富士山のふもとに住んでいた子供のころ。
自宅の周りは、田んぼでした。
春にはオタマジャクシをすくい、夜にはカエルが鳴き、
夏にはホタルとウンカが飛び、夜にはやっぱりカエルが鳴き、
秋には黄金色の稲穂がたなびき、トンボやバッタが舞い、
冬には凧あげをして遊びました。
また春が近付くと、いつの間にかレンゲが咲いて、花冠を作って遊びました。
でも、うちは農家ではありませんでした。
幼馴染の男の子のうちの田んぼで、裸足で田植えのお手伝いをさせてもらったり、カマで稲刈りをするやり方を教えてもらったりしました。
田んぼの仕事の大切さも苦労も、いまひとつ分かっていなかった幼いころは、造ったばかりの柔らかい「あぜ」を歩いておたまじゃくしをとろうとして叱られたり、兄弟で稲刈りが終わった後の稲藁を積み重ねた「にお」を崩して秘密基地を作り、父親にめちゃくちゃ叱られて謝りに行き、お祖父ちゃんが来てくれて直してくれたことを覚えています。
余所のうちの田んぼで迷惑をかける遊びはしてはいけないこと、だけはしっかりと覚えました。
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小学校の教員となって、五年生の社会科で農業について勉強した時。
親戚一同で、機械を使わず全て手作業で田植えから稲刈りまでするお宅の子供がクラスにいたので、子供たちも一緒に田植えと稲刈りのお手伝いをさせてもらいました。
代かきをした田んぼに、初めて裸足で入る子供たちは、大騒ぎ。
でも、だんだん、土の感触が心地よくなってくるようでした。
稲刈りでは、初めてカマを手に持ち、慎重に稲を刈る姿が微笑ましかったです。
分けていただいたお米を、家庭科室で炊いていただき、その美味しかったこと!
子供たちと学習し学んだ、米作りで一番大切なこと。
いい土、日当たり、水管理。
大地と、太陽と、水。
それだけは忘れずに、稲作と畑作の兼業農家へ嫁いできました。
秋田に来てびっくりしたのは、田んぼの広さが全然違うこと。
生まれ故郷では、10~20メートル四方ほどの小さな田んぼが普通のサイズでしたが、こちらはスケールが全然違う。
なんと、30メートル×100メートルの田んぼが普通のサイズです。
トラクターやコンバインなどの農業機械も大きくて、ホント驚きました。
でも、最近は、田んぼをやっている方の高齢化と機械の老朽化、米価の下落などの要因により、法人化した集団営農に委託して稲を作ってもらっているお宅も、どんどん増えてきているそうです。
自民党 → 民主党 → 再び自民党の農業政策が迷走?したことや、農家もただ、米を作っていればいいという意識で、収量だけ確保し、手間をかけずに美味しいお米を作る努力をしてこなかったことも、米離れを加速させてしまった感も否めません。
値段に関わらず、美味しいお米を口にすれば、日本人はお米をずっと食べたいと思うに違いありません。
最近は、農協さんなどでも低農薬米やエコ米づくりを推奨しています。
しかし、以前は、強い除草剤を使って手間暇をかけず、味や安全性よりも見栄えのいい収量を重視したお米と、農薬も少なく美味しくて安全なお米とが、まったく同じように消費者の手元に届けられていました。
その頃から主人は、「見かけの一等米にこだわるのではなくて、食味計で美味しさを測って、美味しいコメは高く売買されるようにすればいい」とずっと云っていました。
一人ひとりの農家さんも、工夫して研究して、美味しくて安全なお米をつくる努力をしなくてはいけないと思うのです。
やむを得ず手間暇を掛けられず美味しくないお米を作っている人には、それなりの安い値段で売買されればいいと思うのです。
私は、筒井康隆さんの
「農協月へ行く」というブラックユーモアの風刺短編作品が好きだったので、滑稽で可笑しくも腹立たしくもあるパワフルな農家さんの、大らかさと生真面目、ズルさと勤勉を実際に目にし、これからの時代、このままで大丈夫なのかと心配もしていました。
でも、新しい政権の下、日本人の米離れ、TPPへの対抗、自給率の低下など、危機を目の当たりにして、農協や農家の皆さんも、工夫して美味しくて安全なお米や野菜を作ることが、自分たちの暮らしや日本の農地、国土、風土、食文化を守ることに繋がることを肌で感じて、真剣に取り組もうとしているのではないかと、心強く思っています。
