私たちが暮らすこの日本と云う国を守るために、どんな思いをされた方たちがいらっしゃったのか、私はよく知りませんでした。
「第二次世界大戦」「太平洋戦争」と教科書に書かれテレビで呼称される戦争は、「人の命や暮らしを奪う、反省すべき、愚かな戦い」だと思ってきました。
「戦争反対」「戦争は愚か」としか、学校の先生は言いませんでした。
終戦の日が近付くと、テレビの特集やドキュメンタリーで白黒の映像が流れましたが、ただ怖くてただ恐ろしい、できることなら見たくない、知りたくないものでした。
近い身内で戦争に行った者はなく、祖父母と同居していないこともあり、戦争の話題は家庭では聞けませんでした。
戦時中生まれの父からはいつもお腹を空かせていて木の実や小動物は何でも食べたこと、「鬼畜米英」といわれる敵兵に捕まると急所をちょん切られてひどい目にあうと言われて怖かったこと、などは聞いた記憶があります。
戦後生まれの母からは、どんどん変わっていった生活の様子を聞きしまた。
プラモデルの戦艦やゼロ戦を作る兄弟とは違い、戦闘機などに特別な思いもなく、私と戦争をつなぐものは、通学路の途中にある見晴らしのいい「忠霊塔」という場所だけ。
遺骨の還ってこなかった方も含めて、戦争で亡くなった方を祀っている場所。
富士山を背に遠くに海を望む素敵な場所で、友達と遊んだり、終戦の日を迎える前にお掃除のお手伝いをすることくらいしか、関わりはありませんでした。
学校教育、家庭、地域、テレビなどのメディアを通しても、なんとなく怖いと感じていた「戦争」と、お気の毒な「戦争で闘った方々」についての真実を知ることはありませんでした。
そんな私が、昭和という時代、先の戦争について強く意識し始めたのは、昭和天皇の崩御がきっかけだったと記憶しています。
学生時代に、「昭和という時代」「大東亜戦争」の実態や、今まで知らなかった事実を知ります。
小林よしのり氏の「ゴーマニズム宣言」「戦争論」の影響も大きかったです。
「戦争をはじめた日本が悪い」
「戦争が終わったのは原爆が落ちて多くの人が犠牲になってくれたおかげ」
「勝てるはずがないのに無謀な戦争に臨んで敗戦した」
「戦争とは愚かなもので、絶対にしてはいけない」
そんな軽薄で浅はかな認識しかなかった自分にとって衝撃的だったのは、「硫黄島の戦い」「特攻隊」を知った時でした。
エセヒューマニストの自分の頭を鈍器でなぐられたような強烈な衝撃。
日本を護るために闘ってくださった方の想いが胸に入り、抑えきれなくなり慟哭。
無知で無関心で愚かだった自分から、ご英霊への感謝と謝罪。
戦争に至る複雑な経緯を知り、自虐史観を押しつけられた「戦勝国」への憎悪。
高度経済成長をとげ、バブル期を迎えていた行け行けムードの中。
楽しいことはたくさんあるし、テレビや映画も明るい娯楽モノが多くて、日常生活になんの不満も不安も抱かなくても生きていけた、そんなのんきな時代。
自分が生きている日本で充実した毎日を謳歌できるのは、この祖国を命懸けで護ってくださった方たちがいらっしゃったからだと気づき、感謝の気持ちが自然とわいてきました。
学校で習わない、家庭でも教わらない、テレビや新聞でも伝えない「真実」がある。
今のようにネットで簡単に調べることはできなかったけれど、本屋さんや図書館へいけば、自分の知らない世界が広がっていた。
多くを語らない祖父母やお年寄りから、知らなかった戦争当時の話が聞ける。
日本と云う国ができた歴史を知り、先人の想いを知り、今の自分たちが無事に暮らせていることの恩恵について、次第に想いを馳せるようになっていきました。
そして、時が経ち、皇后陛下の「A級戦犯」発言を聞いた時から、皇太子夫婦への不信感だけでなく、平成皇室に対する疑念もいだくようになりました。
ここに、「硫黄島の戦い」について書かれたサイトと、天皇皇后両陛下の硫黄島行幸時の御製・和歌について書かれたブログの紹介をさせてください。
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国際派日本人養成講座
191 栗林忠道中将~精根を込め戦ひし人
「せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」と、中将は36日間の死闘を戦い抜いた。
(略)
■
3.東京が少しでも長く空襲を受けないやう■
死闘を演じた日本軍の指揮官は、栗林忠道陸軍中将であった。
中将は戦闘前に、家族に以下のような手紙を書いている。
島の将兵○○(JOG注:機密を守るための伏せ字、「2
万」か?)は皆覚悟を決め、浮ついた笑い一つありません。
悲愴決死其のものです。私も勿論そうですが、矢張り人間
の弱点か、あきらめきれない点もあります。・・・・・
殊に又、妻のお前にはまだ余りよい目をさせず、苦労ば
かりさせ、これから先と云ふ所で此の運命になったので、
返すがえす残念に思ひます。
私は今はもう生きて居る一日一日が楽しみで、今日会っ
て明日ない命である事を覚悟してゐますが、せめてお前達
だけでも末長く幸福に暮らさせたい念願で一杯です・・・・
私も米国のためにこんなところで一生涯の幕を閉じるの
は残念ですが、一刻も長くここを守り、東京が少しでも長
く空襲を受けないやうに祈っています。
「一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けない
やう」という一節に、栗林中将の明確な狙いが見てとれる。死
