『ミッドシップレイアウト』と、『フルタイム4WDシステム』。
これらはいずれも、スポーツカーの理想とも呼べるものである。そして実際、モータースポーツの最高峰であるF1(Fomura 1)ではミッドシップレイアウトが。また、市販車を使用したレースの最高峰とも言えるWRC(World Rally Championship)では、4WDシステムの採用が常識となっている。
ならば、この2つを組み合わせることが出来たなら、最高のスポーツカーが生まれるのではないか。少しでもモータースポーツに造詣のある者ならば、誰もが考えることである。
そして実際。1980年代中頃において開催されていた『グループB』カテゴリーのWRCでは、ミッドシップ4WDのモンスターマシンが世界を席巻していた。
現在ではレギュレーションの関係上、そう言ったマシンが登場することは稀ではあるが、しかしながら現在でも、ランボルギーニ・ディアブロ、ガヤルド、ムルシエラゴ。ブガッティ・ヴェイロン、EB110。アウディR8。などの、極めて高価、かつ極めて高性能の、いわゆる『スーパーカー』に、その組み合わせが採用されることがある。
では、日本車ではどうか。
日本にも、三菱の『ミッドシップ・スタリオン4WD』や、いすゞの『COAⅢ』などのように、構想のみで終わった車輛やモーターショーのコンセプトカーとして登場した、『ミッドシップレイアウト』+『フルタイム4WDシステム』を組み合わせたマシンがいくつか存在した。
そしてそんな中でも、トヨタが開発を行っていた『グループB仕様MR2・222D』。そして日産が開発を行っていた『MID4』。この2台はどちらもが、開発中止の憂き目を見ることとなったことはもはや周知の事実ではあるが、どちらも市販化が期待され、そして実際には市販に至る直前にまで開発が進んでいたマシンである。
『幻の日本発・ミッドシップ4WD』。今回は、日産が開発した『MID4』。これの歴史を探ってみたい。
~日本初ミッドシップ・MR2と、日産~
1984年6月4日。日本車初の市販ミッドシップ車『AW10/11型MR2』が遂に発売された。
MR2は、それまで高級スポーツカーの代名詞であったミッドシップレイアウトを、自社のFF車であるAE82型カローラのコンポーネンツを流用し、安価に仕上げ、多くの人々にミッドシップを楽しむことを可能とした画期的なクルマであった。
ミッドシップを大衆にとって身近なものとしたMR2の存在はもちろん。そのあまりの慎重な姿勢故に、『石橋を叩いた上に渡らない』とまで言われていたトヨタがこのようなクルマを発売したこともまた、同時に世間を非常に驚かせたのである。
当時のモータースポーツの雄と言えば、ロータリーエンジンの実用化に世界で唯一成功したマツダ。その卓越したレシプロエンジン技術から、フォーミュラカーレースで名を馳せていたホンダ。そして、スカイラインやフェアレディZと言った、多くの人々の羨望の的となった名車の数々を送り出していた日産であった。
そんな中にあってトヨタは、WRCにセリカで参戦していたものの、決してモータースポーツの世界では名のあるメーカーでは無かった。
そんなトヨタが、MR2を発売した当時。日産の開発スタッフは、以下のように発言したと言う。
『トヨタのMR2って、ミッドシップカーとしては中途半端な存在のクルマですね。走り優先とは言えないし、実用的とも言えないし。デザイン的には相当ハイレベルだけど』
『うちがミッドシップカーを開発するとしたら、2人乗りの本格的なスポーツカーを作りますよ。フェアレディ以上のすごいヤツを……』
……この発言をどう解釈するかは人ぞれそれであろう。しかしながら日産が、スポーツカー作りに関しては、かなりの自信を持っていたのは確かなようである。
そして実際、この発言が行われた裏で。日産は、ある一台のマシンの開発を行っていたのである。それこそが、幻のミッドシップ4WD=『MID4』であった。
~MID4と、"Mr.スカイライン"~
『MID4』の開発企画が持ち上がったのは1984年の2月頃であったと言う。
ちなみに1984年の2月と言えば、アメリカでは、FF車の技術を応用したミッドシップ車である『ポンティアック・フィエロ』が大成功を収め、日本ではトヨタがMR2の開発と、そしてそれをベースとしたグループB車輛『222D』を目下、開発中の時期であった。
そして、その『MID4』の企画を立ち上げた人物。それはなんと、日産自動車・商品開発室の桜井眞一郎であった。
桜井眞一郎。この名を知らない自動車ファンは、まず居ないであろう。桜井技師と言えば、日産の名車中の名車であるスカイライン。これの初代から開発に携わり、2代目から7代目までの開発主管を務め、スカイラインの黄金時代を作り上げ、また、『スカイライン』と命名した人物その人でもある。
スカイラインはもちろん、『R380』『R381』『R382』と言ったレーシングカーを手掛けた桜井技師は、『ニューマンスカイライン』や『鉄仮面』と呼ばれることになるR30型スカイラインを1981年8月に送り出した後、スカイライン開発者としては、表舞台に登場することが徐々に少なくなっていっていた。
