6/17 高野山観光の続きとなります。
金剛峯寺に続いて
向かったのはこちら
徳川家霊台
東の日光東照宮、西の高野山徳川家霊台。
1643年(寛永20年)に徳川3代将軍・家光によって建てられた霊舎で、向かって右側が初代将軍・家康、左側に二代将軍・秀忠が祀られています。江戸時代の代表的な霊廟建築で重要文化財です。
家康霊舎前にのみ鳥居が建つのは、家康が東照大権現という神として祀られている証。
右側
東照宮家康公 霊舎(おたまや)
2棟はほぼ同じ作りだが、家康霊舎の向拝の蟇股(かえるまた)には虎の彫刻がある。家康が1543年(天文11年)の寅年生まれにちなむ。
その虎の両脇には、王が仁政を行うと現れる霊獣とされる麒麟が彫刻され、家康を称えている。
左側
台徳院秀忠公 霊舎
秀忠霊舎には兎の彫刻がある。秀忠が1579年(天正7年)の卯年生まれであることにちなむ。また兎の両脇に虎が彫刻されているが、これは秀忠が家康に見守られた正当な後継者であることを称えている。
入口のところまで戻り
社務所にて御朱印を頂きました。
次に目指すは高野山で一番訪れたかった奥の院へ♪
金剛峯寺第二駐車場へ戻る道中
麩善へ立ち寄りました♪
生麩好きの嫁さん楽しみにしてました。
高野山名物 笹巻あんぷ
お土産に買おうとしたら日持ちしないとの事で
冷凍パックを買って宅配便で自宅に送りました。
その場で食べる分を別に買いクルマまで戻って食べました。
こしあんは甘すぎず生麩はぷるぷるもちもちしていて美味しかったです♪
看板の右上のエリア 弘法大師御廟
壇上伽藍とともに高野山の信仰の中心であり、弘法大師が入定(にゅうじょう)されている神聖な場所。また一の橋から御廟まで約2キロメートルの参道には、おおよそ20万基を超える諸大名の墓石や、祈念碑、慰霊碑の数々が、樹齢千年に及ぶ杉木立の中に立ち並んでいます。
高野山奥之院の正式参拝は一の橋からスタート。
一の橋は奥之院の入り口となる橋で正式には大渡橋または大橋といいます。
御廟までの道のりには3つの橋がありますが高野山を流れる御殿川(おどがわ)にかかる一の橋は最も大きい橋です。
墓碑には、徳川家や豊臣家、上杉謙信、織田信長、石田三成といった誰もが知るような歴史上の人物のものが多数。また、奥之院参道沿いには墓碑以外にも、お地蔵さまや弘法大師が休憩したという腰かけ石、句碑や文学碑などあります。
奥州 仙台 伊達家 墓所
伊達政宗 墓所は腰かけ石の近くにあります。
司馬遼太郎文学碑
平成20年(2008年)9月建立。
司馬遼太郎さんのエッセイ『歴史の舞台−文明のさまざま』収録の「高野山管見(こうやさんかんけん)」の冒頭部分が刻まれています。
武田信玄・勝頼 墓所
武田信玄とその息子、武田勝頼の墓所
石門の奥に並んでいる苔むした2つの墓です。
左の大きいほうが信玄、右の小さい方が勝頼の供養塔です。
武田信玄のほうは最初に3回忌のときに建てられたそうです。
中の橋
この橋をわたるとすぐ、汗かき地蔵と姿見の井戸があります。
汗かき地蔵
世の中の人の苦しみを引き受けているので、いつも汗をかいていると言い伝えられるお地蔵様。
姿見の井戸
井戸の底の水面に自分の姿が映らなければ3年以内に死ぬという言い伝えがあります。
根性がなく覗けませんでした… (^^;
パナソニック 墓所
株式会社として建てられた企業墓としては記録上最も古いのがこのパナソニック墓所だそうです。毎年9月秋の彼岸のうち1日を選んで、高野山西禅院本堂において過去1年間の物故従業員の合祀祭と慰霊法要を挙行しており、高野山の方角を向いて全社員が正午に1分間の黙とうを行います。チャンスがあれば一度現地を訪れたいと思っていましたので必死で探しました。そして思いが叶い感無量でした。
2008年4月松下電器からパナソニックに社名変更されて1日で石塔もパナソニックに変わったそうです。「松下電器墓所」の社名の碑は現在も残っています。
私が尊敬する経営の神様 松下幸之助創業者45歳。
以下創業者
創業者は大正15年に山本武信氏の招待で高野山に参詣して以来、心引かれるものを感じいつかこの霊域に物故従業員の慰霊塔と先祖の墓碑を建てたいと考えるようになりました。昭和11年春、五代五兵衛翁と一緒に高野山に参詣した時、翁は創業者に墓所建立を勧めた。創業者がかねての思いを話すと、翁は喜び自ら墓地を物色し奥の院参道、中の橋に近い幽明の地を選定してくれたそうです。
