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2021年06月18日 イイね!

寺内タケシさん 死去 82歳 20210618

寺内タケシさん 死去 82歳 20210618


エレキギターの日本の第一人者 寺内タケシさん

ラジオで聞いた話で、今も記憶に残っているのが、加山雄三主演映画作品集「エレキの若大将」の逸話。

エレキギターを手にした若大将に、寺内タケシが扮する人物が、

若大将 いいギター持ってますね?

とかなんとかいったら、

若大将が、

弾いてみるか! とかなんとか言って、寺内タケシにエレキギターを渡し、

寺内タケシ扮する人物が、どうやって弾くんだろうとかなんとかいいつつ、超絶にエレキギターを弾く

というシーンが、映画にあったという。

加山雄三さん、若大将シリーズで共演していた、寺内タケシさん。

そんな、ひとこまが目に浮かぶ。



合 掌


「エレキギターの神様」寺内タケシさん死去 82歳 肺炎で

6/19(土) 17:27 

Yahoo!ニュース

 “エレキギターの神様”と呼ばれたギタリストの寺内タケシ(本名・寺内武)さんが18日午後8時37分、肺炎のため横浜市内の病院で死去した。82歳。葬儀・告別式は近親者で行い、後日お別れの会を開く。喪主は長男・章さん。

 関係者によると、寺内さんは今春に誤嚥(ごえん)性肺炎のため入院。その後は回復傾向にあり、リハビリに励んでいた。今月18日午後に容体が急変し、息を引き取った。

 ずば抜けたギターテクニックを武器に「ブルージーンズ」のバンドマスターとして活躍。クラシックから民謡まで、さまざまなバージョンで独自のサウンドを創り出した。1500校を超える「学校巡礼コンサート」もライフワークに活動していたが、最近は表舞台から遠ざかっていた。

 茨城・土浦市議会議長も務めた父が経営する海軍御用達の電気屋の家に生まれ、5歳でエレキギターを“発明”したという逸話も持つ寺内さん。母は三味線と小唄の家元で、幼少から音楽に触れて育った。中学の頃からバンド活動を繰り広げ、高校卒業後は関東学院大電気科に進学した。85年に故郷の茨城・筑波学園都市で開催された「科学万博」では総合企画担当も任されるなど、音楽界にとどまらない活動で多大な功績を残した。

 大学在学中にプロ活動を始め、ミッキー・カーチスやジミー時田さん(00年死去、享年63)とバンドを組んだ後、62年にブルージーンズを結成。67年に「レッツ・ゴー・運命」で日本レコード大賞編曲賞、78年には「民謡大百科」で同企画賞を受賞。万単位の持ち歌を持つという中で「津軽じょんがら節」「ソーラン節」などエレキ民謡など独自の音楽制作でも高い評価を得た。

 かつて「エレキ=不良」と言われた時代もあった。65年には栃木・足利市教育委員会が「エレキ禁止令」を出したが、74年から、その風潮を打破するために全国各地の学校を巡って視聴覚教育「ハイスクールコンサート」をライフワークに、訪問した学校は1500校を超える。04年には、青少年の情操教育に尽力し、斯界の発展・向上に貢献したとして文化庁長官表彰を受賞した。また海外公演も積極的に、病床の少女の願いをきっかけに訪れた3度の旧ソ連での公演も、連日1万人以上を動員。演奏した国は30か国以上とも言われる。

 全国の8市町村からの研究要請を受け、阪神大震災が発生した2年後、音響工学を駆使し、現場情報を収集して避難誘導する非常災害用車両を考案、設計したこともあった。

 02年には大腸がんを患ったが、見事に復帰。その後も精力的に活動。最近(19年9月現在の情報)では19年9月13日に都内で「テリー復活!スペシャルライブ」としてステージに立つなど、80歳を超えても生涯現役を貫き、類いまれなギターパフォーマンスでファンを魅了していた。

