
本日は「春分の日」です。
昨日、息子たちと一時間かけてお墓の掃除をして、中彼岸の今日は、お花とぼた餅などのお供えを持って、お墓参りに行ってきました。
今年の春のぼた餅は、「粒あん」「青きなこ」「さつま芋餡」「鮭ww」です。
お餅は、自家製のもち米をふかして作りました。
ぼた餅は、お仏壇と神棚にお供えした後に、みんなで食べました。
春の兆しを寿(ことほ)ぐ、ちょっと嬉しいニュースの便りもお祝いして♪
次期指導要領で「聖徳太子」復活へ 文科省改定案、「厩戸王」表記で生徒が混乱 「鎖国」も復活
産経ニュース
2017.3.20 09:42
文部科学省が2月に公表した中学校の次期学習指導要領改定案で、現行の「聖徳太子」を「厩戸王(うまやどのおう)」に変更したことについて、文科省が
学校現場に混乱を招く恐れがあるなどとして、現行の表記に戻す方向で最終調整していることが19日、関係者への取材で分かった。改定案で消えた江戸幕府の対外政策である
「鎖国」も復活させる方向。修正した次期指導要領は月内に告示される見通し。
現行指導要領では小中学校とも「聖徳太子」を授業で扱うと例示したが、今回の改定案では、人物に親しむ小学校で「聖徳太子(厩戸王)」、史実を学ぶ中学で「厩戸王(聖徳太子)」に変更。文科省は、歴史学では「厩戸王」が一般的で、「聖徳太子」は没後の呼称だが、伝記などで触れる機会が多いとしている。
文科省は改定案公表後にパブリックコメント(意見公募)を実施。呼称の変更に批判的な意見が多かったほか、教員からも「小中で呼称が異なれば子供たちが混乱する」「指導の継続性が損なわれる」といった意見が出ていた。
こうした状況を踏まえ、
文科省は小中ともに聖徳太子の表記に統一し、中学では日本書紀や古事記に「厩戸皇子」などと表記されていることも明記する方向で調整している。
一方、鎖国の表記については、小学校で「幕府の対外政策」、中学でも「江戸幕府の対外政策」としたが、幕末の「開国」との関係に配慮して「鎖国などの幕府の対外政策」といった表記で検討している。
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日本のイメージの根幹
「厩戸王(うまやどのおう)、かっこ、聖徳太子。これ、なんですか」
今月8日の衆院文部科学委員会。民進党の笠浩史氏が声を張り上げた。「聖徳太子」の表記をめぐる議論は国会にも波及。笠氏は「聖徳太子は冠位十二階や十七条憲法などわが国の統治の基本を作り、歴史上最も重要な人物の一人。多くの国民が同じような思い」と見直しを求めた。
現行の「聖徳太子」の表記は国民に親しまれ、小中学校の教科書の記述でも主流だ。義務教育での歴史教育は日本人としてのアイデンティティー形成につながるだけに、変更への反発は大きい。翌日の参院文教科学委員会では、無所属クラブの松沢成文氏も「いろいろな学者の意見があるが、過度に影響されてはいけない。普遍的な価値を伝える歴史教育を考えなければいけない」と強調した。
聖徳太子の功績は、奈良時代に完成した正史「日本書紀」に記されているが、天皇の権威を確立するための造作だとみる批判的な研究が戦前からあり、虚実をめぐる論争は過熱する傾向がある。
聖徳太子の研究事情に詳しい駒沢大の石井公成教授は「厩戸王は後代のイメージに縛られず研究するため戦後に想定された名。古代の主要史料には見られず、実名のように扱うのは不適切だ」と指摘。その上で、「聖徳太子論争が熱くなるのは、日本人のアイデンティティーに関わるから。自分にとって好ましい聖徳太子像が、その人の古代日本や現代に至る日本のイメージの根幹になっている」と話している。
