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ホワイトコウキのブログ一覧

2023年03月29日 イイね!

蝦夷地江戸幕府防衛の続き

蝦夷地江戸幕府防衛の続き第1次幕府直轄時前後の警備の中心は津軽藩、南部藩であったが、連年のロシアによる露寇を受け、更に幕府は1807年会津藩、仙台藩に蝦夷地出兵を命じた!

会津藩
それにより第1次幕府直轄時の会津藩の守備範囲は松前、宗谷、利尻、樺太

会津藩は本営を樺太のクシュンコタンに置き、アイヌとも交流して食べ物のヒントなども得ていたが、津軽藩同様病人が続発

ヨーロッパ戦線の影響で樺太へロシアからの脅威がなくなったので幕府より引き上げ命令、信頼関係ができていたアイヌの人々は「船を追いかけて海岸を走り回って別れを惜しんだ」と言う

まるで、太平洋戦争のパラオ共和国ペリリュー島の秘話はこちら→🇵🇼を思い起こされる

そのペリリュー島関連のブログよりかつて「次世代の党」改め「日本のこころ(を大切にする党)」の比例代表区に、西村真悟先生と共に保江邦夫先生と矢作直樹先生も名を連ねていたのか〜今まで気がついていなかったww

戻って、第2次幕府直轄時は会津藩は標津に元陣屋を置き、根室海峡沿岸の統治、警備、樺太にも他藩と2年交代で警備についた

標津のは当時高級魚だった鮭でも、他地域の鮭と比べものにならない程に高品質で価値が高くブランドになっていた

会津藩はまた樺太アイヌ同様の交流を積極的にもち共に開拓発展、町の礎を築こうと構想の思いを屏風に描き
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互いの文化、言葉の違いを理解するのに「アイヌ語の教科書」を元陣屋の代官南摩綱紀が作成し用いた
まっこと、日本人らしい振る舞いだと思う

幕末藩主松平容保は京都守護職も命じられ、戊辰戦争、白虎隊も戦う国元の危機に1868年引き揚げ、まちづくり構想は明治開拓へ

標津町野付半島には、「会津藩士の墓」がある
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仙台藩
東北随一の大藩は第1次幕府直轄時、国後、択捉の警備に入っている

本格的には第2次幕府直轄時に、今はウソポイがある白老に元陣屋を置き、出張陣屋は広尾、厚岸、根室、国後、択捉
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山川海の天然の要害を生かし、堀を作り、土を盛り頑丈な砦を半年で作り、射撃訓練場まで備わっていた

仙台の塩釜神社、愛宕神社を勧請し国元と同じく年中行事、お祭りも行い400人ほど白老に住んでいたアイヌにも、酒やご馳走、衣服などが振る舞われた

昆布養殖など漁業や産業振興にも努め、東蝦夷地の警備にあたっていたが、新政府軍には諸外国から日本の領土を守っていたのに賊軍とされ蝦夷地の藩士たちも追討された

現在は仙台藩白老元陣屋跡と資料館も開館されているが、ウソポイとは裏腹に何度も白老に通っていますが、陣屋跡などがあるとは知りませんでしたww
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秋田藩
まず秋田の名称が微妙(⌒-⌒; )
実は鎌倉時代前から蝦夷地を支配していた安藤氏、室町時代に秋田に戻り秋田氏を名乗る
しかし江戸幕府が出来て徳川家康は、佐竹氏を常陸国から秋田へ国替えし、以後佐竹氏が秋田藩を統治、秋田氏が現在の茨城県北部常陸の国へ( ̄ェ ̄;)

秋田藩も本格的には第2次幕府直轄時から増毛に元陣屋を置き、出張陣屋は宗谷、樺太(冬は増毛で越冬)
第1次幕府直轄時は津軽藩が陣屋を構え警備していたところ

増毛には元陣屋なる交流施設がある事は知っていたが、それが秋田藩だったのか〜
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昨年の145の乗り納ツーリングで増毛に寄ってきましたが、今シーズンも道路にはもう雪もなく解禁、明日から乗り始めようかと思っていますが、最高に楽しいツーリングコースだったので、数ヶ月以内に再度増毛方面ツーリングに行って、この陣屋資料施設や台場等にも寄って来たいと思います❗️

