久々の艦船模型、それも久々のアメリカ艦です。
大東亜戦争は結果として大日本帝国が敗北しましたが、戦争の勝敗は結局のところ失うものが多かったか少なかったかの違いにすぎません。
アメリカもすべての戦闘で勝ったわけではなく、結果的に勝てたとしてもペリリューの戦い、硫黄島の戦い、シュガーローフの戦いといったように、帰還兵の多くがPTSDを患うほどの苦い勝利が多く、第1次ソロモン海戦や南太平洋海戦など惨敗を喫した戦闘も多々ありました。
今回制作したのは、第1次ソロモン海戦で大日本帝国海軍に大惨敗し、2席の姉妹館ともどもソロモンの海に散っていったニューオーリンズ級重巡洋艦7番艦、
CA-44 USSヴィンセンス
です。先に姉妹艦の
アストリア
と
クインシー
は制作していました(それぞれの名前にリンクを貼っています。興味ある方はご覧ください)が、ここでやっと3隻そろいました。ここで述べたいことは一つ、戦争で傷つき、悲惨な思いをしたのは日本国民だけじゃなく、見くびっていた日本の意外な強さに傷つき、悲惨な目にあったのはアメリカ側も同じであり、それが大きいか小さいかの違いでしかないということです。
逆に日本が勝利した戦いのほとんどが、あまりにも日本側が容赦なさ過ぎて何もそこまでやらなくても…と思える史実がいくつもあるくらいです。
第1次ソロモン海戦もその一つに数えていいでしょう。
第1次ソロモン海戦は、大日本帝国VSオーストラリア・アメリカ連合軍で、連合軍が比較的新式の艦が主力であるのに対し、大日本帝国が比較的旧式の艦が主力で数的にも不利の状況でしたが、結果として連合軍が大敗北を喫し、ニューオーリンズ級の3姉妹はソロモンの海に沈みました。
1936年5月21日 マサチューセッツ州クインシー フォアリバー造船所で進水。
日米開戦前は大西洋方面で輸送、警備、護衛任務に従事。
開戦後は、ミッドウェー海戦では姉のアストリアと行動を共にし、空母飛龍の友永隊の九七艦攻1機撃墜の戦果。以後はクインシーも合流、3姉妹仲良く任務に就いていました。
1942年、
ここからはウィキペディアより抜粋です。
ガダルカナル島の戦い
ヴィンセンスはクインシーおよび軽巡サンフアン (USS San Juan, CL-54) と共に「X光線」と呼ばれた輸送船団を護衛した後、7月26日に第62任務部隊と合流。27日、ヴィンセンスはコロ島(英語版)で上陸演習を行った。ソロモン諸島への進攻を控え、ヴィンセンスは第62.3任務群の旗艦となり、上陸部隊の援護役として行動することとなった。
補給の後、重巡洋艦群は「ヨーク」輸送戦隊を護衛してソロモン諸島方面へ向かい、8月7日にガダルカナル島沖に到着した。夜明けとともにヴィンセンスは観測機を発進させ、続いて僚艦とともに一斉射撃を行って海兵隊の上陸を援護した。海兵隊は軽微な反撃を受けたものの上陸に成功した。13時20分ごろ、早くも日本機の反撃が始まった。ヴィンセンスは輸送船団と太陽を背に最初の対空射撃を行い、撃退した。日没後、ヴィンセンスはアストリア、クインシーおよび駆逐艦ヘルム (USS Helm, DD-388) 、ジャーヴィス (USS Jarvis, DD-393) と共にグループを組んで哨戒を行った。
8月8日に入り、ヴィンセンスはガダルカナル島沖のエリア「X線」に戻って輸送船団護衛を再開した。午後、前日に引き続き日本機の反撃があり、ラバウルから飛来してきた一式陸攻は低空から雷撃を行った。ヴィンセンスは2,700メートル離れたところにいた輸送船を守るため、8インチ砲と20ミリ機銃で一式陸攻に対抗した。8インチ砲は水面に向かって発射され、一式陸攻は起こる水柱に突っ込むか避けるしか選択肢がなかった。ヴィンセンスは魚雷と爆弾から回避できたものの、ジャーヴィスには魚雷が1本命中し致命傷となった。
