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2021年04月30日 イイね!

立花隆さん 死去 80歳 20210430

立花隆さん 死去 80歳 20210430

田中角栄 を、内閣総理大臣の座から 降りる 事になる、「田中角栄研究」をスクープした 立花隆 さん


「田中角栄研究」は、後に社会人になる頃に読んだが、ジャーナリスト魂というか、取材力というか、とにかく田中角栄のロッキード事件が大事になった一因として立花隆さんは無くてはならない人だ。

TBSニュース23 によく出演されて、いたし、NHKスペシャルなど、NHK番組にも出演されていた。


立花氏については、賛否あるとは思うが、個人的には、立花氏の話は共感できる部分が多かった。

立花氏は、政治、経済分野に留まらず、サイエンス分野にも鋭く切り込み取材し、いろいろ立花氏の話を通して知を得る事が出来た。



「ぼくはこんな本を読んできた」(1995年)は今も手元にある。

今一度読み返してみようと思う。

合 掌



立花隆さん死去 ジャーナリスト、評論家「田中角栄研究」

2021/6/23 02:00(最終更新 6/23 10:18)

 多くの調査報道やベストセラーを発表し、「知の巨人」として知られるジャーナリストで評論家の立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志=たちばな・たかし)さんが4月30日、急性冠症候群のため亡くなった。80歳。葬儀は故人と遺族の意思により家族葬で行われた。

 1940年、長崎市生まれ。両親ともクリスチャンの家庭で育つ。教員だった父が赴任していた中国・北京で敗戦を迎えた。東京大文学部仏文科を卒業した64年、文芸春秋に入社し雑誌記者となるが66年に退社、フリーとなる。67年に東京大文学部哲学科に学士入学した。在学中から雑誌などにルポや評論などを発表。74年には月刊「文芸春秋」に「田中角栄研究 その金脈と人脈」を発表した。首相だった田中氏の政治手法を入念な取材と裏付け調査で明らかにし、田中氏退陣のきっかけとなった。同企画は「調査報道の先駆」「雑誌ジャーナリズムの金字塔」として高く評価された。

 その後は「日本共産党の研究」など政治をテーマとした執筆を続ける一方、米国のアポロ計画で月に渡った宇宙飛行士を取材し、その内面の変化をたどった「宇宙からの帰還」や、人の死、人が生きていくことの意味を問うた「脳死」「脳死再論」など科学分野でも多数の意欲作を残した。

 後進の育成にも力を入れた。東京大で非常勤講師や客員教授などを歴任。ゼミ出身者が作家や記者、編集者などになった。2007年にがんの告知を受け手術。以後自らの体験を雑誌に発表するなど、がんに関する取材・執筆を続けた。他の主な著作に「中核VS革マル」「農協 巨大な挑戦」「ロッキード裁判傍聴記」「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」「天皇と東大 大日本帝国の生と死」「武満徹・音楽創造への旅」など。多分野に及ぶ活躍で菊池寛賞(83年)や毎日出版文化賞(87年)、司馬遼太郎賞(98年)などを受賞した。






分野も時間も軽々越えた「知の巨人」 立花隆さんが残したもの

6/23(水) 5:00 

Yahoo!ニュース

 「知の巨人」と評されたジャーナリストで評論家の立花隆さんが亡くなった。理系と文系、過去や現代、未来といったテーマの垣根を軽々と越えた60年に及ぶ活動が残したものは大きい。

【今年亡くなった方々】「5万回斬られた男」も

 戦闘の体験はないが、戦争への関心は高かった。幼いころの鮮明な記憶は、中国からの引き揚げだ。教員だった父親の赴任先、北京で敗戦を迎えた。5歳の立花少年は引き揚げの旅路で大人用のリュックを背負わされた。先を行く大人について行くのがつらく、「置いてけぼり」になりかけたという。

 また長崎生まれで、原爆には思いがあった。東京大在学中の1960年には、英国・ロンドンで開かれた「学生青年核軍縮国際会議」に招かれ欧州に渡った。新藤兼人監督の映画「原爆の子」や関川秀雄監督の「ひろしま」、土門拳の写真集「ヒロシマ」などを持参し、各地で上映会などを開いた。

