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2023年01月11日 イイね!

高橋幸宏 70歳 20230111


高橋幸宏 ミュージシャン であり、デザイナー であり、音楽家

しかし、広く世に知られているのは、YMO の 高橋幸宏 だろう。

高橋幸宏 の 個 は 知らなくても YMO と言えば、多くの人が、耳にしたことがあるはずだ。

YMO の ファッション そして、ドラム に、ユキヒロの歌。

世界をテクノポップで、駆け抜けた YMO


高橋幸宏 50周年記念 ライブ が、2022年9月に行われたのだが、高橋幸宏 は、このライブに参加できなかった。

体調が、良くないことは、想像できたが、訃報 を知ると、なんだか「一つの時代の終わり」が来たように思えてならない。


もう二度と YMO の三人での演奏 を聞くことは叶わなくなった。




個人的には、高橋幸宏 のアルバム

「Once A Fool,... -遥かなる想い-」

が、好きだ。

.「遙かなる想い」から続く 「冬のシルエット」 の流れの曲

矢野顕子 作詞「仕事を終えたぼくたちは」

いや

1993年1月27日 発売の セルフカバーアルバム 「Heart of Hurt」

ちょっとツラインダ

本当に ちょっとツラインダ

いや ちょっとカナシンダ

そんな、気分だ。


高橋幸宏 の 歌声

曲は、作品は、今日も接することが出来ます。

高橋幸宏 の 音楽 ありがとう ございました。



安らかに


合 掌





YMO高橋幸宏さん死去 70歳 20年脳腫瘍摘出 懸命リハビリも 伝説のテクノサウンド ドラムで支え 1/15(日) 2:00 Yahoo!ニュース 1560

1980年代にテクノブームを巻き起こした伝説のバンド「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のメンバーで日本を代表するドラマーの高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)さんが亡くなったことが14日、分かった。70歳。東京都出身。死因や日時は明らかになっていない。2020年8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、闘病中だった。高橋さんはYMOの音楽面だけでなく、赤い人民服など独特のファッションを打ち出すことで世界に衝撃を与えた。

関係者によると、高橋さんは静養先の長野県軽井沢町で年明けに肺炎を患い、容体が悪化した。亡くなったのは今週とみられ、仕事仲間や親しかった人たちへの報告が始まっている。 20年初夏から断続的な頭痛に悩まされ、同年8月のMRI検査で脳腫瘍と判明。摘出手術は成功し、入院治療の全工程終了を報告した同10月のツイッターで「新幸宏になって戻ると決意しました」と宣言。軽井沢の別荘で静養する一方、通院治療を続けた。 しかし、21年6月に定期検診を受け、「まんまと嫌な予感が当たり、また別の治療始めます」と投稿。再発ではないとしながらも、詳しい治療内容などは明かさなかった。 病魔と闘う原動力になっていたのが、プロデビュー50周年記念ライブへの出演。70歳となった自身の始まりの場と位置付け、何年も前から構想していたものだ。復活の舞台とするべく前を向き続け、懸命に治療とリハビリに取り組んでいた。公演自体は開催されたが、本人は出演できなかった。 78年に坂本龍一(70)、細野晴臣(75)と「YMO」を結成。シンセサイザーを大胆に使った演奏で80年代にテクノブームを巻き起こした。80年発売の代表曲「ライディーン」は高橋さんの作曲。日本のポップスシーンに与えた影響は計り知れず、正確なリズムのタイトなドラミングでYMOを支えたのが高橋さんだった。 その評価は日本にとどまらず、結成翌年から2年連続で世界ツアーを敢行。83年に“散開”するまでわずか5年の活動ながら、全世界でレコードの売り上げは500万枚以上に達した。高橋さんはファッション面でも斬新なグループイメージを構築。もみ上げをそり落としたテクノカットや赤い人民服などで世界に衝撃を与えた。 YMOはその後、“再生”と称して再結成を繰り返した。19年12月に開かれた細野の音楽活動50周年記念公演では、事前収録された坂本の映像に合わせる形で高橋さんらが演奏、「YMO復活」と大きな話題を呼んだ。その坂本は現在、最も重いステージ4のがんを公表して闘病中だ。 ソロ活動やプロデューサーとしても実績を上げるなど、第一線に立ち続けた高橋さん。ミュージックシーンにとどまらず、サブカルチャーなどにも大きな足跡を残し、国内外に与えた影響は計り知れない。 ≪72年「サディスティック・ミカ・バンド」加入しプロデビュー≫ 高橋 幸宏(たかはし・ゆきひろ)1952年(昭27)6月6日生まれ、東京都出身。72年に「サディスティック・ミカ・バンド」に加入しプロデビュー。78年に「YMO」を結成。02年に細野と「スケッチ・ショウ」、14年には小山田圭吾らと「高橋幸宏&METAFIVE」を組んだ。主なソロ曲に「前兆」や「1%の関係」など。兄は音楽プロデューサーの高橋信之氏。




