20世紀のテレビ番組 「料理の鉄人」
一大ブームだった。
和の鉄人 道場六三郎
フレンチの鉄人 石鍋 裕
中華の鉄人 陳健一
その鉄人に対戦する挑戦者として、度々出演した、神田川俊郎
大阪の料理人だけあって、口数多く関西のイントネーションで、関東系の鉄人に食って掛かる。
そんな、東西料理対決は、エンターテイメントとして面白かった。
いろいろ、テレビにでてきた神田川さん。
神田川さんが調理した料理を食べたことは、もちろん ない。
神田川俊郎 COVID-19 に感染していたと聞く。
このウィルス感染がなければ、まだまだ元気にしていたのだろ。
合 掌
料理研究家・神田川俊郎さん死去 81歳 「料理の鉄人」出演で人気に
4/25(日) 20:56
Yahoo!ニュース
テレビ番組「料理の鉄人」などで知られた料理研究家の神田川俊郎(かんだがわ・としろう、本名大竹俊郎=おおたけ・としろう)さんが25日、死去した。81歳だった。神田川さんは今月16日、体調を崩して大阪市内の病院に搬送。検査の結果、新型コロナウイルスへの感染が確認され、治療を受けていた。
神田川さんは中学卒業後に料亭「なだ万」などで修業を積み、1965年に大阪・北新地に「神田川本店」を開いた。93年から放送された人気番組「料理の鉄人」(フジテレビ系)で、「関西料理界のドン」として鉄人に挑戦する姿が話題を呼んでブレーク。その後も「花に水、人に愛、料理は心」を合言葉にユニークなキャラクターでバラエティー番組に引っ張りだこになったほか、CMキャラクターに抜てきされるなど、一躍、時の人となった。
複数の料理店を手掛けたほか、全日本調理師協会の名誉会長を務め、後進の育成にも尽力した。
神田川俊郎さん死去に道場六三郎さん「世は無常です」、コロナの死因に「残念」
4/28(水) 5:30
Yahoo!ニュース
料理研究家の神田川俊郎さんが25日に81歳で死去したことを受け、27日、フジテレビ「料理の鉄人」で共演した道場六三郎さん(90)が電話取材に応じ「(訃報には)ビックリした。世は無常です」と語った。
和食料理人として東西のトップに君臨していた2人。直接会うことは少なく、年齢も9歳離れていたが、互いに「俊ちゃん」「六さん」と呼び合っていたという。番組では互いに得意とするブリを使った対決が実現。道場さんが勝利したが、「会うといつも“本当は俺が勝ってたんだ!”と駄々をこねてましたね」と懐かしそうにつぶやいた。
この日、神田川さんの死因が新型コロナウイルスによる肺炎だったことが正式に判明。道場さんは「ウイルスでやられたことは本当に残念。冥福を祈るのみです」と悼んだ。
コロナで死去「料理の鉄人」神田川俊郎さんの次女が明かす「命の選別」の過酷な現場〈dot.〉
5/20(木) 8:00
Yahoo!ニュース
「すっかり元気になって戻ってくるものと思っていたので、今も信じられません」
こう語るのは、4月25日に新型コロナウイルスに感染し、亡くなった日本料理店「神田川」の料理人として知られる神田川俊郎さん(享年81)の次女、大竹可江さんだ。
神田川さんは京都市出身で、16歳から料理人として修行に入り、「なだ万」などで腕を磨いた。大阪で高級日本料理店「神田川」など3店舗を経営。「新日本料理」と銘打った斬新な料理で繁盛し、人気テレビ番組「料理の鉄人」に「神田川軍団」として弟子らと出演した。道場六三郎、陳建一ら鉄人との名勝負で一躍、人気者になった。
そんな神田川さんがなぜ、コロナに感染し、急死してしまったのだろうか。可江さんが亡くなるまでの詳細な様子を語った。神田川さんが体調を崩したのは、4月16日だった。
「朝、電話をかけてもつながらない。店で女将をやっている父の妹が自宅マンションを合鍵で開けたところ、風呂場で倒れていた。すぐに意識は戻ったのですが、救急搬送されました。大阪市内の病院でPCR検査を受けると、コロナに感染していることが判明し、入院しました」
しかし、翌日17日には神田川さんから可江さんに電話が入った。
「父は元気な声で『なんでこんなところにおるねん。熱もないし、元気や』と言うので安心しました。その日は新作で考えていた料理の写真撮影をしたいと仕事関係の方など、あちこちに電話をかけまくっていたそうです。3月に料理の仕事で熊本へ出張までしていたので、すぐに回復すると信じていました」
だが、18日になって容態が急変したという。神田川さんは血中酸素濃度が90%まで低下。
