2009年03月23日
直前の記事でも書いたように、最近はやたらと漫画を読む日々が続いています。少し前に「MONSTER」を読み終えたのですが、この作品は特に最終話が衝撃的でした。私はてっきり人間の中に潜む狂気をして「怪物」と表現しているのだと考えていた(それにしてはヨハンというキャラからあまり狂気もカリスマも感じられなかったので不満に思っていた)のですが、まさかそれが「捨てる子を選別する母親の冷酷な理性」のことを指していたとは予想もしていませんでした。この鮮やかな意味の変換に比べれば、最後のコマでヨハンの姿が消えていたことなどは、単なるお約束的なオチに過ぎないと言えなくもありません。途中まで退屈しながら読んでいただけに、最後の最後でヤラレタと思わされた少々悔しい作品でした。
また、つい今しがたまでは「HUNTER X HUNTER」を読んでいました。こちらは評判通りとても面白い作品だと思います。グロテスクな描写やシビアな感情表現も多いですが、むしろそれがスパイスとして物語に幅を与えているようです。子供の頃に淡い夢を見せてくれた「てんで性悪キューピッド」の作者が、「幽遊白書」を経てこれほど味わい深い作品を創り出すに至ったとは、まさに隔世の感がありますね。相変わらず遅筆癖は直っていないようですが、たとえ歩みが遅くともこのテンションを維持し続けてくれるなら、待ち続けても損は無い気がします。
これらの作品に比べると、今回採り上げる「東方儚月抄」は弩が付くほどマイナーな存在であり、あらゆる面において比較の対象にすらなりにくいとも言えるでしょう。しかし、東方シリーズのファンからしてみれば、この作品は看過しえぬ問題を提示していて、あと僅かでエンディングを迎えるとはいえ、いまだ喧々諤々の議論がなされている最中でもあります。果たして、「東方儚月抄」とは如何なる作品なのか。一体この作品の何がファンの間で問題となっているのか。誰も見ていないのを良いことに、以下に持論を展開してみたいと思います。
(なお本稿において儚月抄とは主に Silent Sinner in Blue を指しています)
■儚月抄は失敗作か
世間では儚月抄を失敗作とする意見をよく見かけますが、それは作画や描写、ストーリー構成に対する評価としては正しい反面、作品全体の評価としては的を外しているかと思われます。何故なら、儚月抄は一貫したテーマこそ無いものの起承転結という形でそれなりに収まっており、世に数多ある凡庸な作品として見れば特に声高に指摘するほどの破綻は見当たらないからです。儚月抄は失敗した作品ではなく、ファンの期待に応えてくれなかった作品とする方が的確ではないでしょうか。ZUN氏が本当に壮大なストーリーを構想していたのであれば、失敗作という評価も間違いではないのですが、最後までいつもの東方らしく緩慢な物語として進行していったことを含めれば、元からその程度の風呂敷であったとも考えられます。むしろここで焦点になるのは、ZUN氏が本作品でやりたかったことは何なのか、ということです。儚月抄が失敗作であるか否かは、偏に今回の企画を成立させる上でのZUN氏の動機・目的に掛かっていると言えるでしょう。
■設定を公開するための装置
何のために儚月抄は創られたのかという疑問に関しては、其処彼処で色々な憶測が挙げられていますが、その中でも有力とされる答えの一つのが「月関連の設定を公開するため」という説です。確かに作品中では数多くの新情報が提示されていて、月世界や永遠亭に対する従来の認識を否応無く改めさせられます。新たに追加・改変された設定の殆どはファンの予想と大きく異なるものばかりであり、一部の人達からは非難めいた声も挙がっていますが、月関連の曖昧だった領域にある程度の道標が立てられたことは事実であり、今後の東方の世界においてそれが一つの礎石になることは間違いありません。いつも新作が出る度に東方の世界が広がっていくのと同様、本作品によって月も幻想郷の周辺環境として定着しつつあると言えます。その点を考慮すれば、単純に失敗作とだけ評するのは些か早計ではないでしょうか。
■「期待外れ」「勿体無い」
ただし、そうはいっても隠しきれないミスも幾つかあります。その中で最も顕著なのが「宣伝と中身が違った」という点です。ZUN氏のブログでの予告や掲載誌で繰り返された煽り等は壮大で深遠な物語を予感させるものでしたが、実際はドラマとしての山場も無ければ雰囲気としての盛り上がりを見せることもなく、淡々と話数が消化されていきます。特に月面戦争という大袈裟な前振りの割に描かれたのが「やる気のない弾幕ごっこ」と「一方的な説教」であったことは、本家のSTGと同じくらいの熱さを求めていた多くのファンを悉く意気消沈させました。もしこの作品が何の前触れも無く突然開始され、過剰な煽りもなく飄々と続けられていたなら、今とはかなり違う評価を受けていたはずです。また、事態をより悪化させた原因として、娯楽作品として楽しませようとする姿勢が最後まで見られなかったことが挙げられます。「これほど魅力的な素材が揃っているのだから、もっと他にやりようがあったのではないか」という口惜しさをファンの間に蔓延させてしまったことは、本作品の最大の落ち度でもあります。結局のところ、儚月抄に対する批判的な意見の大半は、こうした半ば私怨的な感情に根差しているといっても過言ではないでしょう。