YMOドラマー高橋幸宏さん死去 70歳 誤嚥性肺炎で「年末から容態が悪化し」妻喜代美さんコメント 1/15(日) 17:17


「イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)」のドラマーとして活躍したミュージシャン高橋幸宏さんが1月11日午前5時59分、脳腫瘍により併発した誤嚥(ごえん)性肺炎により70歳で死去したことが15日、所属事務所から発表された。後日、お別れの会を執り行う予定だという。


喪主で妻の高橋喜代美さんがコメントを発表した。「2020年夏に判明した脳腫瘍の摘出手術は成功裡に終わり、その後は復帰に向け度重なる治療と入退院を繰り返しながらリハビリに真摯に向き合ってきました」。そして「昨年11月よりは自宅にて療養しておりましたが、年末から容態が悪化し帰らぬ身となりました。 本人は元より家族親族と最善を尽くしてまいりました。なによりも携わっていただいた医療関係者の皆様に深く感謝致します」とした。 ここ数年は、病気との闘いが続いていた。20年の初夏を迎える頃から頭痛が続き、検査を受けたところ脳腫瘍の疑いと診断され、同8月に脳腫瘍の摘出手術を受け、同10月に退院した。 ところが21年6月にはツイッターで「まんまと嫌な予感が当たり、僕はまた別の治療を始めます」と病名こそ明かさなかったものの、別の治療を始めたことを明かし、同8月には「手術からほぼ1年。この間、治療を続けながら音楽制作活動を行って参りましたが、ライブのための充分な体力の回復にもう少しだけ時間がかかりそうです。しばらくライブはお休みとさせていただき、治療に専念して参ります。近い将来、元気な姿で皆さんとお会いできるように」と、治療に専念してきた。 昨年6月の誕生日翌日には、インスタグラムで「みんな、本当にありがとう。from ユキヒロ」とつづって、療養する様子も伝えた。同9月には、プロ音楽活動50周年や生誕70周年を記念したライブも開催されたが、高橋さんの出演はかなわなかった。 高橋さんは、1952年(昭27)、東京都生まれ。加藤和彦率いる「サディスティック・ミカ・バンド」に参加の後、78年ソロデビューアルバム「サラヴァ!」を発表。同年、細野晴臣(75)坂本龍一(70)と共にYMOを結成。高橋さんが作曲した「ライディーン」などがヒットし、国内外に社会現象的なテクノポップ・ブームを巻き起こした。 83年にYMO散開(解散)後も、ソロやさまざまなユニットへの参加、アーティストへの楽曲提供やプロデュースなど数多くの作品を発表。ファッションデザイナーとしての顔も持つなど、多才だった。