◇
【用語解説】学習指導要領
学校教育法などに基づき、児童生徒に教えなくてはならない最低限の学習内容などを示した教育課程の基準で、約10年ごとに改定される。教科書作成や内容周知のため、告示から全面実施まで3~4年程度の移行期間がある。次期指導要領は3月末に告示され、小学校は平成32年度、中学校は33年度から全面実施される。
【正論】
聖徳太子を「厩戸王」とし、「脱亜入欧」を貶める 「不都合」な史実の抹消狙う左翼に警戒を 東京大学名誉教授・平川祐弘
産経ニュース
2017.3.15 08:26

比較文化史家で東京大学名誉教授の平川祐弘氏
昭和の日本で最高額紙幣に選ばれた人は聖徳太子で、百円、千円、五千円、一万円札に登場した。品位ある太子の像と法隆寺の夢殿である。年配の日本人で知らぬ人はいない。それに代わり福沢諭吉が一万円札に登場したのは1984年だが、この二人に対する内外評価の推移の意味を考えてみたい。
≪平和共存を優先した聖徳太子≫
聖徳太子は西暦の574年に「仏法を信じ神道を尊んだ」用明天皇の子として生まれ、622年に亡くなった。厩(うまや)生まれの伝説があり、厩戸皇子(うまやどのみこ)ともいう。推古天皇の摂政として憲法十七条を制定した。漢訳仏典を学び多くの寺院を建てた。
今でいえば学校開設だろう。
仏教を奨励したが、党派的抗争を戒め、憲法第一条に「和ヲ以テ貴シトナス」と諭した。太子は
信仰や政治の原理を説くよりも、複数価値の容認と平和共存を優先した。大陸文化導入を機に力を伸ばそうとした蘇我氏と、それに敵対した物部氏の抗争を目撃したから、仏教を尊びつつも一党の専制支配の危険を懸念したのだろう。
支配原理でなく「寛容」をまず説く、このような国家基本法の第一条は珍しい。
今度、日本が自前の憲法を制定する際は、前文に「和ヲ以テ貴シトナス」と宣(の)べるが良くはないか。わが国最初の成文法の最初の言葉が「以和為貴」だが、和とは
平和の和、
格差の少ない和諧社会の和、
諸国民の和合の和、
英語のharmonyとも解釈し得る。
日本発の世界に誇り得る憲法理念ではあるまいか。
≪独立自尊を主張した福沢諭吉≫
ところで聖徳太子と福沢諭吉は、日本史上二つの大きなターニング・ポイントに関係する。第一回は日本が目を中国に向けたとき、聖徳太子がその主導者として朝鮮半島から大陸文化をとりいれ、古代日本の文化政策を推進した。第二回は Japan’s turn to the West 、日本が目を西洋に転じたときで、福沢はその主導者として西洋化路線を推進した。
明治維新を境に日本は第一外国語を漢文から英語に切り替えた。19世紀の世界で影響力のある大国は英国で、文明社会に通用する言葉は英語と認識したからだが、日本の英学の父・福沢は漢籍に通じていたくせに、漢学者を「其功能は飯を喰ふ字引に異ならず。国のためには無用の長物、経済を妨る食客と云ふて可なり」(学問のすゝめ)と笑い物にした。
このように大切な紙幣に日本文化史の二つの転換点を象徴する人物が選ばれた。
二人は外国文化を学ぶ重要性を説きつつも日本人として自己本位の立場を貫いた。
聖徳太子はチャイナ・スクールとはならず、福沢も独立自尊を主張した。太子の自主独立は大和朝廷が派遣した遣隋使が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」と述べたことからもわかる。日本人はこれを当然の主張と思うが、隋の煬帝(ようだい)は「之(これ)を覧(み)て悦(よろこ)ばず、〈蛮夷の書、無礼なるもの有り、復(ま)た以(もっ)て聞(ぶん)する勿(なか)れ〉と」いった(隋書倭国伝)。
