2009年07月07日
先日、エヴァの新劇場版「破」を見てきました。新キャラがどんな感じなのか、どう話に絡んでくるのかという点に最大の関心を寄せていたのですが、いざ開幕すれば、そんなことも忘れてしまうくらいに最後まで圧倒されっぱなしでした。さすがに「破」というタイトルは伊達ではなかったようです。「序」ではまだ独特の陰気臭さが残っていたのですが、あれはファンにかつての感覚を思い起こさせようとする呼び水としての意味があったのでしょう。「破」は見事に快活なストーリー展開(シリアスな場面もあるけど、とにかくひたすらアクティブでアグレッシブ)になっていて、エンターテイメント作品としては満点に近いと思います。
新劇場版では特に興味深い点が幾つかありました。まず一つ目は、新キャラの真希波・マリ・イラストリアスです。私は新劇場版に関してあまり予習をしていなかったので、このキャラについては絵を数点見たことがあるだけで、他には何の情報も得ていませんでした(ちなみに正確な名前もさっき調べて初めて知りました)。従来のキャラにはないような「軽さ」が感じられたので、「こいつぁ世界を引っ掻き回してくれるかな?」とワクワクしていたのですが、冒頭のパワフルなバトルこそ新たな時代の到来を予感させてくれたものの、その後の出演の仕方はどれもスポット的なものであり、重要なキャラとして扱われているようには見えませんでした。アスカの替わりに使徒に半殺しにされた時点では、「雰囲気だけじゃなく存在も軽いのかな」とさえ思ったくらいです。エンドロールを見ている最中も、このキャラは何のために登場したのか、もっと別の使い道があったのではないかと、私は首を傾げざるをえませんでした。ところが、次回作の予告を見てから、その認識は一変しました。それというのも、どうやらエヴァは量産型でないタイプが更に数機登場するらしく、その流れから行けば新キャラも複数人追加されることが予想されるからです。マリは単に他の新キャラの先陣を切ってスクリーンデビューしただけであり、本当の見せ場はもっと後に用意されているのかもしれません。この点は、次回作に対する希望の一つとして、脳裏に留めておきたいと思います。
次に気になったのが、アスカの出演です。私は今回の新劇場版ではアスカが出ないと聞いていたので、マリがその代役なのだろうと予測していたのですが、意外や意外、ごく早い段階でアスカが当然の如く登場したではありませんか。他の人にとっては別に何ということもないのでしょうが、何も知らなかった私にとってこれは衝撃的なサプライズでした。シンジよりも自閉的なこのキャラが如何にして精神崩壊への道を辿っていくか、それが私の心に残っているエヴァという作品だったりします。そして、彼女が如何にして健全な精神を取り戻すのか。この点こそ、テレビ放送終了後からずっと胸中に引っ掛かっている最大の関心事でもあるのです。新劇場版のアスカはテレビ版に比べてほんの少しだけ素直さがアップしているようであり、心を開くタイミングが早く、しかも自発的にそれができた点に好感が持てます。結局は物語の後半でお約束通り悲劇のどん底に落とされてしまうのですが、きっと次回作では元気に復活することでしょう。旧劇場版であった「死亡フラグ的活躍」や「気持ち悪い蘇生」などはもう必要ありません。もしアスカに対して以前と同じように見せしめ的な扱いをするのであれば、私はこの新劇場版四部作を「製作者連中の同窓会」とか「集金目的のリメイク」という風に評価するでしょう。いい歳をした大人が作るアニメとして、最低限のモラルは守っていただきたいところです。庵野総監督にも10年分の成長の跡(技術的にも精神的にも)を期待したいですね。
もう一つ、どうしても腑に落ちなかったのが、不要と思える演出が幾つか散見されたことです。シンジとアスカを入れ替えた風呂上りのサービスシーンはまだ笑えましたが、マリとシンジが初めて出会う際のドタバタ劇やアスカの寝相の描写、カヲルの「今度こそ君を幸せにするよ」という台詞などには軽く引いてしまいました。どういう視聴者を想定してあのような映像・台詞を挟んだのかよくわかりませんが、少なくともお金を払って見る作品としては無駄な部分だと思います。セクシーとイヤラシイは紙一重です。ユーモアと悪ふざけも紙一重です。プロであるならば、その辺の演出はキッチリ分けてほしいものです。
幾つか気になる点があったとはいえ、今回の「破」は総じてハイレベルな内容に仕上がっていると思います。板野サーカスばりに飛び交うミサイルや全線一方向に進む列車の群れ、羽虫が如き膨大な数のヘリや丘陵地帯に広がる霊園の異様にして寂寞たる様など、アニメでしか表現できない映像に関しては相変わらず卓越したセンスが感じられます。使徒たちのデザインが一新され、不気味さと派手さがより高まった点も良かったです。ドラマに関しても、オリジナルとリファインの配分、シリアスとコメディの配分が丁度良い塩梅で、テンポ良く楽しめました。やはり、ハリウッドのSF映画や日本のテレビドラマよりも、エヴァのようなクオリティの高いアニメの方が、私は素晴らしいと思いますね。
正直に言うと、今回の「破」を見終わった後である種の違和感を覚えたのも事実です。「快活なエヴァが見たい」と以前ブログにも書きましたし、実際その点では満足できたものの、面白いと感じた割にそれほどスッキリした気分になれなかったのです。映画館から出るまでの間、私は色々考えて「歳を取ったせいだろう」と結論付けようとしたのですが、入り口に貼ってあった劇場版グレンラガンのポスターをふと見たとき、その違和感の意味が理解できました。「ああ、この『破』は21世紀の作品なんだな」と、「90年代のあの熱気はもう再現できないのだな」と、その理不尽とも言うべき懐古の情こそが違和感の原因でした。テレビ放送終了後から「Air / まごころを君に」が公開されるまでの間、ネット上や同人市場で氾濫した批評論文・アンソロジー作品の殆どは、行き場を失った希望や嘆きや怒り、そして本当の結末が知りたいという切実な欲求に満ち満ちていました。あの当時の混沌とした熱さを、私は心のどこかで期待していたのかもしれません。しかし、「序」にしろ「破」にしろ、新劇場版は現代のアニメとして誰が見ても真っ当に楽しめる内容になっていました。私はその真っ当さに馴染めなかったというわけです。
次回作の「Q」(ウルトラシリーズと掛けたのかもしれませんが、すごいネーミング)では更にエンターテイメント性が増幅するはずであり、旧作との乖離は益々進むことでしょう。アニメ業界ではそう何度もないせっかくの盛り上がれるイベントなのに、このまま昔の思い出に囚われていたのでは私も損をしてしまいます。なので、新劇場版には全く別の作品として期待を寄せたいと思います。願わくば、「トップをねらえ」を初めて見たときのような壮大な感動が得られんことを…。
Posted at 2009/07/07 04:39:03 | |