に急ぐのはかえってたやすい。2万の兵に玉砕を覚悟させなが
らも、「一刻でも長くここを守る」ために、長く苦しい戦いを
いかに続けるか、そこに中将の苦心があった。
■
4.地下からのゲリラ戦■
ワシントンの日本大使館に武官として駐在したこともある中
将は、米国の巨大な工業力を知り尽くしていた。攻めてくる米
軍を水際で迎え撃とうにも、空爆や艦砲射撃ですぐに殲滅され
るだけである。そこで全島に強固な地下壕陣地を設け、空爆・
砲撃をしのぎつつ、上陸してきた米軍を地下壕から自在に出没
してゲリラ戦で消耗を強いるという作戦をたてた。
しかし地下10mでは温度は49度にも達する。兵たちはふ
んどし一つの姿で、ツルハシ、スコップで掘っていくのだが、
1回の作業は3分から5分、5人一組で一昼夜掘っても1m進
むのがやっとだった。
さらに将兵を苦しめたのは水不足である。時折の雨水だけで
は、一日4人に水筒1個分の水の配給しかできなかった。飯米
は硫黄臭い地下水か海水で炊くが、ひどい下痢で悩まされた。
栗林中将は自らの食事も水も特別扱いを厳禁とし、全島を廻
っては地下壕作りを陣頭指揮した。兵たちは中将の作った「敢
闘の誓い」を口ずさみながら、苦しい作業を進めた。
一、我等は各自敵十人を殪(たふ)さざれば死すとも死せ
ず
一、我等は最後の一人となるとも「ゲリラ」に依って敵を
悩まさん・・・
こうして米軍が攻撃開始した昭和20年2月の時点では、総
延長約18キロに及ぶ地下洞が掘られ、島南部の擂鉢山には6
キロの蜘蛛の巣状の地下陣地が張りめぐらされた。
■
5.Black death island! (黒い死の島だ!)■
2月16日、戦艦7隻を中心とする26隻の米艦隊が硫黄島
を包囲した。その南80マイルには護衛空母11隻が配置され
ていた。やがて3日間に及ぶ艦砲射撃と空爆が開始された。硫
黄島戦終了までに打ち込まれた艦砲弾は29万発、1万4千ト
ンに達した。着弾で地面が大地震なみに揺れるのを、日本軍は
地下で堪え忍んだ。
上陸を前に海兵隊員たちは双眼鏡で、砲撃の黒煙が上がる硫
黄島を見つめていた。南海の島だというのに、緑の椰子の木も、
白い砂浜もない。見えるのはただ地獄絵図のような擂鉢山と、
黒い海岸だけである。「Black death island! (黒い死の島だ!
)」と誰かが不吉な声をあげた。
19日午前9時、水陸両用装甲車500隻が上陸を開始。日
本軍が沈黙を守る中、約3キロの海岸に、3万人の兵員と4万
トンの機材が送り込まれた。1mあたり10人の人間と、13
トンの機材で海岸はごったがえした。
9時29分、日本軍が一斉に砲撃を開始した。前方と左右の
三方から、日本軍の迫撃砲が集中弾を浴びせた。戦車が燃え、
水陸両用車が吹き飛び、胴体や手足が散乱した。長さ1.5m、
直径30センチもの大型砲弾が炸裂すると、周囲20mの人間
を殺し尽くした。まさに阿鼻叫喚の地獄だった。
最初の一日で島の南半分を確保する計画だったが、米軍は海
岸部に釘付けにされ、上陸後18時間で死傷者は2,312人に及
んだ。報告を聞いたルーズベルト大統領は戦慄の余り、息をの
んだ。上陸開始51時間後には死傷者は5千人を超え、米国民
は南北戦争でのゲティスバーク激戦以来の大流血にショックを
受け、以後、死傷者数は報道されなくなった。
■
6.「暴走」命令■
しかし勇猛な海兵隊はそれでも前進を諦めなかった。「ここ
に転がっていたら、ジャップの射撃のまとになるだけだ。」と
捨て鉢の気持ちになった所に、がむしゃらに前に進め、という
「暴走」命令が発せられた。死者も負傷者も無視して、海兵達
は半狂乱になって前進した。
22日には、擂鉢山目指して風雨に打たれ、泥の中をもがき
はい回りながら前進した。海兵師団参謀W・クラーク大尉は言
う。「あの視界の悪い雨の中で、どうやって狙いを定めるのか、
日本兵の姿は見えないのに、こちらが頭をあげると、とたんに
正確な弾丸が飛んでくる。ジャップが射撃の天才であることは、
われわれの負傷が頭と腹に多いことからも、分かる。」
しかし、雨の中では日本軍の発砲が閃光となって見えてしま
う。米軍はそこに砲撃を集中して、塹壕やトーチカを一つづつ
潰し、一歩一歩前進していった。米軍が擂鉢山を攻略し、星条
旗が揚がったのが23日午前10時31分。この写真が翌日、
全米の新聞のトップを飾り、アーリントン墓地の硫黄島モニュ
メントとして残されることになる。
南部の擂鉢山を占領し、残るは中北部のわずか数キロ。しか
し、今までに数えた日本兵の死体はわずかに1,231に過ぎず、
2万を超す日本兵がその数キロに手ぐすねひいて米軍を待ちか
まえていた。
■
7.今までの戦場では見参し得なかった巧みさ■
日本軍の巧妙なゲリラ戦は、米軍第4師団戦闘詳報に次のよ
うに描写されている。
彼ら(日本兵)はわが砲撃の間は地下にかくれ、終わる
と外に出て待つ。われわれが近づけば集中射撃を浴びせ、
われわれが損害をうけて釘付けになると、いくつかの銃器
と死体を残して、またトンネルにもぐりこむ。
わが大隊長は、ロケット、火砲の援護を要請して進むが、
たどりついた陣地には敵が置いた銃と死体しかなく、不審
の首をひねっているとまたもや集中する銃弾に包囲される。
負傷者が出て「コーズマン!」と衛生兵を呼ぶと、「コーズ
マン」と答えて近づくのは、しばしば米兵の軍服を奪い、衛生
兵に扮装して、銃剣と手榴弾を握った日本兵だった。
