2007年3月――
東京、お台場に位置する、トヨタのショールーム『メガウェブ』にて、『トヨタミッドシップスポーツヒストリー展』と呼ばれるイベントが行われた。
そこでは、初代AW型MR2はもちろん、SW型MR2や、生産中止が決定されているZZW30型MR-Sまで。トヨタ・ミッドシップ・ランナバウト23年の歴史の中で登場した、数多くのMR2&MR-Sが並べられていた。
そんな中、1台の異様な風体のミッドシップ車が展示されていた。
AW型MR2を思わせるシルエット。しかし、AWとはかけ離れた、無骨で荒削りなそのボディ。これまで、衆目に触れることの無かったその車体は、多くのMR2ファンを驚かせた。
その車の名は『222D』。グループS仕様MR2。またはグループB仕様MR2とも呼ばれる、かつてトヨタがWRC制覇の切り札として開発を行っていた車輛である。AW型MR2をベースとし、ミッドシップレイアウトに大馬力のターボエンジンとフルタイム4WDシステムを搭載したレーシングマシンであった。
市販化も前提とされ、ほぼ完成にまで近づきながらも、遂には一般の目に触れることのなかった『222D』。それは、一体どのようなクルマであったのだろうか。
※画像は、、『トヨタミッドシップスポーツヒストリー展』に展示された、『222D』の11番目の試作車『222D-11』です。
~トヨタとWRC~
世界のありとあらゆる環境を駆け抜ける『ラリー』。
1973年には、その最高峰である『WCR』(当時の名称)が開催されるようになり、そこでは、世界中の自動車メーカーが、その技術力と威信をかけて、熾烈な闘いを繰り広げていた。
トヨタのラリー初参戦は、1968年のモンテカルロラリーであったと言われる。そして1975年のフィンランドラリー・通称『1000湖ラリー』において、TE27型カローラレビンで初優勝を飾ることとなった。
『連続する24ヶ月間に400台』というレギュレーションの中で行われる『グループ4』。その中で、その後のラリーの方向性を決定づける、様々な強力無比なマシンが生み出された。
フェラーリ・ディーノのエンジンをミッドシップレイアウトに搭載した『ランチア・ストラトス』。もはや反則級のスーパーカーであったストラトスは、1974年から1976年まで。3年連続でマニュファクチャラーズ・チャンピオンに輝いた。
そして、1981年には、アウディが、世界初のフルタイム4WD機構である『クワトロ・システム』を実装した『アウディ・クワトロ』を実戦投入。他のチーム、マシンを寄せ付けない、圧倒的な強さを見せつけた。
以降、ダートを中心に走行するラリーにおいて、『もはや4WDでなければ勝てない』という考えが常識となり、4WD技術の開発競争が始まったのである。
そして、マシンの変化と共に、ラリーの形態も姿を変えることになる。その一つが、今や伝説となった『グループB』である。
~グループB~
1981年。FIA(国際自動車連盟)の下部組織であったFISA(国際自動車スポーツ連盟)によって、それまでのグループ1 - 8規定を廃止し、1983年シーズンから新規定に移行することが発表される。
グループ1~8と複雑になっていた規定がグループN、A、B、C、D、E、F、Tに簡素化され、このうちラリー世界選手権はグループBが兼任することとなった。
グループBのレギュレーションは、大まかに言えば『連続した12ヶ月間に20台の競技用車両を含む200台を生産すればよい』というものであった。
これは、名目上はより幅広いメーカーの参戦をうながすものだったが、実際はより高性能なラリー専用車の製作が可能となったのである。
結果。この、グループBカテゴリーにおいて、それまでの常識では考えられなかったようなマシンが、次々に登場することになる。
『アウディ・クワトロA2』。『ルノー5ターボ』、『プジョー205ターボ16』、『ランチア・ラリー037』『ルノー5 マキシ・ターボ』。そして、悲劇のマシン・『ランチア・デルタS4』……
500馬力を超えるエンジンを搭載し、わずか2秒足らずで時速100kmに到達するその加速力は、もはやF1をも超える性能を持っていたと言われる。
そして、物々しいエアロパーツの数々で武装されたWRCマシンが、世界中の公道を疾走するその姿は、まさしく『モンスター』であった。
↓グループBの映像資料↓
~トヨタとグループB~
市販車ベースとは、もはや名ばかりのグループBにおいて。そしてWRCそのものにおいて、日本自動車メーカー達は、未だにマニュファクチャラーズ・チャンピオンを獲得すること適わなかった。
もちろん、日本初のマニュファクチャラーズ・チャンピオン獲得を目指して、日本勢も鎬を削り合っていた。そして、トヨタもその例外ではなかったのである。