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2009年07月02日
中編に引き続き東方儚月抄について述べてみたいと思います。
先月末に小説版の最終話後編が発表されたことにより、東方儚月抄はやっと完結する運びとなりました。紫の動機が遂に明らかにされたことから、今回は概ね良い反応を得ているようで、長きに亘ってファンを賑わせてきた儚月抄騒動も、これで沈静化することになりそうです。事の是非はともかく、活発な議論が終息することに一抹の寂しさを覚えてしまうのが正直なところですね。もう暫くしたら新作の「東方星蓮船」と弾幕資料集の「Grimoire of Marisa」がリリースされるでしょうから、それまでは期待に胸を膨らませておきたいと思います。
今回の後編は、その大部分を5月頃に執筆しており、内容に関して遅きに失した感があるのは事実です。私自身、書いていることが正しいとは思っていないので、「こんな見方もあるんだな」程度で参考にしてもらえれば幸いです。東方儚月抄とは何だったのか、蓬莱山輝夜とは如何なる存在なのか。荒ぶる独り善がりの妄想もこれが最後です。華麗にスルーできる方は、この先へお進みください。
■本音の裏側
2007年11月、一橋大学の学園祭においてZUN氏は興味深い発言をしています。それは「永夜抄のキャラクターは幻想郷の住民にとって謎が多いので話が作りづらい」という内容であり、続けて「儚月抄でキャラの謎がわかれば扱い易くなるかもしれない」とも語っています。恐らくこれは学園祭という気楽な場で自然に出たZUN氏の本音だったのでしょう。しかし、よく観察してみれば、この発言にはある種の矛盾が指摘できます。それというのも、使いづらいという割に鈴仙や永琳のゲームでの出演回数は多いからです。何か異変が起きた際に鈴仙が現場に出動して後で永琳に状況を報告するというパターンは、それぞれの立場を考えれば妥当であり、花映塚でも緋想天でも二人が出演することに違和感を覚えたプレイヤーは少ないはずです。逆に、両作品でも輝夜の出番が全く無いことに疑問を感じた人は少なくないはずです。ZUN氏は永夜抄のキャラクターを一括りにして「使いにくい」と表現していますが、実際のところ本当に扱いに困っているのは輝夜だけなのではないでしょうか。
そもそも、ZUN氏は同年9月の時点で小説版儚月抄の第二話を書き終えています。そして、作中で「余り昔の事は思い出したくもない」と輝夜に言わせることによって、例の事件について詳細に描くことを事実上放棄しています。この点を考慮した上で先の学園祭での発言を振り返ってみれば、ZUN氏が輝夜をどう認識しているのか、およそ理解できると思われます。永夜抄から儚月抄へと引き継がれた懸案事項であり、結局は儚月抄でも解決できなかった難題。それは蓬莱山輝夜の処遇だったのです。
■厄介な個性
何故、ZUN氏にとって輝夜は扱いにくい存在なのか。これに関しては主に二つの理由が考えられるのですが、まず挙げられるのは心情的な問題です。ZUN氏は永夜抄のおまけtxtにおいて「永遠にぬるい作品が好き」と述べています。東方シリーズは確かに物騒で凶悪な能力と自己中心的な性格を持つキャラが多数登場しますが、作品総体としてはどれも熱さと暢気さ、アイロニーとジョークが絶妙に交じり合った味わい深い内容を呈しています。一言で表すなら、余裕を感じさせる、といったところでしょうか。東方シリーズはその余裕があるからこそ、ここまで絶大な人気を得ることができたのだと思います。しかし、そんな優しく温い世界の中で、輝夜だけは月の追手から逃げ続けなければならないというシビアな状況下に置かれています。また、輝夜自身も周囲の人々を悲劇に巻き込みながら永遠に生き続けるという業の深いキャラであり、その経歴にはシリアスな要素が多分に含まれています。もしこのようなキャラを真面目に描こうとすれば、東方本来の余裕や温さが損なわれるのは当然と言えるでしょう。つまり、ZUN氏が輝夜を敬遠するのはその背後に漂っている暗い雰囲気を苦手としているからだと考えられます。
もう一つ、輝夜が扱いにくい理由として挙げられるのは作業面での問題です。輝夜はかぐや姫本人であり、月の王族の一人とされています。しかし、一口に姫様といってもそれを読者に納得させるには高いレベルでの描写力が要求されます。例えば、東方の世界では約二名のお嬢様が登場しますが、それは飽くまでも私人としての身分であり、広大な屋敷と大勢の召使さえ描いておけば一応お嬢様として成立します。一方、姫様とは公人であり、君主・王家・家臣団・一般民衆など、その身分を支える政治環境・社会構造を一通り表さない限り姫様であることは証明できません。これまでの作品群を見る限り、ZUN氏はキャラクター単体を創作するセンスは抜群でも、公共の組織や団体、及びそれらが機能・存続するためのシステム等を体系的に説明することはあまり得意でないように見受けられます。しかし、輝夜=月の姫を確立させるためには、そうした複雑かつ合理的な設定を数多く構築する必要があり、同時にそれらを的確に描写するという地味で面倒な作業もこなさなければならないのです。ZUN氏が月姫時代の輝夜とそれに直接関係のある人物や周辺環境などを殆ど描かないのは、そうした慣れない作業に対する煩わしさがあるからではないか、とも考えられます。
■再び問う、東方儚月抄は失敗作だったのか(総括その1)
一橋大学でのZUN氏の発言通り、STG本編に永遠亭絡みのストーリーを盛り込み易くするためには、まずその存在を幻想郷に馴染ませる必要があります。何故竹林に住むようになったのか、何故永夜異変を起こしたのか、つまりは輝夜の正体と過去の経緯を幻想郷の面々に正確に理解させることができれば、晴れて住民として認められ、異変を解決する側に参加させることも可能になるでしょう。そして、本来ならば儚月抄がその絶好の機会となるはずでした。儚月抄は漫画と小説の同時進行という形式のおかげで月関連の複雑な設定も相互にじっくりと補足説明することができますし、外伝的な作品であることからシリアス感を前面に出してもファンから非難される恐れがありませんでした。要するに、連載開始直前の時点では輝夜という難題を克服するためのお膳立てが完璧に整えられていたのです。実際にZUN氏がそれに取り組もうとしていたことは、当時のブログを読めば容易に推測できます。そこで記されている「割と重いところも出てしまいそうですが…」という一文は、従来の牧歌的なストーリーを好むファンへの警告であると同時に、苦手な作業に着手しようとするZUN氏の覚悟の表れであったとも言えるでしょう。