庄内藩
これで最後の藩になりますが、第2次幕府直轄時に東北6藩で一番真剣に開拓に取り組んだとの評価があります

元陣屋は浜益(ハママシケ)に置き、出張陣屋は留萌、苫前、天塩、領地としても与えられ、天売、焼尻島も含まれ警備もしていた

秋田藩との警備位置関係が微妙だが、浜益と留萌の間にある増毛が秋田藩なのは、増毛の元陣屋は越冬施設としての役割が大きかったせいだろう

職人や手厚く準備金と給付金をつけての移民も継続的に募集して10箇所の村が出来たと言う
庄内藩の酒田は北前船航路の拠点であり生活用品や資材は船で比較的に容易に運ばれたようである
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領地としてもどうにか軌道にのってきたのに、江戸では武力で幕府を潰すことを狙った薩摩藩が放火・略奪・暴行騒ぎを起こし、江戸市中警備の役目も担っていた庄内藩は薩摩藩邸を焼討ち
庄内藩も新政府軍の討伐の対象になり、江戸詰藩士の引き払いと800人余りの藩士や農民がいたが蝦夷地総引き揚げを決定し陣屋は終焉した

蝦夷地防衛をしていた諸藩が、新政府軍に謝罪文を出し降伏交渉したが、奥羽越列藩同盟として戦う羽目になる

外国から日本を守っていた諸国に内部から戦闘を起こすとは、薩摩藩を中心とした新政府軍の本当の目的はなんだったのであろうか⁉️
Posted at 2023/03/30 22:40:30 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年03月28日 イイね!

知られていない蝦夷地防衛

知られていない蝦夷地防衛近頃はすっかりシマエナガに押されたりもして、かつての北海道のマスコット的存在の流氷に乗ってやってくるクリオネはほとんど聞かなくなりましたねww

そう言えば前回シマエナガを見たと投稿したのですが、ただのエナガと言う大きさが同じで日本全土に住む鳥がいると知ってしまい( ̄ェ ̄;)

目の後ろが黒かったので、ただのエナガだった可能性が濃厚(; ̄ェ ̄)
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そんな小鳥もいたんかいww
まだまだシマエナガを探す日々も続きそうです(⌒-⌒; )

さて、江戸時代の1800年に伊能忠敬が蝦夷地測量に向かったのは、蝦夷地周辺に出没する異国船の脅威に対して江戸幕府が日本国の領土を守るために地図の作成の必要性からであったが、忠敬の目的は意外にも別にあった事は以前のブログで紹介もしているが

今回は江戸時代末期に蝦夷地防衛のため、武士が多数派遣されていたと言う、ほとんどの日本人が知らない、北海道民でさえほぼ知らない事実

この事実を知れば、北海道各地への旅行、ツーリングが一層意味深いものになるだろう

しかしその実態は、江戸時代の防人

蝦夷地の厳しい寒さで命を次々と落とす、九州での日本防衛よりはるかにまさに命懸け

まずは1800年伊能忠敬とも交流をもった、「八王子千人同心」の文武両道の優秀な100名が蝦夷地警護と開拓を申し出て派遣された、のちに30名追加し4年後の1804年に解散

その間の死亡者は32名

入植先は蝦夷地でもまだ温暖な雪の少ない太平洋側で勇武津(苫小牧)と白糠、松前藩下での「場所」などがありまだ比較的に便の良いところであったが

蝦夷地に近いと言うことで、津軽藩と南部藩には松前藩の加勢が命じられたりしていたが、1807年蝦夷地を江戸幕府直領になる頃から本格的に蝦夷地防衛を命じらる

1807年から一度松前藩が蝦夷地に復領した1821年までを第1次江戸幕府直轄、その後日米和親条約締結後の1855年から幕末までの第2次江戸幕府直轄

第1次と第2次で地域を変えながら、東北6藩(津軽藩、南部藩、会津藩、仙台藩、秋田藩、庄内藩)に警備と領地も割り当てられた

津軽(弘前)藩
第1次江戸幕府直轄時は、まず函館の千代台に元陣屋(城郭)を築き、松前藩の梁川へ国替え後に松前へ移る

そして警備範囲が日本海側の熊石から宗谷を周って知床手前の斜里までの広範囲

稚内の百年記念塔にある北方記念館の説明によると宗谷に230人武士が派遣され士気は旺盛だったが、にわか造りの陣屋は堪え難い寒気でほとんどが病気になり一冬で32名以上死亡ww増毛で越冬するようになる
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斜里詰め100名は更に悲惨な事に、流氷がきて海が凍るなんて聞いてないよ〜alt
一冬で100名中72名が寒さで体力を奪われ病気になり死亡ww

帰国の船が利尻を周り小樽の忍路に着船、高島に駐在していた組頭の勧めでそこから陸路で函館へ、最終的に帰郷できたのは、わずか17名、特に戦闘したわでなく北海道の寒さとその備えが衣食住出来ていなかったゆえに