高橋幸宏さん 10代から貫く自身の美学 世界にテクノブーム巻き起こす 1/16(月) 2:00

イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)やサディスティック・ミカ・バンドのメンバーとして世界的な名声を集めたドラマーでシンガー・ソングライターの高橋幸宏(たかはし・ゆきひろ)さんが11日午前5時59分、脳腫瘍により併発した誤嚥性肺炎により死去したことが15日、分かった。70歳。東京都出身。葬儀は家族葬として行われた。 ◇ ◇ 高橋さんは細身から生み出す正確無比で繊細なビートと卓越したファッション感覚で、ドラマー像、ロックミュージシャン像を革新した。75年、ミカバンドの英国公演ではイブ・サンローランの靴を履いて演奏。「客席から見えるはずはないんだけど、それでいい」と美学を貫いた。 小5でドラムをたたき始め、中学時代に早くも兄・信之のバンド「ザ・フィンガーズ」で代演を務める早熟ぶり。音楽仲間には細野晴臣、小原礼、松任谷由実らがおり、高校時代には東郷昌和(後にBUZZ)らとバンド「ブッダズ・ナルシーシー」を組んだ。 ガロやブレッド&バターのバックで頭角を現し72年、ミカバンドに加入。加藤和彦さんからは「筋肉隆々としている必要なんてない」と言われたという。 78年には細野、坂本龍一とYMOを結成。アルバムが全米発売され、ワールドツアーも行うなど世界的な人気を集め、テクノブームを巻き起こした。赤い人民服などのビジュアルは若年層に大きな影響を与え、ヒット曲「君に、胸キュン。」などで聴かせる甘く切ない歌声や、代表曲「ライディーン」の作曲など、細野と坂本の強烈な個性に挟まれながらも歌手、作曲家の才能を開花させた。 自著で理想の音楽家像について「目立たない主役」「目立つ脇役」としてビートルズのジョージ・ハリスンを挙げていたが、そのような存在に成長した。 ソロでは男の弱さ、傷つきやすさを表現する歌詞と美しいメロディーを併せもつ作品を発表した。同世代の鈴木慶一とのユニット「ザ・ビートニクス」、年少の原田知世らとのバンド「pupa」、同じく小山田圭吾らとのバンド「METAFIVE」などの形態でも活動し、新たな音楽表現を追求。プロデューサーとしても安田成美、竹中直人らを手がけ、08年からはフェス「ワールドハピネス」を主催した。 闘病中も21年には大貫妙子の新曲にドラムで参加し、昨年発売の原田知世のアルバムにはビートニクスで曲を提供。最後まで音楽家人生を貫いた。



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タモリ YMOはクールだけどキュート「幸宏さんが体現」 高橋さんと40年以上親交 一緒に音楽も

1/17(火) 5:00配信

 イエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のドラマーで11日に亡くなった高橋幸宏さん(享年70)と40年以上の親交があったタレントのタモリ(77)が本紙に追悼のコメントを寄せた。  YMOの3人とは結成直後から親交があり1980年にニッポン放送「タモリのオールナイトニッポン」でロンドン公演の模様を伝えたこともある間柄。中でも高橋さんとは何度も共演しており「YMOはクールだけどキュートでもあった。それを体現していたのが幸宏さんだった気がします」としのんだ。  高橋さんはタモリが司会を務めたフジテレビ「笑っていいとも!」の名物コーナー「テレフォンショッキング」に計10回出演。YMO時代の82年に初出演し、細野晴臣とのユニット「SKETCH SHOW」や原田知世らと組んだバンド「pupa」としても登場している。音楽活動の話だけでなく、長年の趣味だった釣りの話はもちろん「実は立教中学時代はサッカー部でスポーツ好き」など意外な素顔や私生活についてもタモリによく明かしていた。  自身がデザインした、YMOを象徴する「真っ赤な人民服」についても、95年にテレビ東京「タモリの音楽は世界だ」で秘話を披露。衣装のモチーフが実は「明治時代のスキー服だった」と明かし、共演者を驚かせた。  人民服は前立てにボタンがついているが、YMOの衣装はボタンが隠れるよう前立てを二重にしたデザイン。「当時の制服図鑑を見て、まったく同じ(スキー服の)形があった」とヒントを得たことを明らかに。世界をターゲットにした活動だっただけに「西洋は日本も中国もほとんど一緒に見ていると思って、逆手に取って“人民服”と呼んでいた」と振り返っている。  2015年にはフジ「ヨルタモリ」で仲良く演奏。ゲストの奥田民生とともに、タモリと高橋さんら出演者が奥田のヒット曲「イージュー★ライダー」をセッションした。タモリがコンガ、その隣で高橋さんがドラムを叩き、一夜限りの演奏をのんびり楽しむ2人の姿が気兼ねのない関係を象徴していた。



高橋幸宏さんへの思いをつづった、細野晴臣さんの追悼文 (全文)

