人生波瀾万丈 の 人
瀬戸内寂聴さん
作家であり、僧侶であり・・・
晩年、たびたび、NHKのスペシャル番組が、放送されていた 瀬戸内寂聴 さん。
記憶に残るのは、10年前の2011年東日本大震災の後に放送されていた、瀬戸内寂聴さんの東日本大震災の被災地へ赴く姿を追ったドキュメンタリー番組。
東日本大震災が起こった、2011年3月。
瀬戸内寂聴さんは、足腰が弱り、歩いて移動することが困難な状況にあったのだが、車椅子に乗って、杖をついて、被災地東北を何度も訪れ、そのうちに、体力が回復していく姿。
火事場の馬鹿力なのか、執念がそうさせるのか?
とにかく、衰弱していた瀬戸内寂聴さんは、すっかり元気になっていく。
岩手県浄法寺町の「天台寺」へ赴き説法をする姿。
その後、悪性腫瘍が見つかり、手術することになったりと、いろいろ合ったようだが、大往生といえよう。
大東亜戦争を生き、戦争のなんだるかを知る 語り部、そして、戦争に反旗を掲げる 声ある著名人がまた一人 旅ただれたのは、残念です。
合 掌
家で僧侶の瀬戸内寂聴さん死去 99歳、愛と業を描く
共同通信社 2021/11/11 13:40
|
8カ月男児心肺停止、左折トラックに自転車が巻き込まれ 母親は軽傷
じゅんいちダビッドソン、山購入の意外な費用に驚き 自身の山で「紅葉植えることを…
「夏の終り」「かの子撩乱」など愛と人間の業を見詰めた小説や人々の心に寄り添う法話で知られ、文化勲章を受章した作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日午前6時3分、心不全のため京都市内の病院で死去した。99歳。徳島市出身。葬儀は近親者で行う。後日、東京都内でお別れの会を開く予定。
離婚を機に小説を書き始め、私小説的作品「夏の終り」で1963年に女流文学賞を受賞し文学的地位を確立。流行作家として娯楽色の強い作品を量産する一方で、因習をはねのけ生きた女性の伝記小説を次々に発表した。
73年、岩手県の中尊寺で得度し、寂聴を法名に。その後、本名も晴美から寂聴に改めた。
<愛した、書いた、祈った>瀬戸内寂聴さん、自身の墓碑に刻む言葉は決めていた
11/11(木) 13:32配信
数々の話題作を生み出してきた瀬戸内寂聴さんが9日、99歳で亡くなった。情熱のままに社会の規範を踏み越える女性たちを描き、後半生は自在な語りで人々に寄り添った。半世紀を超す作家生活で刊行した本は400冊以上。自身の墓碑に刻む言葉は<愛した、書いた、祈った>と決めていた。
「小説家になります」。学者だった夫の教え子と恋に落ちると、そう言って、夫と3歳の娘を残して家を出た。当時の名は晴美、25歳。夫の赴任先だった中国・北京で終戦を迎え、郷里の徳島に引き揚げた2年後のことだ。
やがて言葉通り作家になったが、デビュー直後、既婚女性の不倫や愛欲を描いた「花芯」の性描写が男性中心の文壇で非難の的となった。私小説と誤解されて「子宮作家」などと呼ばれ、以後5年間、文芸誌からの注文は途絶えたという。
逆境を変えたのが、文芸誌への復帰作「夏の終り」だった。一人の女性が、かつて駆け落ちした元恋人と妻子ある作家との間で揺れる物語は、初めての私小説。「当時は命がけの恋愛。書くことで救われたかった」。身を削った一作は世間にその名を知らしめた。
51歳での突然の出家は、公私ともに行き詰まった末の「一種の自殺」だったという。大僧正だった作家の今東光から寂聴の名を授かり、荒行に臨んだ。「売れっ子と呼ばれ、恋愛をしてもむなしかった。良い小説を書くため、文学の背骨になる思想が必要だった」と後に語っている。
捨て身の選択は後半生に新たな道をひらく。「源氏物語」現代語訳は、登場する女性たちが俗世を捨てることで愛の苦悩から解放されたという、仏教者ならではの解釈で臨んだ。京都・嵯峨野の自坊「寂庵(じゃくあん)」で続けた法話や写経の会には、毎回申し込みが殺到。手を差し伸べるように、連合赤軍事件の首謀者や世間の批判を浴びたタレントらと続けた交流も話題を呼んだ。
若々しい好奇心は失わなかった。80代半ばで紫式部にちなんだ「ぱーぷる」の名で携帯小説を発表。66歳年下の女性秘書との軽妙なやりとりや、食欲旺盛な素顔がテレビ番組などで紹介され、SNSを通じて若い層にもファンを広げていた。
美輪明宏さん「寂聴さん、人々に渇望されていた」 長く親交 11/11(木) 14:27
Yahoo!ニュース
18 反戦や平和について語る瀬戸内寂聴さん(左)と美輪明宏さん=2015年7月、長崎市
作家で僧侶の瀬戸内寂聴さんが9日、99歳で亡くなった。長く親交のあった、歌手・俳優の美輪明宏さんが悼んだ。
【写真で特集】秘書、美輪さん、宮沢りえさん、川端康成さん、ドナルド・キーンさん…寂聴さんと数々のツーショット
初めてお会いしたのは寂聴さんがまだ無名だった50年以上前でした。何かの取材で、私が当時住んでいた新宿のマンションにいらっしゃった。 寂聴さんは戦争を生き抜き、私も原爆に遭ったので、同じ反戦派。すぐに仲良くなりました。 人をもてなすのが大好きで、有名になられてからはいつもお食事をごちそうしてくださいました。お肉を食べながら「私は破戒坊主だから」と笑っていました。 京都に寂庵を構える前、東北のお寺にいらした時、寂聴さんの法話を聞きにくる人が数千人も集まりました。私も片棒を担いで、一緒にお話をさせて頂いたこともあります。 一番の功績は、やっぱり人助けでしょうね。自然体で人々の相談に乗っていた内容が人々の口づてに広まって、大勢の人が寂聴さんを頼るようになりました。組織を使ったわけでもなく、自然とそうなった。人々に渇望されていた。 私たちは、戦争が始まる前のモダニズムの時代、戦中、戦後の時代をともに経験してきました。昨日まで正義といわれた帝国主義が悪徳になって、悪徳といわれた自由や民主主義、社会主義が正義になった。あらゆることが白から黒へ、黒から白へ変わった時代を生きてきた人です。 それでも、「若い頃はとにかく、生きたい放題、やりたい放題、生きてきた。何の悔いもない」とおっしゃっていました。 ご自身が色んなことを体験なさっているから、他人の気持ちが分かったのだと思います。何人分か、何十人分かの人生をくぐりぬけてきたからこそ、しっかりとした身の上相談も受けることが出来たのでしょう。 寂聴さんの周囲には、若い人たちが自然と集まり、お世話する人もいました。そういう意味では、幸せだったと思います。
朝日新聞社
Posted at 2021/11/11 16:12:04 |
トラックバック(0) |
墓標 | ニュース