2021年03月10日
「釜石の奇跡」は奇跡じゃない。
という記事。
この記事を目にして、涙が溢れてきた。
津波被害という、恐ろしい災害にあい、その後、事実が膨れ上がった、報道の渦の真っ只中に10年向き合わざるを得なかった、当日少女だった人の物語。
報道のワナ と いっていいのかわからないが、事実 を、記者が取材して、記者の目線で記事が世に出る。
その記者の目線が真っ直ぐなのか、ちょっと右に傾くような表現なのか、左に傾く表現なのか、背景をどこまで取材して描くのか。
ちょっとのさじ加減の積み重ねで、当人の事実と違う方向に転がる。
これは、報道だけではない。
我々日々の生活で回りに、はびこる「うわさ」の類いと同じだ。
報道とは、何なのか。
そして、その報道の後ろにある見えていない事実はなんなのか。
そう思うと、報道の難しさ、真の報道の姿を考えさせられる。
そんな報道する側の苦悩
NHKのヘリコプターから津波中継をしたカメラマン。
私は、あの映像を撮影してくれたからこそ、多くの日本人いや、世界中の人々が、そして後世の世の人々に、事実を伝えられる、大変貴重な代えがたい 報道だとおもうが、カメラマンさん自身は、まさに「天と地」の差に悩み葛藤していた事をこの記事から知った。
一人でも多くの人々の命を何とかしたいという思い。
大切な思いだと思うが、あなたの報道が、間接的にまわり廻って、次の人々の命を救うことに寄与すると私は思う。
失われた命
助かった命
命 は 重いが、限りがある。
そんな10年 そしてこれからも・・・
「釜石の奇跡」は奇跡じゃない。あの日、報じられた“美談”から私は逃れられなかった #あれから私は
3/9(火) 16:04
Yahoo!ニュース
東日本大震災に襲われた岩手県釜石市。小中学校に通う子どもたちほぼ全員が避難し、津波を逃れた。人口約4万人の市内で1000人を超える死者・行方不明者が出る一方、小中学生の99.8%が無事だったという事実は、一般に「釜石の奇跡」と呼ばれる。なかでも、釜石市鵜住居地区で中学生が小学生の手を引いて避難したことは、徹底した事前の防災教育の成果で子どもたちが自主的に動いたと受け止められ、高く賞賛されてきた。菊池のどかさん(25)は中学3年生だったあの日、小学生の手を引いて避難した。震災後、「奇跡」のストーリーを追うメディアの取材が相次いだ。【BuzzFeed Japan / 千葉雄登】
中学校では防災を担当する委員会で委員長を務めていた。だが、奇跡と呼ばれることに、戸惑いもあった。一時は、取材を避けるようになった。
あれから10年。大人になった菊池さんは釜石市の第三セクター「かまいしDMC」に就職。震災の伝承と防災学習を行う「いのちをつなぐ未来館」で働く。震災のことを語り伝えるのは、仕事の一つだ。
釜石で起きたことに、「奇跡」という言葉は本当にふさわしいのか。
あの日、実際に何が起き、なぜ子どもたちは生き延びたのか。
10代半ばで「奇跡」の語り手となることを求められた菊池さんは、何を感じていたのか。
そしてなぜ、震災の伝承と防災学習に取り組む道を歩むようになったのか。
「自分たちだけの力で避難できたわけじゃないのに」
震災後、釜石市鵜住居地区にある釜石東中の生徒が、隣の鵜住居小の児童の手を引き避難したことは大きく報じられ、「釜石の奇跡」のハイライトとして注目された。
菊池さんが、自分たちの避難行動が「釜石の奇跡」と呼ばれていることを知ったのは、震災からしばらく経ってからだった。
「正直あの頃、自分たちがどう報じられているのかに気付くゆとりはなかったんです」
「ようやく自分たちの気持ちが落ち着いてきた頃には、話がすっかり大きくなってしまっていて、もう収拾がつかない状況で」
震災から半年ほど過ぎると、「釜石の奇跡」を経験した子どもたちに話を聞きたいというメディアからの依頼が増え始めた。
だが菊池さんには、拭うことのできない違和感があった。
まず、どうして、そんなに話が大きくなっているのだろうと驚いた。そして、「自分たちだけの力で避難できたわけじゃないのに、という違和感がありました」
実際には中学生たちは当初、自分たちだけで避難したという。何が起きていたのか。
「何やってんだ、早く逃げろ」
菊池さんは当時、釜石東中の3年生。15歳だった。
3月11日。卒業式の歌を練習し、クラスメイトたちの多くは前日に届いた卒業アルバムに教室で寄せ書きをし合っていた。