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手前味噌になりますが、我が家のお米は美味しいんです。
ついでに、畑で育てている野菜も、10年以上前から、義父母が、病を患ってしまった主人の姉のために無農薬の野菜をずっと造り続けてきたので、本当に甘くて味が濃くて、美味しいんです。
お米と同じく、豊かな土、ミネラルをたくさん含んだきれいな水と病気を防ぐ適度な風、清浄な空気、暖かくて優しいお日様の陽射し、朝晩の寒暖差、そして育てる人の愛情が、美味しい農作物をつくるのではないかと思っています。
田んぼの農薬は、伝染病を防ぐ最低限の農薬と除草剤(もしも病気が発生してしまったら、周りの田んぼに迷惑がかかるため) を使用するのみの低農薬栽培で、有機肥料を主に使って育てています。
田んぼの土は、大きな潟のそばで昔から米作りを続けてきた栄養豊かな土壌で、カエルやドジョウ、フナなどの生きものもたくさんいます。
でも、すぐに草が生えてきます。
草は、水管理をしっかりすることで抑えることはできますが、生えてしまった草は、手作業で採るしかありません。
・・・採る、というか、田んぼの中に埋め込んでしまうと、もう、その草は生えてきません。
水が浸かっていない場所は、特に生えやすくなるので、代かきで均等にならし、均等に田植えすることが大事です。
しかし、今年は田植え機の故障のせいもあり、田んぼに高低ができてしまったり、ほとんど植えられてない列ができてしまうなど均等に苗を植えられなかったため、補植といって、苗のない場所に再び手差しで苗を植える作業をすることと、草をとる作業が難儀でした。
お日様が高くなると、紫外線が強く、熱くて農作業ができないので、午前中の涼しい時間と、日が沈む時間に、せっせと農作業をしました。
その時間に、近くの線路を観光客の皆さんを乗せた特急列車が走るときには、腰を伸ばして手を振って、「ひとり観光大使w」となって、車窓から外を見ている乗客の皆さまをお出迎えしました。
気付いて手を振り返してくださる方もいらっしゃいました。
旅の思い出のひとコマに、広大な田んぼとそこで働いている「秋田美人」を記憶してくだされば幸いと願い・・・ww
(普通列車や貨物列車には振りませんが、どの電車が来たのか確認するため顔を上げると、貨物列車の運転手さんが汽笛を鳴らしてくれることもありました♪)
有名な写真「秋田美人」のようないでたちでお迎えできればいいのですが、もんぺと絣ではなく、ジーパンとデニムシャツと麦わら帽子の「ニセ秋田美人」ですので、悪しからずw

農薬をほとんど使わないから、オタマジャクシもたくさん棲んでいます。
カエルに成長すると、稲にたかる害虫を食べてくれます。
そのカエルを食べに、サギやカモもやってきます。
稲刈りが終わって雪が降る季節になると、白鳥も田んぼにやってきます。
(我が家の田んぼには来て盛んにえさを食べていますが、他の田んぼにはあまりいきません)
こうして、今年も無事に、稲の収穫が終わりました。
稲刈りの途中でコンバインが故障したり調子が悪くなったりしましたが、何とか最後まで働いてくれました。
乾燥器も、ベルトが切れてしまい、メーカーの方に修理に来ていただきました。
旧い農業機械ばかりですが、主人がほとんど自分で修理や調整、手入れができるため、長持ちしてくれて助かっています。

↑ この写真は、3年前の子供たちです☆
初めて炊いた今年の新米の味は・・・。
美味しーーーーい!!(*≧∀≦)人(≧∀≦*)キャー♪”
天候に恵まれたおかげもあり、甘味が強くて、もちもちと弾力があり、香りも風味もよい、とっても美味しい新米です♪

↑ my茶碗 my箸 my箸置き です♪
【追記】愛用の黒いお茶碗は、佐々木好正さんの作品です。
新米の白さを際立たせる見事な漆黒。釉薬がたっぷりかかった優美な形から上品な輝きを放ちます。
炊きたての湯気が立ちのぼるお茶碗を手に持って、漬物やたらこでいただく新米を口に入れる瞬間、それを幸せと云わずして、なんといいましょう!


そして、新米を精米して出た「糠(ぬか)」を使って、なんと、子供たちがぬか漬けに挑戦しています!
