
先日、シン・エヴァンゲリオン劇場版を見てきました。テレビ放映から約25年、この物語にも遂に区切りが付くのかと、今年に入ってからそわそわしていたのですが、実際に見終わってみると、何とも懐かしく甘酸っぱいような、それでいて清々しい気分にもなりました。今回はその感想を述べてみたいと思います。
まず最初に、この作品を見ていて私が一番「ああ良いな」と思えたのは、テレビ版や旧劇場版に対する何らかの補完、あるいはセルフパロディが含まれている点でした。例えば、あの有名な電車内の自問自答のシーンをゲンドウに演じさせたり、浜辺に横たわっているアスカがシンジと会話したり、シンジとゲンドウの戦闘シーンがエヴァらしい背景の中を転々としたり、あるいは体育館のステージならぬ撮影所のセット等が出てきたりと、良くも悪くも「エヴァと言えばこれ」といったような印象的な場面を、以前とは違う内容で再現している点に、私は強烈な懐かしさを覚えたのです。このような手法は、劇場版TRICKの「ラストステージ」でも使われていました。物語としては先に進んでいるはずなのに、最終的に視聴者の意識はテレビ版第一話の母の泉編の記憶へと誘導されていく。シリーズとして「終わる」のではなく、作品の最初とリンクしているのだと感じさせること。タイトルにリピートの記号が付けられているのはそういう意味かもしれません。これにより、シリーズ全体が円環に取り込まれることになり、本当の意味で物語を完成させることができます。見終わった後で素直に「もう新作は作られないんだな」と実感できたのは、偏にこういった演出のおかげでしょうね。
正直、ストーリーや細かい設定などに関しては特に語る部分は無いです。前作のQの時点ですでに大きく破綻しているので、その辺のクオリティは望むべくもなく、この最終作でも場当たり的な展開だらけで、面白いことは特にありませんでした。それよりも見ていて気になったのは、本作の真のテーマは主要キャラクター達の救済にあったのではないか、ということです。以下、各キャラクター毎にその内容を考えてみたいと思います。
■シンジ
本作品で最も救われたのは間違いなく彼でしょう。実際のところ作中ではほとんど行動しておらず、最後に父親と茶番劇を演じて和解しただけとも言えますが、ラストに見せる表情と物腰は従来にない穏やかなものでした。もともと周囲に気を遣う優しい性格をしていたうえに、家事ができて楽器も弾けるくらいの万能性があるわけですから、新しい世界では割とモテモテな人生を送ることになる気がします。シンジにとっての呪縛とは、エヴァではなくゲンドウの存在でした。それに真正面から立ち向かっていって克服したのですから、もはや怖いものは何もないはずです。これからは25年間の鬱憤を晴らすが如く、怒涛のリア充ライフを送って頂きたいですね。ただ、シンジに関してはもう一つ別の側面があります。それは庵野監督の分身であるということです。この点から見ると、また違った感想が生じてきます。シンジ=庵野監督にとってのエヴァの呪縛とは、エヴァという作品を創ったこと、その続編を造り続けねばならなかったこと、だと思います。そして、最後にそこから解放してくれたのは、テレビ版や旧劇場版とは無縁のキャラであるマリ=奥さんの安野モヨコでした。つまり、「現実世界で真に信頼できる女性と出会えたことで、アニメ・特撮といった趣味・仕事のこと以外でも自分は幸福感を得られたのである!」というある種の惚気を、シンジとマリの会話およびDSSチョーカーの解除によって表現していたのだとしたら、このエンディングは「・・・おめでとう」と言わざるをえない、生温いモノに変わるわけですね。ネットではマリが登場した時からこの展開を予想していた猛者がいたようですが、私は最後の駅のシーンを見るまでマリの存在意義を理解できていませんでした。しかし、だからこそこの終わり方で納得したというか、すっきりと腑に落ちたのも事実です。作者が吹っ切れて、主人公も吹っ切れた。良い結末だったのではないでしょうか。
■レイ
今回は本編の半分近くが第三村でのシーンに費やされています。ストーリーの構成的にはシンジが立ち直るまでの流れを描いたと言えるのですが、私としてはこれは綾波レイというキャラに対する製作スタッフからの謝罪と救済のようにも見えました。レイは25年前のテレビ版初登場直後から、様々なジャンルにおいて数多くのフォロワーを生み出した(パクリキャラが量産された)ほどの絶大な人気と影響力を備えた存在でした。しかし、実際にエヴァという作品の中においては「物」として扱われることが殆どでした。たしかに人工の生命体ではあるのですが、それにしても大量に製造されたり壊されたり、増殖したり超巨大化したり、あるいはフェチズムを煽るために包帯や眼帯を装備させられたり、ウケ狙いで「ニンニクラーメン・チャーシュー抜き」と言わされたり、お約束感を醸し出すために食パンを咥えて走らされたりと、自我や感情が極端に乏しいというパーソナリティをいいことに、制作者側から最大限に利用されていた節があります。ゲンドウがレイの存在を頼りにしつつも、結局は道具として使い捨てにしていたのと同じように、制作者側もレイの人気に頼りつつ様々な悲喜劇を押し付けていたと言えるでしょう。もちろん作品内のキャラクターをどういう風に扱おうが、それは作者の自由です。しかし、レイに対するそれはいささか過酷なものだったのではないでしょうか。
作品全体を通してレイをレイたらしめていたものは、極めて無機質な居住環境と非人間的な日常生活でした。では、そのレイに対する救済とは何なのか。それは人間性の回復だと思います。朝起きて日の光を浴び、労働して汗をかき、他人と他愛もない会話をし、疲れたら休み、何かに興味を惹かれたら空いた時間をそれに費やす・・・。そういった我々が普段ごく当たり前のようにしている生活をレイにやらせることが、制作者側からの謝罪であり救済だったのではないかと思うのです。シンジに名前を決めてもらうというエピソードも良かったですね。物語が始まる前は「綾波レイ(仮称)」という正体不明だった存在が、好きな人に命名されたことで一個人としてのアイデンティティを確立することができた。今まで「物」として扱われてきたキャラクターが、最後の最後で人間らしく生きることができた。物語の終盤ではやっぱり巨大綾波を目撃することになる(笑)のですが、見終わった後で人々の心に残るのは、のどかな田園風景の中、プラグスーツを着て農作業をするレイの姿でしょう。アニメ史上破格の人気と影響力を持ったキャラクターの去り方として、正しく有終の美を飾れたことは本当に良かったと思います。
以上、シンジとレイについて述べてみました。長くなりそうなので、他のキャラについてと作品全体については次回にします。
Posted at 2021/03/23 21:17:10 | |
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