極論すれば、第二次月面戦争というイベントを軸として、今まで言及されていなかった月関連の設定を明らかにすること。そして、輝夜と永琳が月への未練を絶って完全に幻想郷の住民となるまでの物語を作ること。これこそが、当初ZUN氏が儚月抄でやろうとしていたことだったのではないでしょうか。そう考えれば、永夜抄の続編という看板も成立しますし、儚月抄というタイトルも「輝夜たちにとって月の存在が儚くなる物語」という意味で理解できます。また、何かしらの策によって輝夜たちに月との関係を清算させ、幻想郷にその脅威が及ばないようにすることが紫の目的であったとすれば、わざわざ危険を犯してまで再び月に手を出すことの動機にもなりますし、住民税という言葉も生きてきます。たまに「ZUN氏は何も考えてなかったのでは?」という意見を目にすることがありますが、ブログ内や作品内に散らばっているキーワードを読む限り、全体の大まかなイメージくらいは想い描いていたものと思われます。むしろ、そのイメージを満足できるレベルで実現するには仕事量的に困難であると判断したか、あるいは何らかの理由により早い時期から物語の内容をすり替えてしまった=プロット変更説の方がまだ信憑性が高いと考えられます。そして、作品のデータ量を減らすためにZUN氏が真っ先に削除したのが最も面倒な存在である輝夜とそれに関連する事柄だったとしたら、作品の中盤以降が何故あれほどまでに冗長な内容になったのか、簡単に説明できるというものです。つまり、ロケット組と依姫の戦闘が異様に長かったのは輝夜が退場した後の物語の尺を埋めるためであり、紫が言うところの「美しき幻想の闘い」が単なる空き巣同然の行為にまで成り下がったのは、「輝夜たちに月との関係を清算させる」という当初の目的が果たせなくなったからだ、ということです。例えば、儚月抄を非難する際によく槍玉に挙げられるフェムトファイバーですが、このアイテムも本当は輝夜か永琳を捕縛する場面で登場する予定だったのではないでしょうか。永遠亭の出番が無くなったことでお蔵入りとなるはずだったフェムトファイバーは、しかし公開しないままでは勿体無いということで急遽復活させられ、これまた尺を埋めるために使われたのだとしたら、あの長い薀蓄の披露も理解できます。
作画や構成の拙さばかりを論って儚月抄を失敗作と評価する人をよく見かけますが、私はそのような意見には同調しかねます。仮に演出面が完璧だったとしても、あのストーリー内容ではやはり「ZUN氏は何がしたかったの?」という疑問が生じていたことでしょう。ゲームであれ漫画であれ小説であれ、全ての創作物は製作者の抑えきれない欲求や衝動によって形作られていくものです。そして、儚月抄におけるそれが「永夜抄の補完」や「月世界へのケジメ」であったろうことは先に述べたとおりです。しかし、実際は作品の核となるはずだった輝夜を初期段階で舞台から下げてしまい、それに替わる別の主役・テーマも用意しなかったことからストーリーの収拾がつかなくなり、遂には補完もケジメも半端な形でしか実行できなくなってしまった…。もっと言うなら、クリエイターとして表現の幅を広げるためには苦手な課題(シリアスな物語)を克服する必要があると知っていたにも関わらず、それを途中で諦めて、いつもの慣れた手法で作品を片付けてしまった…。狭隘な幻視かもしれませんが、私にはそのような翻意こそが制作上の最大のミスであり、この作品が抱える最大の問題だと思えてならないのです。
永夜抄に次いで儚月抄でも、月と輝夜を描き切ることができなかった。
いつの日か、それが真実であると判明するのであれば、そのとき初めて儚月抄を失敗作と呼べるのではないでしょうか。
■蓬莱山輝夜とは何者なのか(総括その2)
儚月抄について妄想を晒すのは以上で終了です。しかし、ここまで読んでいただいた方の多くはあるおかしな点に気付いたのではないかと思います。そのおかしな点とは「どうしてZUN氏は自分でも扱いに困るようなキャラを生み出したのか」ということです。その答えはもちろん「本人のみぞ知る」なのですが、折角の機会ですから最後にもう少しだけ突飛なイリュージョンを語っておきたいと思います。
東方シリーズのキャラを分析すると、一部の者達にはメタ的な役割が与えられていることがわかります。
○霊夢・魔理沙…東方シリーズの象徴
○紫…幻想郷の象徴
○アリス…ZUN氏の少女趣味の象徴
○文・霖之助・阿求…ZUN氏の分身
○レミリア・咲夜・幽々子・妖夢…いろいろと便利なキャラ
個人的な見解なので賛否両論あると思いますが、少なくとも上記の者達は紅美鈴を筆頭とする「その他大勢」とは明確に待遇が異なっており、そこには何かしらの理由があると考えられます。こうした比較の俎上に載せたとき、果たして蓬莱山輝夜にはどのような役割が見出せるのか、その辺について以下に記してみました。
輝夜について考察する際、一つ確かなことは、このキャラクターは最初から特別扱いされていたということです。例えば輝夜は「永遠と須臾を操る程度の能力」を具えていますが、この「永遠」とはWin 三部作のラスボスに共通するファクターでもあります。レミリアが永遠に等しい時を生きる者、幽々子が死して永遠を得た者だとすれば、不老不死の肉体と絶対不滅の魂を持ちながら時の流れさえも操ることができる輝夜は、まさしく永遠という概念の権化であると言えるでしょう。また、ストーリー上でも異変の実行犯である永琳を倒さなければ会うことができず、頑張って五つの難題をクリアしても最終的にはプレイヤー側が「永夜返し」をひたすら耐え続けなければならず、どう見ても輝夜を撃破して懲らしめるといった内容にはなっていません。ZUN氏が月人を妖怪や一部の神様よりも上位の種族として設定しているのは周知の通りですが、それでも輝夜の不可侵性は常軌を逸しています。つまり、永夜抄のラスボスである輝夜は同時に三部作の大トリという役も担っており、倒すべき敵というよりも「僕が考えた究極の生物」としての地位が与えられているのではないかと考えられるのです。
次に輝夜の特殊な点を挙げるならば、それは創作物語の主人公であるかぐや姫を元ネタにしていることです。僅かながらもいまだに存在が信じられている妖怪や神様と違って、かぐや姫は平安時代も現代もフィクションの人物として認知されています。河城にとりや多々良小傘などが民間伝承や説話を基にした秀逸なアレンジキャラだとしたら、蓬莱山輝夜は完全な二次創作キャラと言えるでしょう。有名な神様ですら好きなように改造してしまうZUN氏が、元ネタをそのまま流用するのは珍しいことであり、ともすれば「かぐや姫>輝夜」という風に見ることもできます。小説・漫画・映画など様々な分野で過去に何度もリメイクされたことからもわかるように、竹取物語には日本人の心に強く訴えかけるものがあるらしく、ZUN氏もまたその魅力に惹かれた一人だったと考えられます。このように、他の物語に対する個人的な感情を色濃く反映しているという点で永夜抄は特異であり、民俗学的というよりは文学的な素質が強いという点で輝夜は特殊だと言えます。