斜里町には津軽藩士殉難慰霊の碑があり、この縁で斜里町では津軽から「弘前ねぷた」が伝授され開催されているようである
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因みに弘前ねぷたは、青森ねぶたと違う(; ̄ェ ̄)
「ぶ」と「ぷ」も違う( ̄ェ ̄;)

第2次江戸幕府直轄時には、第1次は津軽藩と次に紹介する南部藩が警備の中核であった無謀な広範囲から狭められ函館周辺と日本海側は江差から積丹神威岬まで、出張陣屋は寿都に置かれた

規模は3270坪、武道場まで13棟を津軽から大工棟梁を迎えて建設、弁慶岬には烽火台を立て、山道を開削し町の人たちに読み書きや剣道を教え寿都近郊の開拓にも貢献した

南部(盛岡)藩
蝦夷地隣接藩として、津軽藩と共に第1次江戸幕府直轄前後から蝦夷地警備を命じられる
元陣屋は函館山ロープウェイの麓に粗末な建物だったと言うww
今も「南部坂」として地名が残っている
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第2次江戸幕府直時も第一次と同様な太平洋側の警備で、函館の元陣屋、新渡戸稲造の父、十次郎らの視察で出張陣屋は砂原、長万部、室蘭

室蘭の出張陣屋があった所は今は陣屋町、史跡として保存もされていて「とんてん館」で南陣屋資料を展示している

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縄文土偶の「かっくう」が発見されたエリアの砂原には、第1次江戸府直轄前からまず津軽藩が勤番所を置き、第1次江戸幕府直轄以降は南部藩が、函館市民のなまりは面白いほどに感じるが、砂原のなまりはそれを遥かにしのぐレベルで東北弁の置き土産か(⌒-⌒; )

残りの4藩は次回の紹介へ続くww

特に人気は無いブログだと思うが、オラは北海道各地の歴史を知れるのでとても面白い(⌒-⌒; )
Posted at 2023/03/29 07:06:11 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年02月27日 イイね!

函館開港の歴史

函館開港の歴史1840年アヘン戦争で清がイギリスに侵略される中、欧米の外国船が日本近海に出没する頻度が増す

諸藩に築城を禁じていた幕府だが、松前藩に築城を命じる

1853年アメリカのペリー艦隊が浦賀に、ロシアのプチャーチン艦隊も長崎に来航
国内世論が紛糾する中、幕府は1854年日米和親条約、1855年日露通好条約に調印し下田、函館を開港する

ペリーは調印後すぐに、アメリカの捕鯨船が薪や食料の補給を受ける港として函館は適切か視察に寄る
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その時の記念碑が建てられていますww

私もかつて訪れています(⌒-⌒; )

銅像まで(; ̄ェ ̄)
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無理矢理に開港を迫らて、不平等条約結ばされペリー提督を顕彰( ̄ェ ̄)

どうなっているんでしょうか⁉️

この開港によって現在の外国の教会とお寺が入り乱れる現在の独特の函館が作られたと

その時に、ペリー提督に接遇したのが松前藩家老の松前勘解由(かげゆ)

勘解由は温厚誠実な態度でペリーに感銘を与えたよう

でも、のらりくらりとアメリカの要求を退けた交渉ぶりは「松前勘解由のコンニャク問答」と諸大名の評判になったと言う(⌒-⌒; )

このような面白い裏話も知らないと歴史を学ぶ意味がないね〜

江戸幕府が最初にアメリカと条約を締結したのは、初めにより厳しい条約を結んでしまうと他の外国とも同じように結ばなければならず、アメリカが他のロシア、イギリス、フランスなどと比べてあまり不利でなかったと聞いた覚えがある

