
昨日、 「工場」で 最終の解体作業の 「締め」で
外して持ち帰った エンジン キーシリンダー を眺めて。
Pri の 事を 「深く」 考えて居ました。 其れは。
1993年の 7月に 新車で Pri を 購入して、
1997年辺り迄 極 「普通」 な弄りを していて、
1998年に Pri の 玄人な オフ会に 参画して。
そして、 如何に 自分が 何も 「知らない」 のか を 。
如何に 自分が 「根拠無き」 妄想に 浸っていたのかを。
まざまざ と思い知るんですよ。 今迄自分が妄信していた
「伝聞」 が 如何に 偏って 不安定な物だったの かを。
車を弄る事に 「偏差」 も 「王道」 も 「神話」 も 無い。
自分が愉しいと思える思案と施工に昂る。 他人の眼なんて
どぅ でも 「善い」 。
そして、 最も大切なのは、 人に逢って真剣に訊くとゆぅ事。
掲示板や DATA表には 出てこない「勘所」は 本気で訊く。
直接、 「本人」 に 面と向かって ね。
すると ね!?。 大変に嬉しく、ありがたい事に、無報酬で
色々と先人各位様が 教えてくれたんですよ。真剣に訊いた
分だけ 真摯に応答してくれたんです。 そぅして 自分の
Pri は完成して行ったんですよ。 色々な人の恩恵に拠って。
自分で調べて 個人で動くのには 必ず 「限界」 と 「誤解」
は 出ると 個人的には想っています。 其の理由は 人は
自分が頼る 「思念」 や 「感情」 に 支配され易いからです。
そして、 真剣に知りたいなら、 遣りたいなら。 本気で
訊く べき なんですよ。 そして、 見識を 広く深く高める事。
例えば ブレーキ 。
個人で 趣味で 弄る範囲に 置いて。
「王道」や「主流」や「逸品」は
「存在」しないし、意味が無い。
各々 個人個人で 好きに弄れば 善いんですよ。
個人で楽しんで 満足すれば どんな形態や施工でも ね。
何を基準に 「優れて」 「秀でて」 いるのか の 「基準」 も
全く 無いんですよ。 自分が 気持ち好い 弄りをすればね。
すると。 誰が どぅ弄った とか、 誰が何を どぅ遣ったとか。
全く評論する意味が無いし、批判も出ない「筈」なんですよ ね。
そぅいった 「嗜好」 の 価値観 みたぃな もの を 。 Priを
通じて 教えられた様な 気が するんですよ。 人 それぞれ。
故に 「個性」 が際立ち、唯一無二 の存在感が出来上がると。
そして、 兎に角 優秀な人材が 豊富に闊歩していた。本当に
沢山 居たんですよね。
VR に メィン の 車活動が 移って来て。
Pri 程の 厚い精鋭層が 無い ナ と、思いました。 ...が、
ストィック に クラフト スピリッツ の 高い オーナー さん が 居ました。
Pri は 磐石の安定感で、 VR は ストィック な孤高感か な。
どちらの 車弄りでも ね !?。 そぅいった 「人情」 が在って
「風情」 が 在るから。
安心して 自分は 「 3 流 」 で 居られるんですよ (安寧)。
Net の 画面を眺めて 偏った「妄想」しか していないと ね?。
そぅいった 「根幹」 の部分が 見えて来ないんですよ。 何故
人に訊くと 自分の 「格」 が 下がるとか、 自分の 「立場」が
脆弱に成ると 思って仕舞うのか。 そんな 「つまんない」 事を
考えている程には 他人は貴方を崇めては居ないと思います よ。
真摯に真剣に訊く事は。 なにも恥ずかしく無いし、 卑屈に成る
事も 無いんですよ。
人は
生まれ出でてから 色々な人に教えられて 育って行くんですから。
自分で努力して開拓して訊いて失敗して辿り付いた「境地」の意味。
此れ ばっかは ね!?。 付け焼きで齧った 「偏見」 の上でね
脆く、危うく、儚い 「虚栄」 でしか 無い と。 思うんです よね。
辿り付いた人の素晴らしさに 見聞きした「だけ」 の人は敵わない。