稲刈り作業中、主人を一旦単身赴任先に送るとき、強風で新幹線が止まってしまい、隣県の駅まで送ることになり、子供たちにテレビの気象情報と交通情報を観ておくようにお願いしていたら・・・。
ちょうど放送されていた、精米の後にできた糠を使って自家製のぬか漬けを作る番組にくぎづけ。
「やってみたい! ぬかがでたら、ちょうだい。うちの野菜で、おいしいぬかづけをつくりたいよ」
野菜くずを漬けた一週間の「捨て漬け」期間がそろそろ終わるので、いよいよ、本漬けに入ります。
どんなお味のぬか漬けが出来上がるのか、楽しみです♪
どうか、日本中の皆さま。
これからも、お米をたくさん、召し上がってください。
国産の野菜や果物も、たくさん食べてください。
日本の米作り、農業を支えて、応援してください。
美味しいお米の炊き方や、お米とよく合うお料理など、これからもご紹介できればと思っています。
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最後に、秋田が誇る地元の英雄
『農聖・石川理紀之助』翁のご紹介をしたいと思います。
実は、私も、秋田に来るまで
「石川 理紀之助(りきのすけ)」さんのことは存じ上げませんでした。
秋に全県を挙げて行われる「種苗交換会(しゅびょうこうかんかい)」というイベントが毎年開催されていますが、そこへ行ってみて、こんなに大きな農業関係のイベントが、こんなに盛大に行われていることにびっくり仰天しました。
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▼種苗交換会とは
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%AE%E8%8B%97%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E4%BC%9A
※文字が小さいので、読みにくい方はリンク先をクリックしてご覧になってください。すみません。
種苗交換会(しゅびょうこうかんかい)とは、秋田県で毎年秋に開催されている農業イベント。元々は手作りの作物や種子を持ち寄りお互いに見せ合い、交換することを目的としたイベントであったが、現在ではそれに限らず農業に関連する様々な展示・販売等をも行う総合イベントとなっている。
1878年(明治11年)11月29日から1週間、秋田県南秋田郡八橋村(現:秋田市八橋)の県営植物園で、石川理紀之助が中心となり農作物の種子を交換し合うイベントが開催された。このイベントは種子交換会と名付けられており、これが現在の種苗交換会の原点であった。
当時の秋田県産業の中心であった農業には、課題が山積みだった。乾燥法の不備から腐れ米と呼ばれる稲の腐敗がたびたび生じ、市場における秋田米の評判を落としていた。また、桑・菜種・果樹などの商品作物の発展、西洋技術の導入、在来農法の改善などが、勧業行政の課題として注目されていた。そのときの県令であった石田英吉は、各地の老農層の知恵と経験を生かし、これらの課題を解決するために、1878年、全県45名の老農を勧業係に取り立てた。その中に、老農の代表である石川理紀之助もいた。続いて、秋田県勧業課長だった樋田魯一が主催し、秋田市の浄願寺を会場にして第1回の勧業会議が開催された。そのとき、由利郡平沢(現:にかほ市平沢)の佐藤九十郎から「種子交換の見込書」が提議され、これを樋田会頭が採用し、種苗交換会が開催されることになった。
第1回目の出品数は、稲65点、大豆19点、小豆6点、アワ14点、その他合計132点であった。出品者は、自分の作物と比べて優れているものには、交換希望の入札をした。その数は564人にも達した。
種子交換会は、会をかさねるごとに発展し、1882年(明治15年)には、水稲566点、全体で1752点もの数が出品されるようになった。この年から名称も現在の「種苗交換会」に改め、勧業会議(現在の談話会)を合体させ、農民たちにより役立つように運営された。順調に推移した種苗交換会であるが、財政負担に悩む県は隔年開催を打ち出した。この時、農の祭典を毎年開催すべきであると主張し、それを自力で実行したのが石川理紀之助を中心とする「歴観農話連」であった。 (明治12年、県は地域指導に当たった4老農、大館の岩沢太治兵衛、秋田の長谷川謙造、雄勝の高橋正作、湯沢の糸井茂助を勧業ご用係に任命。翌13年には「夫れ道を学ぶに友なかるべからず。・・・」の趣意で始まる歴観農話連が設立され石川理紀之助翁が催主(会頭)となっている。)
その後、交換会は明治30年(1897年)代に秋田県農会の手に移され、明治40年(1907年代)には開催地として県内各市町村が持ち回りで引き受けるようになった。
これ以降、種苗交換会は昭和恐慌や太平洋戦争などの困難を乗り越えながら1年も休まずに開催され、伝統を守りながらも、他の関連行事をも巻き込みながら、秋田県最大級のイベントとして発展継承されてきた。
wikipediaより、一部転載
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なんと、今年で、第138回! 鹿角市での開催です。
我が家の亡き義父も、野菜の部で入賞したこともあると聞きました。
全国の中で秋田県だけで続けられている農業の祭典。秋田の誇りです。
品種交換会にも大きく関わってきた
「農老」「農聖」石川理紀之助翁。
もっと皆さんに知っていただきたい、素晴らしい先達です。
教科書にも載せられたり、二宮金次郎さんと並ぶ偉人としても広く紹介され、取り上げていただきたいと切望してしまいます。
ちなみに義母は、石川理紀之助さんから直接薫陶を受けた先生の教えにより影響を受けて、農業の大切さと面白さを知り、女学校卒業後、父親の反対を押し切って農家に嫁いできたそうです。
また、TPPについて古事記より学べるねずさんのブログも、合わせてご紹介します。
小名木善行 ねずさんの ひとりごとより
老農・石川理紀之助
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2788.html
古事記に学ぶ神武東征とTPP
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2787.html