 ◆寺内 タケシ(本名・寺内武=てらうち・たけし)1938年1月17日、茨城・土浦市生まれ。大学在学中の57年に「ウエスタンバンド」、59年にジミー時田、いかりや長介、ジャイアンツ吉田と「マウンテン・プレイボーイズ」結成。63年「ブルージーンズ」、66年「バニーズ」を経て、68年「―ジーンズ」再結成。

報知新聞社






加山雄三 寺内タケシさん死去に「また一緒にエレキやりたかったよな」【追悼全文】

6/19(土) 18:46 

Yahoo!ニュース

 エレキブームの仕掛け人となったエレキギターの草分け的存在で、“エレキの神様”と呼ばれたギタリストの寺内タケシ=本名・寺内武=さんが、器質化肺炎のため、18日午後8時37分に亡くなった。82歳。所属レコード会社が発表した。関係者によると、18日午後に容体が急変し、帰らぬ人となった。

 寺内さんは今春、誤嚥性肺炎で入院。順調に回復し、リハビリ病院に転院していた。しかし、18日午後に容体が急変。18日夜、横浜市内の病院で息を引き取った。

 寺内さんは5歳でギターを初め、9歳で電話のコイルを並べたピックアップでエレキギターを製作したとされる。

 関東学院大学在学中にプロ活動を開始。1952年、「寺内武とブルージーンズ」を結成し、エレキブームの仕掛け人となり、加山雄三主演の「エレキの若大将」などにも出演したエレキギターの草分け的存在だった。

 加山は18日夜、公式サイトに追悼メッセージを掲載。「また1人、若大将の仲間が亡くなってしまった」と悲しみ、「また、一緒にエレキやりたかったよな。」と別れを惜しんだ。

 【以下、加山の追悼メッセージ全文】

また一人、若大将の仲間が亡くなってしまった。

別れはほんとうに辛いけど、映画に音楽とたくさんの思い出が残ってます。

僕が初めて作った「夜空の星」のアレンジは寺内君で、あのエレキには、ほんとに仰天しました。

当時、エレキギターをあそこまで弾きこなす人間は他にいなかったと思うんだよな。

僕がわざとテープの回転を遅くして録ったエレキの音を、今度は回転を普通にして聞かせたら目を丸くして、「どうやって弾いたんですか!!」って何度も聞いてきたのが懐かしく思います。

本当に多くのミュージシャンに影響を与えた、偉大なギターリストでした。

また、一緒にエレキやりたかったよな。



加山雄三
Posted at 2021/06/20 16:07:52 | トラックバック(0) | 墓標
2021年05月30日 イイね!

小林亜星 死去 88歳 20210530




作曲家 なんだが、作曲家より 昭和のテレビドラマに出ていた、大柄な丸い顔した オジサン

「中年 アンパンマン」とでもいう感じの役者さん の イメージが強い が、それでもって、音楽も出来る マルチナな人

個人的には、そんな印象の方だった。

都はるみの、「北の宿から」は小林亜星の曲なのだが、それよりも、日立製作所のコマーシャルソング「この木なんの木」や番組主題歌などの、テレビソングの聞けば知ってる あの曲、この曲。

関西のモーツァルト「キダタロー」のような、個性溢れる方でした。


この頃の、音楽家は、個性の強い人たちが多かった。

テレビ創世記を作ってきたからなのだろうか。

多分、テレビが始まった頃、音楽を作り、それを演奏して、さらに画面にも出る。

一人何役もこなして、番組が出来上がっていたのだろう。






作曲家の小林亜星さんが死去

6/14(月) 16:15 

Yahoo!ニュース


 「北の宿から」などで知られる作曲家で、ドラマ「寺内貫太郎一家」の主演でも親しまれた小林亜星さんが5月30日、心不全のため死去したことが14日分かった。88歳。東京都出身。


作曲家の小林亜星さん死去 88歳 「北の宿から」など作曲

2021年6月14日 17時03分

「この木なんの木」の歌いだしで知られるCMソングやアニメの主題歌、都はるみさんの「北の宿から」などを手がけた作曲家で、俳優としても活躍した小林亜星さんが先月30日に心不全のため亡くなりました。
88歳でした。

