像は「平野区誌」より

縄文時代早期(約9400年前)
縄文時代、海水が上昇。
alt




縄文時代早期(約8000年前)
海水が内陸部に入り内海となる。
alt


縄文時代前期の後半(約5500年前)
上町台地だけは半島として残り河内湾が誕生した。
alt

縄文時代中期の初頭(約4500年前)
その後、川から流れてくる土砂が堆積し河内湾は塞がれ状態になる。
alt


弥生時代中期(約2000年前)
河内湾は淡水化が進み少しずつ陸地化していった。
alt
十三のいまを歩こう 新之介のブログより

 
 

 大阪は昔から制御不能の大和川の治水対策が最大の課題だった。
 河内平野の洪水防止や農業開発を目的として流路を西へ付け替える「大和川の付替え」構想は古くはなんと奈良時代以前からあり、日本書紀、続日本紀に記述がある。実際に大和川に関する治水工事の歴史は古墳時代に遡る。
 たとえば現在の大阪天王寺区・阿倍野区に「堀越」「北河掘町」「南河堀町」「堀越神社」などの地名がある。これは『続紀』巻第三十九にある延暦7年(788年)ごろに和気清麻呂が河内川(現在の平野川)を西へ分流させるべく本格的な流路変更の工事の名残の地名だと言われている。
 
 
◎付替え前の主な大和川洪水の記録

832年 8月の大風雨により河内・摂津に被害。
1544年 畿内大洪水により、河内・摂津に甚大な被害。
1563年 5月の8日間にわたる断続的豪雨により、河内国の半数が浸水、死者16,000人余。
1620年 5月、志紀郡の堤防が決壊、水田24,000石分の被害。
1633年 8月、柏原村をはじめとする各村の堤防が決壊、民家50軒、死者36人、水田20,000石分の被害。

alt

新大和川という赤い字の下が付け替えられた「大和川」。その上に扇状に広がっているのが旧大和川。

 そのため大和川の洪水被害地域の村々は大和川の流れを柏原の大和川と石川の合流点から真西へ向け、住吉・堺方面へ流す案を何度も幕府に嘆願していた。大和川を真西へと水路を変えられれば洪水がなくなる上、これまでの川が干上がり新田開発が可能となる。これで村は一石二鳥の利益を得ることができる。
 しかし陽が差せば日陰が生まれるのも世の常である。
 大和川の新たな付替え予定地にあたる村々では人工的な水路変更により甚大な被害を被ることになる。
 昨日まで田畑だった先祖伝来の土地が川底に沈むのだ。同じ村が運河によって行き来もままならない分断状態に引き裂かれることにもなる。人の住む集落密集地を避けて工事図面を引くとしてもそこにはたいがい先祖の眠る墓地がある。そうなると墓を移転させなければならない。おまけに工事によって損害を被るだけで何も得することはない。
 これは村の死活問題である。大和川付け替えなどやってほしくない。当然この地域では激しい反対運動が起こった。村の有志が江戸まで反対請願へ下ったという記録もある。
 
古文書
alt

↑反対の嘆願書(写真:柏原市立歴史郷土資料館)

恐れ乍らのご訴訟。
こういう書き出しでの賛成、反対の対立する村からの陳情文書が残されている。

賛成の立場から河州摂州両国の百姓が主張あしたこと。

①大和川の流れを川違えしていただければ、水害に苦しんでいる十五万石余の百姓が永久に助かる
②大和川が運ぶ土砂で、新開池・深野池や川々は大坂河口までことごとく埋まってしまう。
③一年の内にも度々家まで水につかり食べるものもなくなって困っている。
④川違えの実施が延び延びになって十五万石余の百姓は何の為すべもなく餓死するしかない。
 恐れ乍らご慈悲をいただき、お願いの通りの川違えをしていただければ、私ども一同、末代までのお助けと有難く存じ奉ります。


これに対して川違えで田畑が運河の犠牲になる河州志紀郡船橋村柏原村から住吉手水橋迄の村の百姓の反論である。

①川違えを指示されますと、川底になってしまう村々は水底となり、住むことも出来ず路頭に迷う。
②新川筋の南側は悪水が流れ込みやすい地形で四五万石も水場になってしまう。
③新川より北側のかなりの村は日損場(にっそんば)=水不足、になってしまう。
④とにかく、川違えの実施は摂州河州数郡の百姓の命にかかわる。ご慈悲の上、これ迄のように中止して下されば有難い。
alt
写真を拡大してみるとわかりやすいです。