午後2時半には家に帰る予定でいたが遅くなったため、隣接する鵜住居小にあった公衆電話ボックスから自宅に電話した。
その時、午後2時46分。大きな揺れが襲った。
中学1、2年生は部活動の時間で、校庭や音楽室など様々な場所にいた。中学3年生の教室は校舎の1階だった。
生徒たちは校庭の片隅にある「点呼場所」へ集まった。先生たちは学校の中に取り残されている人がいないか見て回った。
その時、職員室から1人の男性教員が「何やってんだ、早く逃げろ」と呼びかける声がした。
教員の指示を受け、全員の点呼が完了する前から、生徒たちは避難を始めた。
「まだ揺れている最中に避難を始めました。地震は3分半以上揺れていたようですが、地震発生から2分ぐらい経った時には、もう学校を出ていたと思います」
学校を出た時、時計は午後2時50分ちょっと前を指していた。
「こんな揺れで津波が3メートルなわけがない」
「小学生たちを待ってから避難すべきかどうか、私たちも悩んだんです。でも、もしかすると既に避難しているかもしれないと思い、一旦は自分たちだけで避難しました」
小学校も卒業式間近。時間割も変則的で、その時間に児童がいるのかどうかわからなかった。
釜石東中学校の生徒たちが避難先としてまず向かったのは、学校から800m離れた高齢者施設の駐車場だった。そこが学校指定の避難場所だったからだ。
駐車場に向かう途中、生徒たちは小学校や周囲の住宅に伝わるよう、避難を呼びかけながら走った。
「3メートルの津波が予想されます」。津波警報のサイレンが聞こえた。
誰かが叫んだ。「こんな揺れで3メートルなわけねえ」
「何かしら喋ってないと不安で怖かった。とりあえず、あの時は必死でした」
800mほど走ったところで、小学校から子どもたちが出てくるのが見えた。避難先の駐車場で5分ほど待機し、中学生と小学生は合流した。
待機する間も何度も余震があった。近くで落石も起き、さらに上のデイサービス施設へ移動することにした。
その日は校長会が開かれていたため、小中学校ともに校長は不在。代わりに中学校の副校長が、小中学生にまとめて指示を出していた。
「まとめて指示があったので、とりあえず小学生と中学生は手をつないで避難をしました。私たちが小学生の手を引いて避難をしたのは、駐車場からさらに高台にあったデイサービスセンターへの道だけです」
小中学生たちはその後、高台のデイサービスセンターから、さらに避難することになった。
「逃げた先は高さ15mの場所にありました。でも、津波はそこにも到達しそうな勢いだった。だから誰から指示が出たからということではなく、みんな反射で逃げました」
「走れ」「逃げろ」
さらに高台へと走る中、先生たちが必死で呼びかける声を何度も耳にした。
大きく報じられた「釜石の奇跡」、でも…
震災の日、子どもたちの命を救おうと行動した人々は、たくさんいた。
水門を閉めにいった消防団の人がいなかったら、小学生たちはきっと無事ではなかった。避難誘導してくれた住民の人たちもいた。教員も避難の指示を出してくれた。
「そうやって助けてくれた人たちがいっぱいいるのに、中学生が、自分たちで全部やったように伝えられていたことを、すごく申し訳なく感じていました。助けてくれた人たちを隠しているようで申し訳なかったし、何より亡くなった人たちのことを思いました」
鵜住居地区でも多くの人が地震と津波で命を落とした。鵜住居小に残った事務職員も亡くなった。
さらに当時は、行方不明となった家族の帰りを待つ人も少なくなかった。
「そんな中で、『私たちは助かりました』という話を、物語みたいに大々的に伝えられてもな…と感じていたんです」
「自分たちだけだったら、何と呼ばれようがいいんです。でも、周りの人たちの辛そうな姿を近くで見ていた。だからこそ、そうじゃなかったんだよって言いたくなる」
「たしかに色々な出来事が重なり助かったことは、奇跡的だったとは思います。でも、本当に色々な人のおかげで今生きている。私たちが生き残るために一生懸命尽くしてくれた人たちがいて、私たちは、たまたま助かったんです」
「ストーリー」から逃れられなかった
菊池さんは高校に進学後も高校生平和大使など、学校内外で幅広く活動した。
しかし、それは「流れに逆らえなかったから」とつぶやく。
震災の年、菊池さんは釜石東中で防災を担当する委員会の委員長だった。
「それも、たまたまだったんですよ。ジャンケンに負けて、委員長をやることになったんです」
だが、震災前の避難訓練などの通り組みが「釜石の奇跡」につながったというメディアが想定するストーリーを語ることを期待され、逃れることはできなかった。