■ZUN氏とファンの意識のズレ
個人的な意見を述べると、そもそも儚月抄は企画段階からある種の不可解さを孕んでいたと考えられます。その不可解さとは、今更何故永夜抄の続編なのか、ということです。私は八意永琳と永遠亭のファンなので、永夜抄の続編という看板にはとても惹かれるのですが、「永夜抄に続編が必要か」と問われれば「必要ない」と答えるのが正直なところです。永夜抄という作品は、ストーリーや設定がどんなに複雑で曖昧だったとしても、あれで完結していると思います。エンディングで描かれているように、地上の人間として生きることを決意した永琳や輝夜を肯定するのであれば、月の世界がどうとか月の使者が誰であるとかは、さして重要でない事柄のはずです。
また、ファンの間にあって永夜抄とその登場キャラクター達の人気はそれほど高くありません。世間一般では紅魔郷や妖々夢に比べて特に永夜抄の評価が高いわけではないですし、霊夢・魔理沙・レミリア・咲夜・アリス・幽々子・紫・文などの人気振りに比べると、輝夜と永琳は明らかに後塵を拝しています。外伝を作るにしても、エンターテイメント性を求めるなら紅魔館の歴史を描いた方が派手で受けるでしょうし、感動を求めるなら幽々子の半生を丹念に綴った方が涙を頂戴できるはずです。あるいは、東方について哲学的に語るのであれば紫版求聞史紀を作るのも有りかもしれません。いずれにせよ、三誌合同連載という明らかに儲けを狙った企画の素材として、人気が地味な永夜抄をピックアップすることはあまり合理的でないと思われます。
それでは何故、永夜抄の続編という形で今回の企画は成立したのか。その答えとして「ZUN氏は永夜抄で何かやり残したことがあったのではないか」という仮説が想起されます。永遠亭や月を主軸とした新しい物語、もしくは第二次月面戦争というフレーズに少年漫画的なノリを期待していたファンに対して、飽くまでも永夜抄という過去の作品の補完を第一義としていたZUN氏。両者の間に最初からこのような齟齬があったとしたら、作品の解釈に誤解や混乱が生じるのも当然と言えるでしょう。儚月抄が期待外れな内容だったのは、ひょっとしたら企画成立時から確定していたのかもしれません。
■永夜抄の補完は成功したのか
仮に上の説が正しかったとしても、ZUN氏の意図にはなお大きな謎が残ります。つまり、永夜抄の補完とは本当に月関連の設定・思想・薀蓄を公表することだけだったのか、それとも他に表現したいものがあったのか、ということです。因みにここから先の記述は完全に妄想に拠るものであり、正当性を求めることは極めて難しいと言えます。本稿のタイトルに「空虚な」という言葉を挟んだのも、「ZUN氏本人が説明しない限り何も解決しない」という諦めがあるからです。しかし、色々な面で興味を持った作品ですから、理解不能だけで終わらせるのも釈然としません。よって、論理の破綻を承知で無理矢理自説を披露することになるわけですが、その内容を簡潔に表すと以下のようになります。
①儚月抄は永夜抄の補完という目的で始められた
②補完とは月に関する設定を公開することであり、同時に永夜抄で充分に伝えきれなかった別の「何か」を表現することでもあった
③本来なら長いストーリーの中で「何か」をじっくり描く予定であったが、諸々の理由によりかなり早い時期から挫折した(もしくは戦略的撤退を選んだ)
④あとは設定を公開するという作業だけが残った
以上のように勘繰ってみると、本作品の後半部分が何故あれ程取り留めの無い構成になったのかという点について説明できると思います。本来なら物語の幹と成るべき第二次月面戦争も、ZUN氏にとっては長編という形を取るための方便に過ぎなかったということです。どんなに舞台が立派でも、主役や主題が不明のまま劇が進行すれば、観客が困惑するのは当たり前です。そう考えた場合、東方儚月抄が抱える問題の本質は作画や構成などの見える部分にあるのではなく、実際に描かれなかった「何か」に起因していると言えるのではないでしょうか。本稿の中編では儚月抄の前身である永夜抄について、そして後編ではその描かれなかった「何か」について、性懲りも無く考察してみたいと思います。
Posted at 2009/03/23 06:05:02 | |
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