
ミッドシップレイアウト+フルタイム4WDシステム。
日本では例の少ないこの組み合わせに挑戦した「日産・MID4」。MID4はあくまでも、「技術の日産」と、その復興。そして、次世代の技術の開発と、時代を担う若手の育成を目的とした、あくまでも「コンセプトカー」であり、「テストカー」に過ぎなかった。
しかしながら、1985年。衆目の前に発表されたMID4は、その完成度の高さから、市販化を強く希望され、期待されるようになった。
はじめは「あくまでもコンセプトカー」として市販化は行わない方針で開発を行っていた日産自動車も、その声に押されるかのようにMID4の市販化と量産化への道を模索し始めたのだった。
~MID4-Ⅱの開発~
1985年のフランクフルト・モーターショー。そして追浜で行われた試乗会。それらでの評判を受けて、日産はMID4の量産化・市販化に向けて、新たな開発を開始した。
1985年9月のMID4発売直後。シャシー設計部に在籍していた中安美貴は、MID4開発主管を務めていた桜井眞一郎から呼び出され、量産化を前提としたMID4の開発を打診される。中安技師はそれを引き受け、次なるMID4の開発がスタートすることとなった。それが後に「MID4-Ⅱ」と呼ばれるクルマであった。
桜井技師は、「スポーツカーにするつもりは無い。どんな人が乗っても、どんな腕前でも。何も努力しなくてもプロと同じぐらい上手に速く走れてしまう、腕の振るいようの無いクルマ」をコンセプトとしてMID4の開発を進めていた。
しかし、中安技師の中には、これとは全く違った思いと考えがあった。
「プロゴルファーのクラブをアマチュアが使いこなせないように、スポーツカーも使い手によって性能を発揮するクルマであるべきで、万人向けにする必要は無いのではないか。と言って、クルマの挙動を全て電子制御させるのも面白くない。高速直進時の外乱などに対しても反応出来るドライバーの為のクルマ。MID4-Ⅱはそういうスポーツカーにしたかった」
※これは、桜井技師の思い描いたMID4とは全くコンセプトを真逆にするものでした。桜井技師の考えるコンセプトは、トヨタの「スポーツカー」のコンセプトと通じるものが大いにあります。
トヨタのMR2やスープラは、敢えて可能な限りマニアックな操縦性を排し、スポーツ志向に振り切らないその姿勢について、批判を受けることも度々あります。
果たして、桜井技師と中安技師。どちらの考えが正解であったのか、そして間違いであったのかは、今となってはわかりません……
ドライブフィールの手本となったのはランボルギーニ・ミウラ。「乗り心地は良くないのに運転しやすい」「240~250km/hでも安心して走れるリアルスポーツカー」。そんな「スポーツカー」を目指し、MID4-Ⅱの開発は始まったのである。
MID4-Ⅱには300psのパワーが必須条件。こう考えた中安技師は、中央研究所の門を叩き、VG30DEをベースとしたターボエンジンの開発を取り付ける。
そして、出力の増強に伴い、トランスミッションはブルーバード・マキシマ用のものから、31型フェアレディZ用のものに変更。それに合わせて、エンジンはⅠの横置きから縦置きへと変更されることとなった。
サスペンションは、当初は4輪ダブルウィッシュボーンを計画していたが、中央研究所からの提案により、後輪にマルチリンク式を採用。
操舵システムには「クルマの動きを予測してコンマ何秒か前にステアする」という、通常のHICASとは違うシステムが搭載予定であった。このシステムについて中安技師は「素晴らしかった。この主のクルマは過渡特性が非常に重要なのですが、乱暴に車線変更してもピタリと決まる」と、大いに評価していた。
しかし、中安技師はこのMID4-Ⅱが試作に入る前に吉原工場へと異動となり、その後はレース部門出身の野口隆彌技師が受け継ぐことになった。
~MID4-Ⅱの登場~
1987年の東京モーターショーにて、MID4-Ⅱは華々しくデビューを飾る。そのMID4-Ⅱの主要還元は、下記のようなものであった。カッコ内は「MID4-Ⅰ」の数値。
全長×全幅×全高:4,300mm×1,860mm×1,200mm (←4,150mm×1,770mm×1,200mm)
