2007年04月02日
先月末にホンダから新型シビック・タイプRが発売されました。去年のアナウンス通りラインナップは4ドアセダンのみであり、欧州で販売されているハッチバックモデルの導入は当面未定のようです。実力派のスポーツセダンが増えることは誠に喜ばしいのですが、主流のハッチバックモデルが本国日本で販売されないという事実には、一抹の寂しさを覚えてしまいます。「どうせこの国ではスポーツカーなんて売れないのだから」…そんな考えが露呈している気がしてなりません。もっとも、私の周囲では「3ドアハッチなら良かったのに」という意見の方が圧倒的に多いのですけどね。
エンジンに関しても、出力が225psもあるのは良いのですが、最大トルク21.9kg-mが6100rpmで発生するというスペックには些か疑問を感じます。高回転型といえば聞こえは良いものの、我が白兎が同じ2Lながら僅か1800回転で28kg-mを発揮することを考えれば「そんなに回して何をしてるの?」と思わざるをえません。今時の欧州製スポーツカーは、殆どの場合が極低速域で最大トルクを発生させ、それを高回転域まで維持するというフラットトルク性を重視していますし、国産でもランエボやインプレッサなどはその傾向が顕著です。つまり、高回転域でしか実力が発揮できないエンジンなどパフォーマンス的には今や劣等の部類に属するのであり、官能性の追求という点以外にメリットが見出しにくいのです。フェラーリやアストン・マーチンのように官能性だけでなく出力も桁外れならともかく、あるいはS2000やインテグラ・タイプRのように精神的高揚を楽しむための純粋なスポーツモデルならともかく、いくら細部が徹底的にチューニングされているとはいえ、基本的には実用性を重視したセダンタイプの車(しかもデザインが幾分野暮ったい)にこのようなエンジンを搭載して、果たして説得力があると言えるのでしょうか。また、どんなに素晴らしい運動性能を具えているとしても、「本家のハッチバックモデルが存在するにも関わらず、無難な4ドアセダンしか販売しない」という完全にビジネス的な妥協を反映したモデルに対して、人々が憧れや羨望の眼差しを向けたりするのでしょうか。私には、その疑念を拭う事ができません。
この辺に関しては、これからの売れ行きによってある程度の回答が得られるかと思います。できることならホンダには、我が国のスポーツカー好きが何を待ち望んでいるのか、今一度検討し直して欲しいものですね。
Posted at 2007/04/02 04:48:18 | |
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車 | 日記
2007年04月01日
しかし、本当にこんなことがあるとは思いませんでした。しかも、それが自分の身に起こるとは…。先日、とある抽選に応募したのですが、何と一等に当たってしまい、ポルシェ・ケイマン(Sではない)をゲットすることになりました。応募していたことすら忘れていただけに、この朗報には心底驚かされました。納車はかなり先になる見込みですが、いずれはGTIと共に趣味と実用の両輪となって活躍してくれるかと思います。
ケイマンといえば、その素性に関して既に各方面から絶賛を受けているモデルであり、場合によっては「911以上」と評されるほど運動性能に優れているようです。RRという制約の多いモデルを長年造り続けてきたポルシェが、スポーツカーのセオリーであるMR方式のモデルを真剣に造れば、それは良い物が出来て当然だと言えるでしょう。私のような古典的な車好きからすれば、911は少々神聖過ぎて所有欲が沸きにくいところでもあります(MTが下手な私ですから、そもそも乗る資格が無いのですが…)。それに比べるとケイマンは、ボクスター程ではないにしてもカジュアルさやフレンドリーさに満ちていて、デビュー当時から非常に興味がありました。一応ポルシェではあるものの、そんなことを気にせずATでひたすら楽しく流せる車…。それが、私がケイマンに抱いているイメージでした。果たしてそのイメージが正しいのかどうか、いずれじっくり検分するつもりです。
維持費の問題もありますが、せっかくの僥倖ですから、取り合えずそんなことは気にするべきではないのでしょうね。あの銀色の精密機械が我が家にやってくる日を、今は心から待ちたいと思っています。
さて、ここで質問です。
今日は何の日でしょう?