小林さんは東京都の出身で、大学時代にジャズバンドで活動し、卒業後に本格的に作曲を学びました。

テレビコマーシャルの黎明期だった頃に大手繊維会社のCMソング「ワンサカ娘」を手がけ注目を集め、その後も「この木なんの木」の歌いだしで知られるCMソングのほか「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」などのアニメの主題歌を手がけ、軽快な音楽で人気を集めました。

また、昭和51年には都はるみさんが歌った「北の宿から」が大ヒットし、日本レコード大賞を受賞しました。

俳優やタレントとしても活躍し、向田邦子さんが脚本を担当した昭和49年のテレビドラマ「寺内貫太郎一家」で、頑固な父親の役を演じて人気を集めたほか、平成14年にはNHKの連続テレビ小説「さくら」で主人公の祖父の役を演じました。

家族などによりますと、小林さんは先月30日に都内の自宅で倒れ、病院に搬送されましたが、心不全のため亡くなりました。

88歳でした。




小林亜星さん死去 本人が明かす「寺内貫太郎一家」での西城秀樹とのケンカの思い出
2021/06/14 18:08
「お客様番号『499336』をATMに」 京都で還付金詐欺続発
オリコンが小林亜星さん作曲ランキング発表 1位は都はるみ「北の宿から」

小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。1923年、東京生まれ。2021年5月31日、死去。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万枚を超す大ヒット。日本レコード大賞童謡賞を受賞。76年、都はるみ「北の宿から」(75年)で日本レコード大賞を受賞。クラシックからジャズ、ロック、演歌まで多彩に活躍した。(c)朝日新聞社© AERA dot. 提供 小林亜星(こばやし・あせい)さん/作曲家。1923年、東京生まれ。2021年5月31日、死去。数々のCM曲、主題歌、流行歌の作曲、作詞を手掛ける。72年、「ピンポンパン体操」(71年)が200万…
 作曲家で、「寺内寛太郎一家」にも主演し、黒縁の丸メガネの“巨漢”タレントとしても人気があった小林亜星さんが5月30日に亡くなっていたことがわかった。享年88歳だった。死因は心不全で5月30日に容体が急変し、そのまま病院で亡くなったという。小林さんは週刊朝日2018年9月28日号でまで今は亡き西城秀樹と一緒に出演した「寺内寛太郎一家」の思い出を語っている。貴重なインタビューを再録する。

*  *  *

「当時から大変なスターでしたからね。とても忙しくて、セリフも現場に来てパッと覚えて、すぐ本番やって。そしてまた次の現場へという繰り返しだから、大変だったでしょうね」

 と、「寺内貫太郎一家」主演で作曲家の小林亜星さんは、息子・周平役の秀樹のことを振り返る。

 一番の“名物シーン”は、貫太郎と周平の、本気の取っ組み合い、殴り合いの親子げんかだ。

「本気でけんかしないと、演出家の久世光彦が『そんなんじゃ駄目だ』って怒るんですよ。終われば仲いいんですが、殴り合ってるとお互い自然と頭にきますから、迫真の演技になりました。あるとき、僕が秀樹を庭の外に突き飛ばしたら、そこに釘が飛び出した板があって。手に大けがをしてしまったんです。そのときは、『お前の大事なところ、引っこ抜くぞ』と書かれた恐ろしい手紙が山のように届いて、もう、ブルっちゃいました(笑)」

 亜星さんにとって秀樹は、一音楽家として尊敬する存在でもあったという。

「日本でナンバーワンを争うような音楽性の高い歌手だったと思います。ドラマの中でミヨちゃん(浅田美代子)と毎週歌う場面がありましたが、そこでは役になりきって、あまりうまく歌いすぎないようにしてた気がしますね。当時はアイドル的な人気が先行して、歌手としての実力がなかなか正当に評価されにくかったように思います」