左の大きな階段状の白いのが淀川 右の海につながる濃い青色が新たに付け替えられた大和川
中央の全体に広がる薄い茶色は新田開発される旧大和川水系
一番下の真ん中が大阪城
「南・奥河内から情報発信🎵 フォロバ100💛💙💚」ブログより

 大和川付け替えが請願されてから約50年。1703年、幕府はついに付け替えを決定する。
 当初三年はかかると予定されていたが、工事は実際には8ヶ月足らずで完了した。
 工期が短くなった一つの要因は川底を掘り下げないで平地を川底にして左右に土手をつくる簡便な工法をとったことがある。それでも土地によって一筋縄ではいかず瓜破や浅香では台地を掘り下げるなど難渋を強いられた場所もあった。
alt

工事は分担して同時進行で進められた。幕府と各藩の請け負った工区。↑

 かかった費用は71,500両。現在で考えると約140億円である。幕府はそのうち37,500両ほどを負担し、残りを工事を任命された各藩が分担した。だが結果的に得をしたのは幕府で、旧大和川流域の新田開発の入札で幕府には37,000両ほどの収入があった。幕府の工費負担はこれでほぼ回収されている。こういう計算が成り立ったので幕府は大和川付替えを決断したのかもしれない。
 工事に要した人員は毎日1万人で日当も支払われている。
 旧大和川水系は新田に生まれ代わった。川床に開発された新田には砂地が多く、木綿の栽培に適していた。そこで綿花が盛んに栽培され、木綿栽培が盛んになった。
 現在旧大和川の上には学校やグラウンドなどの公共施設が多くあり、花園ラクビー場もその一つである。
 
 つい先日大阪の八尾市、東大阪市へ行った。そのとき柏原市を通ったが巨大な大和川の堤防を見た。ああこれが大和川付け替えの土手なのだなと実感できた。この巨大な土手ならどんな大洪水が来ても大丈夫のように思えた。なにしろ古墳時代から大阪は治水工事を営々として続けている土地柄なのである。大阪は水の都と言われるが治水の都と言ってもいいくらいだ。
 新しい大和川の土手はその後も補修されて立派な堤防となり大阪府民に散歩やサイクリングなどで利用されている。
 
alt 
 
 古町墓地 (柏原市古町)
旧大和川左岸の堤防上にあります。

これでやっと大和川と別れ、次回の、その③は一路「平群町」をめざします。それにしても大阪府を大和川が南北にど真ん中で分断しているとは驚きですね。しかも地元の熱心な請願が半世紀も続けられて実現したという。テレビの大河ドラマにしてもらいたいものです。
Posted at 2021/06/28 10:34:03 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 旅行/地域
2021年06月27日 イイね!

十三峠紀行 その①生駒山と奈良湖

生駒山に来るといつも巨大な幻の奈良湖を夢想してしまう。
かつて大和盆地は大きな湖だった。いまの大和盆地をすっぽりと湖底に沈めていたのがいわゆる「奈良湖」である。
奈良盆地は今から200~300万年前は「奈良湖」(大和湖)と呼ばれる湖であった。この湖は約1万年前まで存在した。
いきなり何を寝ぼけたことを言い出すのかと思われるかもしれません。
しかしこれは夢想でもなんでもなく事実そうだった。
現在の大和盆地近在に住んでいた縄文時代の人々は毎日目の前の大きな湖を眺めながらその湖畔で暮らしていたのだ。
alt


 大和盆地に存在した巨大湖に欠かせないのは現在の生駒山である。
 奈良湖が存在したのは大雑把に言えば生駒山が水をせき止めていたからである。
 生駒山がもしなかったら奈良湖もなくて今の大阪と大和(奈良)盆地を隔てる巨大な壁が消える。
 大阪と奈良は一つの巨大な平野だったはずだ。

alt

 
 「女町エレジー」という歌がある。吉野さくら、藤圭子、三笠優子など演歌系の歌手が歌っている。
  生駒山のいまの生駒聖天の風俗街、生駒新地の花街情緒を歌った唄だ。youtube で聞いてみてください。
  この唄の三番にこんな文句がある。
  
