2022年11月11日
元 ロッテの投手で、独特のマサカリ投法 で、200勝投手になった 村田兆治 さん
肘を痛めて、手術をし、復活して 200勝を掴んだ努力家で、後年は中6日で日曜日のみに登板する先発ローテーションとなり、「サンデー兆治」と呼ばれていた。
そんな偉大な選手だったし、引退後は、子供達の野球教室、特に後年「離島甲子園」(全国離島交流中学生野球大会)を行い、日本の隅っこまで出向いて、熱心に野球の普及、育成に力をいれていた。
情熱たっぷりの人だったし、その生き方は魅力的かつ人の心に突き刺さることが多かったと思う。
そんな、村田兆治さん。
今年の9月23日に、羽田空港で現行犯逮捕というニュースを聞いて
村田さん どうした!!
なんで、逮捕なんてなるような事が起こったのか?
という思いがあったが、それから2ヶ月も過ぎていない。
村田兆治さん に、何があったのか!!
昭和の偉大な投手 村田兆治さん お疲れ様でした。
ただ、村田兆治さん の人生の終わり方としては、寂しすぎる気がしてならない。
合 掌
以下 転記
村田兆治さん死去 72歳 自宅で火災発生 「マサカリ投法」で通算215勝
11/11(金) 7:56
11日午前3時10分ごろ、東京都世田谷区成城の元プロ野球選手、村田兆治さん(72)宅の2階で火事が発生、約40平方メートルが焼けた。警視庁などによると意識不明で病院に搬送された村田さんの死亡が確認された。
村田さんは今年9月、羽田空港で保安検査員の女性の肩を押したとして暴行容疑で現行犯逮捕。その後釈放されたが、10月には沢村賞の選考委員を辞退していた。
村田さんは1949年(昭和24年)、広島県生まれ。67年、福山電波工高(現・近大広島高福山)からドラフト1位で東京(現・ロッテ)に入団。69年に6勝をマークし、71年には後に代名詞となる「マサカリ投法」で投げるようになり、ロッテが日本一になった74年にはシーズン12勝、日本シリーズ第6戦で完投勝利を収め、胴上げ投手に。シリーズ最優秀投手賞を受賞した。
75、76年にパ・リーグの2年連続最優秀防御率、81年に開幕11連勝で最多勝のタイトルを獲得するなどリーグを代表する投手だったが、82年に肘を痛め、83年に渡米しフランク・ジョーブ博士による左腕の腱を右肘に移植するトミー・ジョン手術を受けた。
85年に開幕から11連勝するなど、17勝5敗の成績でカムバック賞を受賞。日曜日に先発しては白星を重ねることから「サンデー兆治」と呼ばれた。89年5月13日の対日本ハム戦で通算200勝を達成。この年、3度目の最優秀防御率のタイトルを獲得した。
90年に引退。22年の選手生活での通算成績は604試合に登板し、215勝177敗33セーブ、防御率3.24だった。通算148の暴投数は日本記録。その生きざまを表現した「昭和生まれの明治男」は90年の新語・流行語大賞の特別部門人語一体・語録賞に選ばれた。
引退後は解説者、評論家を経て95年から3年間、ダイエー(現・ソフトバンク)の1軍投手コーチを務め、05年に野球殿堂入り。野球を通しての離島振興をライフワークとし、離島の中学校による野球大会「離島甲子園」を開催。引退後も140キロの速球を投げていた。
村田兆治さん、発見時にたばこを手に持っていた…自宅火災で死亡
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コメント531件

11/11(金) 8:01配信

現場は小田急線成城学園前駅の北約1・3キロの住宅街。捜査関係者によると、村田さんは消防隊に発見された際、たばこを手に持っていたという。
村田兆治さん死亡 火元から火の気あるもの見つからず 11/12(土) 12:16 Yahoo!ニュース
元プロ野球選手の村田兆治さんの自宅が燃え、村田さんが死亡した火災で、火元とみられるリビングから暖房器具やタバコなど火の気のあるものが見つかっていないことが分かりました。 村田さんの自宅には、けさも規制線が張られ、東京消防庁の職員が調査のため出入りしています。 きのう未明、東京・世田谷区の村田兆治さん(72)の自宅2階から火が出て、村田さんは病院に運ばれましたが、一酸化炭素中毒の疑いで死亡しました。 警視庁への取材で、火元とみられる2階のリビングから暖房器具やタバコなど火の気のあるものが見つかっていないことが分かりました。 村田さんは1階の寝室ではなく、火元近くの衣類などを置いてある小部屋で、床に座った状態で発見されたということで、警視庁などは出火原因をさらに詳しく調べています。
TBSテレビ
以上 転記終わり
Posted at 2022/11/11 10:22:52 |
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