何気なく転がっている酒びんや鉄カブトを持ち上げると、仕
掛けられていた爆薬が爆発した。「今までの戦場では見参し得
なかった巧みさ」と米軍戦闘詳報は舌をまく。
■
8.矢弾尽き果て■
こうした死闘を1ヶ月近くも続けた後、日本軍はようやく島
の北辺に追いつめられ、残る人員も約9百人になっていた。3
月16日午後、栗林中将は参謀総長宛に訣別の辞と辞世を電報
で送る。
戦局最後の関頭に直面せり、敵来攻以来麾下(きか)
将兵の敢闘は真に鬼人を哭(な)かしむるものあり・・・
国の為重き務(つとめ)を果たし得で矢弾尽き果て散るぞ
悲しき
栗林中将はなおも、目的は玉砕することではなく、敵に出血
を強要することだとして、10日間の抵抗を続け、最後の出撃
は26日の夜明けだった。約4百の将兵で米軍の後方部隊を急
襲し、死傷者172人の損害を与えた。中将は攻撃の途中で負
傷し、歩けなくなった所を「屍を敵に渡すな」といい残して、
部下に介錯を命じた。二人の部下は遺体を大木の根本に埋めた
後に、自決したと伝えられている。
■
9.精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき■
硫黄島が陥落するや、日本本土への空襲が始まった。「重き
務を果たし得で」と中将は詠んだが、その後の歴史の展開に従
って、この36日間の死闘は次第に重い意味を持つようになっ
ていく。
2万余の日本軍が守るちっぽけな小島を奪取するのに、米軍
は2万6千近くの死傷者を出した。残る内地237万余、外地
310万余の陸軍兵力が日本全土と広大な中国大陸で、同様の
ゲリラ戦を展開したらどうなるか? 硫黄島の戦いでつきつけ
られたこの問いを、米国は沖縄戦でもう一度思い知らされるこ
とになる。
おりしもこの戦いの直後の4月12日、日本の無条件降伏を
主張していたルーズベルト大統領が急死する。無条件降伏の方
針は実質的に変更され、ポツダム宣言の諸条件が提示された。
国体護持を求めて本土決戦を主張する陸軍にも「最終的の日本
国の政府の形態は・・・日本国国民の中に表明する意志により
決定されるべきものとす・・・」との連合軍回答が矛を収める
きっかけとなった。[a,b]
鈴木貫太郎首相は、昭和天皇の御聖断をてこに、ポツダム宣
言を受け入れ、綱渡りの終戦を実現した。硫黄島と沖縄での日
本軍の死闘がなければ、無条件降伏要求の方針は変更されず、
歴史は本土決戦へのコースを辿っていたかもしれない。「せめ
てお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」という中将の念
願は、より大きな形で果たされたのではないか?
平成6年2月、小笠原諸島復帰25周年を記念されて、天皇
皇后両陛下は硫黄島に行幸され、鎮魂の御製・お歌を詠まれた。
精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき
慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲(
ほ)りけむ
(文責:伊勢雅臣)
<以上、一部、転載させていただきました>
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両陛下に対して、わたくしごときが「もの申し上げる」理由 1
両陛下に対して、わたくしごときが「もの申し上げる」理由 2
『井沢満氏ブログ』 より
両陛下に対して、わたくしごときが「もの申し上げる」理由 3 両陛下の和歌に託して
《承前》
ゴン太さんへ
NHKの「俳句王国」に何度か出演していた時と俳句誌に寄稿を求められた時にだけ、駄句を詠み散らしていた身で、天皇陛下の御製と、皇后陛下のお歌を論評するのはおこがましいのですが、いささかは言葉に関わって人生を渡って来た身、「論」の一端としての、両陛下の和歌への言及なので、ご寛恕くださいますよう。
両陛下が、九条の会へお心を寄せられているわけではない、とあなたが示したお歌はこちらです。
精根を込め戦ひし人未だ
地下に眠りて島は悲しき (天皇陛下)
慰霊地は今安らかに水をたたふ
如何ばかり君ら水を欲(ほ)りけむ (皇后陛下)
注意深く、読んでください。これは、兵士たちへの鎮魂歌です、たしかに。
しかしながら、
お国のため天皇の名のもとに散華された英霊への
感謝はありません。「戦争はよくないものだ」「あの戦争は間違いだった」とする詠嘆のお歌です。
これが民間人により詠まれたものなら、無問題です。
ただ、お二方ともにとりわけ
天皇陛下は、あの戦争を慨嘆で済むお立場ではないはずです。
以上は、単なる「反戦歌」です。
英霊への尊敬も感謝もない、とそのことは昭和天皇の御製と比べるとよく解ります。
靖国神社九十年祭に寄せて
ここのそぢへたる宮居の神がみの 国にささげしいさををぞおもふ
英霊を「神々」と敬い、「勲」「功」と讃えていらっしゃることに留意。「ここのそぢ」は「九十路」であり九十歳を意味します。「宮居」(みやい)は神のおわすところ。神社。
千鳥ケ渕戦没者墓苑にて
国のため命ささげし人々の ことを思へば胸せまりくる
「国のため」と冒頭に置き、そこには感謝の念がこもり、その感謝の思いが「胸にせまる」とお詠みです。
今上陛下と、皇后陛下のお歌にあるのは
「悲しみ」「哀れみ」であり英霊としての尊敬を感じられない、というのはお解りでしょうか?