「山と山とに囲まれた ここは大阪奥座敷」
 
 たしかに生駒山は大阪から見れば東の突き当りだ。当たり前だが生駒山を境にして東が奈良、西が大阪ということになる。
 大正3年(1914)大阪上本町と奈良を電車で結ぶ鉄道が開通した。これが大阪電気軌道(「大軌」=今の近鉄の前身である)の奈良線である。生駒山を貫通して電車を通すトンネルが掘られ、奈良県側出口に「生駒停留所」が設けられた。この鉄道開通により大阪方面から生駒山中腹にある生駒聖天の宝山寺参詣者が急増。さらに大正7年には生駒停留所と宝山寺を結ぶケーブルカーが引かれた。宝山寺への急斜面の参道には飲食店、旅館、商店がひしめき、まもなく風俗遊興の場として花街が生まれた。
 alt

 生駒トンネル 1914年に開業した頃の旧生駒トンネル

宝山寺門前町は生駒新地とも呼ばれ、鉄道開通の翌年には早くも芸妓の置屋が大阪から進出した。
 そして生駒の料理屋、待合(まちあい)と芸者置屋の揃った「三業地」が形成される。大正10年には三業者が話し合って花街を仕切る「生駒検番」が創設されている。
 昭和5年には、モダンなダンスホールができてダンサーが100名もいた。
 この年の生駒新地の花街で働く芸妓、ヤトナ(酌婦)、ダンサー、仲居、女給が500人を超えていた。まさしく生駒は大阪奥座敷の歓楽街なのであった。いまその面影はほとんど失われている。以前、この「みんカラ」ブログに生駒宝山寺前の旧色街探訪のレポートを書いたと思うのでご興味のある方は過去の拙ブログを探してみてほしい。
 いまでも生駒新地に花街情緒を求めて訪れる風流な方もなくはないようだ。
 2015年02月16日
 奈良見物④「生駒新地」(宝山寺新地)。←拙ブログ。
  
 蛇足とは思うが生駒山の大阪側には八尾市、東大阪市がある。奈良県民も大阪府民も生駒山の半分は自分の領域なのである。
 東大阪市は もともとは布施市、河内市、枚岡市だった。この三市が合併して1967年2月1日に大阪府下31番目の市として発足している。余談だが私の知り合いのお琴の先生は「私の生まれたのは布施市よ」と今でも言っている。あとから合併してできた東大阪市という呼称にはどうにも馴染めない口ぶりである。
 
 またここで奈良湖に続いて二番目の湖について書くのはまことに恐縮だがちょっとだけよ、ということで。八尾市、東大阪市のあたり一帯は古代には河内湾と呼ばれる大阪湾の奥にある小さな湾であった。
 だが次第に海から分離して大きな湖となった。生駒山を挟んで東には奈良湖、生駒山の西には大和川の支流が広がる湿地帯と巨大な内海の「河内湖」があった。
 かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であった。
 その湖が大和川を経て上流から運ばれてくる土砂が堆積したことによって徐々に陸地化していったのである。
 生駒山西側の縄文人たちも奈良湖周辺と同様に河内湖を見下ろしながら生駒山山麓で暮らしていたのだろう。
 alt

 そのはるか昔生駒山は広大な海に頭だけを出している孤島だった。

 海面が徐々に下がるにつれて岩頭の裾野が広がる生駒山が姿を現してきた。
 
 それでもまだいまの奈良盆地は京都側の北に遮るものがなく開かれていた。そのためり大阪湾と奈良盆地は生駒山を挟んでひとつながりの海だった。
 
 海面がさらに下がるとこの北側の開口部が閉じられることとなりついに奈良盆地は周囲を山で囲まれて巨大な湖となったのである。これを奈良湖という。
 おおざっぱにいって縄文時代はこの奈良湖のあるような地形だった。
 なんでそんなことがわかるかと言えば考古学的な分析による遺跡調査の結果である。奈良湖の周辺ぐるりに縄文時代の遺跡があって時代の古い遺跡ほど標高の高い部分に残されている。私は叶うものならこの奈良湖の景観を一望してみたいものだと念願している。縄文時代の人々は実際に奈良湖の周りで魚を取って食料にしたり泳いで遊んでいたのだろう。
 もしかして大和平野の底に巨大なクジラの骨が眠っているのではないかと想像してみたりする。奈良盆地は奈良湖の前は間違いなく海の底だったのだから。
 alt