 64年に仏文科を卒業。卒業論文はフランス革命期の哲学者、メーヌ・ド・ビランが残した「ヨハネ伝注解」の分析だった。進路を考えていると、新聞記者だった兄から「新聞記者はやめろ」と言われた。NHKと岩波書店は入社試験で落とされ、文芸春秋に入社した。希望通り「週刊文春」に配属された。しかし好きな読書がままならず、「まったく興味が無い」プロ野球の取材を任されたことで嫌気が差し、3年足らずで退社した。

 フリーとなり、67年には東京大哲学科に学士入学。学費を稼ぐために雑誌で記事をまとめる「アンカーマン」を務め、取材や編集の経験を重ねた。60年代末からペンネームの「立花隆」で月刊誌などで記事を書いた。さらに東京・新宿の飲食店が並ぶゴールデン街でバーを共同経営。来店するマスコミ関係者との交流を深めた。

 そこで知り合った編集者のすすめで72年、イスラエルに渡った。同年に起きた、テルアビブの空港で日本赤軍の3人が銃を乱射し24人が死亡した事件を取材。1人生き残った実行犯で、現地警察に拘束されていた岡本公三容疑者への一問一答記事が「週刊文春」に掲載され話題となった。

 「立花隆」の名前がさらに大きく知られたのは74年。「田中角栄研究 その金脈と人脈」を月刊「文芸春秋」で発表してからだ。時の首相の、カネにまつわる疑惑を徹底的に調べ上げた。会社登記簿や政治資金収支報告書など膨大な資料を収集・分析。ファミリー企業や支援者、派閥などの複雑な人脈を相関図で可視化した。田中氏は日本外国特派員協会で記者会見に臨み、海外メディアの追及を受けた。「田中金脈」は海外に発信され、日本のメディアも報じた。田中氏は74年11月に退陣を表明。自民党内の権力闘争が激化していたこともあったが、立花さんの報道が田中氏退陣の引き金ともなった。

 76年2月には「ロッキード事件」が発覚。田中氏や丸紅、全日空の役員らが受託収賄、贈賄などの罪で起訴される歴史的な疑獄事件となった。立花さんは退陣で田中氏をテーマにすることをやめるつもりだったが、事件によって追い続けることに。77年の初公判以来、すべての公判を傍聴。「朝日ジャーナル」に68回の「傍聴記」を寄せた。

 「科学少年だった」という立花さんは、脳や宇宙、医療といった分野でも積極的に取材し、発信した。「宇宙での体験が意識にどんな影響をもたらすのか」に関心を持ち、米アポロ計画の宇宙飛行士たちに取材を重ねた。その成果である「宇宙からの帰還」は版を重ね、後に日本人が宇宙飛行士を目指すきっかけともなった。科学・技術の最前線に立った人間がその体験を精神世界でどう受容し、その後の人生にどう影響したのかを追う仕事は、分野を越境する立花さんの仕事の象徴であると同時に、膨大な作品群の中で一つの画期ともなった。

 並外れた読書家でもあった。蔵書はおよそ10万冊。「関心がある分野は最低でも10冊を読むべきだ」「本との出会いは自分でするもの」といった持論から、読書の方法や重要性を説いた。

 鋭い書評家でもあった。賞の選考会などでは手厳しい評もしたが、立花さんに著作を取り上げられ、力を得た書き手は多い。また母校・東京大では教壇にも立った。「調べて書くことが現代では最も重要な能力」との考えから、ゼミでは学生たちが会いたい人物に会い、インタビューして書くことを課した。自身も取材や執筆などの活動をしつつ、後進の育成に力を注いだ。

 分野をまたいで深く広く取材する発信者であり、教育者でもあった立花さんは「総合知」の人だった。アカデミズム、ジャーナリズムとも専門性が細分化する現代にあっては、立花さんのような異能の人物は、もう現れないかもしれない。

 ◇立花隆さんの著書一覧

「思考の技術」(1971年)

「中核VS革マル」(75年)

「田中角栄研究」(76年)

「日本共産党の研究」(78年)

「ジャーナリズムを考える旅」(同)

「農協 巨大な挑戦」(80年)

