※この物語はフィクションです。登場する人物、企業、団体等は実在するものとは全く関係ありません。
第一章:発売前夜
2013年11月某日、とある居酒屋の個室で二人の技術者が上司を待っていた。主任の田中(仮名)のスッキリと晴れやかな表情とは対照的に、技術者の小峰(仮名)の表情は硬くぶっちょう面と言ってよい。宴席の開始時間となったが課長の松本(仮名)はまだ来ない。田中は店員に後5分したら飲み物を持ってくるように頼んだ。前菜は既にテーブルに配膳済みである。
3分ほど経ったところで「いやーゴメンゴメン。お待たせ」という声と共に松本が到着した。「お疲れ様です。飲み物は頼んでおきました。」と田中が伝える。松本がコートを脱いでハンガーに掛け、座椅子に腰かけようとしたところで店員がビールを運んできた。「流石は田中君。相変わらず見事な手際だなぁ。」腰かけた松本に瓶ビールを注ごうとする田中に応じてグラスを差し出しながら、松木はにこやかに云った。田中はぶっちょう面の小峰にもビールを注ぎ、小峰からビールを注いでもらうと松本が話し始めた。
松本:いよいよ来週には我々のマツダコネクトを初搭載した新型アクセラが発売となる。開発では二人には大変な苦労を掛けたが、発売延期という最悪の事態に陥ることなく、無事に発売日を迎えられることを先ず感謝したい。本当にご苦労様でした。
お互いにねぎらいの言葉を交わして乾杯すると、小峰は如何にもヤケ酒という感じにビールグラスを一気に空けた。
松本:二人とも開発の苦労話は尽きないと思うが、我々のマツダコネクトの歴史はこれから始まるんだ。過去の苦労はそれとして、今日は今後の事を大いに語り合いたいと思って二人を呼んだんだ。
にこやかに話す松本の言葉に田中が応じる。
田中:なんといってもマツダコネクトは「古くならないシステム」という画期的なコンセプトを掲げたインフォテインメントシステムですからね。市場に出た後も、どんどん機能をブラッシュアップしたり新しいサービスを追加して、お客様に喜んで貰わないと。
自動車メーカーが独自に開発し、自社製品に搭載するインフォテインメントシステム。これの開発はマツダの関係部局にとっては悲願だった。バブル崩壊後の経営不振からフォードの傘下に入り、トヨタ(G-BOOK)、日産(カーウィング)、ホンダ(インターナビ)といった他社が独自製品やサービスを展開するのを尻目に、既成の2DINナビの搭載に甘んじるざるを得なかったこの10年。マツダらしい走る歓びを阻害せず、お客様にマツダらしい独自の価値を提供する事を目的としたシステムがようやく日の目を見ることになったのだ。「お客様との絆」を大切にしたいとの想いを込め「マツダコネクト」と命名されたシステム。その意気込みは今年のモーターショーの出展にも色濃く反映されていた。
当然、関係者である三人にとっても感無量であろうこのとき、素直に喜んでいるように見える松本、田中に対してもっとも若い技術者の小峰が不本意な表情を隠そうともしないのが奇異であった。そしてそんな小峰に松本が声を掛ける。
松本:小峰君、どうした?今日は3人だけだ。云いたいことがあれば遠慮なく話しても構わんぞ。
田中は思わず苦笑いした。これまでの経緯を良く知る彼からすれば、課長のこの一言は挑発に近い。まぁそれは予定通りといえるだが「松本さんも人が悪いなぁ」と素直に感じて思わず表情に出てしまった。案の定、辛抱たまらんとばかりに小峰が食付いた。
小峰:松本さんも田中さんも、マツダコネクトがこのまま市販されて良いと、本気で思っているんですか!?
