
※この記事は5月の第1週辺りに書いたものです。バイク関連で頭が花畑になっていたので、この記事のことをすっかり忘れていました。遅きに失した感はありますが、一応アップしておきます。
先日、三回目のシン・エヴァを見てきました。旧劇場版も三回見たので、今回もこれで最後にするつもりです。さすがに公開から二ヵ月も過ぎれば貸し切り状態で見られるのではないか思っていましたが、まだ10組くらいの観客が入っていて驚きました。
エンドロールまで見終わった後、劇場内が明るくなってから私はシートに座ったまま連絡のメールを打とうとしていました。すると、前の席にいた学生ぽい男子三人組が互いに感想を語り始めました。小声で話していたので内容はよく聞き取れなかったのですが、途中で一人が「なんかわからないけど涙出てきた」と言って笑っていたのが印象的でした。ほかの二人も彼を揶揄うわけでもなく一緒に笑っていたので、良い関係なのだろうなと感じられましたし、また確かにそういう感情を呼び起こさせるような作品であったな、とも思いました。
私自身のシン・エヴァの感想については、一番初めに書いたように「甘酸っぱく清々しい」というのが正直なところです。しかし、作品自体の評価としてはまた別の側面があります。今回はその辺について述べてみたいと思います。
シン・エヴァの特徴として真っ先に挙げられるのが、構成が旧劇場版とほぼ同じということです。ロボットアニメとしてのエンターテイメントを一通り提供したあとで、世界が破滅しかける→精神世界の葛藤を描く→現実世界の再認識とその肯定および否定、という一連の流れは、旧劇場版だけでなくテレビ版とも一緒であり、シンプルに言えば同じことを繰り返しただけ(セルフリメイク)という風にも見えます。ディティールを挙げれば、綾波が巨大化したり、実写映像やメタ的な描写を所々挟んだりする手法までもが同じでした。ただ、以前と違っていたのはその表現のテイストでした。旧劇場版がグランジロックみたいに「お前ら、これでも見て現実に戻りやがれ」というようなシニカルで刺々しい雰囲気だとしたら、新劇場版は耳障りの良い応援系ポップスのようで「これからの僕は前向きに頑張っていきます。皆さんもこれを見たらそろそろ現実に戻りましょうね」という優しい雰囲気になっています。「さよなら、全てのエヴァンゲリオン」といった感傷的な台詞が出てくるから、こちらも気分が乗せられてしまうだけで、結局そこに内包されているメッセージの意味は、旧も新も一緒なんですね。あとはそれをどう解釈し受け入れるか(もしくは拒絶するか)は、当人次第となります。
シン・エヴァは世間的には概ね評価が高いようですし、私も先に述べたように素直に良かったと思っています。では、その要因は何なのか。もちろん、ヴィジュアル面での圧倒的なクオリティの高さは当然ながら、それ以外にも大きな部分を占めるのは、ここに至るまでの「時間の長さ」にあると考えられます。テレビ放映開始から見ていた人にとっては26年近く、放映終了後から見始めた人でも24年近く、新劇場版の「序」からの人は14年くらい、「Q」からでも8年くらいの月日が過ぎています。作る側も見る側も、みんな総じて歳を取ったわけですね。その間の様々な記憶や思い出といった要素が、作品を見た後の感想に与える影響は、決して小さくありません。たとえば10代くらいの若い人や、ここ数年でエヴァを知って短期間で全作品を見た人などであれば、シン・エヴァに対しては純粋に「良いものが見られた!」という感動が先に立つことでしょう。しかし、26年前からこの作品を追い続けてきた人、あるいは80年代・90年代のアニメ・漫画等を直に経験してきた人にとっては、作品の内容そのものよりも、「一つの時代が終わってしまった」という寂寥感の方が心に広がったはずです。庵野監督がそういう結果を狙って各種の演出を施したのだとしたら、それは100%成功したと言えます。
終わり良ければ、全て良し。
これが映画作品としてのシン・エヴァンゲリオンに対する私の評価になります。過ぎてしまえばみんな良い思い出、と言い換えることもできますね。まともな批評になっていませんが、内容がどうあれ見終わった後で爽やかな気分になったのは偽りのない事実です。ここは衒いなく好意的な評価をして終わりにしたいと思います。
あらゆる芸術の分野において、世代間を越えてまで記憶や感情を共有できるような作品など、そう滅多に存在しません。そういう作品と同じ時代を過ごせたのは、振り返ってみれば幸運なことだったのかもしれないですね。
Posted at 2021/07/16 23:14:32 | |
トラックバック(0) |
趣味 | 日記