しかし、世界の自動車メーカーは、いずれも、ミッドシップ・リアドライブ方式や、4WD方式を採用するマシンばかりであり、挙句の果てには、『プジョー205ターボ16』のように、その二つを組み合わせた『化け物』までもがラリーを席巻することになっていた。
それらは市販車の域を大きく超えた『シルエット・フォーミュラ』のレーシングマシンであった。もはや、市販車に改造を加えた程度のマシンでは太刀打ちできなかったのである。
トヨタは、熾烈化するグループB制覇において、2段構えの戦略に出る。
まず、フェイズ1として、A60型セリカをベースとした『セリカ・ツインカムターボ』と投入。そして、フェイズ2として、日本初のミッドシップ車であるAW型MR2をベースとし、ミッドシップレイアウトに4WD機構を兼ね備えた、モンスターマシンの建造が計画されたのである。そのフェイズ2のマシンこそ、後の『222D』である。
フェイズ1の『セリカ・ツインカムターボ』とは、市販のFR車であるセリカに、わずか0.5mmのボアアップを施し、リアサスペンションを独立を4リンクリジッド化。フロントフェンダーをプラスチック化しただけのマシンであった。
それでもトヨタ社内における反発は酷く、ホモロゲーション用に、上記程度の改造を施しただけのマシンを200台生産しようとするだけで、社内中から迷惑がられたと言う。
グループBセリカの指揮を執っていた早田猛技師などは、セリカ計画を推進した為にエンジニアの道を断たれ、子会社に出向する羽目にもなってしまった。
しかしながらも、セリカ・ツインカムターボは、1984年、1985年のサファリラリーで2年連続優勝を果たす。
そんな逆風と期待の交錯する中、グループB仕様MR2『222D』の計画がスタートしたのである……
(その3に続く……と思う)
参考文献:
・「Racing on」2004年8月号/ニューズ出版
・「Racing on WRC 2001 VOL.3」/ニューズ出版
・「トヨタテクニカルレビュー」Vol.47/オーム社
・「ベストカー」号数不明(グループS仕様AWとMID4の記事について)/三推社
・「J's ネオ・ヒストリックArchives『TOYOTA MR2&MR-S』」/ネコ・パブリッシング
・「ハイパーレブ Vol.21 トヨタMR2」/ニューズ出版
・「ハイパーレブ Vol.50 トヨタMR2 No.2」/ニューズ出版
参考サイト:
・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
・「TOYOTA MR2 CLUB JAPAN」
http://homepage3.nifty.com/midship/
・「MR2ちゃんねる」
http://mr2.jp/
・「ダイエーモータース」
http://www.daie-motors.com/
その他。MR2の歴史に関連する霧島のブログ:
・
備忘録 01 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その1
・
備忘録 02 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その2
・
備忘録 03 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その3
・
備忘録 04 「SV-3」 ~トヨタ・プロトタイプMR2開発秘話~ その4(最終回)
・
備忘録 05 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その1
・
備忘録 06 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その2
・
備忘録 07 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その3
・
備忘録 08 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その4
・
備忘録 09 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その5
・
備忘録 10 「SW20」 ~2代目MR2の登場~ その6(最終回)
・
備忘録 11 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その1 ~はじめに~
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おめでとう! MR2(SW20)発売20周年!!