「ロッキード裁判傍聴記」(81~85年)

「宇宙からの帰還」(83年)

「脳死」(86年)

「脳死再論」(88年)

「同時代を撃つ 情報ウオッチング」(88~90年)

「臨死体験」(94年)

「ぼくはこんな本を読んできた」(95年)

「立花隆の同時代ノート」(97年)

「21世紀 知の挑戦」(2000年)

「『言論の自由』VS.『●●●』」(04年)

「シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界」(同)

「天皇と東大 大日本帝国の生と死」(05年)

「滅びゆく国家 日本はどこへ向かうのか」(06年)

「自分史の書き方」(13年)

「死はこわくない」(15年)

「武満徹・音楽創造への旅」(16年)

「『戦争』を語る」(同)

「知の旅は終わらない 僕が3万冊を読み100冊を書いて考えてきたこと」(20年)



 ジャーナリスト・立花隆(たちばな・たかし、本名・橘隆志)さんが4月30日午後11時38分、急性冠症候群のため死去していたことが分かった。80歳だった。葬儀は故人と遺族の意思により、5月4日に家族葬にて執り行われた。埋葬は樹木葬という。
長年、痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、がんなどの病気を抱え入退院を繰り返した。
約1年前、大学病院に再入院した際、本人が検査、治療、リハビリを拒否したことから、旧知の病院に転院。院長の「人生の晩年期における立花先生のご病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも先生の全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という考えのもと入院を続けた。4月30日夜、ナースコールで駆け付けた看護師が異常を感じ院長に連絡も、到着を待たず急逝。かねて糖尿病による脳動脈硬化と冠動脈硬化の危惧があったという。
1940年、長崎市生まれ。東大仏文科卒。生物学から政治、宇宙など多岐にわたるテーマで著書を出版した。徹底的な取材で知られ、「知の巨人」と称された。主な著作に「田中角栄研究―その金脈と人脈」「脳死」「知の旅は終わらない」など。昨年、出版された著書「知の旅は終わらない」(文藝春秋)には、「死んだ後には、葬式にも墓にもまったく関心がありません」とした上で、「海に遺灰を撒(ま)く散骨もありますが、僕は泳げないから海より陸のほうがいい。コンポスト葬も法的に難点があるので、妥協点としては樹木葬(墓をつくらず遺骨を埋葬し 樹木を墓標とする自然葬)あたりがいいかなと思っています。生命の大いなる環の中に入っていく感じがいいじゃないですか」と記している。
Posted at 2021/06/23 12:24:52 | トラックバック(0) | 墓標
2021年04月26日 イイね!

和泉宏隆さん 死去 62歳 20210426



T-SQUARE の黄金期のキーボード担当 和泉宏隆さんが逝去したという。

1982年「脚線美の誘惑」から1998年「BLUE IN RED」まで在籍して、T-SQUAREのおなじみの曲の多くに関わってきた。

「OMENS OF LOVE」などは、SQUAREだね という楽曲の一つだ。



合 掌




「T-SQUARE」ピアノ担当の和泉宏隆さん死去 62歳 急性心不全
4/28(水) 8:23配信

日本を代表するフュージョンバンド「T-SQUARE」でピアノやキーボードを担当した和泉宏隆(いずみ・ひろたか)さんが、4月26日に急性心不全のため死去したことを28日、公式サイトが伝えた。62歳。東京都出身。

同サイトは「和泉宏隆は、令和3年4月26日に62歳にて急性心不全により永眠しました。ここに謹んでお知らせ申し上げますとともに生前中賜りましたご厚誼に心より御礼申し上げます。和泉宏隆と和泉宏隆の音楽はいつまでも生き続けます、みなさまとともに。」と記した。

和泉さんは1982年にT-SQUAREの前身バンド「THE SQUARE」に加入。バンドのヒット曲「OMENS OF LOVE」(85年)や「TAKARAJIMA宝島」(86年)、「EL MIRAGE」(88年)などを作曲した。これらの曲は吹奏楽の演奏曲としても定番となった。

98年に脱退後もソロのピアニスト、キーボーディストとして活躍。今月もライブや配信などを行っていた。

和泉さん在籍中のT-SQUAREの他に、フジテレビ系F1中継のオープニング曲だった「TRUTH」(91年、安藤まさひろ作曲)などのヒット曲がある。
Posted at 2021/04/28 10:10:23 | 墓標 | ニュース
2021年04月26日 イイね!