 秀樹の音楽性、表現力を当時から評価していた亜星さんだったが、秀樹に曲を提供する機会には、なかなか恵まれなかった。

 1999年。思いは届く。テレビアニメ「ターンAガンダム」の主題歌と挿入歌を亜星さんが担当。歌い手として、秀樹を指名した。

「秀樹くんと組んでやりたいって言ったんです。普通は誰でも歌いやすい、覚えやすい曲を作るものですが、そのときだけは、秀樹じゃないと歌えないもの、難しくてもいいから高度なものにしようと思ったんです。そうしたら、やはり思ったとおりのフィーリングを出してくれた。単に歌がうまいだけの人ならいくらでもいますが、その理解力の高さは、天才的ミュージシャンでした。僕はもうそれで満足して、それ以来アニメの曲は書いてないんです」

 秀樹の人柄をこう語る。

「あれだけ人気があっても、非常に真面目でちっとも芸能人ぽくない。むしろそういう芸能界的なことを嫌うような人でした」

 一般女性と2001年に結婚、3人の子供にも恵まれた。

「芸能人らしくない、実にあたたかで、いい家庭を作りましたよね。どうして体こわしちゃったのかな。もう少し、生きてほしかった」

 秀樹が築いた幸せな家庭の根底には、「寺内貫太郎一家」で描かれた家族愛があったのではないだろうか。そう言うと、どこか本当の父親のような優しい表情で、うなずいていた。

「あったかもしれませんね。もしそうだとしたら、本当に素晴らしく、嬉しいことです」

(本誌・太田サトル)

※週刊朝日 2019年5月31日号より抜粋
Posted at 2021/06/14 16:51:43 | 墓標 | ニュース
2021年05月01日 イイね!

江原達怡 さん 死去 84歳 20210501

江原達怡 さん 死去 84歳 20210501

江原達怡 さん 死去 84歳

江原達怡 さんといえば、加山雄三の「若大将シリーズ」のマネージャー役で出演されていた。

映画「若大将シリーズ」をリアルに観たわけではないが、昔ラジオ番組「avanti」で、若大将の話が放送されていたときに、江原達怡さんの映画若大将シリーズの話は、今も記憶に残っている。

ニュージーランドでの、加山雄三と二人で氷河を滑るシーンの撮影秘話は、とても楽しく話していた。

それまで、海外ロケは羽田空港で若大将を見送って終わりだったのに、「ニュージーランドの若大将」は、ニュージーランドロケに行くことに!

ロケに行くことになったのは、酒井和歌子さんの代わりにスタントマンとして、ニュージーランドの氷河をスキーで加山雄三と一緒に滑るシーンを撮影することだったという。

クレパスに落ちないように、加山雄三と必死で滑ったのだが、比較的安全な所まで滑ると、加山雄三から、「もっと低く滑れ! 酒井和歌子なんだから!!」と言われたという。

そんな話を思い出した。


合 掌



俳優の江原達怡さん死去 若大将シリーズでマネジャー役

5/12(水) 17:00 

Yahoo!ニュース

 江原達怡さん(えはら・たつよし=俳優)が1日に死去。84歳。葬儀は親族で営んだ。喪主は妻洋子さん。

 48年、「鐘の鳴る丘」で映画デビュー。「若大将」シリーズでは、加山雄三さんの主人公が所属する大学運動部のマネジャー役でレギュラー出演。ほかに「十代の性典」「独立愚連隊」「椿三十郎」「赤ひげ」など計約120本の映画に出演した。今年、自伝エッセー「心ごころの思い出」を出版した。

朝日新聞社





Posted at 2021/05/13 15:48:02 | 墓標 | ニュース
2021年04月30日 イイね!