ホイールベース:2,540mm (←2,435mm)
ホイールトレッド前/後:1,545mm×1,550mm (←1,470mm×1,540mm)
重量:1,400kg (←1,230kg)
重量配分 前/後:40/60
エンジン:VG30DET TE-C型(縦置き) (←VG30E型(横置き))
エンジン形式:水冷式 60度V6 ツインターボ+空冷インタークーラー (←水冷式 60度V6 自然吸気)
排気量:2960cc
ボア×ストローク:87mm×83mm
圧縮比:8.5:1 (←10:1)
燃料供給:電子制御燃料噴射
最大出力:330ps(6800rpm) (←230ps(6000rpm))
最大トルク:39.0kg/m(3200rpm) (←28.5kg/m(4000rpm))
冷却系:サイドマウント式ラジエーター (←フロントマウント式ラジエーター)
ステアリング:ラック&ピニオン式 パワーステアリング搭載 HICAS
変速機:5速MT(フェアレディZ用) (←5速MT(ブルーバード・マキシマ用))
クラッチ:ツインディスク (←シングルディスク)
駆動方式:フルタイム4WD(ファーガソン式センターデフ搭載)
サスペンション(フロント):ダブルウィッシュボーン (←独立マクファーソン・ストラット)
サスペンション(リア):マルチリンク (←独立超ワイドスペース・ダイアゴナルAアーム)
ブレーキ:前後ベンチレーテッド・ディスク+サーボABS (←ABS無し)
タイヤ:前235/55ZR16 後255/50ZR16 (前後205/60VR15)
大幅に拡幅されたボディとホイールベース・トレッド。構造はⅠと同じくスチールとアルミ。GFRP(カーボンプラスチック)を組み合わせて作られている。
フェラーリ然としたデザインが否めない「MID4-Ⅰ」からデザインは一新され、ウェッジスタイルの効いたスタイリッシュなデザインへと変更された。大きな非難を浴びたⅠのデザインと異なり、前澤義雄氏は、「いつ市販に移されてもいい形として作っている」と自信を見せている。
最大の変更点は、縦置きとなり、ターボ化されたエンジン。縦置きこそがミッドシップの理想とよばれるが、MID4の場合、あくまでもトランスミッションの形式に合わせて縦置きにせざるを得なかった、と言うのが真実である。
フロントサスペンションは、ドライブシャフトを避けるためにツインダンパーとなっているのが目に止まる。ただ、操舵システムに関しては、中安技師の思惑とは異なり、通常のHICASが採用されてしまうこととなり、中安技師を愕然とさせた。
~MID4-Ⅱの評価と、その行方~
このMID4-ⅡにあってもⅠと同様に試乗会が行われた。MID4-Ⅱの走行性能は、日産社内で行われた仮想ライバルカーと比較しても、それらを凌ぐ走りをみせたという。
しかしながら、「スポーツカー」志向に振られたMID4-Ⅱはまだまだ未完成な領域もあったようで、1987年12月の「カーグラフィック」においては、
「ハンドリングという意味での足回りはまだかなり荒削りである」
「直進状態でも路面の僅かな不整を拾って割とチョロチョロしがち」
「ブレーキングではバランスが完璧に取れていない」
「高速からのフルブレーキでは瞬間的に左右へ振られ、肝を冷やした」
「何ラップかすると、かすかにフェードによる異臭が漂ってくる」
などの欠点が挙げられている。しかしながら、高速コーナリングにおいても基本的にはごくニュートラルに近いものがあり、全体的には完成度を深めなければならないのも明らかだが、今後に期待する所は大きい、と記されている。
これらについて、野口主管は、
「我々も開発段階で様々なヨーロッパ車に乗るが、いまだに関心させられるのは車の基本的な部分で実にしっかり作ってあることだ。例えば911だが、第一印象はすべての操作が重く、固いというマイナス的なイメージが支配しがちでも、ある程度走ってみると基本部分の優秀さが本当に分かって来る。まだまだ勉強すべき点は多い。エレクトロニクスやハイテクはその上での話だと思っている。そうした基本をきちんと押さえ、さらにMID4らしさとか、MID4ならではのものを付加したい」