中華の人は華夷秩序(かいちつじょ)の上位に自分たちがおり、
日本は下だと昔も今も思いたがる。だから対等な国際関係を結ぼうとする倭人(わじん)は無礼なのである。
新井白石はそんな隣国の自己中心主義を退けようと、イタリア語のCina(チイナ)の使用を考えた。支那Zh●n★は
侮蔑語でなくチイナの音訳だが中国人には気に食わない。
東夷の日本が、かつては聖人の国として中国をあがめたくせに、脱亜入欧し、逆に強国となり侵略した。許せない。それだから戦後は
日本人に支那とは呼ばせず中国と呼ばせた。
≪学習指導要領改訂案に潜む意図≫
アヘン戦争以来、帝国主義列強によって半植民地化されたことが中華の人にとり国恥(こくち)なのはわかるが、華夷秩序の消滅をも屈辱と感じるのは問題だ。
その中国はいまや経済的・軍事的に日本を抜き、米国に次ぐ覇権国家である。中華ナショナリズムは高揚し、得意げな華人も見かけるが、習近平氏の「中国の夢」とは何か。華夷秩序復興か。だが中国が超大国になろうと、日本の中国への回帰 Japan’s return to China はあり得ない。
法治なき政治や貧富の格差、汚染した生活や道徳に魅力はない。そんな一党独裁の大国が日本の若者の尊敬や憧憬(しょうけい)の対象となるはずはないからだ。
しかし相手は巧妙である。
日本のプロ・チャイナの学者と手をつなぎ「脱亜」を唱えた福沢を貶(おとし)めようとした。だがいかに福沢を難じても、日本人が言語的に脱漢入英した現実を覆すことはできない。福沢は慶応義塾を開設し、英書を学ばせアジア的停滞から日本を抜け出させることに成功した。だが
そんな福沢を悪者に仕立てるのが戦後日本左翼の流行だった。
これから先、文科省に入りこんだその種の人たちは不都合な史実の何を消すつもりか。歴史は伝承の中に存するが、2月の学習指導要領改訂案では歴史教科書から聖徳太子の名前をやめ「厩戸王」とする方針を示した由である。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわ・すけひろ)
●=マクロン付きi
★=グレーブアクセント付きa
【正論】
天皇が継承される神道文化とは 「祈る」ことにより祖先へと「続く」 東京大学名誉教授・平川祐弘
産経ニュース
2016.11.4 13:00
明治神宮は晩秋も樹木が鬱蒼(うっそう)としている。都の中にありながら、山野の中にあるがごとき代々木の森ほど、東京に住んでうれしい場所はない。明治天皇皇后を追慕し、明治の日本を偲(しの)んで造られたこの森は、人工でありながら、人工の感を与えない。
≪神宮内苑が醸す厳かさと尊さ≫
両陛下を祭神に祀(まつ)る明治神宮が大正5年に起工されて100年がたつ。私が子供の昭和初年のころは玉砂利を踏みながら軍人さんが粛々と行進して参拝した。近ごろは参道でさまざまな外国語が耳に入る。
山手線をはさんで東側に明治神宮の外苑がひろがる。花火があがる神宮球場などスポーツ施設や緑地帯が整備された地域で、次のオリンピックでさぞかし賑(にぎ)わうだろう。ここも国民の献金で創建されたが、外苑中央に位置するのが聖徳記念絵画館で、明治を一望する壁画が常時展示されている。徳川慶喜の「大政奉還」、西郷隆盛と勝海舟の「江戸開城談判」、明治天皇の「東京御着輦(ごちゃくれん)」、横浜湾での「岩倉大使欧米派遣」、「日露役奉天戦」で馬に跨って入城する大山巌総司令官など、教科書で目にした歴史の名場面に再会するだろう。