こうして、昭和11年6月に起工供養、昭和13年9月21日に、西禅院院主導師のもと慰霊塔の開眼法要が営まれました。
弘法大師御廟へと続く参道。
聖域にふさわしい幽寂な雰囲気で
参道の両側には樹齢数百年の杉の木がそびえています。
化粧地蔵
このお地蔵様に化粧をするとご利益があるとのことで
嫁さんも口紅を重ね塗りしてました。
何をお願いしたのかは?内緒♪
豊臣家 墓所
秀吉の墓は中央の大きいもので、1940年(昭和15年)に奉公会という秀吉を信奉する人々が建てた新しいもの。墓の中には、秀吉の衣冠束帯(正装した姿)の木造がおさめられているという言い伝えがあります。
前面にあるのは、一族の墓です。
織田信長 墓所・筒井順慶 墓所
織田信長に仕えた筒井順慶 隣同士になっています。
ちなみに信長の墓所は全国に20箇所以上もあるそうです。
御廟橋(ごびょうばし)
御廟の少し手前にある橋
弘法大師がこの橋まで参拝者を出迎えに来てくれているそうですので、合掌、一礼してから橋を渡ります。橋を構成する36枚の板の裏には梵字が刻まれているとのこと。最も重要な聖域ですので、ここより先は撮影禁止。テレビ取材も滅多に許可されていないそうです。
ということで
これより先の画像はwebより拝借いたしました。
弥勒石(みろくいし)
御廟橋を渡ってすぐ左側の方にある祠に納められた石。
祠には片手が入る小さな穴があり、触れると弥勒菩薩の御利益があるという。
さらに持ちあげると願いが叶うと云われている。
善人には軽く悪人には重く感じられる石とのことです。
この名をつけた饅頭がみやげとして売られているので買って帰りました。
燈籠堂
石段を登った先にある大きな建物。
空海の甥が建立。その後、藤原道長によって現在の大きさになったとのこと。
現在の建物は1965年(昭和40年)に建造。
燈籠堂には奉納された2万以上の灯篭があります。
お札、お守りなどは、ここで買うことができます。
燈籠堂の地下には、奉納された5万体もの小さな弘法大師像が並んでいるそうです。コロナの関係で入る事は出来ませんでした。
燈籠の明かりのみですが何か神々しくめちゃくちゃ奇麗って印象でした。
厳かな気持ちになります。
弘法大師御廟
webにも掲載されていないのでマップイラストでも♪
訪れた人のみが感じられる空間です。
燈籠堂の裏手にあります。
御廟の中に入ることはできませんので、その前で多くの人がお祈りをしています。
弘法大師は、御廟の地下で今も瞑想を続けています。
御廟に30センチほどの穴があり、そこから弘法大師が出たり入ったりしているとのこと。また、燈籠堂の地下に弘法大師が描かれた絵が掲げられていますが、この絵の位置が、弘法大師が瞑想している場所と同じ高さだそうです。見れなくて残念。
ほんと神秘的な空間でした。
清々しい気持ちになって御廟をあとにしました。
御供所にて嫁さんは御朱印を
私は九重御守を頂きました。
いやぁ。高野山
良い所でした。
追記:弘法大師御廟について
江戸時代の学僧
道猷(どうゆう)阿闍梨は
「紀伊続風土記」で「高野山には七廟説があり、間違いないといえるところはない」「七廟説のなかで廟所は現在の奥の院に落ち着いた」と言っています。
・奥の院は現在の寺院があるところからも遠くお大師さんの時代にこのように遠いところを選ぶ理由がない事。
・南谷宝積院はお大師さんのお住まいの向かいにあり遍照岡とも阿逸多院とも言った。
※遍照(お大師さんの別名)
阿逸多(弥勒菩薩ーお大師さんには弥勒菩薩信仰があった)
・この寺を再建した時、境内を掘ったところ奇怪な響きがしてさらに深く掘ったところ石函が見つかったが怖れをなして埋めてしまった。
などから有力候補地は南谷宝積院なんだそうです。
残念ながら現存していないそうです。
現在の奥の院がなぜ廟所に選ばれたか?
ちょうど「気が集まる場所」だからです。
後背の山の気を、前にある川でせき止めて溜め込む。
もともと風水は墓所を決めるためのもの
真言宗の隆盛を目的に現在の場所に御廟が開かれたのでは?との事。
という事で
次回訪れた時は壇上伽藍をもっと詳しく見て回りたいと思いました♪
あっ!もちろん奥の院もね。