と、謙虚な姿勢を示した。
また、中安技師は、
「モーターショーへの出品というタイムリミットがあって、ほとんど実験する時間もなかったですし、あのまま市販していたらオーバーヒートやベーパーロックが起きたかもしれません」
と語った。
ボディデザインを担当した前澤義雄氏は、当時の日産自動車社長である久米豊から「絶対に発売するぞ」と、一度ならず話しかけられたと言う。
しかしその頃。主要マーケットとなる北米では、生産者責任追及の厳しさが増し、それに対する完璧な実験確認が求められるようになっていた。
そして日産自動車にそこまでの余力は無く、MID4の市販化計画は暗礁に乗り上げる。また、仮に実験を行い、市販化に持ち込んだ場合の車輛販売価格の試算も行われた。
その金額は、1台あたり2500万円――
2千5百万円。この金額ですら、赤字ギリギリのラインであったと言う。
日産自動車は、ポルシェやフェラーリ、ランボルギーニではない。あくまでも「乗用車」のメーカーである日産がそのようなエクスクルーシヴ極まる「スーパーカー」を発売したとしても、販売台数が見込めるはずもなかった。
……結果、市販化は中止。MID4は市販化を目前とし、周囲からの大きな期待を集めながらも、その道を断たれ、歴史の中に埋もれて消えて行った――
※MID4は、コンセプトカーとしては異例ながら、各地のイベント等にも度々貸し出され、IMSAへの参加も想定したIMSA仕様のカラーリングを施した「MID4-IMASA」が製作されたり、WECジャパン1985でペースカーを務めたりもしました。
現在、何台のMID4が現存しているのかは不明だが、「MID4-Ⅱ」が日産自動車 座間工場跡地にある記念庫に保管されているのは確実のようです。
最後まで、大衆の目に晒されることのほとんどなかったトヨタ・222Dのことを考えれば、MID4にはまだ救いがあったのかもしれません、。
~MID-4の遺したモノ~
MID4の発売が想定されていた1990年。一台のクルマが世界に送り出された。
その名はホンダ・NSX。日本初の「スーパーカー」として登場したNSXは、ミッドシップレイアウトにアルミモノコックボディを組み合わせ、その性能と完成度から、世界中から非常に高い評価を受けることとなった。
もしも。もしもMID4の市販化が実現していたとしたら、その地位は日産と、そしてMID4のモノになっていたかもしれない――。それを思うとMID4開発陣は「悔しかった」と後に語る。
しかし、NSXに先駆ける1989年。日産自動車jは2台のスポーツカーを世に送り出していた。
1台は「Z32型フェアレディZ」。そしてもう1台は、16年振りに復活を遂げた「BNR32型 スカイラインGT-R」であった。
32型フェアレディZには、MID4に搭載されたVG30DETT型をデチューンしたエンジンが搭載され、国産車として初めて280psを達成。トルクにおいても現代の最新スポーツカーをも上回るパワーを発揮し、いわゆる「280馬力規制」を生みだすまでになった。
32型 スカイラインGT-Rについては語るまでも無いだろう。「RB26DETT」という国産史上最高傑作とも言える強力無比なエンジンを搭載し、そしてその足回りには、電子制御で前後のトルク配分を自在に可変させ、常に最適なトルク配分で走行することを可能とする4WDシステム=「アテーサET-S」が搭載されていた。その走行性能はまさに最強。日本のモータースポーツ界をまたたく間に席巻、震撼させた。
32型フェアレディZのエンジン。そして32型スカイラインGT-R。メーター周りのデザインとステアリング形状は、偶然か必然か、MID4-Ⅱと良く似たデザインとなっている。そしてまた、その根幹をなすエンジン、そして駆動系の開発には、MID4の開発で培われた技術と知識の蓄積がその背景にあることは容易に想像可能である。
MID4とは何であったのか。それについて中安技師は次のように語る。
