
どうもどうも。
皆さん何して過ごしてますの?
「ズボラなおじさん」初めて洗車しましたよ。
まぁ、性格からして水で洗っただけですけど。
最近の車は、3次元曲線や複雑なデザインで洗いにくい、吹きにくい。
こんにちは、マイペースな「ズボラなおじさん」です。
さて、「ズボラなおじさん」の小さな旅の続きである。
前回は、日韓友好の跡と、大戦下の遺構を訪問した。
そんな、遺構の近くには、大きな神社があった。
訪れる人は少ない。
そんな境内の入り口には大きな樹が衣替えの最中であった。
そんな場所を後にする。
次に向かったのは、日本の産業革命を担ったであろう遺構へ。
日本では採掘される鉱物の少ない場所の鉱山跡の一にお邪魔する。
そこは、土倉(滋賀県と岐阜県の境あたり)に位置する。
江戸時代には、彦根藩領で、伊賀氏の御用炭を焼きだしていた人々が移り住んでいた。
1907年に岐阜県安八郡のある人によって発見されたと言う。
1910年には、田中工業により採掘が開始された。(土倉鉱山の始まりである)
搬出鉱石は、黄銅鉱・班銅鉱・黄鉄鉱・その他金属と銀が少量採掘されていたそうだ。
これもまた、遺構である。
当時、日本は満州事変、日中戦争と戦火が強まり、ここで採掘された鉱物が多く武器と化した。
1942年の最盛期には100トン/月の選考処理能力を持っていた。
かなりの山奥である。
最盛期には、小学校や映画館もあるちょっとした町であったようだ。
家族を含め1,500人が生活していたそうだ。
今は、もうその風景はない。
このような石碑が寂しく鎮座していた。
既に廃坑になっているが、巷ではパワースポットの一つになっているらしい。
炭坑に入る入り口である。
構内からの湧水がたまっていた。
トロッコの線路らしきものが水没していた。
ここも多くの外国人労働者が働いていたらしい。
コンクリートの土台だけが残っていた。
次に向かったのは。
江戸時代にタイムスリップする。
そこは、JR北陸本線の「高月駅」を最寄り駅として、徒歩25分の所にある。
遡ること、320年前ほどの江戸時代中期の事。
儒学者の話である。
雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう)の偉業に触れることになる。
当時としては珍しく、日本語、中国語、韓国語のトリプルリンガーだったらしい。
そんな能力を買われ、朝鮮通信使として、日本との外交を担った人である。
雨森芳洲庵(今で言う交流ハウス)にお邪魔した。
生憎の雨で、紅葉の樹々を濡らしていた。
門前の石畳に、紅葉した落葉が乱舞していた。
これを風情と言うのか?
今年の紅葉を始めて奇麗だと思った週間でもあった。
通信使とは、今で言う外交官的な存在なのか? ← 通訳も兼ねる
時の将軍が手紙を朝鮮へ送る。 ← 今のように電話会談成るものはない
その答えをもって朝鮮から通信使が来日、その通訳やお供をしたそうだ。
屋敷へ入ると出迎えてくれた。 ← 朝鮮半島からの通信使か?
雨森芳洲とは?
多文化共生を目指した偉業を担った方だそうだ。
ここ滋賀県は、琵琶湖の湖北の村で、異国情緒を感じることが出来る。
雨森芳洲(1668年~1755年)当時としては長生きの88歳で生涯を終える。
残されている関係資料により、ユネスコ「世界の記憶」に登録が決定。
東アジア交流ハウスとして、これからも東アジア交流の場として期待される場所でもあった。
この年になって、過去の日本での出来事に触れることが出来た。
ここから、琵琶湖の最南端に位置する大津へと向かう。
バスに揺られること、高速を使っても1時間45分かかる。
いかに琵琶湖がデカいか分かると思う。
今夜の宿に到着。
ホテルテトラ大津・京都である。
チェックインをする。
渡されたキーを見て驚く。
部屋番号は505号室・・・今朝乗った新幹線HIKARIは505号だった。
なんとなくGOGO気分だったのである。
部屋は、シングルだ。
普通のビジネスホテルですねん。
朝食付きで¥7.300.-/泊は少々高くねぇ。
夕食までには、少々時間がある。
シャワーを浴びてスッキリ。
新横浜で買ったおにぎり弁当と、米原のアンテナショップで買った「金亀」。
日本酒を肴におにぎりを食する? あら反対か。。。
はい、今回はここまで。
「ズボラなおじさん」の小さな旅の備忘録に最後までお付き合いありがとうございました。
次回は、大津も街を徘徊しちゃいますね。
今宵の街へ消えて行くのであった。
ではまた。
Posted at 2018/12/09 08:58:49 | |
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