老中田沼意次時代の天明探検隊に、最上徳内が参加していて、以後8回蝦夷地探索にでかけ、タイトル画像の地図を1790年に作成した
田沼が失脚されられ、蝦夷地開発は頓挫したが、1798年高まる蝦夷地周辺に出没する異国船の脅威に対して、幕府は再度、近藤重蔵、最上徳内らの大調査団を派遣し1802年にほぼ実態に近い蝦夷地図を作成している
この段階では、樺太が大陸と離れている島であるかどうかは、まだわかっていなかった
その後に、皆が知っている伊能忠敬が登場する(⌒-⌒; )
時期としては被るが、本格的な蝦夷地測量に1800年向かった
ご存知の通り忠敬なんと55歳、49歳で隠居し50歳から天文学を20歳も若い高橋至時に弟子入りして学んでの出発だった
でも本当の目的は、蝦夷地の測量ではなかった(; ̄ェ ̄)
至時は地球の正確な大きさが分からず暦の精度に不満足だった。“いったい地球の直径はどれくらいなのか”。暦局の人々は、オランダの書物から地球が丸いということを知ってはいたが、子午線1度の長さは25里、30里、32里など意見が分かれていた。そこで忠敬は「北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる」と提案。至時は忠敬の案に賛同した。2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が減るため、江戸から蝦夷地(北海道)まで距離を測ることが望ましかった。
”緯度1度の距離”が判れば、それを360倍すれば地球の大きさがわかると考え、2つの地点は緯度が離れている方がより正確に割り出せる
なら幕府が蝦夷地の領土確定のために正確な地図作成を欲していたので便乗しよう( ̄ェ ̄;)
やっと蝦夷地に上陸し現在の北海道新幹線終点である北斗市で、若き日の間宮林蔵と運命的な出会いをする
間宮林蔵は以後、忠敬を師として敬愛し、測量技術を学び、のちに忠敬がやり残した蝦夷地の測量していく
伊能忠敬は蝦夷地太平洋側を測量して帰路につき地図を作成し提出
その地図の正確さに幕府は驚き、忠敬は未完だったので再度蝦夷地への渡航を願いでたが、幕府は忠敬に蝦夷地以外の日本地図作成を命じた❗️
次第に出来上がる地図のあまりの出来の素晴らしさに忠敬は待遇も良くなり、とうとう幕臣にまでなる
1817年忠敬72歳、55歳からの地球の大きさを知ると言う好奇心から始まった17年間にも及ぶ過酷な測量を終え全日本地図作成作業が始った
そこへかつて忠敬が測量を果たせなかった蝦夷地北西部の測量データを間宮林蔵が持って現れる!
もう測量データを平面に移す場合の誤差を修正して繋ぎ合わす最終段階
1818年忠敬は完成を待たずして世を去る
しかし、“この地図は伊能忠敬が作ったもの”と世間に伝える為に、その死を伏せて地図の完成を目指す
忠敬の死から3年後の1821年7月10日。江戸城大広間で幕府上層部が見守る中、景保や忠敬の孫・忠誨(ただのり/15歳)、弟子たちの手で日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられた。3万6000分の1の大図214枚、21万6000分の1の中図8枚、43万2000分の1の小図3枚という、途方もない規模のものだった。
地球の外周を正確に知るための好奇心で始まった伊能忠敬の測量の旅で歩いた距離は4万キロ、奇しくも地球の外周4万キロを一周したことになる
時期が戻るが、1807年ロシア艦が択捉島を襲い警備していた日本側は戦うが退却
この中に間宮林蔵もいて、この敗戦が動機になり蝦夷地、樺太探索、測量の必要性に駆られ出会ってから11年後に伊能忠敬より本格的に測量を学ぶ
林蔵が伊能忠敬に本格的に測量を学ぶことになるのは、伊能忠敬が第一次九州測量から江戸に戻った文化8年(1811年)5月8日から同年11月25日、第二次九州測量に出発するまでの期間です
1808年には林蔵は松田伝十郎と本格的な樺太探検をしている!
松田伝十郎は樺太を西回り、間宮林蔵は東回りと分担して探検し、松田伝十郎は一足先にラッカ岬に到着
樺太が島であることを確認し、ラッカ岬に「日本国境」の木柱を建てる
この時に、樺太が日本の領土として確定したとも言えるのではないか、また伝十郎は樺太アイヌの山丹貿易での借財を幕府の負担で救っている
樺太、樺太アイヌが日本の統治下にあったとう言う証拠、恩をアダで返すアイヌを名乗る奴らの無知な現状ww
間宮林蔵は翌年に再度樺太が島であることを確認し、大陸にも渡り、そこの役人に会っている
林蔵は師の忠敬が世を去った翌年さらに蝦夷地の測量を完全なものして、この測量データを元に日本初の実測地図「大日本沿岸輿地全図」の蝦夷地部分が作られたと近年発表されている
蝦夷(北海道)地図の部分は、間宮林蔵の測量を元に完成した
後に、シーボルトが「大日本沿岸輿地全図」の縮図を海外へ持ち出そうとして、永久国外追放になったシーボルト事件が起きるが、そのシーボルトが著した『NIPPON』にて、間宮のことが世界に紹介され
「間宮海峡」と世界地図に初めて日本人の名前が残るのである
伊能忠敬、間宮林蔵による「大日本沿岸輿地全図」は、このような緻密な地図を作る国をとても植民地にできないと列強に思わせた
また、幕末1855年の日露通好条約締結の際には、間宮が作成した樺太の地図が参考にされている
そう言えば、日本の最北端宗谷岬に立派な立像があった‼️
彼こそ間宮林蔵だったのか
本当は樺太に、間宮海峡を望むラッカ岬に建っているべき
北海道を守ったと言う点では、宗谷岬でも最適な場所だと思うけれど、、、