立花隆さん 死去 80歳 20210430

立花隆さん 死去 80歳 20210430

田中角栄 を、内閣総理大臣の座から 降りる 事になる、「田中角栄研究」をスクープした 立花隆 さん


「田中角栄研究」は、後に社会人になる頃に読んだが、ジャーナリスト魂というか、取材力というか、とにかく田中角栄のロッキード事件が大事になった一因として立花隆さんは無くてはならない人だ。

TBSニュース23 によく出演されて、いたし、NHKスペシャルなど、NHK番組にも出演されていた。


立花氏については、賛否あるとは思うが、個人的には、立花氏の話は共感できる部分が多かった。

立花氏は、政治、経済分野に留まらず、サイエンス分野にも鋭く切り込み取材し、いろいろ立花氏の話を通して知を得る事が出来た。



「ぼくはこんな本を読んできた」(1995年)は今も手元にある。

今一度読み返してみようと思う。

合 掌



立花隆さん死去 ジャーナリスト、評論家「田中角栄研究」

2021/6/23 02:00(最終更新 6/23 10:18)

 多くの調査報道やベストセラーを発表し、「知の巨人」として知られるジャーナリストで評論家の立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志=たちばな・たかし)さんが4月30日、急性冠症候群のため亡くなった。80歳。葬儀は故人と遺族の意思により家族葬で行われた。

 1940年、長崎市生まれ。両親ともクリスチャンの家庭で育つ。教員だった父が赴任していた中国・北京で敗戦を迎えた。東京大文学部仏文科を卒業した64年、文芸春秋に入社し雑誌記者となるが66年に退社、フリーとなる。67年に東京大文学部哲学科に学士入学した。在学中から雑誌などにルポや評論などを発表。74年には月刊「文芸春秋」に「田中角栄研究 その金脈と人脈」を発表した。首相だった田中氏の政治手法を入念な取材と裏付け調査で明らかにし、田中氏退陣のきっかけとなった。同企画は「調査報道の先駆」「雑誌ジャーナリズムの金字塔」として高く評価された。

 その後は「日本共産党の研究」など政治をテーマとした執筆を続ける一方、米国のアポロ計画で月に渡った宇宙飛行士を取材し、その内面の変化をたどった「宇宙からの帰還」や、人の死、人が生きていくことの意味を問うた「脳死」「脳死再論」など科学分野でも多数の意欲作を残した。

 後進の育成にも力を入れた。東京大で非常勤講師や客員教授などを歴任。ゼミ出身者が作家や記者、編集者などになった。2007年にがんの告知を受け手術。以後自らの体験を雑誌に発表するなど、がんに関する取材・執筆を続けた。他の主な著作に「中核VS革マル」「農協 巨大な挑戦」「ロッキード裁判傍聴記」「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」「天皇と東大 大日本帝国の生と死」「武満徹・音楽創造への旅」など。多分野に及ぶ活躍で菊池寛賞(83年)や毎日出版文化賞(87年)、司馬遼太郎賞(98年)などを受賞した。






分野も時間も軽々越えた「知の巨人」 立花隆さんが残したもの

6/23(水) 5:00 

Yahoo!ニュース

 「知の巨人」と評されたジャーナリストで評論家の立花隆さんが亡くなった。理系と文系、過去や現代、未来といったテーマの垣根を軽々と越えた60年に及ぶ活動が残したものは大きい。

【今年亡くなった方々】「5万回斬られた男」も

 戦闘の体験はないが、戦争への関心は高かった。幼いころの鮮明な記憶は、中国からの引き揚げだ。教員だった父親の赴任先、北京で敗戦を迎えた。5歳の立花少年は引き揚げの旅路で大人用のリュックを背負わされた。先を行く大人について行くのがつらく、「置いてけぼり」になりかけたという。

 また長崎生まれで、原爆には思いがあった。東京大在学中の1960年には、英国・ロンドンで開かれた「学生青年核軍縮国際会議」に招かれ欧州に渡った。新藤兼人監督の映画「原爆の子」や関川秀雄監督の「ひろしま」、土門拳の写真集「ヒロシマ」などを持参し、各地で上映会などを開いた。