そして最後に、輝夜を最も際立たせているのがその陰影に富んだプロフィールです。基本的に幻想郷はカオス&フリーダムな世界であり、現代的な倫理や道徳を超越した世界観で描かれていますが、輝夜だけは明確に罪人として設定されています。人を喰っても問題なし、他人の物を盗んでも問題なし、出会えば戦闘、終われば酒宴が当たり前の奔放な世界において、そもそも罪という観念自体が珍しく、そうしたネガティブなイメージが付与されている点こそ他のキャラと一線を隔している要素だと言えます。また、輝夜の周囲にはとかく死の匂いが立ちこめています。竹取物語の中でも多くの人物が不幸な最期を遂げますが、その他にも永琳と共謀して月の使者を皆殺しにしたり、自分自身も例の事件の際に処刑されていたりと、血生臭いエピソードには事欠きません。元ネタのかぐや姫ですら多少ダーティな側面があるのに、それが更に強調されている点には、輝夜のアイデンティティをシリアスな方面で確立させようとするZUN氏の意図が見て取れます。
以上のように輝夜の特徴を並べてみましたが、それらを要約すると次のようになります。
○優遇というよりは隔離に等しいくらい特別扱いされていること
○二次創作的な傾向が強く、キャラとしての素質が文学的であること
○悲劇のヒロインであると同時にアンチヒーロー的な性格も兼ね備えていること
ここから導き出される輝夜の役割とは何なのか。恐らくそれは「JOKER 」(例外的かつ反則的な切り札)ではないかと思われます。例えば、ギャグ漫画ばかり描いてきた作家が、ある時ふと真面目な作風に挑戦したりするのはよくある話です。また、激しい曲ばかり演奏してきたロックバンドが、突然甘美なバラードを作ったりするのもよくある話です。それに倣えば、旧作時代から小粋で軽妙洒脱なファンタジーを連綿と作り続けてきたZUN氏が、Win三部作のラストという節目に際して、初めて真に迫るようなキャラクターを世に出そうと企んだとしても、不思議なことではないでしょう。つまり、従来のようなアルコール成分が強い趣味的なキャラクターではなく、クリエイターとしてのエゴによって生み出された理想主義的なキャラクター。それが蓬莱山輝夜の正体なのではないでしょうか。
「輝夜は出オチのキャラではないか」という意見を見かけることもありますが、ルーミアや秋姉妹などに比べればまだ出番がありますし、なにより扱いにくさを改善するためにわざわざ儚月抄という外伝まで用意されたことを考えれば、やはり一定の配慮を受けているキャラだと言えます。問題は、その成り立ちが理想主義的である(単なるゲームキャラとしては土台となる設定やバックストーリーが壮大すぎる)ゆえに、どの作品でも魅力を充分に表現しきれていないことです。過去の事象に一切の価値を認めず、永遠に続く人生の虚しさにも囚われることがなく、ひたすら興味の赴くままに行動するという狂気にも似たポジティブさ。周囲の人々を悲劇に巻き込んでも特に悪びれることがなく、月でも地上でも孤立していながら、それでもなお我を貫き通すという破格のメンタリティ。そして、上で記したような異質な個性の数々。もしこれら全てを一つの作品内で描ききることができれば、輝夜は東方という枠を越えて評価される傑作キャラクターと成りえたことでしょう。しかし、それを証明するための作業は、永夜抄でも儚月抄でも未遂に終わってしまいました。東方史上で唯一、ZUN氏本人ですら設定を持て余したキャラクター。蓬莱山輝夜にはそんな二つ名が相応しいのかもしれません。
■さいごに
前・中・後に渡って有頂天気味な文章を書いてきましたが、物語が完結した後で改めて振り返ってみれば、儚月抄とは割とシンプルな作品だったのではないかという気がします。いつも自信満々の永琳が気に喰わないという理由で、永琳の意表を突くことを目的に紫が騒動を起こしたのだとすれば、話の筋は大体通っていると思います。残念なのは、妖怪の賢者ともあろう者が月人コンプレックスに苛まれているようにしか見えないことと、月の頭脳とまで呼ばれた者がいとも容易く翻弄されていることです。これでは「美しき幻想の戦い」どころか、町内会でのおばさん同士のいざこざと大差ないと言えるでしょう。
小説版の最終話で輝夜と霊夢が哲学的な会話をしていますが、あれこそ物語の主題にすべき事柄だったはずです。永い時を生きるがゆえに「何も変化のない生活こそ素晴らしい」という月側の思想と、刹那の時を生きるがゆえに「ハプニングや快楽を求めてこその人生だ」という地上側の思想。この両者の対立と融合を描いていれば、物語はより良く深化し、最終的には高い評価を得られたのではないかと思います。そして、月人の高尚さを充分に理解していながら下賎な人間の生き様に興味を抱いて地上に降りてきた輝夜は、やはり主人公を務めるべきキャラだったのではないかと思います。どこまでも高潔な月夜見と、どこまでも俗物な紫と、その間で思索を巡らせる輝夜。人間であることに何の引け目も感じていない霊夢・魔理沙と、元月の住人としてのプライドを捨てきれない永琳・鈴仙と、その間で揺れ動く輝夜。似たような罪を犯したために幽閉されている嫦娥は、己の人生をどう思っているのか。あらゆる物事から適切な距離を保っているがゆえに最も客観的な視点を持つてゐは、輝夜のことをどう見ているのか。同じ不老不死の身でありながら人間らしい感情を失わない妹紅は、輝夜とどこが違っているのか。このように輝夜を中心に据えてキャラ・ストーリーを展開していれば、儚月抄は大型企画の名に恥じない作品となりえたでしょう。しかし、ZUN氏が選んだのは地上側の価値観による一方的な問題提起と解決でした。端折って言えば、「地上の価値観>月の価値観」という序列を明確にしただけ、ということです。生きることに対して何ら不安や恐怖を抱いていない永琳のどういうところが幻想郷にとって不都合なのか。生きていくうえで不安や恐怖が大事というなら、永琳よりも更に泰然自若な輝夜を何故紫は放っておくのか。思わせぶりな言葉が鏤められているだけで、これらの疑問に対する直接的な答えは小説の中に見当たりません。そもそも、人間が妖怪を恐れるというのは幻想郷においても建前に過ぎず、霊夢・魔理沙・咲夜・早苗が妖怪に恐怖を抱くようなシーンは今まで無かったりします。これでは個人的な対抗心から紫が永琳に目を付けたと見なされても仕方がないと言えます。人の生死に関してZUN氏に何らかの思想があることは理解できます。そして、それを物語の中で表現しようと試みていたことも読み取れます。ただ、月刊ペースで約2年・全21話(小説は約2年・全8話)というスケールメリットを活かそうとせず、いつも通りの小洒落た内容(期間が長いだけに薄味とも言える内容)に作品を仕立てたことを、とても残念に思うのです。