2023年1月21日 00:35

喉(のど)に引っ掛かってのみ込めない違和感とともに、自分の生死に向き合うことになる。それが友の死だ。感情は死を拒絶し理性は受け入れる。この悲痛な葛藤から逃げることはできない。

 人の一生は一冊の本のようだ。いま「高橋幸宏」という本を読み終え、多くのファンがあとがきを書こうとしている。物語は終わったが本は消えず、ずっとそこにある。

 幸宏の死は世界に反響を及ぼした。彼が海外のミュージシャンに与えた影響の大きさを今更ながら知り、高橋幸宏が実は大スターであることが判明した。

 初めて幸宏と出会った時の彼は16歳、ぼくは21歳だった。それから半世紀の付き合いになる。軽井沢で知りあい、軽井沢でお別れしたのは不思議な縁だと思う。

 高橋幸宏にとって自分はどんな存在だったのか。多分それは縁戚の「変な伯父さん」だろう。彼の厳しい審美眼はぼくをずっと観察していたに違いない。ある時期から少しずつ認めてくれたようだ。その審美眼は自己にも向けられ、ついに世界一お洒落(しゃれ)なミュージシャンになってしまった。




桑田佳祐、高橋幸宏さんと家族ぐるみで交流 一緒に酒を飲んで歌った思い出披露「あの人の歌がすごく好き」

サザンオールスターズの桑田佳祐(63)が21日のTOKYO FM「桑田佳祐のやさしい夜遊び」(土曜後11・0)に出演。11日に脳腫瘍の併発による誤嚥性肺炎で70歳で亡くなったイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のドラマー、高橋幸宏さんを追悼した。

桑田は「近所に住んでいたんです。家族ぐるみも含めまして、大変、あの方にお世話になりまして。奥さまもすてきなチャーミングな方で、仲良くさせていただきまして」と交流があったと告白。「幸宏さんは、皆さんもおっしゃられますけど、優しい方。うちの息子たちも幼いころから本当によくしていただきまして。かわいがっていただきまして」と明かした。

「私は本当に調子に乗るもんですから、幸宏さんのことを〝ゆったん〟と呼ばせていただきまして」と一緒に酒をよく飲んでいたという。故人はビールが好きで「酒を飲みながら酔っては、私の家でサイコロゲームをやって、楽しく過ごさせていただいた」。お互いが好きなビートルズの曲をギターを弾いて一緒に歌い、「幸宏さんと歌ってていいのかなって思うくらい、本当にうれしくて」と振り返った。

「飲むと帰らないんです。僕はうれしいんですけど」と一度宴が始まると長くなるとも告白。「桑田君、ジョン・レノンを歌ってよ」とリクエストされて歌おうとすると「ちょっと待って、そこにフィルが入る」などとドラムトークが始まり、「俺に歌わせてくれない」と懐かしんだ。

高橋さんの妻が帰宅を促しても、桑田が声をかけても「ビール持ってきて」と同じやり取りを繰り返したといい、「夜中のゆったんはおちゃめでクールで絶好調」と楽しかった宴を回想した。

また、サザンのアルバム「KAMAKURA」(1985年)は、高橋さんのドラムをサンプリングした収録曲があるという。桑田は「ドラマーとしての偉大さはもちろんですけど、あの人の歌がすごく好きでね」と告白。「酔っぱらって言ったんですよ。あの人の歌声はジョージ・ハリスンみたいで、ジョージみたいですねと。しゃべっているときと同じマナーで優しくて美しくて静かでね。クールだけどさ。見た感じと一緒でちょっとあったかい。幸宏さんのお人柄そのまんまの感じで」と高橋さんの歌の魅力を熱弁した。

続けて、「本当に私はビートルズやローリングストーンズが好きなのと同じように、幸宏さんをお慕い申し上げていた」と感謝。「世界に影響を与えた高橋幸宏さんかもしれないけど、飲んでいるときのゆったんはただの人でした」と親しみを込め、「ゆっくりお休みいただいて、本当にありがとうございます」としのんだ。約7分にわたって思いを語った桑田は、高橋さんの楽曲「SARAVAH!」(1978年)をオンエアした。



Posted at 2023/01/15 18:59:39 | 墓標 | 日記

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