左翼女優が夏になると朗読する反戦詩の朗読と同じ地平にあります。
そこにあるのは「反省」だけなのです。
>例えば、両陛下は慰霊の旅にはこだわられていたと思います。
その慰霊の旅も、
英霊への慰霊ではなく敵国の兵士たちをも含めた慰霊であり、その事自体はむしろ素晴らしいことではありますが、
そこにあるのは「反省」であり、戦争さえなければ(敵国の兵士も含めて)彼らは死なずに済んだものを、という慨嘆でしかありません。
英霊の魂は、嘆かれ悲しまれ憐れまれて喜びを感じるでしょうか?
わたくしは、来ていただいたことに感謝しながらも、同情されることに戸惑いを覚える気がしてならないのです。
「靖國で会おうぜ」と莞爾として散っていった彼らの心ばえに対して、わたくしは適切なお歌とは思えないのです。
どうぞ、昭和天皇の御製との差を今一度、噛み締めてくださいますよう。
お国のために散ってくださった、という思いは感じられないのです。
サイパンに慰霊に出向かれれば、予定にはなかった韓国人慰霊碑にぬかづかれ、これもその事自体は咎められる筋合いにはないにしても、ゴン太さんが「だから、両陛下は九条の会に想いを寄せてはいない」ということには、ならない、ということは、お解り頂けるでしょうか。
栗林中将の辞世の句への返歌として捉えれば、なおさら違和感を覚えます。
国の為重き努を果たし得で
矢弾尽き果て散るぞ悲しき
天皇陛下のみ名の元、お国のためと思いしが矢弾もすでになく、国家の役に立たず、申し訳ございません、という心情ですね。
それに対して、天皇陛下のお立場でお応えになるなら「否。あなたは、よくぞ最後まで戦い抜いてくださった。どうぞ、悲しみなど持たないでおくれ。その勲をわたくしは、生涯胸に刻んで忘れないよ」というごときことでは、ございませんか?
英霊の血の吐くような陛下への侘びの言葉に対して今上陛下がお応えになられたのは、「島は悲しき」。
「私が」悲しいのではなく、「島は悲しき」。他人事です。
返された栗林中将の心中を思えば、わたくしはこの御製をもって、陛下が九条の会に近いお考えではない、とする論拠にはなり得ないという感性と考え方です。
歌以前に、「平和憲法護持」という立場を明快にされていらっしゃるからには、九条堅持のお立場であることは、必然です。(政治的お立場の表明は、お立場に矛盾して、憲法違反だと思われますが)
昭和天皇の、たくまざる素直な御製は心に触れるもの多く、感受性の豊かさを忍ばせますが、今上陛下の御製にはそれを感じません。
皇后陛下のお歌は、時に息を呑むほどの感性で希代の歌の詠み手であらせられますが、一方英霊を詠まれたものは平板で、わたくしは感動点を見出すことができない、というのが率直な感想です。何か反戦プロパガンダを連想してしまうのです。いや、英霊という観念すらお有りにならないですね。「犠牲者」であり「戦犯」です。
仮にゴン太さんが陛下のおため、国のためと投げ出した命を「悲しい犠牲者」だの“犯人”だのと言われて、どう思われますか?
あと、ゴン太さんにお解りいただきたいのは歌は「フィクション」であり「ドキュメント」ではないということです。その歌をもってして、作者の心中がその通りということでは必ずしもないのです。過大評価なさいませんよう。
たとえば芭蕉の「奥の細道」。いかに難儀して旅を続け、一句を生み出して行ったかということが綴られているのですが、雨で旅程が難渋した、という記述の日付で、当時の気象を検証してみると、当日は晴れだったはず、というごとき研究があります。
では芭蕉が嘘を書いたかと言うと、創作上の嘘は嘘ではなく、謳い上げたい情景をより効果的にするために、いかに実際に晴れ渡っていようが、ここは雨が降らねばならないのだ、というごとき。
いささか脇道に逸れましたが、ゴン太さんにはお歌がそのまま現実ではない、ということを理解していただければ、と思います。
歌でその方の心情を推し量るなら、では皇后陛下のこのお歌を何とします?