心の底から伝えたいことがあるなら、出し惜しみせず、素直にストレートに表現する必要があります。逆に、自分がイメージするところを正確に伝えたいのなら、最初から最後まで、1シーンも一台詞も無駄にしないだけの緻密さが要求されます。儚月抄を制作するにあたり、ZUN氏がどちらのスタンスで臨んだのか、定かではありません。しかし、その真意がファンにあまり伝わっていないことは、紛れもない事実です。この辺についてZUN氏がどう考えているのか、非常に興味深いところです。
ZUN氏は東方シリーズに関して「今後はゲーム以外で展開しない」と某所で語ったそうですが、私はその発言をあまり信じていません。それというのも、このまま創作活動を続けていけば、いつか再びゲーム以外での展開が必要になってくる(ゲーム以外の作品を作りたくなる)はずだからです。どれくらい先になるのか予想もできませんが、ZUN氏がもう一度長編漫画か長編小説に挑戦することを、私は密かに期待しています。もしそれが実現すれば、そのときはファンを感動の嵐に巻き込んでくれることでしょう。少なくとも私にとって東方儚月抄とは、そういう予感を抱かせてくれるだけの価値がある作品でした。
Posted at 2009/07/02 16:45:16 | |
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2009年04月17日
前編に引き続き東方儚月抄について述べてみたいと思います。
去る4月9日、東方儚月抄~Silent Sinner in Blue は最終回を迎えました。そのあまりにも暢気過ぎるエンディングは色々な意味で衝撃的であり、今やファンの間では憔悴し切った後の爽やかさにも似た平穏な空気が広がりつつあります。もっとも、大方の耳目は既に次回作である星蓮船に向けられていて、もはや儚月抄は忘れ去られ始めているというのが実情でしょう。確かに星蓮船は面白そうです。製品版がリリースされれば、ZUN氏に対する信頼はすぐに回復するのではないでしょうか。
しかし、世間が次のフェイズに移ったとしても、ここではもう少しだけ儚月抄について語っておきたいと思います。何故なら儚月抄は「今後はゲームに専念する」とZUN氏に言わしめた作品であり、東方史上の最大の問題作として今後も名を残すことになりそうだからです。果たして東方儚月抄とは一体何だったのか、今回はその前身である東方永夜抄について私見を並べてみました。
(なお、本稿は最後の章だけが前編と後編の橋渡しになっていますので、永夜抄に興味が無い場合は途中を飛ばした方が良いかと思われます)
■原典としての竹取物語、オマージュとしての東方永夜抄
永夜抄は東方Projectの第8弾として2004年8月15日に発売されました。本作品は先行の紅魔郷・妖々夢と共に「Win三部作」と呼ばれていて、それまでの主要キャラが総出演する決算的な内容になっています。システム面では自機が人間と妖怪のペアであることや、刻符の取得成否によって時間が進行するという点が特徴的であり、また全体的に難易度が低いことから入門用として購入されることも多いようです。某アンケートの集計結果によれば、歴代作品の中で最もプレイ率が高いらしく、そういった意味では東方シリーズを代表するタイトルとも言えるでしょう。
最初の靈異伝から現在制作中の星蓮船まで、東方Projectの作品は毎回のようにシステムが変わるので、STGとして見れば永夜抄だけが特異なわけではありません。しかし、もう一方の大事な要素であるストーリーに注目した場合、永夜抄には明確な違いが認められます。それは、この作品に限って別の創作物=竹取物語の続編として成り立っているということです。世界中の妖怪や神様とそれらに関する逸話等を元ネタにしつつ、大幅なモディファイを加えることで全く別物に仕上げてしまうのがZUN氏の手法ですが、永夜抄においてはストーリーもキャラクターも原作である竹取物語を損なわぬよう造形されています。元ネタに対する敬意が垣間見えるという点では、永夜抄ほど律儀な作品もないでしょう。
■幾つかの謎
原作付きであること以外でも、永夜抄にはある種の異質さが指摘できます。まず一つ目は、ゲームをクリアしても実質的な勝利が得られないことです。永琳ルートでは目的を達成できず強制的に敗北させられますし、輝夜ルートでは両者痛み分けという形で終わってしまいます。スペカ取得による達成感は得られるとしても、ストーリー上のカタルシスは最後まで味わうことができないのです。楽しんでもらうことが前提のゲーム作品として、これは奇妙な結末と言えるのではないでしょうか。
次に、永夜抄では新たに月という勢力が登場しますが、この月が地上と対立する存在として描かれていることも特殊です。各作品の敵勢力および首魁達が挑戦的な態度を取るのは己の力に自信を持っているからですが、永琳と輝夜は単に種族的な差別意識から主人公達を見下してきます。最終的にはお約束の宴会エンディングを迎えるのですが、それは輝夜達が月人としての立場を捨てたからであって、決して幻想郷の住人がそれを受け入れたからではありません。毎度新しい世界や価値観を提示し、それらと幻想郷を共存させることで多様性を深めていく東方シリーズの中にあって、月と幻想郷が相容れぬままに物語が終息する永夜抄は、明らかにセオリーから逸脱していると考えられます。
また、永夜抄では「穢れ」という概念が出てきますが、その内容は神道のそれと全く同義ではなく、ZUN氏独自の理論も加味されているようで、地上と月を分け隔てるファクターとして重要視されています。しかし、次回作の花映塚が仏教的な死生観をテーマにしつつ、それをきちんと活かした上で各ストーリーを完結させているのに対し、永夜抄における「穢れ」は、月や月人が如何に神秘的な存在であるかを煽る役目しか果たしていません。このように、本来ならストーリー上の背景に過ぎない月に関して、作品内で説明し切れないほどの複雑な設定が盛り込まれているのは、偏にZUN氏の月へのロマンが横溢しているからであり、その表現に洒落や皮肉が殆ど見られないことは、東方シリーズの作品として例外的なケースだと言えるでしょう。
■ZUN氏が永夜抄で狙ったこと
以上のように並べてみると、永夜抄が歴代と比較してかなり毛色の違う作品であることがわかります。特に永遠亭の面々や月に関する設定は従来の東方シリーズらしからぬシリアスさを帯びていて、ZUN氏の素面な側面やある種の拘りが見て取れます。ここから推測できるのは、永夜抄とは妖怪談や御伽噺を元ネタにしたSTGではなく、STGの体裁を取った設定資料集だったのでないか、ということです。あるいは、ゲームとしてのエンターテイメント性を追求した作品ではなく、物語としての構想を優先させた作品と言えるのかもしれません。難易度が全体的に低めであったり元来否定的だったスペルプラクティスモードを敢えて導入したのも、集大成的なお祭りムードを盛り上げつつSTGとしての部分を合理化し、その分だけストーリーや設定の方に重心を移そうとしたからだとすれば辻褄が合いますし、永琳や輝夜が完全な敗北を喫しないのも、月の偉大さを描き切るためだと考えれば納得できます。
