田中角栄 を、内閣総理大臣の座から 降りる 事になる、「田中角栄研究」をスクープした 立花隆 さん
「田中角栄研究」は、後に社会人になる頃に読んだが、ジャーナリスト魂というか、取材力というか、とにかく田中角栄のロッキード事件が大事になった一因として立花隆さんは無くてはならない人だ。
TBSニュース23 によく出演されて、いたし、NHKスペシャルなど、NHK番組にも出演されていた。
立花氏については、賛否あるとは思うが、個人的には、立花氏の話は共感できる部分が多かった。
立花氏は、政治、経済分野に留まらず、サイエンス分野にも鋭く切り込み取材し、いろいろ立花氏の話を通して知を得る事が出来た。
「ぼくはこんな本を読んできた」(1995年)は今も手元にある。
今一度読み返してみようと思う。
合 掌
立花隆さん死去 ジャーナリスト、評論家「田中角栄研究」
2021/6/23 02:00(最終更新 6/23 10:18)
多くの調査報道やベストセラーを発表し、「知の巨人」として知られるジャーナリストで評論家の立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志=たちばな・たかし)さんが4月30日、急性冠症候群のため亡くなった。80歳。葬儀は故人と遺族の意思により家族葬で行われた。
1940年、長崎市生まれ。両親ともクリスチャンの家庭で育つ。教員だった父が赴任していた中国・北京で敗戦を迎えた。東京大文学部仏文科を卒業した64年、文芸春秋に入社し雑誌記者となるが66年に退社、フリーとなる。67年に東京大文学部哲学科に学士入学した。在学中から雑誌などにルポや評論などを発表。74年には月刊「文芸春秋」に「田中角栄研究 その金脈と人脈」を発表した。首相だった田中氏の政治手法を入念な取材と裏付け調査で明らかにし、田中氏退陣のきっかけとなった。同企画は「調査報道の先駆」「雑誌ジャーナリズムの金字塔」として高く評価された。
その後は「日本共産党の研究」など政治をテーマとした執筆を続ける一方、米国のアポロ計画で月に渡った宇宙飛行士を取材し、その内面の変化をたどった「宇宙からの帰還」や、人の死、人が生きていくことの意味を問うた「脳死」「脳死再論」など科学分野でも多数の意欲作を残した。
後進の育成にも力を入れた。東京大で非常勤講師や客員教授などを歴任。ゼミ出身者が作家や記者、編集者などになった。2007年にがんの告知を受け手術。以後自らの体験を雑誌に発表するなど、がんに関する取材・執筆を続けた。他の主な著作に「中核VS革マル」「農協 巨大な挑戦」「ロッキード裁判傍聴記」「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」「天皇と東大 大日本帝国の生と死」「武満徹・音楽創造への旅」など。多分野に及ぶ活躍で菊池寛賞(83年)や毎日出版文化賞(87年)、司馬遼太郎賞(98年)などを受賞した。
分野も時間も軽々越えた「知の巨人」 立花隆さんが残したもの
6/23(水) 5:00
Yahoo!ニュース
「知の巨人」と評されたジャーナリストで評論家の立花隆さんが亡くなった。理系と文系、過去や現代、未来といったテーマの垣根を軽々と越えた60年に及ぶ活動が残したものは大きい。
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戦闘の体験はないが、戦争への関心は高かった。幼いころの鮮明な記憶は、中国からの引き揚げだ。教員だった父親の赴任先、北京で敗戦を迎えた。5歳の立花少年は引き揚げの旅路で大人用のリュックを背負わされた。先を行く大人について行くのがつらく、「置いてけぼり」になりかけたという。
また長崎生まれで、原爆には思いがあった。東京大在学中の1960年には、英国・ロンドンで開かれた「学生青年核軍縮国際会議」に招かれ欧州に渡った。新藤兼人監督の映画「原爆の子」や関川秀雄監督の「ひろしま」、土門拳の写真集「ヒロシマ」などを持参し、各地で上映会などを開いた。
64年に仏文科を卒業。卒業論文はフランス革命期の哲学者、メーヌ・ド・ビランが残した「ヨハネ伝注解」の分析だった。進路を考えていると、新聞記者だった兄から「新聞記者はやめろ」と言われた。NHKと岩波書店は入社試験で落とされ、文芸春秋に入社した。希望通り「週刊文春」に配属された。しかし好きな読書がままならず、「まったく興味が無い」プロ野球の取材を任されたことで嫌気が差し、3年足らずで退社した。
フリーとなり、67年には東京大哲学科に学士入学。学費を稼ぐために雑誌で記事をまとめる「アンカーマン」を務め、取材や編集の経験を重ねた。60年代末からペンネームの「立花隆」で月刊誌などで記事を書いた。さらに東京・新宿の飲食店が並ぶゴールデン街でバーを共同経営。来店するマスコミ関係者との交流を深めた。
そこで知り合った編集者のすすめで72年、イスラエルに渡った。同年に起きた、テルアビブの空港で日本赤軍の3人が銃を乱射し24人が死亡した事件を取材。1人生き残った実行犯で、現地警察に拘束されていた岡本公三容疑者への一問一答記事が「週刊文春」に掲載され話題となった。
「立花隆」の名前がさらに大きく知られたのは74年。「田中角栄研究 その金脈と人脈」を月刊「文芸春秋」で発表してからだ。時の首相の、カネにまつわる疑惑を徹底的に調べ上げた。会社登記簿や政治資金収支報告書など膨大な資料を収集・分析。ファミリー企業や支援者、派閥などの複雑な人脈を相関図で可視化した。田中氏は日本外国特派員協会で記者会見に臨み、海外メディアの追及を受けた。「田中金脈」は海外に発信され、日本のメディアも報じた。田中氏は74年11月に退陣を表明。自民党内の権力闘争が激化していたこともあったが、立花さんの報道が田中氏退陣の引き金ともなった。