対馬より釜山の灯(あかり)見ゆ といへば韓国の地の近きを思ふ
日本を罵り蔑み、天皇陛下に土下座を要求する韓国に、これほどまでにお心を寄せられる皇后陛下のみ胸のうちは、わたくしなど解りませんが韓国へお詫びに行きたいと仰っているお言葉と合わせ、保守層が危惧を抱いている点ではあります。
>「一国の神話や伝説は、正確な史実ではないかもしれませんが、不思議とその民族を象徴します。」と仰って、倭建御子と弟橘比売命の物語をとりあげていらっしゃいました。「いけにえ」という酷い運命を進んで受け入れた弟橘比売の悲しい美しさを学ばれた…、今手元に「橋をかける」の現物がないので、言葉は正確ではないかもしれませんが、「愛と犠牲」その2つのものがむしろひとつに感じられた、と表現されていました。すなわち「自己犠牲」、利他の精神こそが日本人の崇高な精神性だと仰られているようにも感じられたのです。
この件(くだり)は、わたくしも拝読しましたが、わたくしが感じたのはカトリック的
sacrificeであり、つまり宗教的生贄(いけにえ)、自己犠牲といった皇后陛下の感性でした。ジョルジュ・バタイユのいう宗教儀礼としての供犠。
ああ、
皇后陛下は神道のお方ではあらせられず、生まれついてのカトリック教徒なのだなあ、という感慨でした。失語症(とされた症状)から立ち直られた時、皇后陛下の第一声が「もう大丈夫、私はピュリファイ(purify浄化)されました 」 であったことに、感じた素朴な違和感と共通します。
弟橘媛の逸話も、皇后陛下のフィルターを通すとカトリックのsacrificeに転化するのだなあ、というのがわたくしの当時の感想であり、微妙な違和感でもありました。
皇后陛下は続けてこうもお書きです。
「いけにえ」という酷(むご)い運命を,進んで自らに受け入れながら,恐らくはこれまでの人生で,最も愛と感謝に満たされた瞬間の思い出を歌っていることに,感銘という以上に,強い衝撃を受けました。はっきりとした言葉にならないまでも,愛と犠牲という二つのものが,私の中で最も近いものとして,むしろ一つのものとして感じられた,不思議な経験であったと思います。
この物語は,その美しさの故に私を深くひきつけましたが,同時に,説明のつかない不安感で威圧するものでもありました。
引用は宮内庁HPより。http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/ibby/koen-h10sk-newdelhi.html
ここまで読めば、ゴン太さんもお解りでしょう?
英霊は「いけにえ」などではありません。英霊が人身御供ですか?
そう捉える思想もあるでしょうが、ゴン太さんが皇后陛下のこの記述をもって、英霊へのお気持ちと捉えるには無理があります。
ゴン太さんは、こうであるという皇后陛下や天皇陛下ではなく
「こうあって頂きたい。こうで、あらまほしい」という願望で、事実に美しいベールをおかけになっているのかもしれません。
わたくしも、脚本家であり小説家なのでいいかげん夢想家でもありますが、その反面お相手が誰によらず、人の本性をズケズケと観察するリアリストでもあります。
それはともかく、「不安感で威圧」という言葉を用いられていることからも解るように、皇后陛下のこの一文が特攻隊の皆さまを指すものではないことが、お解りでしょう?
指すものであれば、なんで「A級戦犯」などという冷酷な言葉を用いられましょうや。
「伝統は時に人を苦しめます」というお言葉と共に、わたくしには違和感を伴うお言葉です。宮中における伝統が苦しいと表白された皇后は歴代初ではないでしょうか。
莫大な特権には、それに見合うそれこそ自己犠牲が伴います。平成と世が改まって以降、祭祀含めた伝統がよろず簡素化されて行く流れにあることを、わたくしは危惧します。
簡素化が進めば、限りなくそれは王室に近づき、皇室の本髄からは遠ざかるからです。皇室に欧米流の男女同権や、人権や人格など持ち込んでは、そこはもはや皇室ではありません。
無私で常に民と国家のために祈り続ける大いなる神域、それが皇居であってみれば。
>まだ、他にも自分が根拠と思っているエピソードはあるのですが
お気持ちがあれば、どうぞお書きください。
お答えします。
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コメント
Unknown (さとにゃんた)
2017-06-10 09:10:59
映画「凛として愛」にアッツ島玉砕に向けて打電された御言葉があります。
大東亜戦争最初の玉砕地となった北のアッツ島では
山崎保代(やまざき・やすよ)大佐以下 2,500の将兵が守備していたが
1万5千のアメリカ軍相手に18日間善戦。
昭和18年5月29日、敵陣地に突撃、玉砕した。
アッツ島守備隊の最期が天皇陛下にご報告されると
陛下は「最期までよく敢闘した。 このことを伝えよ」と言われたが
既に将兵は玉砕し、無線機も破壊されてない。
