どうも(^^ゞ
GWも残りわずかとなったが、ゆっくり休むことが出来そうである。
家族からもお誘いの声がかからず、1日中ウダウダしているのである。
箱根方面はなにやら立ち入り禁止の区域があるそうだ。
温泉たまごも販売中止とか?観光業界には厳しいGWになってしまったと思う。
さて、
大阪城の続きであるが。
内堀に沿って先へ進む。
この内堀は本丸を囲む北側にある堀であるが、見て分かる通り水堀である。
※水堀である・・・・と言うことは水の無い堀もあるのか?(この時はその存在が解らなかった)
寛永元年(1624年)の徳川幕府による大阪城再築の第二期工事により、豊臣時代の本丸の土地を盛り土をして城壁(石垣)が築造されたそうだ。
第二期?・・・・・・この時代にも第一期や第二期といった工事の仕方をしてたのかね。
この堀の総延長は約2.7kmで東側の城壁(石垣)の高さは水面から24mだそうだ。
訪れたとき水面の量が少ないようにみえたので、それ以上あるのかもしれない。
本丸内には堀の角地に三層の櫓が11棟、二層の櫓が2棟あったそうだが、明治維新の大火で全て焼失したらしい。
更に進むと道は、その内堀から離れるように右に曲がり森の中へと続いていく。
左側にはコケに覆われた石垣が見える。
内堀から離れ、左右に曲がりながら進むと、突然明るく視界が開ける。
京橋口の枡形なのかもしれない。
しかし、なんとどでかい石が出迎える。
その巨石が半端ないのである。
ここの正面にある巨石は、表面積がなんと畳33畳敷きだそうだ。
現代ふうに表現するなら、54.17平方メートルあるらしい。
この数値にピンとこないが、都内では1戸建てが建てられるスペースかもしれない。
この大きさでも城内では第2位の巨石らしい。
この枡形の区画の石は、「肥後石」であると言うことであるが、さらにここには畳22畳敷の巨石もあるらしい。
現代ふうに表すと36.00平方メートルだ。
城内で第7位だそうだ。
なんでわざわざこんな巨石をここへ持ってきたのか不思議である。
どうやって「肥後」から石を運んだのかね。
そんなことを考えながら「京橋口」から外堀の外側に進む。
確かにどデカイ巨石だけど、敵の攻撃には十分耐えるだけの効果があったのだろう。
家臣や周囲の武将たちに披露して権力を誇示したのかもしれない。
戦艦「大和」などで行った砲艦外交みたいな「武器などの装備をみせて強さをアピール」する効果があったのかもしれない。
※「ズボラなおじさん」の勝手な考えである。
さて、
京橋口は、大阪城の西北の出入り口だそうだ。
北方の寝屋川「旧大和川」に京都へ通じる「京橋」があったことから「京橋口」または「京口」と呼ばれていたらしい。
右側は北外堀、左側が西外堀を見ながら先へと進む。
ここにある枡形はさらに先にある「大手口」同様に多聞櫓と言う櫓の名所があったそうだが、昭和20年の空襲いよって全焼してしまったそうだ。
西外堀を左手にみて先へ進むと現代の建造物と堀を隔てて過去の世界を同時に見比べる空間がしばらく続く。
大阪城の城壁(石垣)の角にあるのが「乾やぐら」だそうだ。
外堀は過去には敵の侵入を阻止する役割をしていたのかもしれないが、現在は殺伐とした現代空間から清楚な空間を守っているのかもしれない。
更に進むと「大手口」の手前から、ちょっと天守閣が顔を覗かせる。
色々な角度から眺める天守閣であるが、正直天守閣までの距離感覚が解らなくなる。
近くに見えたたり、遠くに見えたりと敵の目をだましたのかもしれない。
ようやく大阪城を半周したところである。
この続きは次回へ
次回は、「大手口」から紹介したい。
Posted at 2015/05/05 07:39:22 | |
トラックバック(0) |
気まぐれ | その他