幕府は箱館(函館)を含む蝦夷地の殆どと、樺太千島を直轄にし、函館奉行所の管轄とした

松前藩は北側は江差までと東側は北海道新幹線の入口で駅もある木古内までの狭い範囲の蝦夷地と直轄による代替えとして、陸奥梁川、出羽東根の3万石が与えられた

幕府による直轄は実は2回目で、1803年函館奉行所をペリーの銅像近くの港を望む丘に建設し1807年から1822年には一旦松前氏に戻していた

1856年松前氏から領地受取のための随従者の中に、北海道の名付親と言われる松浦武四郎もいた

しかし、「北海道」の地名は既に、最後の将軍慶喜の父、水戸藩主の徳川斉昭が蝦夷地開拓案の中で名付けていた

直轄と同時に幕府は、函館に研究教育施設「諸術調所」を設置し教授として武田斐三郎を派遣した

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門下生には日本の郵便制度を作った前島密、鉄道制度を作った井上勝など優秀な人材を輩出し、自身も日本のレオナルドダヴィンチと言われるほど様々な分野に長けていて
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外国との戦いのために築かれた五稜郭やその中に新たに箱館奉行所を建設し直した
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当時の建物は、江戸幕府の崩壊とともに明治新政府へ引き継がれますが、蝦夷地開拓をめざして上陸した榎本武揚率いる旧幕府脱走軍が占拠。激戦の末に箱館を制圧した新政府軍からの艦砲射撃で被弾し、1871(明治4)年には開拓使の札幌移転にともない解体されます。その後、昭和後期になると、復元の待望論が持ち上がり、綿密な発掘調査、文献研究が進められた結果、 2010(平成22)年7月、見事によみがえりました。


3分の1の大きさで復元されたそうです
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有料だったので中には入りませんでしたww

設計者も知ったので、次回は入館してくるかも(⌒-⌒; )
Posted at 2023/02/27 21:03:15 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年02月18日 イイね!

蝦夷地図は誰が完成させたか⁉️

蝦夷地図は誰が完成させたか⁉️老中田沼意次時代の天明探検隊に、最上徳内が参加していて、以後8回蝦夷地探索にでかけ、タイトル画像の地図を1790年に作成した

田沼が失脚されられ、蝦夷地開発は頓挫したが、1798年高まる蝦夷地周辺に出没する異国船の脅威に対して、幕府は再度、近藤重蔵、最上徳内らの大調査団を派遣し1802年にほぼ実態に近い蝦夷地図を作成している
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この段階では、樺太が大陸と離れている島であるかどうかは、まだわかっていなかった

その後に、皆が知っている伊能忠敬が登場する(⌒-⌒; )
時期としては被るが、本格的な蝦夷地測量に1800年向かった

ご存知の通り忠敬なんと55歳、49歳で隠居し50歳から天文学を20歳も若い高橋至時に弟子入りして学んでの出発だった

でも本当の目的は、蝦夷地の測量ではなかった(; ̄ェ ̄)

至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。

緯度1度の距離”が判れば、それを360倍すれば地球の大きさがわかると考え、2つの地点は緯度が離れている方がより正確に割り出せる

なら幕府が蝦夷地の領土確定のために正確な地図作成を欲していたので便乗しよう( ̄ェ ̄;)

やっと蝦夷地に上陸し現在の北海道新幹線終点である北斗市で、若き日の間宮林蔵と運命的な出会いをする

間宮林蔵は以後、忠敬を師として敬愛し、測量技術を学び、のちに忠敬がやり残した蝦夷地の測量していく

伊能忠敬は蝦夷地太平洋側を測量して帰路につき地図を作成し提出

その地図の正確さに幕府は驚き、忠敬は未完だったので再度蝦夷地への渡航を願いでたが、幕府は忠敬に蝦夷地以外の日本地図作成を命じた❗️

次第に出来上がる地図のあまりの出来の素晴らしさに忠敬は待遇も良くなり、とうとう幕臣にまでなる

1817年忠敬72歳、55歳からの地球の大きさを知ると言う好奇心から始まった17年間にも及ぶ過酷な測量を終え全日本地図作成作業が始った

そこへかつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れる

もう測量データを平面に移す場合の誤差を修正して繋ぎ合わす最終段階

1818年忠敬は完成を待たずして世を去る

しかし、“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指す

忠敬の死から3年後の1821年7月10日。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。
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地球の外周を正確に知るための好奇心で始まった伊能忠敬の測量の旅で歩いた距離は4万キロ、奇しくも地球の外周4万キロを一周したことになる

時期が戻るが、1807年ロシア艦が択捉島を襲い警備していた日本側は戦うが退却

この中に間宮林蔵もいて、この敗戦が動機になり蝦夷地、樺太探索、測量の必要性に駆られ出会ってから11年後に伊能忠敬より本格的に測量を学ぶ
林蔵が伊能忠敬に本格的に測量を学ぶことになるのは、伊能忠敬が第一次九州測量から江戸に戻った文化8年(1811年)5月8日から同年11月25日、第二次九州測量に出発するまでの期間です

1808年には林蔵は松田伝十郎と本格的な樺太探検をしている!
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松田伝十郎は樺太を西回り、間宮林蔵は東回りと分担して探検し、松田伝十郎は一足先にラッカ岬に到着