「初めてのコンセプトのクルマに対しては、もっと謙虚であるべきだったと思います。性急にことを運ぶのではなく、あと1年じっくり熟成すればいいクルマになったと思いますよ。それでもMID4に関わった若い人たちは元気でしたね。MID4で苦労した現象がその後に解決したこともあったはずで、教材としてのMID4はやはり大きな価値があったと思いますよ」
MID4。新技術の開発と、次世代技術者の育成を目的として、その開発は始まった。
バブル経済の中にあっても、その存在は輝かしく、多くの者がその光に魅せられ、虜となり、夢中になった。
MID4。遂に時代の表舞台に立つことの無かった幻のクルマ――。しかしならも、コンセプトカーとしての役割を十二分過ぎるほど全うし、その駆け抜けた軌跡は、今も間違いなく続いており、そしてこれからも続いて行くのである。
~エピローグ。幻のMID4-「Ⅲ」。そして日産とミッドシップ~
MID4の発売が白紙となって月日の過ぎた1990年(平成2年)、8月――
驚くべきスクープが「ニューモデルマガジンX」9月号に掲載された。
それは何と、発売中止に伴い、プロジェクトも解散されたと思われていた「MID4」のテストが、今なお継続されているというのである。
そして、1989(平成元年)の「ニューモデルマガジンX」5月号には、「フェラーリを超える!」のスローガンの元、3代目MID4の開発が進められている、との「噂」が掲載されていはいたものの、その実物は未だに闇の中であった。

これが、ニューモデルマガジンXがスナイプに成功したMID4の後継・通称=「MID4-Ⅲ」である。
エアダクトを大きく取ったフロントバンパー。
エアスクープが追加されたフロントボンネット。
リトラクタブル・ヘッドライトはプロジェクタータイプに変更。
リアデザインはフロント以上の変更が成され、NSXと同じくボディ一体型のリアスポイラーが設置。
そして、これもまたNSXと同じくCピラーと面一化されたリアウィンドウは、空力の上で理想の形であり、国産初のミッドシップであるMR2と、そしてMID4-Ⅰ、Ⅱもが遂になし得なかったデザインである。
遠景からの作業風景もスクープされ、そこからはV6エンジンが縦置きされていることが確認出来る。
本来、テストカーは存在すら秘匿されるものである。しかしながらこの謎のマシンについて、日産自動車はその存在を認め、「高速走行でのクルマの挙動やハンドリング性能をチェックする為の車輛である」とコメントしている。
また、関係者筋の話では、VG型ではない次世代のV6ユニットとなる3.5リッターV型6気筒DOHC24バルブエンジンを縦置きに搭載され、400ps以上のパワーを発揮し、オーバー300km/hで走行。ポルシェ959やフェラーリF40以上の強烈な加速を実現していると言う。
なお、この「ニューMID4」は、1989年の東京モーターショーにて、1/5のクレイモデルがひっそりと展示されていたそうである。
「必ず市販はある」。そうニューモデルマガジンXでは断言が成されている。だがしかし、その後もMID4が発売される様子は見当たらない。
それに関して、ニューモデルマガジンXの編集長を務めた経歴もある牧野茂雄氏が日産自動車のエンジニアたちに取材した中で、興味深い発言が見て取れる。かなり長い文章ではあるが、その要点だけをまとめてみると、以下の様になる
「日産が自動車の運動性を設計する上で基本においている点は『誰が乗っても』『どんな時でも』『どんな道でも』。動き始めた瞬間から、街中でも、郊外のワインディングでも、高速道路でも、たとえ雨天であっても、ドライバーの意のままに走り、すべての同乗者も含めて気持ち良さを実感できるということだ。
運動性能を高めるためには『エンジンパワーに見合ったタイヤ摩擦円を与えること』『とくに駆動輪に十分な荷重を与えること』『4つのタイヤを正しく保持すること』の3点が重要になり、これはFFでもFRでもMRでも変わらない。
車輛運動性能にとって駆動輪のタイヤ荷重は重要な要素なのだが、後輪駆動車の後輪荷重をいたずらに高めることはマイナスをもたらす。グリップ領域での安心と、それを超えてしまった時の安全を考える時、必ずしも量産スポーツカーにMR方式のメリットがあるとは言い切れない。