松本は、薄らと笑みを浮かべながら黙って耳を傾けている。まるで"よしよし、思惑通り"と言わんばかりだ。
小峰:マツダコネクトの、日本向けナビの性能では日本の客は絶対に満足しませんょ!いや納得できる筈がない!ほとんどのオーナーが販売店に文句を言ってきて、きっと大変な事態になりますょ。それを・・・
松本:そういった事態に対応するように、田中君にはサポート体制を構築して貰っているし、N社も新製品の市場投入にあたって即応する体制を敷いてくれると言ってくれているが、、、
田中は再び薄く苦笑いした。松本がいつにも増して穏やかに話している様が、余計に芝居がかって見える。案の定、小峰は火に油を注がれたように食って掛かる。
小峰:いくら体制を整備したところで、あのナビが短期間で日本のユーザーの満足するレベルになるとはボクには思えません。それが可能であれば、開発段階でボクが散々指摘した問題はとっくの昔に直っている筈です!いくら頑張っても、ダメなものはダメですょ!
言い放つと、小峰は再びビールを一気飲みした。
松本はチラリと目線を田中に向けた。田中は小さく頷く。それは「そろそろイイのでは?」という合図だった。
松本:いくら頑張ってもダメ…か。小峰君。もしそうだとしたら、どうなるんだろう?
小峰:えっ!?
松本の問い掛けに小峰は意表を突かれた。てっきりこれまで通りになだめられたり、あるいは叱られたりといった言葉が浴びせかけられると思っていたから。しかし何を云われても小峰は自説を曲げなかった。それはお客様に良い物を届けたいという強い想いからだった。ところが全く予想もしなかった問い掛けに、一瞬言葉が出ない。松本は静かに続けた。
松本:小峰君が言う通りに販売店に多くの苦情が寄せられ、コールセンターにもクレームが殺到するような事態になったとしたらどうなるんだろう?我々はどうする?
間髪を入れずに田中が応じる。
田中:ボクたちサポートチームがそれらのインシデントを管理して、再現性の確認や原因を特定してN社に対応依頼を投げますよね。
松本:しかし小峰君が言うように、直ぐにはお客様が満足する品質にならなかったとしたら?
小峰:・・・いくら彼らに修正依頼を投げても、簡単に日本市場に見合った性能にはならないですょ。やはり日本市場には日本製のナビじゃないと、、、
やや戸惑いながら、松本の問い掛けに答えるでもなく再び自説を述べるしかない小峰。
松本:日本製のナビじゃなきゃダメか。ではその日本製のナビの開発は、どうなったらスタート出来ると思う?いつから?
小峰:ぅ・・・
これも小峰には全く予想だにしなかった問い掛けである。日本製ナビは開発の初期段階でN社の提案によって退けられ、開発中にも部内で一旦は議論されたが開発期間の関係で却下されていた。日本製のナビでなければダメだというのは小峰の持論ではあったが、それは会社に認められなかった。諦めざるを得ないと思い込んでいた。それが認められるとしたら?どうなったら?思いもかけない問い掛けに頭が真っ白になりかけたが、少し間を置いて務めて冷静に考えた。
小峰:・・・お客様からのクレームに対して、N社の改善が不十分なら、、、
田中:N社にキッチリ対応させるのはウチのチームの役割であり責務です。小峰君はボクの仕事が信用できないと?
田中は言葉とは裏腹に全く腹を立てた様子は無い。むしろ意地悪な質問をしているという自覚からか表情は緩い。
小峰:いや、田中さんたちはやるべきことは粘り強くキッチリやってくれると信じてます。ボクが言いたいのは、結局いくら改善要望を出してソフトウェアを修正してもらっても、結局ラチが明かない状況になるだろうと・・・
松本:なるほど。いくら頼んでも結局お客様が納得するレベルには改善しないというワケだな。これ以上、N社に頼んでもラチが明かないとなれば、会社も国産ナビを開発するしかないという結論を出すかもしれない。で、それはいつだ?