しかし桜井技師はその裏で、『MID4』という、既存の概念を全く打ち破るかのようなマシンの開発に取り組んでいたのである。
そのMID4とは何であるのか。桜井技師が語った言葉に、下記のようなものがある。
『自然界のものに謙虚に学ぶという姿勢で、たとえばサラブレッドの走る姿なんか観察していますと、加速するのにも前脚が重要な役割を受け持っているし、カーブを曲がるにも、腰から後脚の微妙なコントロールが見逃せません。4WDもHICASも、そういうものを機械でなんとか再現したいという、あらわれなんです』
すなわち、これがMID4の開発コンセプトなのであり、桜井技師のこの考えを具現化、体現したものが『MID4』というクルマなのである。
そして、桜井技師の『MID4』開発は、あくまでも桜井技師の主管としての裁量の範囲内で行われたものであり、日産自動車上層部からの指示の元に企画がスタートしたものでは無かった。
つまり、『MID4』はトヨタの『MR2』や『222D』とは違い、当初は市販化を前提としたクルマでは無かったのである。
※度々、『MID4』は当時開催されていたWRC『グループB』、ないし『グループS』参戦を目指して開発されていたマシンだと語られることがありますが、それが間違いであることが分かります。なぜならWRC参戦の為には、『ホモローゲーションの取得』。つまり、市販車であることが絶対の条件となるからです。市販化が前提とされていない時点で、WRCの参戦車輛とは成り得ないのです。
桜井技師の胸中には、このような考えもあった。
『MID4を担当した連中は、命令でやらされたんじゃなく、好きでとびこんできたのばかりです。うちのような大会社になると、分業化が進んでしまって、たとえばステアリング担当だと、いろいろな車のステアリングばかり設計して、その分野ではたいへんなプロになってしまうんだが、自動車全体を見る目が養いにくいという悩みもあります。まず、自動車屋があって、その上でのサス屋とかブレーキ屋ということでありたいですね。MID4は、そういうやりかたで力を出し合ったので、これが次代のひとたちの活性化に役立てばという願いもあるんです』
次世代の技術の開発と、時代を担う若手の育成。それが『MID4』に与えられた使命であり、そしてそれは、それこそがコンセプトカーの真髄といえるものであった。
そして、『MID4』について、桜井技師はこのように語った。
『スポーツカーにするつもりはありません。車を上手に乗りこなす楽しみもあるでしょうが、何も努力しなくてもプロと同じぐらい上手に速く走れてしまう。そんな歓びを目指したいと思います。腕ききのマニアにはつまらない車になるかもしれません』
時に、桜井眞一郎、54歳。
日経平均株価が初めて10,000円の大台を突破し、日本経済が絶頂へとひた向かっていくその時代。
『Mr.スカイライン』と呼ばれ、日産とスカイラインの黄金時代を築き上げた男の熱い想いと情熱を受け、『MID4』の開発は始まったのである――
(第2回に続く、と信じたい……)
参考文献:
・「ベストカー」号数不明(グループS仕様AWとMID4の記事について)/三推社
・「driver」1985年10月20日号/八重洲出版
・「CG CAR GRAFFIC」1985年12月号/二玄社
・「CG CAR GRAFFIC」1987年12月号/二玄社
参考サイト:
・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
その他。MID4の歴史に関連する(かもしれない)霧島のブログ:
・
備忘録 11 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その1 ~はじめに~
・
備忘録 12 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その2 ~トヨタ・222D 第1回~
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備忘録 13 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その3 ~トヨタ・222D 第2回~
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備忘録 14 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その4 ~トヨタ・222D 第3回~
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備忘録 15 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その5 ~トヨタ・222D 第4回(終)~