 64年に仏文科を卒業。卒業論文はフランス革命期の哲学者、メーヌ・ド・ビランが残した「ヨハネ伝注解」の分析だった。進路を考えていると、新聞記者だった兄から「新聞記者はやめろ」と言われた。NHKと岩波書店は入社試験で落とされ、文芸春秋に入社した。希望通り「週刊文春」に配属された。しかし好きな読書がままならず、「まったく興味が無い」プロ野球の取材を任されたことで嫌気が差し、3年足らずで退社した。

 フリーとなり、67年には東京大哲学科に学士入学。学費を稼ぐために雑誌で記事をまとめる「アンカーマン」を務め、取材や編集の経験を重ねた。60年代末からペンネームの「立花隆」で月刊誌などで記事を書いた。さらに東京・新宿の飲食店が並ぶゴールデン街でバーを共同経営。来店するマスコミ関係者との交流を深めた。

 そこで知り合った編集者のすすめで72年、イスラエルに渡った。同年に起きた、テルアビブの空港で日本赤軍の3人が銃を乱射し24人が死亡した事件を取材。1人生き残った実行犯で、現地警察に拘束されていた岡本公三容疑者への一問一答記事が「週刊文春」に掲載され話題となった。

 「立花隆」の名前がさらに大きく知られたのは74年。「田中角栄研究 その金脈と人脈」を月刊「文芸春秋」で発表してからだ。時の首相の、カネにまつわる疑惑を徹底的に調べ上げた。会社登記簿や政治資金収支報告書など膨大な資料を収集・分析。ファミリー企業や支援者、派閥などの複雑な人脈を相関図で可視化した。田中氏は日本外国特派員協会で記者会見に臨み、海外メディアの追及を受けた。「田中金脈」は海外に発信され、日本のメディアも報じた。田中氏は74年11月に退陣を表明。自民党内の権力闘争が激化していたこともあったが、立花さんの報道が田中氏退陣の引き金ともなった。

 76年2月には「ロッキード事件」が発覚。田中氏や丸紅、全日空の役員らが受託収賄、贈賄などの罪で起訴される歴史的な疑獄事件となった。立花さんは退陣で田中氏をテーマにすることをやめるつもりだったが、事件によって追い続けることに。77年の初公判以来、すべての公判を傍聴。「朝日ジャーナル」に68回の「傍聴記」を寄せた。

 「科学少年だった」という立花さんは、脳や宇宙、医療といった分野でも積極的に取材し、発信した。「宇宙での体験が意識にどんな影響をもたらすのか」に関心を持ち、米アポロ計画の宇宙飛行士たちに取材を重ねた。その成果である「宇宙からの帰還」は版を重ね、後に日本人が宇宙飛行士を目指すきっかけともなった。科学・技術の最前線に立った人間がその体験を精神世界でどう受容し、その後の人生にどう影響したのかを追う仕事は、分野を越境する立花さんの仕事の象徴であると同時に、膨大な作品群の中で一つの画期ともなった。

 並外れた読書家でもあった。蔵書はおよそ10万冊。「関心がある分野は最低でも10冊を読むべきだ」「本との出会いは自分でするもの」といった持論から、読書の方法や重要性を説いた。

 鋭い書評家でもあった。賞の選考会などでは手厳しい評もしたが、立花さんに著作を取り上げられ、力を得た書き手は多い。また母校・東京大では教壇にも立った。「調べて書くことが現代では最も重要な能力」との考えから、ゼミでは学生たちが会いたい人物に会い、インタビューして書くことを課した。自身も取材や執筆などの活動をしつつ、後進の育成に力を注いだ。

 分野をまたいで深く広く取材する発信者であり、教育者でもあった立花さんは「総合知」の人だった。アカデミズム、ジャーナリズムとも専門性が細分化する現代にあっては、立花さんのような異能の人物は、もう現れないかもしれない。

 ◇立花隆さんの著書一覧

「思考の技術」(1971年)

「中核VS革マル」(75年)

「田中角栄研究」(76年)

「日本共産党の研究」(78年)

「ジャーナリズムを考える旅」(同)