明治時代とは何であったのか、画を描いた昭和初期の作家は明治をどう認識したのか-。近代日本は西洋列強に対抗し中央集権の国造りに邁進(まいしん)した。
聖徳記念絵画館の80点の絵はその証言である。だが日本の天皇の一代記を、ルイ王朝の一代記とか、ドイツ皇帝(カイザー)の一代記と同じように見てよいのか。もし違いがあるとすれば何か。
11月20日まで続く外苑の聖徳記念絵画館の大展示に先立ち、内苑の参集殿で私はそれについて講演し、そのおり聴講者とともに二つの場所を往復した。近代文明の所産のスポーツ競技場、緑地帯、石造の聖徳記念絵画館、日本画と洋画、それぞれに立派である。だが、そんな外苑の公園よりも代々木の森、池、鳥、そこに鎮座します神宮-この内苑の方が厳かで、尊くて、すがすがしい。この誰もが感じる違いは何を意味するか。
≪皇室の「聖」と「俗」の二面性≫
内苑と外苑のこの異質感は何に由来するか。それは皇室が有する「聖」と「俗」の二面性に由来する。聖とは英語でいうsacredで、
天皇は第一に天照大神(あまてらすおおみかみ)を皇室の祖神と仰ぎ神道の祀り事を行う大祭司である。その宗教文化的伝統の継承者として陛下は国民とともに祈り、先祖の霊を祀り、おつとめをはたされ、ご自身も神宮に祀られた。
そして第二の俗secularの面では、
憲法に規定される日本国民統合の象徴として国事行為や公務をなされた。ただ聖徳記念絵画館の画家たちは天皇の国王(キング)としてのおつとめは描いたが、祭司(プリースト)としてのおつとめは描くことが難しく、伊勢の「神宮親謁」「大嘗祭(だいじょうさい)」など点数も限られた。
皇室のおつとめには視覚化しがたい、厳かで、尊くて、すがすがしい要素がある。それが「聖」の面であり私たちは外苑から内苑にはいると、ここが神域であることを直覚する。
ではその聖俗いずれのおつとめが日本の天皇にとり大切か。日露戦争の翌年、明治天皇は詠まれた。
《かみかぜの伊勢の宮居を拝みての後こそきかめ朝まつりごと》
天皇家にとり「まつりごと」とは「祭事」が第一で、天皇は国民にとってまず神道の大祭司である。
それだから「伊勢の宮居を拝みて」の後に「まつりごと」の第二である「政事」の仕事に国王として耳を傾ける。
≪神道の文化的伝統の継承者≫
大切なことは、
万世一系の男子世襲の天皇は神道の文化的伝統の継承者であるということで、
だからこそ権力はないが権威がある。いまの憲法に書いていないからといって、法学者は言及せず、官僚は自覚せず、新聞も報じないが、天皇家が民族の永生の象徴であるのは「祈る」ことにより祖先へと「続く」からで、存在することに意味がある。皇室には歴史的にそのような聖俗二つの面があることを忘れないようにしたい。
文化や美術は、キリスト教文化とか仏教美術というように、宗教とともに発達した。それぞれ特色があり、イスラム美術は建築・工芸にすぐれるが、神は不可視的存在として偶像崇拝は禁じられ、それゆえ肖像画・人体彫刻は少ない。神道にも似た宗教文化的特性がある。
ルイ大王などと違って明治天皇の一幅の大肖像画や騎馬像がないのは、帝を描くことは畏れ多いという感覚が働いたからだろう。聖俗の第一の面、明治天皇が天照大神に祈られた御製は戦前は小学校教科書に載っていた。
《とこしへに民やすかれといのるなるわがよをまもれ伊勢のおほかみ》
《わが國は神のすゑなり神祭る昔の手ぶり忘るなよゆめ》
この歌は明治天皇のご子孫や国民へのご訓戒と拝察する。謹みて皇室の御安泰を祈る次第である。(東京大学名誉教授・平川祐弘 ひらかわすけひろ)