Posted at 2007/04/01 02:18:19 | |
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2007年03月31日
■八意永琳
私は漫画やアニメを見て作品自体に嵌ることはあっても、登場人物に嵌ることは滅多にないのですが、最近例外的に興味を持ったのがこの八意永琳というキャラクターでした。何が魅力かといえば、まずその正体が判然としない点です。設定上は宇宙人(月人)ということになっていますが、実際は地球から月に移住したのであって、生粋の月人であるとは言えません。では地球人(人間)なのかというと、年齢が最低でも千年を超えている(ZUN氏の発言が公式化されるなら更に億を超える)点を考えれば、もはやヒトではないと断言できます。勿論、人間を捕食する妖怪でもありません。ならば、八坂神奈子や洩矢諏訪子のような純然たる神様なのかというと、過去の歴史を振り返ってみても、そこまで霊験あらかたな所業は行っていないようです。月夜見の月面移住計画に協力して月の都を造り、その後も月社会の発展に寄与し続けたことは、確かに神懸った能力の賜物だと考えられますが、その月に住む人々を裏切って輝夜と共に罪人になったことまで含めれば、崇高な理念で動いている(周囲に御利益を与える)というより、むしろ個人的な意思で行動しているきらいがあります。何より、永琳自身は他者からの信仰を全く必要としていません。そこが、東方世界における他の神様とは決定的に異なる部分でもあります。恐らく「八意思兼≒八意永琳」という図式は確定的なのでしょう。しかし、私はそれを否定することに浪漫を覚えます。神様でも人間でも妖怪でもない、ヒトのカタチをした別の何か…。そう考えれば、あの「綾波レイ」以来久々に登場した、最高に不気味なキャラクターと言えるのではないでしょうか。
もう一つ、八意永琳の魅力を挙げるなら、それは蓬莱山輝夜に対する異常な執着が指摘されます。設定上では「蓬莱の薬を与えたことの罪悪感」から輝夜に付き従うようになったとありますが、儚月抄(小説と漫画)から判断すると、そもそも永琳は教育係をしていた頃から輝夜のことを気に入っていた節があります。大体、「月の頭脳」と呼ばれるほどの者が、蓬莱の薬を欲しがる輝夜の目的を見抜けないわけがありませんし、もし本当に見抜けなかったのだとしたら、その時点で既に輝夜に対して盲目になっていたと言えます。出会った時から現在に至るまで、永琳はいつも輝夜の意思に沿う形で行動しています。この事実を考慮すれば、「罪悪感」というのが半分建前のように聞こえても不思議ではありません。一方輝夜はというと、永琳のことを完全に信頼しているとはいえ、束縛するつもりも無ければ、己の全存在を懸けるほどの存在だとも認識していないようです。つまり、永琳の輝夜に対する愛情や献身は自発的なものであり、外的要素に起因するものではないということです。自分より遥かに年下で、自分ほど才能に恵まれているわけではない輝夜に、果たして永琳は何を見出したのか。最高レベルの地位や権力を有していた彼女が、その全てを擲ってまで一人の小娘に付き従うことを選んだという、その本当の動機は何であったのか。これらの点が解明されれば、永琳の異常な執着の本質を理解することも可能だといえるでしょう。しかし、ZUN氏の手法を考えれば、この辺の設定が明文化されることは恐らく無いかと思われます。むしろ、こういう部分の説明に関しては、優秀な同人作家さんに期待した方が良いのかもしれません。
永琳に関して疑問に思うことがあるとすれば、それは彼女が人間を造ったことがあるのかという点です。出産であれ、科学的製造方法であれ、凡そ万能で好奇心も旺盛なはずの永琳が、圧倒的に長い人生の中でヒトという生き物を一度も造らなかったとはどうしても考えにくいのです。恐らくは、何人か出産、もしくは試験的に何体か製造したことでしょう。もしそうであれば、「輝夜は永琳と血の繋がりがあるのではないか」とか、あるいは「十六夜咲夜は永琳によって造られた生物ではないのか」というような妄想を膨らませることもできます。この辺の設定も考え始めたらキリが無いので、同人作家さん達に任せるとしましょう。ただ、八意永琳というキャラクターの成り立ちを考えるとき、あまり取り沙汰されることはないですが、この出産経験の有無(人体製造経験の有無)は、非常に重要な位置を占めると思うのです。ZUN氏がこの辺についてどのように考えているのか、できることなら一度伺ってみたいものですね。