その事を申し上げると
陛下は厳しい声で「それでもよい。 電波を出しなさい」とご命令されたという。
雪と氷で閉ざされた北のアッツに向けて 陛下の御言葉が打電された。
正に英霊への御言葉であります。
視点 (YUNI)
2017-06-10 09:56:39
先生こんにちは。
昭和天皇が、私たち国民を分け隔てのない愛情で命を懸けて守護をしてくださっていたこと、そしてその愛に国民がちゃんと応えていた時代を、また再確認できました。
自分でも気づかずに色眼鏡で物事を見てしまうことは私も多々あります。
先生の視点はいつも公平で、二つとない人生の教科書になります。今日も、誰も教えてくれないようなことを、素晴らしい言葉での経験を、ありがとうございます。
涙がとまらない (乙女の祈り)
2017-06-10 10:10:27
井沢先生
本日も有難うございます。
上記の栗林中将の辞世の句に接し、涙がとめどなく流れてたまりません。時は本土決戦も真近、本土の国民が、1秒でも長く自分達が戦っている間に逃げられるよう硫黄島を盾として身を挺して戦ったけれど責任がまっとうできず申し訳ないと散って行った中将や兵士21000人。今も御遺骨が散乱している状態とか。(合掌)
いつぞや安倍首相も行かれて地面に土下座されていらっしゃいましたね。胸の熱くなるシーンでした。
そのずっと昔、高松宮殿下も行かれたそうで、下記の文章を引用させて頂きたいと思います。
------(引用はじまり)
『高松宮日記』全八巻の完結を前に、『This is 読売』一、二月号に連載された高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談の中に、初めて紹介されるエピソードがある。昭和四十六年三月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時のことである。
硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ、苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど、随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」
次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていたという。 「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」----(引用ここまで)
陛下と皇后陛下のお歌も同じ硫黄島で読まれたものですよね。しかしながら、お二方のお歌とするには氷のように冷たいですね。 まるで通りすがりの旅行者のようなお歌ではありませんか?
-------哀しいですね。----
Unknown (mai)
2017-06-10 12:32:23
多くの犠牲を伴なった先の敗戦と靖国神社に対しては先帝には先帝のご苦悩があおりだったことは理解できますが、
まるでフラットで冷たい傍観者のようだという今上両陛下のお読みになった歌に関しての井沢先生のご意見には同感です。
戦争反対!なんてバカでも言えます。
日本の場合、事はもっと複雑なのです。
敗戦国が裁かれるなどという異例の事態に対して、いまだ納得が行かない国民は実は多いと思います。
今上陛下が世界平和を唱えるのであれば、その前にA級だろうがC級だろうが全ての戦争犯罪者ではなく、戦争犠牲者の御霊を慰めるべきです。
一部のA級戦犯と言われる方たちだけで始まった戦争だったとでも言うのでしょうか。
先帝もご判断を間違えることはあったにせよ真心を感じます。
私が先の敗戦について一番気になっていたことは戦災孤児についてでしたが、戦災孤児について何か昭和天皇の言及はあったのかと調べてみましたらちゃんと残っておりました。
「洗心寮」でのエピソードです。
また靖国神社へのお思いについては
「昭和天皇とその時代: 新版昭和天皇」
著者: 小堀桂一郎
の397ページから計り知ることができます。
Googleブックスより
こちらのケント・ギルバート氏が「SAPIO2017年7月号」に寄せた記事もご紹介させてください。
『韓国はベトナム女性に謝罪する像を建てるべき』
http://news.livedoor.com/article/detail/13177993/
>文在寅大統領は、早くも「日韓合意破棄」をちらつかせている。彼らは、もっと日本に謝ってほしいのだろうか? あるいはもっとカネをよこせというのか? 仮にそうしたとしよう。すると、またすぐ「もっと謝れ」と言ってくるはずだ。
上下関係を重んじる儒教の考え方では、一度謝ると自ら罪人だと認めていることになり、永久に「謝り続ける」「下」の立場が固定化する。日韓合意で「最終的かつ不可逆的に解決」したのだから、「もっと謝れ」には付き合うべきではない。