 また余談だが琵琶湖もかつては奈良湖のそばにあった。400~300万年前 琵琶湖の元となる湖は現在の三重県伊賀上野あたりにあった。それが地形変化によって北へ押し上げられて現在の滋賀県の位置まで移動したのである。この地形変化はいまも続いており遠い将来には大阪湾が次第に裂けて琵琶湖につながり琵琶湖も北に向かって裂けて日本海とつながる。九州も有明湾から阿蘇、大分にかけて裂けて瀬戸内海とつながる。こうした一連の地殻変動が予想されている。
 
 そんなアホなことがあるかと言われても地球の地殻変動は止められない。
 海に頭だけ出していた生駒山が地上に姿を現し琵琶湖が移動している。また巨大な奈良湖の底が抜けて大和盆地になっている。広大な湿地帯を灌漑した弥生人は今の田原本あたりに巨大な集落を形成し稲作を始めた。それが弥生時代最大の集落遺跡の唐古鍵遺跡である。また金魚養殖の盛んな大和郡山の無数の池は奈良湖時代のの名残なのである。 

 余談だが唐古鍵遺跡の、稲作文化と弥生人の関連を指摘した論文を書いたのは学歴も人脈もない極貧無名の考古学者の森本六爾である。森本は今の唐古・鍵遺跡の壺に残る一粒の籾痕から「弥生時代は稲作の農耕社会」と喝破した。だが不遇のうちに彼は34歳で世を去る。後に森本の卓見が認められて広まりいまでは定説になった。しかし弥生時代は稲作時代だったことを最初に見抜いた森本六爾の名を知る人は少ない。
 alt

 松本清張が彼を主人公にして「断碑」という短編小説を書いている。
 考古学に取り憑かれた短い人生と彼を献身的に支えた妻、森本六爾の考古学への執念。松本清張は彼独特の対象を突き放す冷徹な解剖学者のような視線で強烈な光彩を放った森本六爾の人生を切り取って見せてくれる。松本の筆致は無残なまでに冷酷で好きにはなれないが少なくとも森本六爾を世に出したのは彼の仕事の成果の一つである。
 この小説は松本清張が森本六爾のために書いた墓銘碑である。
 だが松本清張に文句をつけるのもおこがましいがもう少し暖かい視線で森本六爾夫妻を描けなかったのだろうかという気がしないでもない。 
 「断碑」は「或る小倉日記伝」(新潮文庫)に収載されれいる。この文庫には俳人の杉田久女をモデルにした短編も収録されている。ここでも杉田久女を最後は狂女扱いしているがあまりにも松本清張の筆致は冷酷である。というか冷酷に過ぎるのではないかと杉田の縁者ではないのだが恨みも言いたくなる。
 
 余談の余談だが司馬遼太郎は松本清張の文章を高く評価していた。
 日本語の文章を文芸作品から法律まであらゆるものを書ける文体にした作家が三人いる、と司馬遼太郎は言った。
 最初は夏目漱石である。次が松本清張、そして井上靖だと。その詳しい説明を司馬が問わず語りに語るのを聞いてどこかに書いたのだがその雑誌もどこかに行ってしまって確かめようもない。
 ただこの三人の名前を司馬遼太郎があげたことだけは記憶している。
alt

 

 生駒山に近づくと長い年月を集積した自然の営みが思い浮かんでくる。
 人間は自由に生きているようだが時間という空間の中ではそこらの草木と同じである。
 人間の暮らしを可能にしているのは悠久の時間の流れである。
 今吹いている風もまた縄文人の感じていた風と変わりはしないのである。

奈良湖の水は何故、どのように抜けたのか?
ここにもやはり生駒山が絡んでくる。
生駒山地の南端の信貴山と明神山・二上山の間を大和川が蛇行して大阪へ向かって流れている。大和川に流れ込んだ大和盆地を流れる156の支流の水はすべてこの峡谷に集まってくる。

ここを亀の瀬といい恐怖の地すべり地帯である。つまり何らかの原因によって生駒山地がこの部分で裂けたのだ。奈良湖の水はこの生駒山地の亀裂から一気に大阪へ向かって抜けていったのであろう。いくつかの画像をあげておいた。大和盆地には多くの水系があるがそのすべては亀の瀬を通る大和川に集約される。
もし亀の瀬が地すべりを起こして封鎖されたら上流の大和盆地では溜まる水が周辺一帯を飲み込むだろう。さらにダム湖を作った亀の瀬が決壊したら下流では山津波の大洪水が発生し被害は甚