午後、偵察機がラバウルから南下する日本艦隊を発見。内訳は巡洋艦3隻、駆逐艦3隻、砲艦2隻および水上機母艦と判断された。ジャーヴィスはヴィンセンスらのグループを離れルンガ岬沖を出て、ヴィンセンスとクインシー、アストリアはサボ島北方で哨戒を続けた。ヴィンセンスのフレデリック・ロイス・リーフクール艦長は、翌朝になればラバウルからの日本機と艦隊が攻撃してくるだろうと予想し、夜は用心して哨戒するよう命令を出したものの、その用心はむしろ朝に起こると予想された戦闘に備えてのものだった。真夜中近くになり、リーフクール艦長は艦の指揮を W・E・A・ムーラン副艦長に委任して艦長室に入った。
第一次ソロモン海戦
約1時間後、ヴィンセンスの見張りは南の方角に曳光弾や火炎、そして低く鈍い音声を確認した。これは、三川軍一中将率いる第八艦隊の一隊がサボ島西方からガダルカナル島沖に入り、重巡シカゴ (USS Chicago, CA-29) 、オーストラリア重巡洋艦キャンベラ (HMAS Canberra, D33) および駆逐艦パターソン(英語版) (USS Patterson, DD-392) 、バッグレイ (USS Bagley, DD-386) のグループに対して砲雷撃を行った戦闘を示すものだった。ヴィンセンスは総員配置を令したが、こちらから戦闘の様子が見えていたにもかかわらず、シカゴのグループからは警報の類は来なかった。三川艦隊はシカゴのグループを打ちのめすと2つのグループに分かれて北に向かい、ヴィンセンスらのグループに迫ってきた。
1時55分、三川艦隊からのサーチライトがヴィンセンスを照らし出した。ヴィンセンスは味方からの照射だと勘違いして味方識別信号を送るよう指示を出した。これに対し、三川艦隊は一斉砲撃で応答した。状況を理解しつつあったヴィンセンスが反撃の砲撃を行ったものの、2つのグループからの砲雷撃に挟み撃ちにされ、艦のあらゆる所に砲弾が命中した。リーフクール艦長は艦の通信が途絶した状態にもかかわらず、19.5ノットの速力で戦場を脱出しようとした。しかし、別の一隊からの攻撃を受けた。砲弾が格納庫に命中して搭載機が炎上、測距儀も破壊された。2時ごろ、ヴィンセンスは右側に逃れつつあったが、三川艦隊は大打撃を受けたヴィンセンスを見逃しはしなかった。追い討ちをかけるように魚雷がボイラー室に命中し、ついにヴィンセンスは行き足を止めた。8インチ砲弾と5インチ砲弾合わせて、少なくとも57発が命中したと判断されたヴィンセンスは、パンチを喰らってよろめくボクサーの如く気息奄奄となった。
やがて三川艦隊は去っていき、後には炎上し瀕死のヴィンセンス、クインシー、アストリアの3重巡洋艦が残された。リーフクール艦長は2時30分に総員退艦を令して乗組員はヴィンセンスから脱出し始めた。リーフクール艦長が最後に救助された後、ヴィンセンスはアイアンボトム・サウンドに沈没していった。
補足をすると、ヴィンセンスとクインシーの立ち位置は終始アストリアを庇うかのようなもので、その結果としてヴィンセンスが最も多く被弾、アストリアはなんとか生き延びようと足掻くも翌日12時15分ついに力尽きました。ヴィンセンスの記念碑には次のように記されているそうです。
「ヴィンセンスは素晴らしい艦で、1941年4月23日以降、我々は皆ヴィンセンスを誇りに思っていた。ヴィンセンスは1942年8月9日2時50分にサボ島の東2.5マイルの、水深約500ファゾムの海底に眠っている」
(ウィキペディアより)
製作期間は空白期間を入れれば実に2か月。実質的な制作時間は10時間ほどでした。
今回は、戦時迷彩ではなく、戦前のアメリカ海軍標準色を選択しています。
艦首側から
艦尾側から
右舷正横から
3姉妹を並べてみました。

手前から、ヴィンセンス、クインシー、アストリア
こうして並べると確かに3姉妹って感じですね。
しかしよく見ると、艦橋の形状や対空兵装の配置がそれぞれ異なっています。
艦首側からの3姉妹
唯一救いがあるとすれば、アストリアの礼送を出迎えた艦がこの海戦に参加していなかったことにあるかもしれません。
Posted at 2022/11/28 22:18:17 | |
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