ZUN氏の過去の発言や永夜抄のおまけtxtを振り返ればわかるように、東方永夜抄はWin三部作のトリとして、最初からヒットすることが見込まれていました。ただしそれは、人気や売り上げの拡大を望んでいたという意味ではなく、ゲームクリエイターとしてもう一段ステップアップできることを期待していた、ということだと思われます。弾幕STGというジャンルにありながら古典文学の続編という形を成し、音楽やビジュアルによる楽しさだけでなく「満月」「永遠」「穢れ」等の哲学的・民俗学的な深さをも併せ持つ、真に傑作と呼ばれるような作品を作ること。そして、そういった高いレベルでの広範な評価を得ること。それが永夜抄製作におけるZUN氏の狙いだったのではないでしょうか。
■残された課題
永夜抄がどれほどの成果を収めたのか、ここで改めて述べる必要はないでしょう。紅魔郷や妖々夢の人気によって急速に拡大しつつあった東方関連の同人市場において、満を持して投入された永夜抄は、必ずしも東方史上最高傑作という評価を得たわけではないものの、ファンの間で広く受け入れられることとなりました。前二作のボス連中を自機として使えることや霊夢や魔理沙とも戦えることなど、キャラが好きでSTGが苦手な人にもコントローラーを手に取らせる魅力があり、また月人がそれまでのラスボス以上に強大でやたら偉そうなことから二次創作の敵役として扱い易かったり、竹取物語と融合させた三次創作が作り易かったりしたことも、人気を獲得できた要因として挙げられるでしょう。
しかし、いくら作品が受け入れられたからといって、それでストーリーや設定までも充分に理解されたわけではありませんでした。月とは何か、月人とはどういう存在なのか、永琳や輝夜にはどんな過去があったのか等、作品内で明らかにされなかった部分は謎として残されたままでした。一部の同人作家達がそれらについて緻密な作品を発表したとしても、最終的には「二次創作だから」で括られてしまい、結局何だかよくわからないままで終わってしまうのも仕方の無いことでした。
そもそも東方シリーズは設定やイメージばかりが先行していて、具体的な描写に乏しいという傾向があります。その意味では、月の秘密や永琳・輝夜の過去が明らかにされていないことも、取り立てて指摘するほどのことではないのかもしれません。ただし、作者であるZUN氏にとっては少々事情が異なっていたと思われます。月に関して一方ならぬ憧れと壮大なストーリーを抱いているZUN氏にとって、その魅力をファンに正しく伝えきれていないという状況は、いつものようにアルコールで中和できる問題ではなかったはずです。花映塚・文花帖・求聞史紀と東方関連の作業をこなしていく間も、恐らくZUN氏の胸中では「もう一度月に関する作品を作りたい」という欲求が燻り続けていたのではないでしょうか。でなければ、後に一迅社から長期連載漫画の企画を持ちかけられたときに、2年以上前の作品である永夜抄を引っ張り出してその続編を作るというような案を選択することもなかったでしょう。
■あからさまな不自然さ
以上、長々と推論ばかり書き連ねてまいりましたが、それは前編でも述べたように儚月抄を制作する上での直接的な動機が永夜抄に依拠していることを説明したいが為でした。永夜抄で扱いきれなかった項目を補完すること。簡単に言ってしまえば、それこそが儚月抄に込められた本当の目的であったと考えられます。では、永夜抄で扱いきれなかった項目とは何なのか、下に並べてみると…
①月の歴史 ②月の自然環境
③月人の歴史 ④月人の社会(政治・生活・文化・軍制など)
⑤月の重要人物 ⑥「穢れ」の思想とシステム(月と地上の関係)
⑦輝夜の過去 ⑧永琳の過去 ⑨鈴仙の過去
このように、一通り挙げただけでもかなりの数に登ります。確かにSTGの中で消化するには多すぎる量であり、別に一本の作品が出来ても不思議ではないでしょう。もしこれらの題材をできるだけ多くクリアしようとするなら、一つだけ効率の良いやり方があります。それは「⑦輝夜の過去」をきちんと描くことです。そうすれば、⑨以外の項目を自然に取り込むことができます。儚月抄でその名が出てきた月夜見や嫦娥、玉兎のリーダーも、輝夜が禁忌を犯した事件と絡めれば、自然と登場させられるはずです。
しかし、周知の通り儚月抄において輝夜の過去がクローズアップされることはありませんでした。小説の第二話で輝夜自身の独白が読めるものの、そこで語られているのは地上に堕とされた後の話ばかりであり、月で生活していた頃の詳細な記述は見当たりません。むしろ、①②③④⑥の項目がそれなりに消化されているのに対して、輝夜と例の事件に関連する要素はストーリーから意図的に省かれている節すらあります(例えば、輝夜と同じ罪を犯した嫦娥と、彼女達を断罪する立場にあるはずの月夜見の出番が全く無いこと。また、綿月姉妹が永琳については思い出を語るのに、輝夜については一切言及しないことなど)。永夜抄の補完を果たす上で本来なら主役になってもおかしくないはずの輝夜は、作中で何故かしら腫れ物のような扱いを受けています。この辺りの不自然さは、儚月抄全体に及ぶ謎の一つであり、延いては読者を混乱に陥れた原因の一つとも言えるでしょう。
本稿の前編において、儚月抄が抱える問題の本質は実際に描かれなかった「何か」に起因しているのではないか、ということを提議しました。それから考えると、蓬莱山輝夜というキャラクターとその来歴こそ、正にこの「何か」に当てはまると思います。ZUN氏にとって輝夜とは如何なる存在なのか、何故儚月抄内で輝夜の描写は制限されていたのか、そして実現されなかった東方儚月抄の本来の姿とはどのようなものだったのか。後編ではそれらについて、今まで以上に無茶気味に推察してみたいと思います。
Posted at 2009/04/17 03:42:52 | |
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趣味 | 日記
2009年03月23日
直前の記事でも書いたように、最近はやたらと漫画を読む日々が続いています。少し前に「MONSTER」を読み終えたのですが、この作品は特に最終話が衝撃的でした。私はてっきり人間の中に潜む狂気をして「怪物」と表現しているのだと考えていた(それにしてはヨハンというキャラからあまり狂気もカリスマも感じられなかったので不満に思っていた)のですが、まさかそれが「捨てる子を選別する母親の冷酷な理性」のことを指していたとは予想もしていませんでした。この鮮やかな意味の変換に比べれば、最後のコマでヨハンの姿が消えていたことなどは、単なるお約束的なオチに過ぎないと言えなくもありません。途中まで退屈しながら読んでいただけに、最後の最後でヤラレタと思わされた少々悔しい作品でした。