大となる。alt


亀の瀬の奈良県側は香芝市、王子町、上牧町、三郷町、河合町、川西町、安堵町、斑鳩町、平群町などがある。もともとこれらの町は最後まで奈良湖の底の水溜りだった場所で水害の多い土地側である。
亀の瀬で堰き止められた水が一気に流れ込む大阪側はどうかといえばこちらも被害甚大となる。

大阪平野は大和川の河床よりも標高が低くなっている。亀の瀬が地すべりを起こして大和川の水を貯めた挙げ句、亀の瀬が決壊すると下流域の柏原市、藤井寺市、八尾市、松原市などを水が呑み込むだろう。
 大阪側の被害想定は国交省大和川河川事務所は金額にして4・4兆円と試算している。

十三峠紀行②へ続きます。
最後の画像の左上に「平群町」という地名があります。「平群」は「へぐり」と呼びます。十三峠はこの平群町にある奈良と大阪の境界峠です。次回は平群町を経て十三峠への道を紹介します。今回は前置きを書いていたらだんだん長くなってしまったので分割しました。

下のリンクは「宝山寺新地」(過去の拙ブログ)です。


Posted at 2021/06/27 15:11:15 | コメント(1) | トラックバック(0) | 奈良見物 | 旅行/地域
2021年03月26日 イイね!

炊飯器で調理

炊飯器でご飯だけでなく料理もできる、という知識は漠然とあった。
思っていても実行に移すには若干の決意のようなものが必要だ。それが起きるのを待っていてはいつまでたっても実行することは難しい。
行こう行こうと思っている場所へなかなか行けないでいたり読もう読もうと思っている本がいつのまにか何十冊にもなって積み上がっている。
炊飯器で調理もその一つである。
前置きはこのくらいにして実際にやってみました。
写真を二枚貼ります。
alt
最初の画像は材料を炊飯器の内窯に入れた状態。
具材はまず豚肉コマ切れと鶏肉。この肉は冷凍庫の隅に放置されていたものだ。つぎにじゃがいも二個、人参一本、キャベツ少し。具材はこれだけ。加熱が強いと想像されたのでわざと大きくごろごろという感じにした。肉は冷凍されて凍ったまま。

味付けは水400CCくらい、コンソメ角一個、塩小さじ軽く2分の1、黒胡椒適当、醤油大さじ1。迷ったのは醤油だが香りづけに入れてみた。

ふつうの米の炊飯の設定にしてスイッチオン。
そのまま放置。40分くらいでもうもうと湯気が上がっている。一時間たっても米炊き終わりのスイッチが切れないので強制終了。
そのできあがり画像が二枚目です。

alt
とてもやわらかく箸が大き目のじゃがいもにもすっと通りました。
味はもう少し塩が欲しかったかなという気持ち薄味でしたけどこれくらいでいいのかもしれません。
肉も柔らかく、野菜に味がしみてとてもおいしかったです。
次回つくるならキャベツの量をもっと入れるとか玉ねぎも入れたらと思っています。
Posted at 2021/03/26 09:49:40 | コメント(0) | トラックバック(0) | 身辺雑記 | 日記

プロフィール

「外国人の「外国免許切替(外免切替)」制度をめぐり短期滞在者がホテルの住所で日本の免許を取得することについて、ホテル滞在による「支障は把握していない」とする初の答弁書を閣議決定した。それで良いということだ。
日本保守党の竹上裕子衆院議員の質問主意書に25日付で答えた。無責任だろ。」
何シテル?   05/18 14:14
 趣味は囲碁、将棋、麻雀、釣り、旅行、俳句、木工、漆絵、尺八など。 奈良、京都、大阪、和歌山の神社仏閣の参拝。多すぎて回りきれません。  奈良では東大寺の大...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

掲示板

<< 2025/8 >>

     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      

リンク・クリップ

ホンダの黄色 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2016/01/17 09:30:57
美しき日本   奈良 五條市大塔町 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/01/14 11:02:55
稗田の環濠 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2015/01/13 11:56:14

愛車一覧

マツダ その他 マツダ その他
マツダ その他に乗っています。

過去のブログ

2025年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2023年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2022年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2021年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2019年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2017年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2016年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2015年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
2014年
01月02月03月04月05月06月
07月08月09月10月11月12月
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation