
初めての愛車はマツダのRX-7(FC3S)でした。
小~中学生時代をスーパーカーブームの真っ只中で育った世代、当然のようなスポーツカー志向。
高校時代は単車に寄り道してローリング族(死語)。そのことで親と対立してクルマの免許を二十歳まで取らず。
大学卒業を間近に「就職したらお金を貯めてクルマを買おう」と考えたとき、車種選びには全く悩まなかった。
当時はオイルショックや暴走族等の社会問題は収束していたものの、まだそれらの余韻が残る時代。
「スポーツカー」は反社会的なイメージがあるとして、トヨタも日産も、セリカXX(後のスープラ)やフェアレディZを決して"スポーツカー"とは呼ばなかった。
ところが、マツダは唯一堂々とRX-7を"スポーツカー"と称した。
ロータリーエンジンの開発秘話、ホンダのCVCCと並んで米国マスキー法のクリア、オイルショックと燃費の悪さによる販売不振、ロータリーの特性を活かすスポーツカーエンジンへの特化、興隆を繰り返した結果として、今(当時)の名声と共にRX-7(FC3S)が在る、そのストーリーは二十代前半のスポーツカー好きの心を熱くするに十分だった。
新社会人となった給与のほとんどを頭金に注ぎ込み、ディーラーを訪ねたのが88年7月。
社会人4ヶ月目にして300万のクルマを買おうと言うのだから無茶といえばそうだったかもしれないが、全く迷いは無かった。
手にしたブルーメタリックの愛車は、評判以上にボクに満足感を与えてくれた。
動力性能、運動性能は文句なし。
例のトーコントロールハブ付きマルチリンクのリアサスは、ツボに嵌まると面白いように回頭し、立ち上がりにしっかりトラクションが掛かる。ステアリングを戻した分だけアクセルを入れる、コーナー出口に向けてステアがニュートラルとなったとき、リアに若干のスライドを感じながら立ち上がりが決まったときの爽快感と達成感がたまらない。
そして、そのツボになかなかそう簡単には嵌まらない(苦笑)手強さも、ボクを夢中にさせた。市場の評価は二分されており、限定車のアンフィニでは動きを規制する方向であったり、トーコントロールキャンセラなる社外品も存在したが、設計者の貴島氏に敬意を表して、ボクは手放すまでノーマルのままだった。
困った思い出はやはり燃費。リッター5kmしか走らないことは覚悟しており不満ではない。
ただ航続距離が300kmに届かないのには参った。
例えばスキーの往復に必ず給油が必要というのが意外にも不便極まりない。当時は空前のスキーブーム。スキー場までの往復のコースや時間帯を誤ると、先の見えない渋滞に嵌まり下手をすると渋滞の中で夜を明かす危険があった。
当然、深夜の時間帯を選んで渋滞を避けたいところだが、そうすると給油の場所とタイミングをどうするか?いつも悩みの種だった。
3年半の蜜月の後、次のクルマに買い替えをしたのだが、そこに至るストーリーはやや複雑で説明を要する。
当然、1991年中に予想された新型RX-7への買い替えが既定路線であったのだが、結果的にはそうはならず、ロータリーを降りることとなったからだ。
オーナーである間、ロータリーに対する評判、曰く「燃費が悪い」「極低速トルクが無い」「レスポンスが悪い」「音(エキゾーストサウンド)が悪い」等は、当然のことながら面白くなく見聞きしていた。ただ、燃費と音については同意せざるを得ないものの、レスポンスについては合点がいかない。13Bのツインスクロールターボはターボラグも極小であり、パワーバンド内では十分にレスポンシブであるというのがボクの見解。
とは言え、確かにレシプロに比べて全てに優れる訳もなく、ネガティブな面も多いロータリーエンジンが自動車史にその足跡を刻み続けるためには、如何なる方向性への進化を目指すべきか?いちオーナーとしてこの命題は重いが、想いを馳せずにはいられなかった。
幸いにしてFC3Sは、競合するレシプロの2L~3Lターボ勢に対して、動力性能で若干遅れを取る面はあっても、運動性を含めた総合力で常に最高の評価を受け、存在感を示し続けていた。しかし、ライバルの進化も急である。次期RX-7が当然、ロータリースポーツの目指すべき方向性を示すことになる。
マツダはル・マン挑戦のレース活動において、1986年から3ローターの13Gを投入。IMSA GTPクラスでの参戦ながら1987年にルマン総合7位を獲得している。そして1988年には4ローターの13J改へ。

自然吸気のマルチローターへ進化したレーシングロータリーに対し、
市販車のロータリーエンジンは如何にあるべきか?