>>>>>>>>>>>>>>>>
どこかで聞いた文句です。
そうでしたw小和田恒氏(皇太子妃雅子さんの実父)がおっしゃってました。
「先の大戦で侵略等の戦争犯罪を犯した日本は中韓などの日本の被侵略国に対して明らかにハンデキャップが実在し、それとどう向き合っていくかが今後の外交のカギとなる。」とかこちらもまるで他人事のような口ぶり。
あなた、たとえお嬢さんの犠牲の上に成り立った出世にせよ少なくとも外務省の事務方トップ=事務次官まで昇っりつめた方でしょうよw
小和田氏には皇后陛下と似通った思想を感じます。
比べてみれば (toko)
2017-06-10 12:57:23
昭和天皇の飾らぬお気持ちを込めた御製と、まったく違いますね。
歌には全く不案内な私でも、腑に落ちました。
短い言葉の中からも、これだけ読み取れるものなのですね。
鋭く丁寧な解説をありがとうございます。
そして、栗林中将の辞世の句。
不覚にも、突然涙があふれてどうしようもありません。
これらの歌に対して、「他人事の鎮魂歌」。まさにその通りです。
昭和天皇は、皇太子御夫妻が新居に住まわれた後も、焼け出された国民を慮って、湿気だらけの御文庫に住み続けられていたそうですね。
終戦の時には、マッカーサーに命乞いもせず、私は良いから国民を助けてくれと頼まれたとか。
昭和天皇にとって、国民のことは「他人事」ではなかったのでしょう。
異議なし (なでしこ魂)
2017-06-10 17:52:21
今回の授業(是非、授業と呼ばせて下さい)も素晴らしかったです。
昭和天皇のお歌と比べることで、今上天皇と皇后の英霊達への想いの違いがはっきりとわかりました。
今上天皇・皇后のお歌のみの解説ではここまではっきり理解出来なかったと思います。いやー納得しました。
御製 (ねねこ)
2017-06-10 21:24:32
先生の記事を読み、明治、大正、昭和の御製をザザッと見て来ました。和歌がこんなにお人柄がみえつてしまうものだと知って驚きました。
大正天皇の飛行機を鳥船と歌ったり、自動車をかなぢの車と詠まれていらっしゃるのもとても素敵で文学的な才能が素晴らしく、富国強兵の世の中は少し窮屈でおられたのではないか、実はいくさがお好きでないためにお心が休まらなかったのではないかと思いました。明治天皇は大政奉還があったためか、日本の国のありかたについて思し召しの厚い御製が多いのが印象的で。昭和天皇は民の安寧を願っておられる御歌が印象的でした。
今上の御製は自然の状景が多くてお心のうちが分かりにくいようにおもいます。
次代予定は私が多く、みめは歌会始め万年欠席の吾子の歌。違和感満載です。
皇后さまのお言葉の違和感も同意です。伝統は時に人を苦しめる。って変ですよね。このごろ世の中がをかしいので、おかみがおまつりをしつかりあそばさないといけない。という香淳皇后さまのお言葉こそ国母のお言葉だと思いまし
た。
浅はかな策略 (チッチョ)
2017-06-11 00:47:44
退位特例法成立の記事が新聞に載った日に「もの申し上げる3」を上げてくださり、ありがとうございます。どの記事も奥歯に物の挟まった、しかし表面的には陛下を賛美。ほとほとうんざりでした。
sacrifice、まさにキリスト教的ですね。
聖書の有名な場面を(絵画などで)見るにつけ「なぜキリスト教の神は人間を試されるのか?!」と釈然とせず、おおらかな日本の神々に安堵します。
しかし、皇后が、百歩譲ってsacrificeを自己犠牲として尊いものと受け止めておられるなら、その言動は矛盾に満ちています。世間知らずのお嬢様の自己満足(今言うところの「上から目線」)な、偽善でしかないからです。
現東宮に負けず劣らずボンクラであった今上が、機を見るに敏な美智子さん、GHQの後押しや経済成長の時代、そしてマスコミとミーハーな民衆の助けもあって(皇太子も雅子さんでなければ、今ほど悲惨でなく、なんとかなっていたかも?)錯覚してしまった。
昭和天皇へのコンプレックスを克服するため、努力するのではなく否定する道を選ばれた。そう考えれば異常な「公務」への執着も「慰霊の旅」も、天皇クーデーターの際の摂政否定のお言葉も納得がいきます。煽てたのは伴侶でしょうが。
祖母は「悪妻は一生の不作」と、私によく言っておりました・・・女の子だったのにw 男性の一生を左右するのだから良いお嫁さんになりなさい、ということだったのかしら?
祖母は昭和天皇より一歳年下、跡取りの一人息子はシベリア抑留で戦死しました。
Unknown (昭和の子)
2017-06-11 05:27:48
天皇とは、役割あるいは、役職だったのかと憮然としてしまいます。昭和天皇陛下の最後の終戦記念行事へのご出席を思い出します。
黙祷の定められた時間に間に合わない程の覚束無いお足取りで、英霊の前にお一人で立たれた昭和天皇陛下。天皇の役割を充分に果たされなかったと言うのでしょうか?そもそも天皇は役割ですか?