どんな物語もそうですが、主役と同じくらいに脇役が魅力的でなければ、作品として人気を獲得することはできません。そして、それは偏に作者が脇役のキャラクターにどれくらい愛情を注げるかにかかっています。東方シリーズのキャラ達は皆が個性的であり、ZUN氏の配慮が満遍なく行き渡っていると思います。ただその中にあって、本来なら薬が作れる程度の能力であるにも関わらず、業績が宇宙規模に達しているという点で、永琳は特異な存在だと言えるでしょう。神奈子や諏訪子ですら生き残りを懸けて幻想郷に移住してきたというのに、永琳の場合はいざとなれば幻想郷を破壊することも躊躇わないほどの不敵さがあります。八雲紫や西行寺幽々子が永遠亭の勢力を潜在的なリスクと認識しているのは、実質的なリーダーである永琳の行動原理があまりにも単純すぎること(輝夜の安全を最優先にすること)に危機感を持っているからに他なりません。儚月抄では、そういった政治的思惑を背景にした上で、年増キャラ達のシビアな直接対決が見られるのかと期待していたのですが、現時点(漫画版第15話終了時点)では若者達が月で弾幕ごっこをしているだけに留まっています。儚月抄の連載が終了すれば、永琳や輝夜がクローズアップされる機会も無くなるでしょうから、せめて連載中だけでも彼女達の出番を増やして、他のキャラクター達(勢力)と絡むエピソードを描いていただきたいところです。
儚月抄の連載が開始されて以降、永琳のポテンシャルはインフレの一途を辿っています。次々と明らかになる設定の殆どが後付のような気がしないでもないのですが、その壮大さはまるで「ファイブスター物語」にも似ていて、色々と想像を掻き立ててくれます。最初は単なる従者として登場したはずの永琳がどんどん神格化していった背景にZUN氏のどのような意図があるのか、定かではありません。「最初からそういう設定のキャラだったんだよ」と言われればそれまでですが、ゲーム内で自機として使えない割にエンディングでの登場回数が多いことや、儚月抄本編でもそれほど目立つ役割が与えられていないのに単行本の著者近影には八意思兼神社の写真が使われていたりする辺りに、何かしら思い入れがあるようにも見受けられます。敢えて推察すると、現実世界のアンチテーゼである幻想郷においてZUN氏の思想・世界観を象徴するものが八雲紫であるならば、月という神秘の世界に対する憧憬の念を象徴するものが八意永琳なのではないかと思うのです。儚月抄の企画が成立したのは、これからも東方シリーズを続けていくにあたって月とそれに関する様々な事柄に決着を付ける必要があると、ZUN氏が判断したからではないでしょうか。そういう風に考えてみると、彼女の能力や立ち位置が変化していったことにも納得がいくというものです。
東方シリーズでは単なる脇役の一人ですが、私にとって八意永琳は近年で最も興味を惹かれたキャラクターでもあります。正体が判明するのも良いですが、できればこれからもミステリアスなままでいてほしいですね。
Posted at 2008/10/10 17:01:01 | |
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2007年03月30日
音楽に続いて、登場人物にも触れてみたいと思います。東方シリーズは旧作時代も含めれば10年以上の歴史があり、その間の各作品に登場したキャラクターを合計すると優に50名を超えるという、かなりの大所帯でもあります。しかも、どのキャラクターも設定が凝っているので、一通り覚えるだけでも大変な作業になります(一回だけ登場して終わりというキャラが多いのも事実ですが)。また、原作の設定に曖昧な領域が残されていることから、ファンによる二次創作が非常に盛んであり、現在では公式・非公式が絡み合った混沌とした様相を呈しています。正直言って、私もその区別が完璧にできる自信は無いのですけどね。
今回は数多いる魅力的なキャラクターの中でも特に興味を惹かれた4名について述べてみたいと思います。
