このブログには記していませんが
昨年の北海道ツーリングのとき、フェリーに乗る仙台を通り過ぎて南三陸へ寄っています。
そのときに感じた事は
この現実を多くの人にも知って欲しい・・・と想った一方
子供たちに見せて良いものか・・・と感じていました。
最近になって中3の息子から
津波の被害を自分の目で見てみたい・・・ と
高校受験を控えたこの時期ですが
「勉強や塾は何とかする!」と珍しくハッキリ言ってくれたので
塾が終わった土曜日夕方~次回の塾(翌々日の午後)までの40時間で三陸を訪ねて来ました。
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この日は、
塾が終わった17時半に横浜を出発して、宿泊地の福島へ22時に到着しての翌日・・・
東北道をさらに北へ進んで宮城に向かいました。
最初に訪れたのは、山あいにある気仙沼線 陸前横山駅

海からは峠を隔てているため、津波の被害はありませんが列車は走っていません。
峠を越えて海が見えて来るころに、景色は一転します。

線路の堤築に登るとなにもない景色が広がります。
線路のあった陸橋の石ですが

津波による影響なのか強烈に固着しています。
以前は家々が建っていたであろう所には、多くのコスモスが咲いていました。

娘が花を摘んでくれました。
南三陸町の志津川駅からの光景です。

ここに、街があって多くの人が暮らしていたのです。
駅のホームは

海からの津波の威力を無言で伝えて来ます。
以前は、街の建物に遮られて見えなかったであろう、
多くのメディアに取り上げられる防災庁舎を望みます。

保存か解体かの論議のすえ解体が決定しています。
昨年は、同様の鉄骨のみ残された建造物がいくつかあったのですが、防災庁舎以外は取り壊されていました。
多くの方が訪れて花を供えて行きます。
我が家も、先ほど摘んだコスモスを供えて来ました。
そんな南三陸ですが復興も感じられました。
仮設のコンビニや
仮設の商店街

南三陸さんさん商店街
食事処から日用品の地元の商店街から出発したようですが、ちょっとした観光地となっていました。
復旧の見込が立たない鉄道の代替として
線路だったトンネルや橋梁を走るバス(BRT)が走り始めていました。
落ち着きを取り戻したキレイな海に

きっと以前と同じように白鳥が降りて来ました。
しばらく海沿いを走り次に向かったのは、
多くの子供たちが犠牲となった大川小学校
復興工事のダンプが土煙を上げて行き交うこの道路周辺も、
以前は家々が立ち並んでいたようですが、何ひとつ残っていません。
津波の威力は

校舎と体育館を結ぶ渡り廊下を 海と反対側に押し倒しています。
校庭に描かれていた卒業制作でしょうか

子を持つ親として、本当に痛ましいことです。
お線香をあげて冥福を祈るだけしか出来ません。いまでも涙がでてきそうです。
※防災庁舎と大川小学校校舎の画像は他のHPをご参照ください。
最後に立ち寄ったのは女川市街地
ここも津波の被害が甚大な地域で

根こそぎ倒れているビルを目のあたりにします。
立て込んでいた市街地とは思えない

更地が広がっています。
昨年は、津波で流された建物の土台(トイレや浴室のタイルなど)が残っており非常にショックを受けたのですが、今年は重機で馴らされて更地になっているところが多い印象をうけました。
瓦礫もかなり少なくなり、復興の準備は進みつつあるのを感じました。
(復興が進んでいるかの明言は避けさせて頂きます)
それでも、スーパーの駐車場だったと思われるアスファルトが残っていたり、

そこに街があったことを語ってきます。
これから、一層の復興が進むなか、
遺構の一部は、道の駅や公共施設にパネルや展示され始めましたが、

基本的に撤去される方向の様です。
各所で、遺構の取り扱いについてのアンケートが行われていましたが
つらい思いをされた方々の気持ちを想うと、一方的に保存を希望するのは躊躇われました。
機会があるなら・・・ 興味があるなら・・・
ぜひ一度訪れることをお奨めします。
訪れることで、
我々の記憶に残し、何かを想うことが大切なのではないでしょうか。
最後になりましたが、犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。
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三陸の海沿いの道を走るにあたり注意しなければいけない事は、
復旧工事や橋が崩落していたりして、道筋がナビ通りではない事です。
ところによっては、簡易復旧なので道路が荒れていたり路肩が弱っているので地元のクルマに付いてゆっくり走ることが望ましいです。
Posted at 2013/10/14 21:07:56 | |
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