MRレイアウトを選び、いざという時はスタビリティコントロールでドライバーの運転操作に介入するという手もあるが、スピンモードに入り易いMRではその介入も早めに行う必要がある。敢えてMRを選択する意味は薄れる」
つまり、
「市販ロードカーの運動性追求なら、もはやミッドシップレイアウトは要らない」
これこそが現在の日産自動車の考え方なのである。
F1に見られるように、MRはレーシングカーの理想である。しかし、市販ロードゴーイングカーにおいては、リスクを伴ってでも限界性能を少しでも少しでも高めるよりも、若干限界性能を落としてでもドライバビリティとコントロール性を高めた方が『結果的に』速く走れる。これは、MRの代表であるSW20型MR2はもちろん、日産のスカイラインにおいても、同じような歴史と評価が実はあったのである。
そして、そのコンセプトを徹底追及したマシンこそが35型『GT-R』なのである。
……だが、これはあくまでもMR。つまり2輪駆動でのミッドシップの話である。MID4は、ミッドシップレイアウトにAWDシステムを組み合わせたマシンであり、ピーキーなMRとは比べ物にならない操縦安定性を誇っているハズなのである。
昔ほど、ニューモデルマガジンXも過激なスクープを狙うことはなくなってしまっている。つまりは、まだまだ知られざるテストカーが存在している可能性も十二分にあるのである。
『MID4』……最後の目撃から20年。今もどこかで、そのテストが繰り返されているのかもしれない――
(「備忘録 『幻の日本発・ミッドシップ4WD 日産・MID4』はとりあえず、これで終わりです。こんな長ったらしいブログをきっちり読んでくださってコメントまで下さった方、色々な情報をお教え下さった方、貴重な資料を貸与して下さった方。そしてこれをお読みいただい方、本当にありがとうございました)
参考文献:
・「ベストカー」号数不明(グループS仕様AWとMID4の記事について)/三推社
・「driver」1985年10月20日号/八重洲出版
・「CG CAR GRAFFIC」1985年12月号/二玄社
・「CG CAR GRAFFIC」1987年12月号/二玄社
・「ニューモデルマガジンX」1989年5月号/三栄書房
・「ニューモデルマガジンX」1990年9月号/三栄書房
・「オプション」2007年2月号/三栄書房
・「J's Tipo」1998年5月号/ネコ・パブリッシング
・「モーターファン別冊 illustrated Volume32 特集 ミッドシップ 理論と現実」/三栄書房
参考サイト:
・「ウィキペディア」
http://ja.wikipedia.org/wiki/
その他。MID4の歴史に関連する(かもしれない)霧島のブログ:
・
備忘録 11 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その1 ~はじめに~
・
備忘録 12 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その2 ~トヨタ・222D 第1回~
・
備忘録 13 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その3 ~トヨタ・222D 第2回~
・
備忘録 14 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その4 ~トヨタ・222D 第3回~
・
備忘録 15 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その5 ~トヨタ・222D 第4回(終)~
・
備忘録 16 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その6 ~日産・MID4 第1回~
・
備忘録 17 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その7 ~日産・MID4 第2回~
・
備忘録 18 「幻の日本発・ミッドシップ4WD」 その8 ~日産・MID4 第3回~
スペシャルサンクス:
・アルティマ♪氏(資料提供)