後始末
最近の学校教育のなかで「後始末」ということを教えているのだろうか?
といっても昔は教えていたものだろうか。少なくとも私の記憶では小学校で「後始末」という言葉を聞いたことがない。
そんなことはなんとなく自然に身に着けていたものだろう。
子供の教育というのは常識的に考えて、学校教育、社会教育、家庭教育とが噛み合って成り立っている。家での躾もしないで学校へ丸投げし何か問題が起こればどうしてくれるんだと学校へ責任転嫁する親もいる。学校教育も昨今のいじめ問題の放置状況をみれば教育現場の無責任体質も深刻だ。
とりあえずこれを読まれた学校関係者の方がおられるなら子供たちに「後始末」という言葉とその大事さを教えられることをお勧めする。
ネットでGOO辞書を見ると以下のような例文が出ていた。
・・・僕らはこういう静かさの中に――高山植物の花の香に交じったトックの血の匂いの中に後始末のことなどを相談しました。しかしあの哲学者のマッグだけはトックの死骸をながめたまま、ぼんやり何か考えています。僕はマッグの肩をたたき、「何を考えているのです・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・ 行違いに、ぼんやりと、宗吉が妾宅へ入ると、食う物どころか、いきなり跡始末の掃除をさせられた。「済まないことね、学生さんに働かしちゃあ。」 とお千さんは、伊達巻一つの艶な蹴出しで、お召の重衣の裙をぞろりと引いて、黒天鵝絨の座蒲団・・・ 泉鏡花 「売色鴨南蛮」
・・・二 とにかく、しかし、そんな大笑いをして、すまされる事件ではございませんでしたので、私も考え、その夜お二人に向って、それでは私が何とかしてこの後始末をする事に致しますから、警察沙汰にするのは、もう一日お待ちになって下さいまし・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・全世界の苦悩をひとりで背負っているみたいに深刻な顔をして歩いて、しきりに夫婦喧嘩の後始末に就いて工夫をこらしているのだから話にならない。よろず、ただ呆れたるより他のことは無しである。 剣聖の書遺した「独行道」と一条ずつ引較べて読んでみて・・・ 太宰治 「花吹雪」
・・・ 妹を引取って後も、郷里との交渉やら亡き人の後始末やらに忙殺されて、過ぎた苦痛を味わう事は勿論、妹や姪の行末などの事もゆるゆる考える程の暇はなかった。妻と下女とで静かに暮していた処へ急に二人も増したのみならず、姪はいたずら盛りの年頃では・・・ 寺田寅彦 「障子の落書」
文学作品の中の「後始末」の使い方である。芥川の書いているのは死骸の処理も「後始末」ということだ。たしかに、人が亡くなると遺体を後始末しないといけない。
同じGOO辞書には社会現象としての「後始末」も出ている。
原田龍二の不倫後始末に倣った“ゲス未遂”有村昆は人柄も真似られるか?
<岡山県人が伝える湾岸戦争の後始末>
フジロック 陽性者ゼロも問われる“後始末”PCR呼びかけ、追跡調査もなし…
失敗ばかりの夫の後始末はもうイヤ! と嘆く妻が「夫と結婚した理由」を思い出したキッカケ
https://news.goo.ne.jp/article/woman_excite/life/woman_excite-E1629652858323.html
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私が「後始末」ということを思い出したのは勘のいい人はおわかりだろうが此の夏のいやもっと前々からのバーベキュー問題である。勝手に里山や渓谷の河原にやってきてバーベキューを楽しみその後始末をしないでゴミを放置したまま帰る人がいる。なんとかこの状況を改善しないといけない。いったいどうすればいいのだろうか。
私はこういう問題を日本は国会や地方議会で真剣に議論すべきだろうと思う。こんな問題は次元が低いと言っている場合ではない。
旅の恥はかきすて・・・・。
後は野となれ山となれ・・・・。
日本の諺にはこういう言葉もある。だがそれを推奨するのではなく、そうしてはいけないぞという戒めだろう。
最近はなにかにつけて「人権」とか「権利とかわけもわからず自分のやりたい放題を主張する馬鹿者が多い。
「人権弾圧するな」「人権蹂躙だ」「人権を尊重白」「人権無視だ」などなど。
けっこうな言い分だ。
間違ってはいないかもしれない。
だがよく考えてみるべきだ。
こういうことが言えるのは国家が国民を十分に保護している国家体制があるから言えるのだ。そもそも国民の権利などは国家が国民に与えるものであって国家権力を超越した個人の権利が保証されているものではない。
だからいまのシナや北朝鮮のような独裁国家のなかで「人権弾圧するな、習近平、金正恩、よく聞け」などと叫んだら命の保証はない。日本の中ではマスコミや野党議員など虚偽捏造もどきで罵詈雑言、口汚くい罵倒を時の総理大臣に浴びせているがそれで逮捕されることはない。言論の自由、表現の自由は国家が保証しているからだ。
シナ・北朝鮮・ロシアなどは国民の生殺与奪権は政府の胸先三寸にあるという独裁主義国家だ。独裁政府に都合悪いヤツは即刻逮捕し拘束される。
日本ではそういうことはない。
日本という国家が個人の自由や権利を守っているからだ。
日本人は本人の自由意志に反することは国家によって強制されない。
だが国家なくして国民なし。
日本国民には国家を守る義務があるはずだ。
日本国と日本人、日本文化や伝統を破壊したり屈辱したり汚染したりする権利は誰にもない。
「後始末」という人としての当たり前の躾を家でも学校でも世間でも疎んじ忘れた感のある今の日本人。
ゴミ放置のバーベキュー問題にそのことが端的に現れている。
河原は国有財産だ国民には河原に入り遊ぶ権利がある。ごもっともな理屈をならべて河原の美化監視員を威嚇する者もいる。
バーベキュウする自由はあるがその自由は日本の河原や自然あってこそ可能となる。だから河原に入るものは河原に感謝し河原を守る義務がある。最低限でもベーベキューの後始末を努力義務だとすることを否定する人はいないだろう。
バーベキューをする自由だけ満喫しその楽しみを与えてくらた河原を汚し環境破壊させる自由はだれにもない。河原にゴミを捨て去り自然環境を汚染し毀損する行為は許されるのもではない。
プールや海岸で水泳を一日楽しんで帰るときにはゴミや食べ物の残飯や焼き肉のタレや缶詰空き缶や瓶やもろもろをプールの中や海岸にぶち撒けて帰る人がいるだろうか。誰も見ていない山や河原ならそうしても構わないと言うのは心の劣化だ。ゴミを捨てるのは人間そのものが人間ではなくもはやゴミなのだ。
わざわざ法律でこういうことを規制する必要もないのだが一応は「公序良俗」の遵守は法律行為でもある。
民法第90条は「公の秩序又は善良の風俗に反する法律行為は、無効とする。」としている。公序良俗は、契約の有効性を論じるときに、その社会的妥当性を判断する基準となる。
公の秩序は国家および社会の一般的利益を、善良の風俗は社会の一般的倫理をそれぞれ意味する。しかし両者は一体的に扱われるべきであり、両者を厳密に区別する実益はないとされている。裁判にあたっても、公序に反するか良俗に反するか、そのいずれであるかを決定する必要はない。(Wikipediaより引用)
立つ鳥跡を濁さず
人よりも鳥のほうが賢く立派に思える。
自然を汚し破壊したら自分たちの子孫が生きられなくなることを鳥は知っているからだ。