菊池さんは高校生になってからも、様々な取材を受けた。
「取材に答えるうちに、『こいつが話してくれるなら、自分は別に話さなくてもいいか』という空気が広がったのかもしれません。自分以外にあの日の出来事を話してくれる人が、どんどんと減っていきました」
あの日の体験を語れなくなった
地元を離れて大学に進学すると、震災の体験を語ることが「嫌になった」という。
「大学では楽しく過ごせていましたけど、釜石に帰ってくると…いろんな気持ちが混じって、全然話したくないと感じるようになったんです」
大学に入った頃は、人を助ける仕事に就きたいと考えていた。防災教育に取り組む教員。地元の消防士。自衛官や警察官も考えた。
「でも、気持ちの面でついていけなくなって。頑張れなくなってしまって」
取材などで震災の体験を語ることも避けるようになった。
3年ほどが経った頃、「地元に戻って街の人たちのために働きたい」という思いが、再びこみ上げてきた。
「色々と考えてみると、自分を助けてくれた人を助けるためには、その地域で暮らしていないといけないと思ったんです。その頃、今の仕事を偶然見つけ、応募することを決めました」
いまは震災の伝承や防災教育を担当する。職務としてあの日の事を語る機会も少なくない。自身の体験を語ることに、もう抵抗はないのか。
「語ることを一時、休んだことで、自分の中で整理がついたのだと思います」
「震災から10年で復興は進んだと言われますけど…」
菊池さんは2020年9月、職場の研修で宮城県石巻市の旧大川小学校を訪れた。
すぐ高台に向かうという適切な避難指示がないまま、子どもたちと教職員ら計84人が津波に巻き込まれ、亡くなった。「大川小の悲劇」と呼ばれている。
「釜石の奇跡」と「大川小の悲劇」は、繰り返し比べられてきた。
それだけに、どんな気持ちで足を運べばいいのか悩んだ。
「しかし、遺族の方々とお話すると、ずっと命と向き合い続けてきたことが分かりました。同時に、あの日からの自分の歩みと比べてしまって。私は子どもだったからという部分はあるにせよ、どちらかと言えば周囲の流れに逆らうことを諦めてきた」
「私たちはあの日亡くなった人たちのことをどこまで大切に思ってきたんだろうって、振り返ってすごく後悔したんです」
あの日を境に、菊池さんの人生は大きく変わった。震災からの10年は「長くもないし、短くもない」。一言で表すことは難しい。
「震災にずっと振り回されてきた。この10年で自分は何をできたんだろうって振り返ってみると、何もできないまま10年が過ぎていったような気がするんです」
「私はたまたま15歳で被災した。それをものすごくポジティブに捉えると、運が良かったのかもしれません。すでに大人になっていたら、生活をどうしようかということに必死で、自分が何をしたいのか見つめることは、難しかったかもしれない」
「あの時、まだ子どもだったから、やりたいことを見つけて、地域の防災のために何が出来るかを考えることができています」
菊池さんは、あくまで地域の人々の目線で防災に取り組みたいという。
「消防署の人や大学の先生が伝える防災教育と、子どもたちを対象にした学校での防災教育。この2つは整いつつあるとは思います。でも、地域の人のための防災教育が、抜け落ちているように感じるんです」
専門家や教員として誰かを「指導」するのではなく、日々の暮らしの中で防災をともに考え、伝えたい。
「地震や津波、それに台風もこれからまた絶対に来る。だからこそ、地域のみんなと一緒に、どうやって備えるか、もしもの時はどうするか、少しずつ話し合って準備をしなきゃいけない」
「震災から10年で復興は進んだと言われますけど、防災という意味では、ようやくベースが整った。たぶんこれから、色々なことが始まっていくのだと思います」
千葉雄登
「なぜ自分が撮ってしまったのか」 津波を生中継した元NHKカメラマンは 今も葛藤の中で生きる【東日本大震災 #あれから私は 】
3/10(水) 6:07
Yahoo!ニュース
「撮らないで済むなら、撮りたくなかった」。彼は、10年間胸の奥にしまっていた思いを打ち明けた。
2011年3月11日、津波が街をのみこむ衝撃的な映像が中継されていた。
NHKのヘリコプターからそれを撮影していたのは、当時、NHK福島放送局の報道カメラマンだった鉾井喬(ほこい・たかし)さん。
入社1年目、その日がまだ5回目のフライトだった。
