
かんりん丸は、1857年オランダで完成
江戸幕府が海軍士官養成のために設立した
長崎海軍伝習所の練習艦としてから始まるスクリューを持った初の日本の軍艦
長崎海軍伝習所の講師は、全てオランダ軍人で、咸臨丸のオランダ語名はJAPAN(ヤパン号)
1860年 日米修好通商条約の批准書を交換するため、長崎海軍伝習所の木村芥舟、勝海舟や福沢諭吉、ジョン万次郎ら百余名を乗せて、
アメリカの軍艦ポータハンと共に太平洋横断
ちなみに、先立つ1854年6年前に米国艦隊の停泊地であった伊豆下田で、
吉田松陰がこのポータハンに密航を訴える事件があった❗️
下田と言えば、天城越えである
ブラタモリで知ったが、伊豆の踊子の舞台ww
初の太平洋横断の実態は、
行きは嵐でほとんどアメリカ人水夫に操縦してもらったらしい
サンフランシスコへ渡った乗組員は、浮世絵の春画を持って行って人気を得たとか(^^)
かなり色々な面で、ショックなエキゾチックジャパンだったでしょうね〜
アメリカの帰りは、
日本人も主力で航海したらしいが、変わって好天に恵まれ順調であったらしく練度の向上を確かめる機会がなく
”往路でのアメリカ人乗員による助力は過小評価され、航海・運用の技量不足という重大な問題点が見過ごされたことは、
蝦夷共和国時代に艦隊主力を海難で喪失する遠因となるなど、大きな禍根を残すこととなった“
榎本武揚は、当時最新鋭の開陽丸を江差沖で座礁、沈没させている
さて、その約2年後!
1862年
小笠原諸島を巡視し、父島と母島を探検
父島、母島に探検して、当時、住んでいた住民は、白人とハワイ人( ̄O ̄;)
徳川幕府が、
先住民を庇護をすると言う事で日本人へ帰化させて、後に日本領土として世界に認められる
もし、徳川幕府が父島、母島を放置していたら、現在は日本領ではなく、ものすごく広い海域が他国に渡っていただろう
1866年 酷使で、蒸気機関を撤去!帆船となる
1868年 明治元年の年 戊辰戦争 榎本武揚指揮の下、咸臨丸も旧幕府艦隊として参戦
東北、北海道地方へ支援に行くつもりが、暴風雨により千葉沖で流され
榎本艦隊とはぐれ、逆方向の、あの下田へ漂着ww
救助に来た蟠竜丸と共に修理のため清水へ
蟠竜丸は先に出航、咸臨丸は修理が遅れて新政府軍に追い付かれ

多勢に無勢で全滅
乗組員の遺体は逆賊として放置された!
その遺体を、あの
清水次郎長が埋葬
山岡鉄舟が碑銘の揮毫を書く
清水次郎長は、この咸臨丸事件以降、飛躍的な変身を遂げるらしいが、まだ全部読んでいないのでよくわからない(⌒-⌒; )
咸臨丸は、新政府に没収された
時代は変わり3年後の1871年に、
北海道へ開拓使の輸送船とされ小樽を目指すも
函館港を過ぎた、北海道新幹線の北海道側出口の
木古内町沖で遭難
2006年(平成18年)サラキ岬沖で発見された朽ちた錨は咸臨丸のものと発表された。
旧幕府軍艦隊は、函館、江差で沈んだが、共に北海道を目指せなかった咸臨丸も、結局は北海道のしかも函館と江差の間に仲間の軍艦の下に沈んだのである。
また、清水次郎長は1887年(明治20年)清水市興津の清見寺に咸臨丸乗組員殉難碑を建立。
榎本武揚らと除幕と法要を営む
新幹線で北海道に上陸する事があったら、青函海底トンネルを抜けて見える海が、数奇な運命をたどった、この咸臨丸の終焉の地である
Posted at 2018/07/07 20:37:02 | |
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