24時間365日、生きている限り天皇であることを生きられた昭和天皇陛下。存在そのものが天皇であり、そのためには私心を忘れ、病床にあられて、侍医から痛みはございませんか?と聞かれ、「痛みとは何か?」と聞かれた昭和天皇陛下。
天皇とは、その様な国民にとっての精神の要の存在だと思っていましたので、平和憲法での象徴たる天皇の役割を充分に果たせないから、退位するって、勝手に何やってるの!と、思ってしまいます。天皇は、即位した時から最後の息を引き取るまでが天皇。勝手に後継ぎを指定するかのような退位のやり方は、誠に自分勝手であり、天皇を王位か何かと間違えてるとしか思えません。
思えば、昭和天皇陛下の頃は、皇居での旧皇族方のお集まりも、一族の集まりという位置付けで報道されていました。それが続いていたならば、雅子さんの入内もこの度の真子内親王殿下の摩訶不思議なお相手も出なかったかもしれません。皇室の危機にあっても、旧皇族復帰と言う当たり前の道が最初に出るはずです。国民も当たり前に思ったでしょう。
皇室を危機に晒してるのは、その様な昭和天皇御世の全てを否定し反発するかのような平成の皇室そのものだと、思えます。
父親に反発するのは、息子の常とは言え、未だに中二病でいいのか!と、嘆息してしまいます。
そう言えば、恵まれない子供たちの施設やお年寄りの施設などへの行幸、行啓が、すっかり少なくなりました。
これが本当の慰霊です (菜の花その2)
2017-06-11 10:06:53
『This is 読売』一、二月号に連載された高松宮妃殿下と作家の阿川弘之氏の対談より。
天皇皇后両陛下に遥かに先立つ昭和四十六年三月、高松宮殿下が硫黄島戦跡をご訪問になった時の逸話より。
硫黄島は大東亜戦争末期、米軍七万五千の猛攻を、二万余の日本軍将兵が祖国防衛のため、一ヶ月以上に渡って奮戦し玉砕(全滅)した島である。戦後、昭和四十三年まで米国の管理下にあったため、殿下のご訪問当時は、まだ未整理の洞窟があり、遺骨はそのまま散乱していたという。殿下が先ずお訪ねになったのは、米軍の火焔放射器でやられ、ブルドーザーで生き埋めにされかけ、苦しみもがきながら脱出を試みた兵隊たちが、折れ重なって死んだ跡地だった。「前もっての説明何もなしで洞窟の前へ立たれた殿下は、ハッと息を呑む気配をお見せになり、やがて地べたに正座し、両手をついて首を垂れて、暝想状態に入られた。一言もおっしゃらないから、何を念じていらっしゃるのか祈っていらっしゃるのか分からないけれど、随行の者みな、電気に打たれたような気分だったと聞いております。大分長い時間そうしていらして、やっと立ち上がられた」
次にお訪ねになったのは、遺骨の整理が既に済んでいる壕だった。とはいえ、拾い尽せなかった骨もあり、至る所に散らばったままの骨片もあった。仕方なしに海上自衛隊駐屯部隊の隊員も、ふだんは靴で遺骨を踏んで歩くようになってしまっていたという。 「ところが、殿下はためらわれた。そうして、つと靴を脱ぎ靴下も脱ぎ、素足になって、骨片の散らばる洞窟内へ入って行かれた。私も知ってますが、硫黄島という名前の通り、あの島の壕の中に地面から硫黄のガスが噴き出しているんです。そこを素足で視察した人は、後にも先にも高松宮様お一人だそうです」
高松宮殿下の至誠でも、霊現象は随分収まったそうです。
>怪奇現象がぴたりと止んだ
これは、水を差すようで申し訳ないのですが、事実ではありません。今なお、硫黄島から不成仏霊を連れ帰る人は多いのです。まだ浄化は済んでいません。
ただ念のため、両陛下の慰霊が無駄だったとは言ってません。ただ、あまりにも美化しては実態を見失い、危険ですので。
Unknown (神在月)
2017-06-11 12:08:10
初めまして。
最近こちらのブログのことを知り、井沢先生の見識の広さに感銘し、日参しています。
半年ほど前にとあるブログにて一部の皇室の方々の闇に触れ、今まで見ていたものは何だったのだろうか、と愕然としました。
それまで、昭和天皇ほどではなかったものの(今のところ私の中で国父と呼べる方は先帝しかいらっしゃいません)、天皇皇后両陛下に対しては一国民として普通に親しみを持っていました。
マスコミによる虚飾の報道などで真実から目隠しされていたのだと知った後は、冷然と『生前退位』に関する報道を眺めています。
数日前、退位後にお気持ち次第で公務をされるかもしれない、という内容のニュースがあり、それを目にした方々は、何のための『生前退位』なのか、と首を傾げたり、引退するなら普通はおとなしく隠居するものだろう、と反発を覚えたりと、見方を変えた人は増えたようです。
敗戦国の皇太子、という事からGHQの今生陛下への干渉は想像以上だったであろうとは思います。
一私人であれば、自分と親は違う、と否定することもできますが、日本国の天皇として即位された方の場合、私の部分でどう思われていたとしても、戦没者に対しての日本国の天皇としての過去のお振る舞いは、当事者意識の足りなさ(天皇としての心構えの足りなさ)から来ておられるのだろうなと。
国民としては、天皇陛下に完璧を求めているわけではないのです。
誰しも得手不得手はありますし、能力に過不足があれば、優秀な人間がそれをフォローすればいいだけなんですから(現状、それも叶わない状態のようなので暗澹としてしまいますが)。
長文失礼しました。
<以上、『井沢満ブログ』さまより、一部、転載させていただきました>
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>こうであるという皇后陛下や天皇陛下ではなく
「こうあって頂きたい。こうで、あらまほしい」という願望で、事実に美しいベールをおかけになっているのかもしれません。
井沢満氏の両陛下の御製、和歌に対する解釈は、まさに腑に落ちるところでした。
ご英霊の、先人の、気高く美しく尊い精神。
それを穢す者は、何人たりとも許してはいけないと思うのです。
私たちが引き継いでいきたい、守っていきたい「日本」とは、いったい何でしょう。
四方を海で囲まれた、四季のある自然豊かな国土
美しい森林と石清水、豊かな動植物や自然体系
整然として手入れされた田畑、果樹園、牧草地
自然と調和した建築物、神社仏閣
目には見えない人々の協力し合い助け合う営み
先人が築き残してくださった精神
日本人の血に流れるDNA
学校で学ばない、家庭で教わらない、テレビや新聞で取り上げない日本の本当の歴史。
私たちが守っていくべきものを、自分の目と耳と心で感じ取り、伝え合っていきたいものです。