
函館に住んだりしていたのに、今更ながら函館戦争の全容を掴む事が出来ました。
地元に住んでいてわかりにくいのが、当初、新政府が北の守りの為に五稜郭などを構築
そこを、徳川幕府側の残党が新天地を北海道にもとめ奪う
まずは、新政府側の松前藩士とかが、旧幕府軍に函館から追われ、松前、江差、そして本州へ逃げる
歴史では、旧幕府軍が負けたのはわかっているから、何か追われたのは旧幕府軍の土方歳三とかと思ってしまうんだけど、実は松前、江差での戦いは旧幕府側が追い詰めて、新政府側が逃げた歴史
江差沖で、軍艦開陽丸が座礁して沈むんだけど
これも、旧幕府軍が江差に逃げ込んだ新政府軍を攻撃するために向かわせた軍艦❗️
ここを、よくわかっていない人が多いのでは?
もちろん私もww
旧幕府軍は、当時の日本の軍艦の性能を考えると、日本の半分以上を確保していたけど、開陽丸の座礁などでドンドン船を失っていった
開陽丸の沈没から、負けへと歯車が逆に回りだした感じ
新政府側が再上陸しても、旧幕府軍には押されっぱなし
土方歳三の守る山には完敗したし、木古内の戦いでも負けた
旧幕府軍は強かった❗️
しかし、数で勝る新政府軍に包囲され、退路を断たれるのを恐れ自ら函館へ撤退していく
そして、最終決戦(明治2年5月16日)
旧幕府軍は、軍艦も失い、残る陣地の五稜郭と千代ケ岡陣屋にこもり集中砲火をあびる
この時点で、もう勝敗は明らかだった
五稜郭には、もちろん榎本武揚
そして、千代ケ岡陣屋には、中島三郎助を大将とした中島隊
その千代ケ岡陣屋を攻めた大将が村橋久成❗️
新政府軍は、降伏を促す
しかし、千代ケ岡陣屋の中島三郎助は、一顧だにせず降伏を拒否、また五稜郭への撤退勧告も拒否する
中島三郎助は、勝海舟と共に長崎海軍伝習所に第一期生として入所し、日本海軍の礎を作った一人
吉田松陰へも海防を教授したとされ、黒船が現れた際は黒船に乗り込みペリー提督と会っている❗️
中島三郎助を慕う人も多い
中島三郎助は千代ヶ岡陣屋で討死することを公言し、頑なに降伏を拒否した
そして、土塁を構築しただけの名ばかりの陣屋で、三郎助と二人の息子を含めた中島隊は全滅する
なぜ、死することがわかっていて恭順しなかったのか?
この愚かとも不可解とも思える一途な行動
志(こころざし)か❓
函館に住んだ事がある私は、千代ヶ岡(今は千代台公園)この中島三郎助の強烈な行動に衝撃うけ、もしやとピンときた❗️
中島町にある中島レンバイ(中島廉売)
函館市民の台所と言われる市民に大人気の市場
とにかく安いww
毛ガニ700円とか〜(⌒-⌒; )イカも!
まさか当たってた( ̄O ̄;)
頑なに戦った中島父子を惜しみ、千代ケ岡の土地に中島の名を付けたんだ❗️
住んでいて高い場所とは感じなかったけど、丘陵地なのに中島ww
そんないわれがあったんだ
この死しても志を貫く姿が、知る人に強い衝撃を与え
その精神は、日露戦争や太平洋戦争に受けつがれていった気もしてくる箱館戦争最後の実戦にまつわるエピソード
p.s. 函館市民より
毎年5月に開催される五稜郭祭りの出発は、中島廉売からだって❗️
また、中島廉売のお祭りは、中島三郎助のお祭りと言うらしい
Posted at 2016/10/10 20:45:44 | |
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