また、つい今しがたまでは「HUNTER X HUNTER」を読んでいました。こちらは評判通りとても面白い作品だと思います。グロテスクな描写やシビアな感情表現も多いですが、むしろそれがスパイスとして物語に幅を与えているようです。子供の頃に淡い夢を見せてくれた「てんで性悪キューピッド」の作者が、「幽遊白書」を経てこれほど味わい深い作品を創り出すに至ったとは、まさに隔世の感がありますね。相変わらず遅筆癖は直っていないようですが、たとえ歩みが遅くともこのテンションを維持し続けてくれるなら、待ち続けても損は無い気がします。
これらの作品に比べると、今回採り上げる「東方儚月抄」は弩が付くほどマイナーな存在であり、あらゆる面において比較の対象にすらなりにくいとも言えるでしょう。しかし、東方シリーズのファンからしてみれば、この作品は看過しえぬ問題を提示していて、あと僅かでエンディングを迎えるとはいえ、いまだ喧々諤々の議論がなされている最中でもあります。果たして、「東方儚月抄」とは如何なる作品なのか。一体この作品の何がファンの間で問題となっているのか。誰も見ていないのを良いことに、以下に持論を展開してみたいと思います。
(なお本稿において儚月抄とは主に Silent Sinner in Blue を指しています)
■儚月抄は失敗作か
世間では儚月抄を失敗作とする意見をよく見かけますが、それは作画や描写、ストーリー構成に対する評価としては正しい反面、作品全体の評価としては的を外しているかと思われます。何故なら、儚月抄は一貫したテーマこそ無いものの起承転結という形でそれなりに収まっており、世に数多ある凡庸な作品として見れば特に声高に指摘するほどの破綻は見当たらないからです。儚月抄は失敗した作品ではなく、ファンの期待に応えてくれなかった作品とする方が的確ではないでしょうか。ZUN氏が本当に壮大なストーリーを構想していたのであれば、失敗作という評価も間違いではないのですが、最後までいつもの東方らしく緩慢な物語として進行していったことを含めれば、元からその程度の風呂敷であったとも考えられます。むしろここで焦点になるのは、ZUN氏が本作品でやりたかったことは何なのか、ということです。儚月抄が失敗作であるか否かは、偏に今回の企画を成立させる上でのZUN氏の動機・目的に掛かっていると言えるでしょう。
■設定を公開するための装置
何のために儚月抄は創られたのかという疑問に関しては、其処彼処で色々な憶測が挙げられていますが、その中でも有力とされる答えの一つのが「月関連の設定を公開するため」という説です。確かに作品中では数多くの新情報が提示されていて、月世界や永遠亭に対する従来の認識を否応無く改めさせられます。新たに追加・改変された設定の殆どはファンの予想と大きく異なるものばかりであり、一部の人達からは非難めいた声も挙がっていますが、月関連の曖昧だった領域にある程度の道標が立てられたことは事実であり、今後の東方の世界においてそれが一つの礎石になることは間違いありません。いつも新作が出る度に東方の世界が広がっていくのと同様、本作品によって月も幻想郷の周辺環境として定着しつつあると言えます。その点を考慮すれば、単純に失敗作とだけ評するのは些か早計ではないでしょうか。
■「期待外れ」「勿体無い」
ただし、そうはいっても隠しきれないミスも幾つかあります。その中で最も顕著なのが「宣伝と中身が違った」という点です。ZUN氏のブログでの予告や掲載誌で繰り返された煽り等は壮大で深遠な物語を予感させるものでしたが、実際はドラマとしての山場も無ければ雰囲気としての盛り上がりを見せることもなく、淡々と話数が消化されていきます。特に月面戦争という大袈裟な前振りの割に描かれたのが「やる気のない弾幕ごっこ」と「一方的な説教」であったことは、本家のSTGと同じくらいの熱さを求めていた多くのファンを悉く意気消沈させました。もしこの作品が何の前触れも無く突然開始され、過剰な煽りもなく飄々と続けられていたなら、今とはかなり違う評価を受けていたはずです。また、事態をより悪化させた原因として、娯楽作品として楽しませようとする姿勢が最後まで見られなかったことが挙げられます。「これほど魅力的な素材が揃っているのだから、もっと他にやりようがあったのではないか」という口惜しさをファンの間に蔓延させてしまったことは、本作品の最大の落ち度でもあります。結局のところ、儚月抄に対する批判的な意見の大半は、こうした半ば私怨的な感情に根差しているといっても過言ではないでしょう。
■ZUN氏とファンの意識のズレ
個人的な意見を述べると、そもそも儚月抄は企画段階からある種の不可解さを孕んでいたと考えられます。その不可解さとは、今更何故永夜抄の続編なのか、ということです。私は八意永琳と永遠亭のファンなので、永夜抄の続編という看板にはとても惹かれるのですが、「永夜抄に続編が必要か」と問われれば「必要ない」と答えるのが正直なところです。永夜抄という作品は、ストーリーや設定がどんなに複雑で曖昧だったとしても、あれで完結していると思います。エンディングで描かれているように、地上の人間として生きることを決意した永琳や輝夜を肯定するのであれば、月の世界がどうとか月の使者が誰であるとかは、さして重要でない事柄のはずです。
また、ファンの間にあって永夜抄とその登場キャラクター達の人気はそれほど高くありません。世間一般では紅魔郷や妖々夢に比べて特に永夜抄の評価が高いわけではないですし、霊夢・魔理沙・レミリア・咲夜・アリス・幽々子・紫・文などの人気振りに比べると、輝夜と永琳は明らかに後塵を拝しています。外伝を作るにしても、エンターテイメント性を求めるなら紅魔館の歴史を描いた方が派手で受けるでしょうし、感動を求めるなら幽々子の半生を丹念に綴った方が涙を頂戴できるはずです。あるいは、東方について哲学的に語るのであれば紫版求聞史紀を作るのも有りかもしれません。いずれにせよ、三誌合同連載という明らかに儲けを狙った企画の素材として、人気が地味な永夜抄をピックアップすることはあまり合理的でないと思われます。
それでは何故、永夜抄の続編という形で今回の企画は成立したのか。その答えとして「ZUN氏は永夜抄で何かやり残したことがあったのではないか」という仮説が想起されます。永遠亭や月を主軸とした新しい物語、もしくは第二次月面戦争というフレーズに少年漫画的なノリを期待していたファンに対して、飽くまでも永夜抄という過去の作品の補完を第一義としていたZUN氏。両者の間に最初からこのような齟齬があったとしたら、作品の解釈に誤解や混乱が生じるのも当然と言えるでしょう。儚月抄が期待外れな内容だったのは、ひょっとしたら企画成立時から確定していたのかもしれません。
■永夜抄の補完は成功したのか