■八雲紫
優れた物語には主人公以外にも核となれる名脇役が出演するように、東方シリーズにも作品世界を根底から支える重要なバイプレーヤーが何名かいます。その中でも特に存在感が際立っているのが、スキマ妖怪と呼ばれる八雲紫です。当初は妖怪の中の妖怪として権威や恐怖の対象とされていましたが、四季映姫の登場によって中間管理職的な立場にいることが判明し、最近の「緋想天」や「地霊殿」で苦労人としての側面が描かれるようになってからは、割と共感し易いキャラクターへと変化しつつあります。自己中心的なキャラクターが圧倒的多数を占める中で、彼女はいつも状況を俯瞰する立場にいます。外見や言動の怪しさとは裏腹に、秩序を守るという意思が明確な点で、八雲紫はわかり易いキャラクターであるとも言えるでしょう。幻想郷という箱庭世界の象徴としては、主人公である博麗霊夢よりも、むしろ彼女の方が相応しいのではないでしょうか。
「幻想郷は全てを受け入れるのよ。それはそれは残酷な話ですわ」という「萃夢想」での紫の台詞は、東方シリーズの真理を言い当てているのと同時に、一つの未来を暗示しています。つまり、幻想郷の崩壊です。いずれ終末が来ることを知りながら、紫は幻想郷の維持・管理に尽力しているわけです。そういう風に考えると、人を煙に巻くような彼女の振る舞いが、実は悲壮な決意を隠すためのベールのようにも見えてきます。八雲紫の本当の目的とは、人間と共存できずに消えていくもの全てを保護することなのかもしれません。元は人間であったとも噂されている彼女ですが、これまでに如何なる人生を歩み、そしてどのような経緯で妖怪の賢者として行動するようになったのか、興味深いところです。
妖怪という基準で見れば、八雲紫は水木しげるの作品に登場しても違和感が無いほどに胡散臭い傑作キャラクターだと思います。最近は天人や神様達の勝手な振る舞いに少々手を焼いていますが、これからも最高の妖怪として知略の限りを尽くしてほしいものです。
■西行寺幽々子
個人的な感想を述べるなら、数十名にも上る東方シリーズの全キャラクターの中で、最も切ないエピソードを背負っているのが、華胥の亡霊こと西行寺幽々子だと思います。特に「妖々夢」では、西行妖との因縁を軸に彼女の生と死のパラドックスが提示されていて、シューティングゲームとして攻略する以前に色々と考えさせられます。生前の記憶を失くしたまま西行妖を満開にさせようとする彼女の姿は、無邪気であるがゆえに悲劇的であり、思わず同情してしまいます。物語の因果関係が彼女一人に集約されることを考えれば、「妖々夢」は幽々子のための作品と言うこともできるでしょう。華麗な弾幕と叙情的な音楽、そして戦闘中の背景に巨大な扇が開く演出など、彼女のステージは日本人であればごく自然に感嘆できるような美しさで満ちています。また、ネット上で見かける創作イラストも、西行妖や反魂蝶が一緒に描かれた煌びやかなものが多く、ファンの愛情の深さが伺えますます。恐らくは、シリーズ中で最も優雅という言葉が似合うキャラクターではないでしょうか。
暢気そうに見えて実は勘が鋭く、日常生活は怠惰でも有事の際には積極的と、極端な二面性を持っているのが西行寺幽々子の特徴でもあります。しかも、会話の中で暗喩や皮肉を多用することから、一見しただけでその真意を理解することは至難の技です。東方シリーズには幽々子や紫のように千年以上も活動し続けている超年増が何名か存在しますが、そういう一筋縄ではいかないキャラクター達がいるからこそ、物語に奥行きが出てくるのだと思います。
■蓬莱山輝夜
蓬莱山輝夜を一言で説明するなら、「竹取物語」に出てくるかぐや姫ということになります。しかし、東方シリーズの中では「竹取物語」での履歴に加えて、様々な設定が付与されています。表向きは日本人なら誰でも知っている存在でありながら、実際はZUN氏が作り上げたオリジナルのキャラクターとも言えるでしょう。二次創作の世界では「てるよ」「蓬莱ニート」などと呼ばれてギャグ要員にされることも多いですが、原作の「永夜抄」や「儚月抄」では好奇心旺盛で行動的な上に割と良識もあり、他者に対して余裕と寛大さを失わない姫様らしい姫様として描かれています。これほど極端に乖離したイメージを無理なく両立できるキャラクターも珍しいのではないでしょうか。