小峰:…いつ…って。
答えに窮する小峰を見て、松本が畳み掛ける。ただし、あくまで穏やかな表情、口調で。
松本:一旦は市場に出した製品だ。簡単に投げ出すことは出来ない。先ずは改善に全力を挙げることは言うまでもない。しかしいくら頑張ってもそれ以上の改善が見込めないとすれば、別の打開策を考えざるを得ない。そのラチが明かないという判断はいつ?誰がするのか?仮に半年後にそう判断したとしたら、そこから国産ナビの開発をスタートすることになるかもしれん。
田中:サプライヤーの選択と契約関係の整理には2~3ヶ月は掛かるでしょうね。N社ともそうでしたし。
松本:それから要求仕様を開示して開発をスタートして、まぁ半年から1年は掛かるかな?
田中:出来上がったナビの受け入れテストにも今度は時間が掛かりますよ。N社のナビで生じた課題が国産ナビで解消するのか?という観点のテスト項目は組み込まざるを得ないでしょうから。短くて3ケ月、長ければ半年かも?
小峰:・・・
松本:そうすると、国産ナビを市場に投入できるのは、どんなに早くても今から1年半から2年後ということになるな。
田中:その間も市場に出たマツダコネクト・ナビの品質改善は継続していくことになりますが、我々がラチが明かないと判断するくらいだから、お客様は一向に品質が改善しないと思うでしょうね。
松本:お客様から多くの不満を頂きながら1年半から2年の間、抜本的な対策が打てなかったとしたら、マツダコネクトの評判はどうなると思う?
小峰:うっ…
小峰は愕然とした。そうだ、その通りだ。このまま手をこまねいていたら、マツダコネクトの評価はいきなり地に落ちてしまう。
松本が続けた。
松本:そうアクセラ、いやマツダコネクトの発売を目前にして、我々は実は危機的状況を目の前にしている。このまま何もせず、お客様からのクレームに淡々と対応していただけでは、マツダコネクトはお客さまから信頼を得られず、評価は地に堕ちる。それがマツダ車を選ばない理由にでもなろうものなら、SKYACTIVで全社を上げて起死回生を図ろうとしている中で、我々が会社の足を引っ張る事にもなり兼ねない。黙っていても誰も助けてくれない。この状況を打開出来るのは、我々だけなんだ。
小峰は言葉を失ない、松本の話を黙って聞くしかなかった。
松本:ほぼ唯一にして最大の課題は日本市場向けのナビだ。日頃から君が主張してきた通りだと私も思う。この課題を早期に解決するには国産ナビメーカーに頼むしかない。会社の説得は私が受け持つ。田中君には市場に出した製品の品質改善に最大限努力して貰うと同時に、国産ナビの必要性を説くための材料を集めて貰う。そして国産ナビ開発にGOサインが出たら、その指揮を小峰君、君に頼みたいと思っている。
小峰は文字通り、度肝を抜かれた。呆気に取られた表情で松本を、そして田中の顔を交互に見る。田中はニッコリと笑って小さく何度も頷いていた。
松本:残念だが、どんなに頑張っても1年くらいは掛かるだろう。色々な意味で大変な1年になると思うが、どうだ?マツダコネクトの未来のために、骨を折ってくれるか?小峰君!
小峰はゴクリと生唾を飲み込むと、「ハ、ハイ」と頷くしかなかった。今日この場に呼ばれ、足を運ぶときには全く予想もしなかった展開にただただ驚くしかないが、同時に改めて今、自分たちが置かれている状況に想いが至り、大きな危機感を抱いていた。
そうだ、不満を募らせ腐っている場合じゃない。そうしていても誰も助けてくれない。マツダコネクトの未来は、自分たちで切り開くしかいないのだ。
2013年11月某日。マツダの世界戦略車にして最量販車であるアクセラの最新型、それに搭載される最新のインフォテインメントシステムであるマツダコネクト、その発売を目前に控えたこの日。
あろうことか、マツダのお膝元である日本市場向けのナビゲーションシステムに大きな不安を抱えていたことを、このときは一部の関係者しか知らなかった。その不安を目の前に、一人のマネージャと二人のエンジニアが密かに集っていたことなど誰も知らない。
この場は、まだ見ぬ大きな問題の解決を誓った、三人の決起集会となった。
第二章につづく
Posted at 2015/01/27 19:10:14 | |
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