王様、殿様 発言 なだけで ・・ 20210426



2019年参院選広島選挙区を巡る大規模買収事件を、自由民主党幹事長、二階俊博は、

「他山の石」

と、いったが、

「それくらいの表現許される」

と記者の質問に答えたという。

まあ、発言した本人は、「他山の石」だと思っているし、事実を、「他山の石」としたいし、「他山の石」で終わらせたい。

だから、「他山の石」といった訳で・・

でも、一般国民からすれば、他人事ではなく、貴方自由民主党のしでかした、我が身の事でしょ?

河井克行、河井安里 夫妻に、自由民主党が渡した1億円以上の選挙資金が、選挙のためにばらまかれて、票の買収になってる訳で・・・


表現が許されるとか、許されないとか、という問題ではなくて

自由民主党や、二階俊博 として、今回の一連の選挙の「現金ばらまき」は、全く他人事として、認識している。

いや、認識させたい。

という、公職選挙法、バレなければ、アリです。と考えている。

ということが、この発言で、決定的にわかる。

法を作る、国会議員だが、そんな法を軽視する、いや、平気で法を逸脱するのも、国会議員であるという事実。

呆れる。

自由民主党は、もはや、腐りきって地に落ちたと言わざるを得ない。








「他山の石」の意味は…不祥事を他人事のようだと批判された二階氏「それくらいの表現許される」

4/26(月) 20:50 

Yahoo!ニュース

 自民党の二階幹事長は26日の記者会見で、2019年参院選広島選挙区を巡る大規模買収事件を「他山の石」と表現して批判されたことに対し、「それくらいの表現は許されてしかるべきだ」と反論した。「他山の石」ではなく自民党自身の問題ではないかとの記者の質問に答えた。

 二階氏は3月23日の記者会見で「党としても他山の石として、しっかり対応していかなくてはならない」と発言した。事件は河井克行被告(議員辞職)が党在籍中に起きたため、野党などから「人ごとのようだ」などと批判を浴びていた。

Posted at 2021/04/28 05:55:33 | トラックバック(0) | JOURNAL
2021年04月25日 イイね!

神田川俊郎さん死去 81歳

神田川俊郎さん死去 81歳

20世紀のテレビ番組 「料理の鉄人」

一大ブームだった。



和の鉄人 道場六三郎

フレンチの鉄人 石鍋 裕

中華の鉄人 陳健一

その鉄人に対戦する挑戦者として、度々出演した、神田川俊郎

大阪の料理人だけあって、口数多く関西のイントネーションで、関東系の鉄人に食って掛かる。

そんな、東西料理対決は、エンターテイメントとして面白かった。

いろいろ、テレビにでてきた神田川さん。

神田川さんが調理した料理を食べたことは、もちろん ない。

神田川俊郎 COVID-19 に感染していたと聞く。

このウィルス感染がなければ、まだまだ元気にしていたのだろ。

合 掌



料理研究家・神田川俊郎さん死去 81歳 「料理の鉄人」出演で人気に

4/25(日) 20:56 

Yahoo!ニュース

  テレビ番組「料理の鉄人」などで知られた料理研究家の神田川俊郎(かんだがわ・としろう、本名大竹俊郎=おおたけ・としろう)さんが25日、死去した。81歳だった。神田川さんは今月16日、体調を崩して大阪市内の病院に搬送。検査の結果、新型コロナウイルスへの感染が確認され、治療を受けていた。


 神田川さんは中学卒業後に料亭「なだ万」などで修業を積み、1965年に大阪・北新地に「神田川本店」を開いた。93年から放送された人気番組「料理の鉄人」(フジテレビ系)で、「関西料理界のドン」として鉄人に挑戦する姿が話題を呼んでブレーク。その後も「花に水、人に愛、料理は心」を合言葉にユニークなキャラクターでバラエティー番組に引っ張りだこになったほか、CMキャラクターに抜てきされるなど、一躍、時の人となった。