当時のボクは、当然のように次期RX-7には3ローターNAのパワーユニットが載るものと信じきっていた。
事実として、確か1989年だったと記憶するが、13B改の3ローターをFC3Sのボンネット下に搭載した試験車が米国でデモ走行を行っていた。
極秘テスト等ではなく、マツダが公式に行ったもので、スクープではない形で報道もされている。
レシプロエンジンと違って排気バルブが無く、排気ポートが一気に開くロータリーはターボとの相性が良いと言われてる。しかし一方で、ロータリーエンジンのアキレス腱であるアペックスシールはレシプロエンジンのピストンリング程には高圧に耐えられない。つまり加給圧限界は低い。また、廃熱/冷却の問題、燃費の問題、結局レーシングロータリーがツインローター・ターボからマルチローター・NAへ方向転換したのには、相応の理由があった。
であれば、当然市販車ロータリースポーツのパワーユニットもマルチローター・NAへ?
しかし
話はそう単純ではない。
まず、当時のNAロータリー、国内販売は無く米国で売られていた自然吸気の13Bは150psのアウトプット。75ps/ローターである。ロータリーエンジンの場合、ローターを追加していくと、そっくりその分の出力UPが望めるということで、3ローターの最高出力は225psということになる。
1989年にマイナーチェンジしたFC3Sの2ローターターボが185ps→205ps。後の限定車アンフィニで215ps。
そうすると新パワーユニットのアドバンテージは、たったの20psもないのだ。
一方、FC3Sがデビューした当時、目だったライバルはZ30のVG30・230ps(グロス)→195ps(ネット)くらいであったが、RB20DET(180ps)、トヨタの1G-GT(185ps)、3S-GT(185ps)、三菱の4G63(205ps)と、レシプロターボの追撃は急であった。
1989年に発売されたZ32、R32-GTRに至ってはそれぞれ3L、2.6Lの6気筒にツインターボを装備して280psへ。ご承知の通りその後の自主規制によって国産車の上限馬力は長らく280psのままとなるが、1990年前後の各社の馬力競争は熾烈であった。
もちろん馬力自主規制を予見し得た訳もなく、1988~1989年頃、そういったパワーウォーズを目の当たりに、
次期RX-7が3ローターNA・225~230psのパワーユニットであったとしたら、果たして
スポーツカーとして成立し得るのか?簡単に結論が出せようはずもない。
そんな「速さこそがスポーツカーの絶対的価値」であると云わんばかりの市場に、一石を投じるクルマが1989年に登場する。しかもそれはマツダから。

ユーノスロードスター(現:マツダ・ロードスター)
正にパワーウォーズ真っ只中に登場したこのオープン2シーターは、軽量コンパクトな車体に1.6リッター130psと、ハイパワースポーツカーの対極にあった。しかしながら瞬く間に世界的な人気となり、多くのメジャーメーカーの追随まで生むことになるのはご承知の通り。
速さだけがスポーツカーの価値ではない。それ以外の要素でもクルマ好きのみならず、多くの人の支持を得るスポーツカーの存在は可能。正にそれを
体現した1台である。
となれば、
パワーウォーズに迎合せずとも
支持を得られる道は見出せる筈。
ターボを廃して燃費を向上し、マルチローターによる排気量UPで低速トルクを改善。エンジンサウンドは3ローター以降のレーシングロータリーがルマンにおいて「ジェット機のような独特のGood Sound!」との評価を得ている。
つまりはロータリーのネガティブをことごとく改善し、本来の良さを伸ばして独自の世界観を構築出来れば、ロータリースポーツの
存在感を維持し続けられるのではないか?
RX-7は唯一のロータリーエンジン搭載車。RX-7の失敗はそのまま、ロータリーエンジン消滅の可能性に繋がる。失敗は許されない。
3ローターNAの次期RX-7の成功について、一定の可能性を見出せたとき、ボクの中での新型の予想は非常に強い願望となり、あるいは妄想となっていたのかもしれない。

1990年初頭、コスモスポーツがユーノスコスモとして復活するが、そのパワーユニットはボクにショックを与えた。
ついに登場した3ローターエンジンはシーケンシャルツインターボが装備されていた。
同時に下位グレード用の13Bも同様にツインターボ化されていた。