「19日になって病院から『酸素吸入、チューブを挿管します』という連絡がきてビックリしました。17日にはあれだけ元気だったのに、何があったのか、と心配でたまりませんでした。しかし、コロナ感染で面会はできないので様子を見に行くこともできません。また、父の店から3人、コロナウイルスに感染していることもわかりました。今まで以上に感染力が強く、重症化する確率が高い、コロナの変異株に感染したのかなとニュースなどを見ながら、心配していました。そして病院から『万が一のことがあるので、重症者対応ができる病院への転院を考えている』と聞かされ、本当に深刻な病状であることを痛感しました」
神田川さんの病状が重篤となった4月20日前後、大阪府内では新規感染者が1日あたり、連日のように1000人を超え、重症者数も300人以上、病床使用率は99%と発表されていた。それゆえ、神田川さんの転院はなかなか、進まなかったという。
「エクモなど治療設備が整っている大きな病院に転院になると聞いていました。しかし、病床が逼迫して、転院ができないと言われました。その理由の一つが、重症患者向けの病床は、回復の可能性が高い、年齢の若い方を優先しており、81歳の父は順番がなかなかまわってこないというものでした。父には昔から大阪市内の比較的大きな病院にかかりつけ医がいました。そこに転院したいという意向が当初からあったのですが、そちらも病床が埋まっていたようでダメでした」
その後、神田川さんは血中酸素濃度も正常値に戻り、いったんは回復の兆しにあった。
「4月23日の連絡で血中酸素濃度が98%と聞いて、安心しました。ところが、4月25日の午前4時過ぎでした。脈拍が50を切った、血圧が急激に低下していると知らされましたが、病院に行くこともできず、気が気でない中、4時34分にお亡くなりになったと、知らされました。死因はコロナによる肺炎でした。ただ絶句するしかありませんでした」
医療崩壊が指摘される大阪府。重症病棟への転院は「若い人から」という可江さんの証言は、「命の選別」が実質的に行われている過酷な医療現場を物語っている。
「コロナの感染拡大から1年以上が経っているのに国や大阪は一体、何をしていたんだと心底、思いました。もし、感染する時期が違っていれば、国や大阪が十分な対策を行っていれば、適切な治療が受けられれば、父は助かったのかもしれない。そうと思うと、今も悔しく、やり切れません。このような悲劇は父で終わりにしてほしい」
可江さんら家族は、コロナの感染防止のため神田川さんの顔を最後に見ることもできず、遺体は荼毘に付されたという。家族葬を行い、4月29日に焼香だけを一般から受け付けたという。
神田川さんは新型コロナウイルスの感染拡大で人一倍、気を配っていたという。
「コロナに効果があるとされる、除菌グッズを首から2個、3個とぶら下げていました。消毒液の入った小さいボトルも3つほど持ち、頻繁に消毒。店でも二酸化炭素の濃度をこまめにチェックしていました。マスクは念には念を入れよと3枚重ねにしていた時もあった。それでもコロナに感染してしまう。未だに感染ルートもよくわかりません。本当に恐ろしい」
父とのプライベートな思い出についても可江さんはこう振り返った。
「仕事ひと筋でした。家でも仕事のことになると厳しい表情だった。しかし、最近はよく『孫を店に連れてきて』と言っていました。孫に会うと、仕事ひと筋の父が優しいおじいちゃんになっていました。毎日、3~4回と電話してきては『おはよう』とか『元気か』と声がけしてくれるのが父の日課でした。プロ野球の西武ライオンズとコラボした弁当をプロデュースするなどコロナ禍で厳しい中でも、いろいろアイデアを絞って頑張っていた」
記者は生前、神田川さんを何度も取材したことがある。料理とはまったく関係がない、事件取材があった時だ。店に電話をしても断られるだろうと、いきなり訪ねると、多忙な時間をさいて、「またかいな、しゃあないなぁ~」とテレビでおなじみの笑顔で応じてくれた。
神田川さんのモットー「料理は心」について聞いたことがあった。
「どんなに上等な肉や魚でも、最後は心や。心で味が決まる。どんな仕事でも、記事を書くのもそうや。最後は心とちゃうかな」
神田川さんの言葉には随分、勉強させていただいた。「神田川」の暖簾は可江さんが若女将として、これからも守り続けていくという。合掌。(今西憲之)
Posted at 2021/04/26 19:45:03 |
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