 複数の料理店を手掛けたほか、全日本調理師協会の名誉会長を務め、後進の育成にも尽力した。


神田川俊郎さん死去に道場六三郎さん「世は無常です」、コロナの死因に「残念」

4/28(水) 5:30 

Yahoo!ニュース

 料理研究家の神田川俊郎さんが25日に81歳で死去したことを受け、27日、フジテレビ「料理の鉄人」で共演した道場六三郎さん(90)が電話取材に応じ「(訃報には)ビックリした。世は無常です」と語った。

 和食料理人として東西のトップに君臨していた2人。直接会うことは少なく、年齢も9歳離れていたが、互いに「俊ちゃん」「六さん」と呼び合っていたという。番組では互いに得意とするブリを使った対決が実現。道場さんが勝利したが、「会うといつも“本当は俺が勝ってたんだ!”と駄々をこねてましたね」と懐かしそうにつぶやいた。

 この日、神田川さんの死因が新型コロナウイルスによる肺炎だったことが正式に判明。道場さんは「ウイルスでやられたことは本当に残念。冥福を祈るのみです」と悼んだ。







コロナで死去「料理の鉄人」神田川俊郎さんの次女が明かす「命の選別」の過酷な現場〈dot.〉

5/20(木) 8:00 

Yahoo!ニュース

「すっかり元気になって戻ってくるものと思っていたので、今も信じられません」

 こう語るのは、4月25日に新型コロナウイルスに感染し、亡くなった日本料理店「神田川」の料理人として知られる神田川俊郎さん(享年81)の次女、大竹可江さんだ。

 神田川さんは京都市出身で、16歳から料理人として修行に入り、「なだ万」などで腕を磨いた。大阪で高級日本料理店「神田川」など3店舗を経営。「新日本料理」と銘打った斬新な料理で繁盛し、人気テレビ番組「料理の鉄人」に「神田川軍団」として弟子らと出演した。道場六三郎、陳建一ら鉄人との名勝負で一躍、人気者になった。

 そんな神田川さんがなぜ、コロナに感染し、急死してしまったのだろうか。可江さんが亡くなるまでの詳細な様子を語った。神田川さんが体調を崩したのは、4月16日だった。

「朝、電話をかけてもつながらない。店で女将をやっている父の妹が自宅マンションを合鍵で開けたところ、風呂場で倒れていた。すぐに意識は戻ったのですが、救急搬送されました。大阪市内の病院でPCR検査を受けると、コロナに感染していることが判明し、入院しました」

 しかし、翌日17日には神田川さんから可江さんに電話が入った。

「父は元気な声で『なんでこんなところにおるねん。熱もないし、元気や』と言うので安心しました。その日は新作で考えていた料理の写真撮影をしたいと仕事関係の方など、あちこちに電話をかけまくっていたそうです。3月に料理の仕事で熊本へ出張までしていたので、すぐに回復すると信じていました」

 だが、18日になって容態が急変したという。神田川さんは血中酸素濃度が90%まで低下。

「19日になって病院から『酸素吸入、チューブを挿管します』という連絡がきてビックリしました。17日にはあれだけ元気だったのに、何があったのか、と心配でたまりませんでした。しかし、コロナ感染で面会はできないので様子を見に行くこともできません。また、父の店から3人、コロナウイルスに感染していることもわかりました。今まで以上に感染力が強く、重症化する確率が高い、コロナの変異株に感染したのかなとニュースなどを見ながら、心配していました。そして病院から『万が一のことがあるので、重症者対応ができる病院への転院を考えている』と聞かされ、本当に深刻な病状であることを痛感しました」

 神田川さんの病状が重篤となった4月20日前後、大阪府内では新規感染者が1日あたり、連日のように1000人を超え、重症者数も300人以上、病床使用率は99%と発表されていた。それゆえ、神田川さんの転院はなかなか、進まなかったという。

「エクモなど治療設備が整っている大きな病院に転院になると聞いていました。しかし、病床が逼迫して、転院ができないと言われました。その理由の一つが、重症患者向けの病床は、回復の可能性が高い、年齢の若い方を優先しており、81歳の父は順番がなかなかまわってこないというものでした。父には昔から大阪市内の比較的大きな病院にかかりつけ医がいました。そこに転院したいという意向が当初からあったのですが、そちらも病床が埋まっていたようでダメでした」

