
34年前の今日、私の母は34歳で私を産みました。
だから今年はいつもの誕生日にも増して
なんだか特別な日なのです。
若い頃から心臓の悪かった母は
1人目の出産の際に産ませてくれる病院がなく
岐阜の病院にまでいって出産をしたそうで
それからの出産は過去の経験から地元の病院で産ませてもらえたものの
2人目は仮死状態での出産
3人目の時は逆子でかなりの難産
これ以上の出産には体が耐えられないからと
医者から固くとめられたそうです。
しかしどうしても、もう一人子供が欲しかった母
3人目の出産から5年後にどうゆう手を使ったのかはわかりませんが
見事に妊娠、誰にも気づかれること無く着々と秋まで過ごし
肌寒くなった頃、赤ちゃん用の靴下を編んでいたところ
父「赤ちゃん用の靴下なんて誰の赤ちゃんが産まれるの?」
母「私の」
父「???!!!」
時すでに遅し。。。。母してやったり
そして、出産予定日の11/3から2週間たった分娩の日
母の話によると水道を全開にしたときのようにジャーって血が出た
薄らぐ意識の中で産科医が「救急車」って言うのが聞こえた
というすさまじい出産だったそうです。
3年前、闘病中の母に「出産の時は大変な思いをしたけれど
わかなを産んでよかった」と言ってもらえらえたのは
私にとって一生のたからものです。
若い時から自分の人生が長くない事を覚悟していた母は
私が結婚するのを見届けられないかもしれないというのが一番の心配事だったようで
ふゆきさんと付き合いだすやいなや、結婚をとんでもなく強引にすすめました。
交際から三ヶ月で結婚式場の打ち合わせ予約を勝手にとられ
そこで日取りを決めることになり、2002年21歳になったばかりの私
は交際からわずか五ヶ月で入籍という、スピード婚になったわけです。
でもあんなに結婚あせらなくても結局母はそれから10年後
心臓の病気ではなく、ガンが見つかってから1年半
まわりのみんなにきちんとお別れとありがとうを言って人生を終えたのです。
いつも母は「末っ子は親と過ごす時間が一番短いから」と言っては
私の事をかわいがってくれましたが、4人兄弟とその伴侶の中で唯一仕事をしていない私が
一番母と過ごすことになったように思います。
特に、体が弱ってからの母とはたくさんたくさん一緒の時間を過ごしました。
3年前の今日も最後のお誕生日おめでとうを言ってくれました。
私の母親が『自分が出産で死んでしまった時のリスク』を考える
普通の人ならきっと私は生まれていませんでした
でも、毎年たくさんの人に誕生日を祝ってもらえる幸せな人生をくれた事
両親には感謝のしようもありません。
毎年言ってますが、今日は本田宗一郎の誕生日でもあります
なんて運命的!!
※写真は以前にも紹介した
『誕生から三日後にLLCを注入された時』のものですww
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Posted at
2014/11/17 10:06:42