当時、鉾井さんが撮影した津波の映像は世界中をかけ巡った。その凄惨な映像を、“歴史的な映像”と称える声もあった。
今も消化できない思いがある。「自分は一番安全な場所にいて、撮影していた...」。
現在は、NHKを離れ、現代アーティストとして福島にもアトリエを構え生きている。
「なぜ自分が撮ってしまったのか」。心に葛藤を抱えながら。
整備のタイミングだった
地震が発生した午後2時46分。鉾井さんは、ヘリコプターで取材を担当する当番勤務で、宮城県南部にある仙台空港にいた。
格納庫で、まだ不慣れだったヘリのカメラ操作を練習していた時、ドーンと下から突き上げられる揺れに襲われた。
あまりの揺れに体が座席から放り出されそうになる。
「危ない下りて」。近くにいた整備士が腕をつかんで、引っ張り出してくれた。目の前のヘリは、上下左右に揺れ続けていた。
普段なら機体は格納庫内にとめていたが、その時間は、たまたま点検があり、機体の半分を外に出していた。
それが運命を分けることになる。
建物内にとめていた他社のヘリの中には、揺れで機体同士がぶつかり、壊れているものもあった。
被害を免れたNHKのヘリに乗り込んだ鉾井さん。混乱の中、離陸した。
家と車をのみこんでいく黒い津波と、生きている自分
離陸直後、仙台駅へと向かった。窓ガラスが割れているなどの被害はあったが、上空から見る仙台の街は、いつもと変わらない様子に見えた。「意外と大丈夫だな」。少し安堵した。
細かい雪が降り始めていた。ヘリは、雲の合間をすり抜けて沿岸部を目指した。
名取川に沿って進んでいた時、川を遡上する波を見つける。とにかく、目の前の景色を撮らなければ、そう思った。
その時、ヘッドフォンから機長と整備士の声が聞こえる。「もっと左!もっと左!」。言われるがままにレンズを左側に向ける。飛び込んできたのは、平野を這うように進む黒い津波だった。
黒い塊は、容赦なく家や車をのみこんでいた。津波の渦に別の角度から来た津波が重なり、さらに大きな塊となって襲いかかる。木材、船、瓦礫、あらゆるものが簡単に押し流されていく。
理解が追いつかなかった。ただ、映像は生中継されている。
生きている自分の足の下で、街や人や車が、次々と津波にのみこまれていく。「(映像を)アップにしてはいけない…」。手が小刻みに震えていた。
「生と死」。自分が置かれていた状況をようやく整理できたのは、撮影を終えて着陸し、数時間たってからだった。
出発した仙台空港にも、3メートルを超える津波が押し寄せた。離陸してからおよそ50分後、上空で撮影していた時だ。
「その場に留まっていたら、自分の命もなかったかもしれない」。鉾井さんは振り返る。
一番安全な場所にいて撮った「スクープ」 今も消えない葛藤
あの日、報道機関で津波の映像を空から中継していたのは、鉾井さんだけだった。映像は「スクープ」として世界中をかけ巡った。
鉾井さんにはあの日、もう一つ忘れられない光景があった。
仙台空港には戻れなくなったため、福島空港に着陸。別のカメラマンと交代し、NHK福島放送局に車で戻っていた時のことだ。
国道4号線は渋滞していて、途中から進めなくなった。
ふと横を見ると、並走する東北自動車道にぼんやりと浮かぶ赤いランプの列があった。
夜が明け、ようやく福島市内に入った時、交差点で、消防車の集団とすれ違う。そこで初めて、赤いランプが全国各地から沿岸部へと向かう消防隊なのだと知った。
「一刻も早く助け出して欲しい」。上空という安全圏にいた自分が「見下ろしていた」人々。その人たちの無事を、願うことしか出来なかった。
大切な人を失くした人、命をかけて救助に向かう人、そして生き延びた自分。
「たくさんの人が亡くなっている中で、自分は、一番安全な場所にいて、撮影をしただけだ」
映像が数々の賞を受賞するたび、葛藤は大きくなっていった。また、被災地と東京を行ったり来たりするうち、「安全圏」にいる自分に、違和感が芽生えていった。
「原発事故」が生んだ新たな葛藤 そしてアーティストに転身した
NHK福島放送局に赴任していたことで、原発事故からも目を逸らさずにはいられなかった。
10年、20年では到底答えが出せない課題。
その中で鉾井さんは、”正しさ”とは一体何なのか、わからなくなっていった。
「報道は、”正しいこと”を伝えなければいけない。でも、時にその“正しさ“が、今の福島にとって受け止めきれる“正しさ“なのか...。誰にとっての”正しい”なのか…」