 その後、神田川さんは血中酸素濃度も正常値に戻り、いったんは回復の兆しにあった。

「4月23日の連絡で血中酸素濃度が98%と聞いて、安心しました。ところが、4月25日の午前4時過ぎでした。脈拍が50を切った、血圧が急激に低下していると知らされましたが、病院に行くこともできず、気が気でない中、4時34分にお亡くなりになったと、知らされました。死因はコロナによる肺炎でした。ただ絶句するしかありませんでした」

 医療崩壊が指摘される大阪府。重症病棟への転院は「若い人から」という可江さんの証言は、「命の選別」が実質的に行われている過酷な医療現場を物語っている。

「コロナの感染拡大から1年以上が経っているのに国や大阪は一体、何をしていたんだと心底、思いました。もし、感染する時期が違っていれば、国や大阪が十分な対策を行っていれば、適切な治療が受けられれば、父は助かったのかもしれない。そうと思うと、今も悔しく、やり切れません。このような悲劇は父で終わりにしてほしい」

 可江さんら家族は、コロナの感染防止のため神田川さんの顔を最後に見ることもできず、遺体は荼毘に付されたという。家族葬を行い、4月29日に焼香だけを一般から受け付けたという。

 神田川さんは新型コロナウイルスの感染拡大で人一倍、気を配っていたという。

「コロナに効果があるとされる、除菌グッズを首から2個、3個とぶら下げていました。消毒液の入った小さいボトルも3つほど持ち、頻繁に消毒。店でも二酸化炭素の濃度をこまめにチェックしていました。マスクは念には念を入れよと3枚重ねにしていた時もあった。それでもコロナに感染してしまう。未だに感染ルートもよくわかりません。本当に恐ろしい」

 父とのプライベートな思い出についても可江さんはこう振り返った。

「仕事ひと筋でした。家でも仕事のことになると厳しい表情だった。しかし、最近はよく『孫を店に連れてきて』と言っていました。孫に会うと、仕事ひと筋の父が優しいおじいちゃんになっていました。毎日、3~4回と電話してきては『おはよう』とか『元気か』と声がけしてくれるのが父の日課でした。プロ野球の西武ライオンズとコラボした弁当をプロデュースするなどコロナ禍で厳しい中でも、いろいろアイデアを絞って頑張っていた」

 記者は生前、神田川さんを何度も取材したことがある。料理とはまったく関係がない、事件取材があった時だ。店に電話をしても断られるだろうと、いきなり訪ねると、多忙な時間をさいて、「またかいな、しゃあないなぁ~」とテレビでおなじみの笑顔で応じてくれた。

 神田川さんのモットー「料理は心」について聞いたことがあった。

「どんなに上等な肉や魚でも、最後は心や。心で味が決まる。どんな仕事でも、記事を書くのもそうや。最後は心とちゃうかな」

 神田川さんの言葉には随分、勉強させていただいた。「神田川」の暖簾は可江さんが若女将として、これからも守り続けていくという。合掌。(今西憲之)




Posted at 2021/04/26 19:45:03 | 墓標 | ニュース
2021年04月24日 イイね!

新しいテレビを買うはずが 20210424



あれは、たしか2019年春。

2020TOKYOolympic の、観戦チケットの申し込みが行われた頃だった。

もちろん、2020TOKYOolympicの開会式や、サッカーの決勝など、倍率の高いチケットを狙って申し込んだが、かすりもせず、撃沈。
観戦チケットがハズレたときに、せめて4K対応テレビくらいは、買い換えて、Olympicのテレビ観戦でもと思っていた。

しかし、時は流れて、今となっては、Olympicをテレビで見るという気にもならない。

大体、Olympicなんて、今の状況で出来るのか?

Olympicが出来たとして、無観客か、観客まばらで静かなOlympicを、見る気がしない。
新しいテレビを買うより、どこかの山でキャンプしてのんびりすごそう。

そう思う今日この頃だ。




Posted at 2021/04/24 19:03:16 | トラックバック(0) | つぶやき

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