樺太が島であることを確認し、ラッカ岬に「日本国境」の木柱を建てる

この時に、樺太が日本の領土として確定したとも言えるのではないか、また伝十郎は樺太アイヌの山丹貿易での借財を幕府の負担で救っている

樺太、樺太アイヌが日本の統治下にあったとう言う証拠、恩をアダで返すアイヌを名乗る奴らの無知な現状ww

間宮林蔵は翌年に再度樺太が島であることを確認し、大陸にも渡り、そこの役人に会っている

林蔵は師の忠敬が世を去った翌年さらに蝦夷地の測量を完全なものして、この測量データを元に日本初の実測地図「大日本沿岸輿地全図」の蝦夷地部分が作られたと近年発表されている

蝦夷(北海道)地図の部分は、間宮林蔵の測量を元に完成した

後に、シーボルトが「大日本沿岸輿地全図」の縮図を海外へ持ち出そうとして、永久国外追放になったシーボルト事件が起きるが、そのシーボルトが著した『NIPPON』にて、間宮のことが世界に紹介され
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「間宮海峡」と世界地図に初めて日本人の名前が残るのである

伊能忠敬、間宮林蔵による「大日本沿岸輿地全図」は、このような緻密な地図を作る国をとても植民地にできないと列強に思わせた

また、幕末1855年の日露通好条約締結の際には、間宮が作成した樺太の地図が参考にされている



そう言えば、日本の最北端宗谷岬に立派な立像があった‼️

彼こそ間宮林蔵だったのか


本当は樺太に、間宮海峡を望むラッカ岬に建っているべき

北海道を守ったと言う点では、宗谷岬でも最適な場所だと思うけれど、、、
Posted at 2023/02/18 11:44:44 | コメント(0) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記
2023年02月07日 イイね!

得撫(ウルップ)島

得撫(ウルップ)島千島列島にあり最も大きな択捉島のすぐ横、40キロ東側に位置し、千島列島で4番目に大きな広い面積を持つ島

しかし、北方四島には含まれない

このウルップ島の先は広葉樹林は見られなくなり亜寒帯に植生区分が変わる

険しい島で平地が少ないので定住には向かなく、近世も現在も定住者は居ない

北海道ではなかなか見れないエトピリカは多数生息


なかなか突っ込み所が多い派手な鳥であるww

1801年に江戸幕府の派遣で「天長地久大日本属島」の標柱を建てている


因みに大東亜戦争終戦8月15日以降に、ソ連軍が侵攻し千島半島での唯一の交戦が行われた占守(シュムシュ)島は千島列島北東端でカムチャッカ半島近最も近くに位置し、海獣も多く定住者がおり
一時は夏で日本人が1,000人ほどカニ工場などあり住んでいた



画像検索していたら、みんカラ!( ̄ェ ̄;)

しかもThomasさんだ〜(⌒-⌒; )

そして占守島の戦いは、樋口季一郎中将の判断のもと、日本軍が全滅の気迫でソ連軍に勝利している

これについては、Thomasさんの再絵のブログで素晴らしくまとめられています‼️



それから、北鎮館で忘れられない気迫の絵は何の戦いだったか調べていたら

自分のみんカラブログも出てきたー


下手な見覚えのあるひらがな文字でオヤッと思った(⌒-⌒; )

自分で書いて内容は忘れていましたww

そしてこの絵はアッツ島の戦いで大東亜戦争の初期に、千島列島の更に東側でアメリカ大陸に繋がるアリューシャン列島にある島

一応アメリカ領土内での戦争

キチンとアッツ島も位置も調べてあった❕


なかなか自分のブログですが、力作で勉強になりました(⌒-⌒;



日本の周りに外国船が、鎖国政策を江戸幕府はとっていたのに、18世紀後半には領土獲得や通商など求めて各国の船が多数出没しだす中

江戸幕府としても、千島列島や樺太を調査して日本の領土確定の努力を必要が迫りし始める

みんカラブログもかれこれ10年やっていたらブロガーの端くれにはなったのかなぁ(⌒-⌒; )

みん友とも繋がる嬉しさ♪

そして千島列島を書いたら触れなくてはいられないのが、誰もが知っている「蛍の光」


でも、「蛍の光」の本当の意味を殆どの日本人は知らないww

もちろん3番4番がある事も、まだあまり知られていない
Posted at 2023/02/07 15:56:01 | コメント(1) | トラックバック(0) | 歴史 | 日記

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何シテル?   05/30 12:27
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