76年2月には「ロッキード事件」が発覚。田中氏や丸紅、全日空の役員らが受託収賄、贈賄などの罪で起訴される歴史的な疑獄事件となった。立花さんは退陣で田中氏をテーマにすることをやめるつもりだったが、事件によって追い続けることに。77年の初公判以来、すべての公判を傍聴。「朝日ジャーナル」に68回の「傍聴記」を寄せた。
「科学少年だった」という立花さんは、脳や宇宙、医療といった分野でも積極的に取材し、発信した。「宇宙での体験が意識にどんな影響をもたらすのか」に関心を持ち、米アポロ計画の宇宙飛行士たちに取材を重ねた。その成果である「宇宙からの帰還」は版を重ね、後に日本人が宇宙飛行士を目指すきっかけともなった。科学・技術の最前線に立った人間がその体験を精神世界でどう受容し、その後の人生にどう影響したのかを追う仕事は、分野を越境する立花さんの仕事の象徴であると同時に、膨大な作品群の中で一つの画期ともなった。
並外れた読書家でもあった。蔵書はおよそ10万冊。「関心がある分野は最低でも10冊を読むべきだ」「本との出会いは自分でするもの」といった持論から、読書の方法や重要性を説いた。
鋭い書評家でもあった。賞の選考会などでは手厳しい評もしたが、立花さんに著作を取り上げられ、力を得た書き手は多い。また母校・東京大では教壇にも立った。「調べて書くことが現代では最も重要な能力」との考えから、ゼミでは学生たちが会いたい人物に会い、インタビューして書くことを課した。自身も取材や執筆などの活動をしつつ、後進の育成に力を注いだ。
分野をまたいで深く広く取材する発信者であり、教育者でもあった立花さんは「総合知」の人だった。アカデミズム、ジャーナリズムとも専門性が細分化する現代にあっては、立花さんのような異能の人物は、もう現れないかもしれない。
◇立花隆さんの著書一覧
「思考の技術」(1971年)
「中核VS革マル」(75年)
「田中角栄研究」(76年)
「日本共産党の研究」(78年)
「ジャーナリズムを考える旅」(同)
「農協 巨大な挑戦」(80年)
「ロッキード裁判傍聴記」(81~85年)
「宇宙からの帰還」(83年)
「脳死」(86年)
「脳死再論」(88年)
「同時代を撃つ 情報ウオッチング」(88~90年)
「臨死体験」(94年)
「ぼくはこんな本を読んできた」(95年)
「立花隆の同時代ノート」(97年)
「21世紀 知の挑戦」(2000年)
「『言論の自由』VS.『●●●』」(04年)
「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(同)
「天皇と東大 大日本帝国の生と死」(05年)
「滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか」(06年)
「自分史の書き方」(13年)
「死はこわくない」(15年)
「武満徹・音楽創造への旅」(16年)
「『戦争』を語る」(同)
「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(20年)
ジャーナリスト・立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志)さんが4月30日午後11時38分、急性冠症候群のため死去していたことが分かった。80歳だった。葬儀は故人と遺族の意思により、5月4日に家族葬にて執り行われた。埋葬は樹木葬という。
長年、痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気を抱え入退院を繰り返した。
約1年前、大学病院に再入院した際、本人が検査、治療、リハビリを拒否したことから、旧知の病院に転院。院長の「人生の晩年期における立花先生のご病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも先生の全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という考えのもと入院を続けた。4月30日夜、ナースコールで駆け付けた看護師が異常を感じ院長に連絡も、到着を待たず急逝。かねて糖尿病による脳動脈硬化と冠動脈硬化の危惧があったという。
1940年、長崎市生まれ。東大仏文科卒。生物学から政治、宇宙など多岐にわたるテーマで著書を出版した。徹底的な取材で知られ、「知の巨人」と称された。主な著作に「田中角栄研究―その金脈と人脈」「脳死」「知の旅は終わらない」など。昨年、出版された著書「知の旅は終わらない」(文藝春秋)には、「死んだ後には、葬式にも墓にもまったく関心がありません」とした上で、「海に遺灰を撒(ま)く散骨もありますが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も法的に難点があるので、妥協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し 樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思っています。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか」と記している。