輝夜には無視できない謎が一つあります。それは、月世界において彼女は最も高貴な姫であったのか、それとも複数存在する姫のうちの一人だったのかということです。綿月姉妹の登場により、月に複数の姫がいることは確定的となっています。月の都の創設メンバーである八意永琳が家庭教師を務めたくらいですから、綿月姉妹も輝夜もそれなりに高い身分にあることは間違いないのですが、「儚月抄」で輝夜の存在が月の勢力から完全に無視されていることを考えれば、彼女が政治的影響力を殆ど持たない種類の姫であることが予想されます。そもそも、月夜見という絶対的な神が君臨する社会において、姫という身分にどれほどの権威があるのか、定かではありません。綿月依姫が「玉兎を束ねるリーダーにまた目を付けられる」などと発言していることから、綿月姉妹ですらその立場が危険と隣り合わせであることも判明しています。恐らく、月における「姫」とは一部の貴族の婦女子に与えられる称号であり、蓬莱山輝夜もその内の一人にすぎないのではないでしょうか。そう考えれば、彼女の王族らしからぬ奔放な性格やどこか砕けた言動も納得できるというものです。
見知らぬ世界に憧れるだけならまだしも、蓬莱の薬を服用した罪により処刑・追放されるという手段を選んでまで地球に降りてきた輝夜の心理には、何かしら影のようなものが見受けられます。家族・友人・恋人など、大切と思える人間が周囲にいたなら、もしくは他人からの愛情をちゃんと受け取るができていたなら、そこまで無茶な行動は起こさなかったことでしょう。また、綿月姉妹のように才気煥発で優秀な技能を持っていたなら、月でも自分の居場所・目標を見つけることができたはずです。原作者であるZUN氏からも「設定が重い」と言われる永夜抄のキャラクター達の中で、この微妙に暢気であからさまにポジティブな輝夜こそが、実は一番大きな闇を、それも無自覚なまま心の内に抱えているのかもしれません。そして、次回でも取り上げる予定なのですが、八意永琳が過保護なまでに輝夜を庇うのも、その闇に気付いたからではないかと思うのです(もっとも、永琳が輝夜に執着するのは他にも理由がありそうですが)。
原作での出番が殆ど無いため、月関連の物語である「儚月抄」でやっと出自が明らかにされるのかと期待していたのですが、これまでの展開を見る限り、やはり輝夜に関する描写は望めそうにありません。「月のイナバと地上の因幡」では楽しそうに遊んでいるみたいですから、もはやそれで良しとするしかないのでしょうね…。
Posted at 2008/11/15 02:15:21 | |
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2007年03月29日
原曲・アレンジと続いて、最後はパロディにも触れてみたいと思います。東方関連の音楽作品においては、シリアスな楽曲だけでなく、荒唐無稽なパロディソングもまた重要なポジションにあると考えられます。実際には原作の内容と無関係な歌詞・世界観を持つ作品が大多数を占めるのですが、しかしある意味ではそういったパロディ作品こそ、客が抱くイメージや妄想を最もシンプルに具現化しているといっても過言ではありません。我々人間という種族は、何か真面目で真剣なものを見るに付け、そこから冗談の種を探してしまうものです。何故ならそれは、現実の息苦しさから逃れるための一つの有効な手段であるからです。幻想郷は息苦しさと全く無縁の世界ですが、それでもまあ「輝夜がニートだったら…」「アリスがツンデレだったら…」などと想像してみれば、いくらか楽しみも増えることでしょう。今回は、そんな風に東方シリーズの世界観を広げてくれる(破壊してくれる)パロディソングを幾つか挙げてみました。
■Help me, ERINNNNNN!!(原曲:竹取飛翔)
あの麗しき「竹取飛翔」が、もはや原型を留めていない形にまで変化した名曲です。ノリが良くて楽しいわりに、スッキリと纏まっています。YouTube等のコメント欄にやたらと顔文字が並んでいるのは御愛嬌ですね。東方シリーズに関連する全ての二次創作物の中でも、永く語り継がれるであろう快作だと思います。
■最終鬼畜全部声(原曲:U . N . オーエンは彼女なのか?)