取材で顔馴染みになった福島の人たちが、国や報道機関などが出す“正しいこと“に幾度も振り回される様子を目の当たりにした。
そして、勤務組織の制度上、いつか転勤をして福島を去る。今は目の前にある問題も、いつか他人事にできてしまう。
津波を撮影した日と同じように、守られた場所にいるような気がした。
「もう少し自分の目で福島を見て、考えながら生きていきたい」
震災発生から2年後、NHKを辞めた。
元々、大学時代にはアートを学んでいた鉾井さん。研究テーマは「風」だった。
人力飛行機を制作して距離を競う競技「鳥人間コンテスト」に出場し、パイロットとして飛んだ経験が、研究につながった。
感じることも見えることもない、わずかな風によって、「鳥人間」の人力飛行機は翻弄される。記録は、289.55m。鉾井さんの中で、その経験が「“見えないもの”によって自分たちが生きていることを可視化したい」という思いに昇華されていく。
NHKに就職し、一度はアートから離れた鉾井さんだが、再び“見えないもの”に翻弄されている自分を感じたのが、原発事故だった。
「アートは、作品を受け取った人それぞれが、色んなことを考えればいい。今の福島に必要なのは、“正しさ”を押し付けるよりも、考えるきっかけを投げかけ続けることだ」
福島に寄り添い 作品を作り続ける
アートの世界に戻った鉾井さんは2016年、震災後の福島をテーマにした短編映画を発表する。
「福島桜紀行」。沿岸部から内陸へと進む桜前線を追いかけ、桜とそこに集う人々を見つめたドキュメンタリーだ。
桜は、福島の人にとって特別な存在だ。
震災と原発事故により、当たり前が失われた中で、毎年当たり前に咲き誇る姿。春という“見えないもの”が桜によって形になり、人々の喜びに変わる。
撮影のきっかけは、当時、全域が避難区域となっていた浪江町の一人の男性と出会ったことだ。男性は、いまだ帰ることが出来ない故郷で仲間たちと共に、川沿いの桜並木を手入れしていた。
男性はカメラに向かってこう話す。「いろんな条件が揃った上でないと帰ろうとは言えないんだけど、みんなで浪江町に帰ってきた時に、震災前から町に咲いていた桜がまた咲いていたら、気持ちは違うと思うんですよね」。
消化できない思いを抱えながらも生きる福島の人たちの姿に、鉾井さんの心は動かされていく。
2019年には、群馬県の中之条町で作品を発表した。
町内の至る所にそびえ立つ多くの鉄塔と鉄塔同士を結ぶ電線。張りめぐらされた電力網は、福島原発や柏崎刈羽原発でつくられた電力を首都圏へ送り続けてきたものだ。
原発と電気を使い続ける“都会の人々”が、中之条町を通じて一本の線で結ばれる。
その鉄塔を軸に、風と電力の動きを可視化する仕掛けを作った。
風が吹くと、吹く風の強さによって、針が動き、風の痕跡が土台の丸太に刻まれていく。さらに、電気の力で土台の丸太自体も動かすことで、風の力と電気の力の双方が組み合わさった新たな痕跡を生み出す。その仕掛けの奥では、電力を送り続けてきた鉄塔が静かに佇む。
どちらかが正しい、どちらかが悪いということではなく、人は、自然の力とエネルギーによって生きていく...。それを今だからこそ考えて欲しかった。
10年前の経験 良かったのか 悪かったのか
震災から10年。福島と福島以外の地域での温度差も少しずつ感じている。
廃炉作業が終わるまで、日本が避けて通れない問題なはずなのに、やはり福島以外の人にとっては、自分の問題として捉えづらい面もある。
「“見えないもの”によって、自分たちが生きていることを可視化したい」という思いで作品づくりをしてきた自分なりの方法で、記憶の風化に抗いたい。鉾井さんはそう話す。
鉾井さんは、10年前のあの日、あの場所に居合わせてしまったことを今どう考えているのか。
「どうしても『10年』という時間軸に注目が集まるが、ただの通過点。10年という時間が、心の中の何かを消化してくれたことはない」
しかし、10年たったからこそようやく分かったこともある。
「一人のアーティストとして、自分は、過去の体験や気持ちを作品に込めていく。その創作の過程で、葛藤を整理できることで作品が生まれたり、作品が生まれることで葛藤に整理ができたりすることもあるかもしれない」。
鉾井さんは、きょうも葛藤を抱え生きている。
松原一裕/ハフポスト日本版
Posted at 2021/03/10 08:21:06 |
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