「農協 巨大な挑戦」(80年)

「ロッキード裁判傍聴記」(81~85年)

「宇宙からの帰還」(83年)

「脳死」(86年)

「脳死再論」(88年)

「同時代を撃つ 情報ウオッチング」(88~90年)

「臨死体験」(94年)

「ぼくはこんな本を読んできた」(95年)

「立花隆の同時代ノート」(97年)

「21世紀 知の挑戦」(2000年)

「『言論の自由』VS.『●●●』」(04年)

「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(同)

「天皇と東大 大日本帝国の生と死」(05年)

「滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか」(06年)

「自分史の書き方」(13年)

「死はこわくない」(15年)

「武満徹・音楽創造への旅」(16年)

「『戦争』を語る」(同)

「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(20年)



 ジャーナリスト・立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志)さんが4月30日午後11時38分、急性冠症候群のため死去していたことが分かった。80歳だった。葬儀は故人と遺族の意思により、5月4日に家族葬にて執り行われた。埋葬は樹木葬という。
長年、痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気を抱え入退院を繰り返した。
約1年前、大学病院に再入院した際、本人が検査、治療、リハビリを拒否したことから、旧知の病院に転院。院長の「人生の晩年期における立花先生のご病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも先生の全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という考えのもと入院を続けた。4月30日夜、ナースコールで駆け付けた看護師が異常を感じ院長に連絡も、到着を待たず急逝。かねて糖尿病による脳動脈硬化と冠動脈硬化の危惧があったという。
1940年、長崎市生まれ。東大仏文科卒。生物学から政治、宇宙など多岐にわたるテーマで著書を出版した。徹底的な取材で知られ、「知の巨人」と称された。主な著作に「田中角栄研究―その金脈と人脈」「脳死」「知の旅は終わらない」など。昨年、出版された著書「知の旅は終わらない」(文藝春秋)には、「死んだ後には、葬式にも墓にもまったく関心がありません」とした上で、「海に遺灰を撒(ま)く散骨もありますが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も法的に難点があるので、妥協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し 樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思っています。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか」と記している。
Posted at 2021/06/23 12:24:52 | トラックバック(0) | 墓標
2021年04月26日 イイね!

和泉宏隆さん 死去 62歳 20210426



T-SQUARE の黄金期のキーボード担当 和泉宏隆さんが逝去したという。

1982年「脚線美の誘惑」から1998年「BLUE IN RED」まで在籍して、T-SQUAREのおなじみの曲の多くに関わってきた。

「OMENS OF LOVE」などは、SQUAREだね という楽曲の一つだ。



合 掌




「T-SQUARE」ピアノ担当の和泉宏隆さん死去 62歳 急性心不全
4/28(水) 8:23配信

日本を代表するフュージョンバンド「T-SQUARE」でピアノやキーボードを担当した和泉宏隆(いずみ・ひろたか)さんが、4月26日に急性心不全のため死去したことを28日、公式サイトが伝えた。62歳。東京都出身。

同サイトは「和泉宏隆は、令和3年4月26日に62歳にて急性心不全により永眠しました。ここに謹んでお知らせ申し上げますとともに生前中賜りましたご厚誼に心より御礼申し上げます。和泉宏隆と和泉宏隆の音楽はいつまでも生き続けます、みなさまとともに。」と記した。

和泉さんは1982年にT-SQUAREの前身バンド「THE SQUARE」に加入。バンドのヒット曲「OMENS OF LOVE」(85年)や「TAKARAJIMA宝島」(86年)、「EL MIRAGE」(88年)などを作曲した。これらの曲は吹奏楽の演奏曲としても定番となった。

98年に脱退後もソロのピアニスト、キーボーディストとして活躍。今月もライブや配信などを行っていた。

和泉さん在籍中のT-SQUAREの他に、フジテレビ系F1中継のオープニング曲だった「TRUTH」(91年、安藤まさひろ作曲)などのヒット曲がある。
Posted at 2021/04/28 10:10:23 | 墓標 | ニュース

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