清く正しい青少年達が感動的な歌と技術を披露するハモネプなどでは到底実現不可能な、それ故に「こちらのほうが素晴らしい」と拍手喝采を贈りたくなる怪作です。音楽のジャンルが何であれ、こういうパフォーマンスを実行できる点にロック魂を感じてなりません。ただ面白いだけでなく、感動もさせてくれるパロディ作品ですね。
■ひれ伏せ愚民どもっ!(原曲:竹取飛翔)
究極の下僕ソング(陽性)です。歌詞が面白く、ヴォーカルの声も可愛いのですが、それよりも実は楽曲のアレンジ具合が素晴らしい良曲です。特にラストの1分30秒間は、ファミコン世代には懐かしい電子音に満ちていて、これが単なるパロディソングではないことを明確に示しています。一曲で二度美味しい珍しい作品です。
■ゆかりんファンタジア☆カオスフル(原曲:ネクロファンタジア)
究極の下僕ソング(陰性)です。一部の日本成年男子の醜悪さを如実に表現した作品でもあります。一切の褒め言葉が似合わない珍曲であり、歌い手の対象キャラクターに対する倒錯した愛情と業の深さには、思わずニヤニヤしてしまいます。有り余るほどの情熱と執念を、全く生産的でない方向にしか発揮できないのだとしたら、それは正しく「罪」だと言えるでしょう。
■これはキモちのいいけーね(原曲:プレインエイジア)
ネタ元のキャラクターが東方シリーズにしては珍しく真面目で良心的であることを考えると、その歌詞の落差が面白い一曲です。そして何より、単純に楽曲としてお洒落に仕上がっている点が素晴らしいと思います。東方関連のパロディとしては、一番上品な曲ではないでしょうか。
■株式会社ボーダー商事・社歌(原曲:ネクロファンタジア)
歌詞のフザケっぷりと楽曲の格好良さが見事に融合した、「これぞパロディ」と言える良曲です。「魔理沙は~」「患部で止まって~」「ウサテイ」の三曲によって東方シリーズの存在を知った私が、初めて意識的に探索・発見し、そして気に入った曲でもあります。東方シリーズに嵌るきっかけが、原作のゲームではなくこのような二次作品であったという点に多少の負い目を感じなくも無いのですが、今や毎日原曲を聴くほどのファンになったので許してもらえるのではないかと思っています。
■宴は永遠に(原曲:御伽の国の鬼が島)
数多ある酒類賞賛ソングと同じく、ひどく能天気な一曲です。しかし、よく聴いてみると歌詞が中々風流で、侘び寂びを踏まえているところに奥深さを感じます。パロディソングの様相を呈しながらも、実は「宴会で大団円を迎える東方シリーズ」の精神性を端的に表現した曲なのかもしれません。これも含めて、IOSYSの作品は本当にレベルが高いと思います。
■行列のできるえーりん診療所(原曲:千年幻想郷)
何をもってパロディとするかは個人の感性によって異なるのでしょうが、私にとってはこの曲もパロディの内に入ります。歌詞が東方の世界では珍しい恋愛物であり、ヴォーカルの声も透き通るようなハイトーンボイスで、何ら笑いを誘う要素は無いようにも思えますが、唯一、某薬師がこれを唄っているかと思うと「ありえないな」という意味で密かに笑みが洩れてしまいます。それを除けば、本当に綺麗な曲と言えますね。
■患部で止まってすぐ溶ける~狂気の優曇華院(原曲:狂気の瞳)
YouTubeやニコニコ動画をよく利用している人であれば、一度は耳にしたことがあるはずの曲です。かくいう私も、以前は東方のことなど何も知らずにこの曲のPV動画を見て「面白いなぁ」と楽しんでいました。あまりに有名すぎて、今では様々な類似品が溢れていますが、「洗練された混沌」という点においてはどれも本家に劣ると思います。ネットで動画を見る時代の、代表的な作品ではないでしょうか。
■魔理沙は大変なものを盗んでいきました(原曲:人形裁判)
もはや語る必要も無いくらいの名曲(迷曲)だと言えるでしょう。一度聴いてしまえば、二度と忘れることができないくらいのインパクトがあります。初めてタイトルを見たときには「ルパンのパクリじゃないか」と思って胡散臭く感じていたのですが、実際に聴いてみると、中身があまりにも無関係すぎたのでつい笑ってしまいました。米米CLUBの「FUNK FUJIYAMA」によって邦楽を聴くようになった私にとっては、原点に立ち返らせてくれたパロディソングでもあります。
上に挙げた作品群は、飽くまでも私が面白いと思った楽曲の一例であり、ネットを探せばこれら以外にも本当に様々なタイプの楽曲が見つかります。中には表に出すのも憚れるようなモノも幾つかあるのですが、そういう幅広さ・懐の深さもまた東方の魅力だと言えるでしょう。東方関係のパロディ作品は、音楽だけでなく動画も充実しているのですが、あまりにも多種に亘り過ぎているので、このブログでは触れないことにしておきます。そもそも、「面白い」と感じるセンスは「美しい」「素晴らしい」と感じるセンス以上に個人間での差が激しいので、いくら「良いですよ」と紹介しても、それが人によっては単なる押し付けになってしまう可能性もありますからね。
東方の世界に興味を持った人がいたら、とりあえずネットで探索してみることをお薦めします。シリアスであれ、パロディであれ、何かしらきっと気に入る作品が見つかるはずですから。
Posted at 2008/10/04 23:56:43 | |
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