仮に上の説が正しかったとしても、ZUN氏の意図にはなお大きな謎が残ります。つまり、永夜抄の補完とは本当に月関連の設定・思想・薀蓄を公表することだけだったのか、それとも他に表現したいものがあったのか、ということです。因みにここから先の記述は完全に妄想に拠るものであり、正当性を求めることは極めて難しいと言えます。本稿のタイトルに「空虚な」という言葉を挟んだのも、「ZUN氏本人が説明しない限り何も解決しない」という諦めがあるからです。しかし、色々な面で興味を持った作品ですから、理解不能だけで終わらせるのも釈然としません。よって、論理の破綻を承知で無理矢理自説を披露することになるわけですが、その内容を簡潔に表すと以下のようになります。
①儚月抄は永夜抄の補完という目的で始められた
②補完とは月に関する設定を公開することであり、同時に永夜抄で充分に伝えきれなかった別の「何か」を表現することでもあった
③本来なら長いストーリーの中で「何か」をじっくり描く予定であったが、諸々の理由によりかなり早い時期から挫折した(もしくは戦略的撤退を選んだ)
④あとは設定を公開するという作業だけが残った
以上のように勘繰ってみると、本作品の後半部分が何故あれ程取り留めの無い構成になったのかという点について説明できると思います。本来なら物語の幹と成るべき第二次月面戦争も、ZUN氏にとっては長編という形を取るための方便に過ぎなかったということです。どんなに舞台が立派でも、主役や主題が不明のまま劇が進行すれば、観客が困惑するのは当たり前です。そう考えた場合、東方儚月抄が抱える問題の本質は作画や構成などの見える部分にあるのではなく、実際に描かれなかった「何か」に起因していると言えるのではないでしょうか。本稿の中編では儚月抄の前身である永夜抄について、そして後編ではその描かれなかった「何か」について、性懲りも無く考察してみたいと思います。
Posted at 2009/03/23 06:05:02 | |
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趣味 | 日記
2009年03月10日
少し前からツタヤがコミックのレンタルに関して「10冊500円キャンペーン」を始めたせいもあって、最近は漫画を読む量が急速に増えています。特に今まで手を出し辛かった長期連載作品が時間的にも金銭的にも読みやすくなったのはラッキーでした。もう暫くはこのキャンペーンを続けて欲しいですね。
この機会を活かすべく、まず最初に選んだのが「ワンピース」でした。この作品については、ずっと以前にアニメを何回か見たことがある(エンディングで幼少の主人公達が砂浜?を駆けていくシーンを見て格好良いと思った記憶がある)だけで、その後は特に気にも留めていませんでした。世間で人気が沸騰していた時期も「大きな作品になったなぁ」と思うだけで、実際に手に取って見ようとはしませんでした。なんとなく初期ドラゴンボールのスケールダウン版というイメージがあって、食わず嫌いになっていたのですね。そんな状態に転機が訪れたのは、何かのイラストでニコ・ロビンの姿を見たときでした。他の登場人物達とは明らかに異質な雰囲気を纏ったこのキャラの存在を知ったとき、私は「ワンピースも毒気を帯び始めたな」と勝手に夢想し、それ以後作品に対して徐々に興味を惹かれるようになったのでした。ここ数年は「いつか読まねば」とずっと思いつつ、巻数が多すぎるのでどうにも気後れしていたのですが、ツタヤのキャンペーンのおかげでやっと踏ん切りが付いたといったところです。まあ、まとめて一気に読むことで作品世界に没頭できるのも後追い派の利点ではあるのですけどね。
全巻通して読んでみて、特に良いと思えた点は二つありました。一つ目は、意外に絵がお洒落だということです。海賊で冒険物ということから、勢い任せの荒い絵柄を想像していたのですが、実際は細部にまで配慮が行き届いたスタイリッシュな作画や構図が多いように思います。背景も手抜きが無く世界観がしっかり反映されていて良い感じですね。キャラクターの造形は突飛なものが多いですが、これもしばらく見ているうちに不思議と違和感が無くなってきたりします。オカマ拳法のボン・クレーなど、最初は「鬱陶しい格好しているな」という風に見ていたのですが、最後の方は「この衣装で無ければボン・クレーではない!」とさえ思えるようになっていました。恐らくは、一人のキャラクターを創作するときに、作者がその髪型や衣装にもしっかりとアイデンティティを込めていて、尚且つそれを最後まで蔑ろにしていないところが好印象に繋がっている理由だと考えられます(このアイデンティティという点については各キャラクターの口癖や喋り方についても当て嵌ります)。漫画であるからには絵で魅せることも大切であり、そういった意味でこの「ワンピース」はとても目を楽しませてくれる作品だと言えるでしょう。
もう一つ、私がこの作品で感心したのは、敗北した悪役にも救いが与えられていることでした。毎回扉絵で展開される敵キャラの後日談は、時間軸の多様化という意味で物語に深みを与えるのと同時に、それまでそのキャラを嫌っていた読者に対して別の視点を持つように働きかけてきます。これは単に作者がキャラクター達に愛着を持っているからというよりも、どんな悪人でも何らかの形で救われるべきという作者の考え方が反映されているからではないでしょうか。また、作品全体に亘ってシリアスさとコミカルさがほぼ同等の割合で配合されていて、ストーリーやキャラにのめり込もうとする(その結果、ある一定の固定観念やイメージに捕らわれかねない)読者に対して、意図的にリミッターを設けているようにも見受けられます。つまり、主義主張を作品に代弁させて読者の共感を得ようとするのではなく、飽くまでも良質なエンターテイメント作品を提示しようとする冷静さが感じられるのです。コマ数やセリフが多い割に週刊連載にしてはストーリーがゆっくり進行していくことも、恐らくは中身の薄い性急な展開を避けて骨太な物語の構築を心掛けているからでしょう。世間的には様々な評価があるようですが、少なくとも私が読んだ限りでは無駄なエピソードは一つも無いように思います。むしろ、これほど長期間に亘ってテンションの高さを維持できている点こそ驚異的と言えるのではないでしょうか。
アラバスタ編の最後でルフィ達が背を向けて腕を突き上げている絵は、最近読んだ漫画のどんなシーンよりも特に感動的でした。また、エニエス・ロビー編で「生きたい!」と叫ぶニコ・ロビンがウソップやチョッパーみたいに鼻水を垂らしている描写には、作者の感情の発露に対する拘りが感じられて思わず唸ってしまいました。キャラクターデザインや舞台設定は奇抜ですが、物語としては少年漫画の王道を行く作品だと思います。他の長期連載物のように打算的にならずに、これからも悠々と続いてほしいものですね。
Posted at 2009/03/10 03:00:20 | |
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