1991年、マツダのロータリーが悲願のル・マン制覇を達成する。
同じ年に直噴ロータリーの技術発表。当時、レシプロエンジンでも直噴技術は確立されていなかったが、ロータリーはレシプロに比べて燃料の噴射圧が低くても燃料の噴霧化が可能と説明されていた。
自然吸気マルチローターロータリーが得た輝かしい勲章。
燃費問題への決定打?とも言える技術発表。
ボクが考えるロータリー存続のための様々な条件が、まるで順にクリアされていくようだった。これで近く登場する次期RX-7がボクの期待通りであれば、、、
1991年10月に発表となった新型RX-7(FD3S)は、ご承知の通り2ローター・シーケンシャルツインターボだった。
ボクの描くロータリーの未来と、マツダが描くそれとは、異なったモノだという事実を突きつけられた。
問:「なぜ、最高の性能が求めら得るレーシングエンジンがNAマルチローターなのに、市販車は2ローターターボなのか?」
合理的な(私が納得出来る)回答を得られるとは、とても思えなかった。
また
『市販車レベルなら2ローターターボで十分』
『(わかり易い)最高出力値が(商売のためには)必要だから』
なんて、興醒めする答えをマツダの技術者から聞きたくも無かった。そんな悲しい答えは。
だが「新型RX-7に買い換える」と決めていたボクの心は、急な方向転換を許容できない。
FD3Sはボクにとって買えるクルマではなかった。それはボクの考えでは「ロータリーを滅ぼすクルマ」であったから。
かといってFC3Sにそのまま乗り続ける気持ちにも、もうなれなかった。
結局、FD3Sのデビューを期にボクはFC3Sを手放した。これがボクとロータリーの出会いと別れの物語。
その後、FD3Sは2002年8月に生産中止となり、ロータリーがマツダのラインナップから消えたのもご承知の通り。
同様にトヨタのスープラ、日産のGT-R、シルビア(S15)などのターボ車も同時期に命脈を絶たれた。
延命出来たのは、NSX、ホンダのTYPE-R、そしてマツダのロードスターなど、自然吸気エンジンのクルマたちばかりだ。
歴史に『もし』は無意味だが、もしFD3Sが3ローターNAであったなら、2002年の生産中止はあったろうか?
もしそのとき延命が可能であったなら、大パワーを追い時代の変化に付いて行けずに滅びた他社のスポーツカーを尻目に市場に残り、名声を高めることも出来たのではないか?
1991年のル・マンにおいて、急激なレギュレーション変更に追随出来ず、トヨタと日産は参戦を見送った。
マツダはIMS-GTPクラスという総合優勝を狙うのが困難な立場ながらル・マン参戦を続け、当然のように1991年にも参戦し優勝を手にした。
ル・マン挑戦と市販スポーツカー開発。全く異なるふたつではあるが、ロータリーエンジンを軸としたとき、そこに同じ二者択一があった。パワーを追うか?理想を貫くか?
それぞれの選択は全く正反対となり、その結果もまた、全く正反対となった、というのはもしかしたら、ボクのコジツケかしら?(苦笑)
※※※
マツダのスポーツカー造りに対して厳しい内容となってしまいましたが、決してマツダや当時の関係者を非難、批判する意図はありません。20年も前の、若かりし頃の想い、ボクの心の動きを含め、マツダロータリースポーツとの出会いと別れをありのままに記載した次第です。
RX-7生産中止の報に大きなショックを受けたのは事実ですが、既にRX-8の登場が確実視されていましたから、平静を保つことも出来ました。
FD3Sについても既に述べた通り当初は好意的ではありませんでしたが、雑誌やビデオ等でのライバル対決ではやはり応援していましたし、生産中止の後には、やっと冷静にクルマの評価をすることが出来るようにもなりました。
RX-8の生産中止も既に発表され、再びラインナップからロータリーが消滅することになりますが、マツダなら再び復活させてくれることを信じて、今は静かに待ちたい想いです。
将来の水素ロータリーの可能性にも、大いに期待しています。
唯一、ボクの心に引っ掛かっていることがあるとすれば、3ローター・ロータリーエンジンの可能性についてです。
恐らく、20年前も今も、3ローターにはボクが知らない何か市販に向けた大きな課題があるのでしょう。
「XXだったから、3ローターを採用しなかったんです。」という事実が聞ければ、きっとスッキリするんだと思います。
マツダ車のオーナーだったのはこの3年半だけですが、以来ずっとマツダのファンでありロータリーエンジンのファンであることを、最後に明記しておきます。