2006年11月23日
少し前になりますがミハエル・シューマッハが今季限りでの引退を表明しました。これによってF1界はまた新たな時代を迎えようとしています。
私がF1に興味を持つようになったのは1990年からでした。当時はいわゆるセナ・プロ全盛の時代で、私は中でもナイジェル・マンセルを応援していました。80年代後半から90年代前半のマシンは非常に美しいラインを持つものが多く(特にエイドリアン・ニューエイがデザインした'89モデルのレイトンハウスやフェラーリの641/2など)、それらが疾走するのを見ているだけでも楽しかった記憶があります。
私はF1好きが高まるにつれて、その歴史を熱心に学ぶようになりました。一時期は歴代のチャンピオンとそのマシンの型式全てを暗記していたほどで、おかげで学校の成績は常に予備予選落ち状態でした。F1の歴史、それもドライバーの歴史を振り返ってみると、ある一つのパターンが見て取れます。それは、新進気鋭の若手が老練なチャンピオンから全てを学び、乗り越えていくという構図です。
J.クラーク → J.スチュアート → N.ラウダ → N.ピケ → A.プロスト → A.セナ
これら一時代を築いた王者達の系譜は、ほとんどの場合が敗北からのリベンジによって連なっていると言えます。その象徴となるのが'83年~'86年にかけてのプロストの戦いです。'83年当時、次代の旗手とみなされていたプロストは随所で才能の片鱗を見せ付けながらも、ピケとゴードン・マーレイ率いるブラバムチームの老獪な作戦によって翻弄され(逆にルノーチームは内部崩壊を起こし)、タイトルを獲得できませんでした。翌'84年、当時上り調子だったマクラーレンに移籍したプロストは、偉大な先輩であるラウダから帝王学を学ぶと同時に、それを凌駕さえしようと圧倒的な速さで世界中を駆け巡ったにもかかわらず、わずか0.5ポイント差でラウダにタイトルを持っていかれてしまいました。後にプロストは「プロフェッサー」と呼ばれるようになるのですが、その沈着冷静なスタイルの基盤となっていたのはこれらの敗北でした。もはや全てを学びつくしたプロストは、'85年に大して苦労することなく念願の初タイトルを獲得します。そして、翌'86年から彼の走りは一変するのです。つまり、一戦の速さを求めるのではなく、年間での有効ポイントを稼ぐことに集中するようになるのです。それはまさしく、ラウダやピケが歩んだ道でもありました(そして、この年のF1は史上最もドラマティックなタイトル争いを披露することになるのでした)。このように、チャンピオンドライバーの歴史は王者と挑戦者の精神的な引継ぎによって紡がれてきたと言えます。
このことを考えたとき、私が今でも非常に残念に思うのが1994年シーズンのことです。'91年にピケ、'92年にマンセル、'93年にプロストと立て続けに80年代のヒーローが引退した後、私に残された唯一の興味はセナとシューマッハによる世代交代劇でした。いかにセナが偉大なチャンピオンとしての力を見せ付けるか、いかにシューマッハが時代を変える若者の力を見せ付けるか・・・。その力と力の激突を期待していた私の心は、しかし思いがけない5月のあの事故によって雲散霧消してしまいました。それ以来、私は以前ほど熱心にF1を見ることができなくなりました。
ミハエル・シューマッハというドライバーに対する個人的見解も、セナの生前とその後で変わってしまいました。セナがいる頃のシューマッハは、私にとってF1界の明るい未来そのものでした。しかし、セナがいなくなってから唯一突出しすぎた存在となり、溢れんばかりの才能を持っていたにも関わらずデーモン・ヒルとの初タイトル争いをあのような形で終結させたのを見た時、私にとってのシューマッハは永遠に「暫定王者」となってしまいました。何度勝利を重ねようと、何度タイトルを獲得しようと、多くのライバル達と素晴らしいバトルを幾度繰り広げようとも、それは変わることがありませんでした。べつにシューマッハ本人には何の落ち度もありません。ただ、私の彼に対する見方が変わっただけなのでした。
1994年、もしあの年に二人の間でタイトル争いが展開されていたなら、シューマッハはきっと充分にセナから帝王学を学んだことでしょう。そして、フェアなやり方で時代を自分色に塗り替えたことでしょう。私はそれが見たかった・・・。
歴代最高の戦績を残したチャンピオンの引退に対する、正直な感想です。
Posted at 2006/11/24 03:34:34 | |
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