• 車種別
  • パーツ
  • 整備手帳
  • ブログ
  • みんカラ+

cocoichiのブログ一覧

2016年02月28日 イイね!

富岡製糸場

下仁田を出て富岡製糸場に着いた頃には、もう16時近くになっていた。

製糸場の見学時間は17時までとなっており、あと1時間位しかないが、この時間だと人も少なく見て回るにはちょうど良さそうなので、入ってみることにした。

こちらは入り口にある検査人館と呼ばれる建物で、守衛所兼事務所といったところか。

中に入ってみたいが立ち入り禁止なので、入り口からちょっと様子伺い。




そこを過ぎるとすぐ目の前には、東置繭所と呼ばれる繭の貯蔵倉庫がある。

明治5年とのプレートが埋め込まれているが、パンフには明治5年から昭和62年までの115年間に渡り、操業し続けたとある。




当初は工女募集の通達を出してもなかなか人が集まらなかったそうであるが、理由は技術指導に来ていたフランス人の飲むワインを血と思い込み、ここに入ると生き血を採られるとのデマが流れたためとのこと。

そのため、深谷市出身の初代製糸場長の尾高惇忠は、自分の娘を工女第一号としてここに入れ、範を示したということである。

ちなみに、尾高惇忠は製糸場の設立に関わった渋沢栄一の従弟にあたり、以下の写真は前に撮影したものであるが深谷にある尾高惇忠の生家である。




東置繭所の1階には資料がいろいろ展示されていたが、あまり時間がないこともあったのでサクッと見て回る程度にして(^_^ゞ、2階に行ってみた。

建物の長さは104mもあるので内部は壮観で、繭を乾燥させるために窓がたくさん設けられている。





時を重ねた建物が見る者を過去へといざなう。




西置繭所は残念ながら保存修理中で、見学用施設から補修中の外壁や屋根の一部しか見ることができなかった。




施設の階上からは、黄昏行く場内の様子を見渡すことができた(遠い目)。




こちらは社宅とあったが、幹部のそれだろうか。




そして、繭から生糸を取り出す作業を行う操糸所。




社会科の教科書にこんな写真が載っていたかも知れない。

子供の頃にミシンで遊んでいた私にとっては、とても惹かれる設備である。

一般的に製糸場というと、あゝ野麦峠に描かれているような長時間で過酷な労働がイメージされるが、ここ富岡はどうだったのだろうか?

ちょっと調べたところ、元々、富岡製糸場は官営として発足して採算が度外視されていたことや、廃藩置県で地位を失った旧士族の娘達などを始めとして、身分に関係なく多くの娘達が全国から集まってきたこともあって、当初は8時間労働の週休1日だったそうだ。

しかし、明治26年に民間に払い下げられて以降は次第に労働条件が悪化し、12時間前後の労働で休みも月に2回と普通の民間製糸場と同じようになり、過酷な労働は大正5年の工場法施行まで続いたようだ。




診療所に通じる所(だったと思う)が、昔の小学校の校舎を思わせるような造りになっていて、懐かしさを感じさせる




場内の一番奥に位置するのが工女達の寄宿舎であり、すぐ近くには鏑川が流れている。

ここから見える夕陽を、彼女たちは当時はどんな想いで見ていたのだろう。


Posted at 2016/02/28 11:14:18 | コメント(5) | トラックバック(0) | museum | 日記
2015年11月29日 イイね!

荻野吟子記念館と坂田医院旧診療所

若い頃にあれこれ読んでいた渡辺淳一の本の中に、「花埋み(うずみ)」という作品がある。

内容はというと、明治時代に日本で最初の女医として公認された荻野吟子の生涯を描いたもので、その荻野吟子の生家跡が熊谷市の外れあり、今はその場所には記念館が建てられている。

前から一度見ておきたいと思っていたものの、なかなかその機会もないままであったが、小雨が降ったりやんだりの生憎の天気の休日に、遠出する気も起きずダラダラとネットを見ていたところ、熊谷市の妻沼に有形文化財に指定されている坂田医院旧診療所があることを知った。

記念館と場所も近いこともあって、ならば一緒に見てこようと思い、出かけて来た。




記念館は利根川のすぐそばにあり、木造の平屋の建物である。




資料が展示されている部屋はそれ程大きなものではなく、資料自体もパネル等がメインで、遺品などの展示はあまり多くはなかった。




荻野吟子は17歳で親の決めた相手と結婚したものの、夫から淋病をうつされたことが原因で離婚し、その後の治療で男の医師から診察を受けることに羞恥を感じ、同性にはそのような思いをさせないために女医になることを決意した。

明治の世においては男ですら医師になることは大変難しく、女性でありながら医学を学ぶことや開業試験を受けることは困難を極めたが、それらを乗り越えた末に開業試験に合格し、東京の本郷で産科婦人科の開業を果たしている。

当時の医者は威厳と社会的地位があり、偉くて近寄り難い存在であったが、小柄で細身の女性がやさしく診察するために評判となり、繁盛していたとのこと。




年表の所々には「花埋み」中の一文が引用されている。




医師になるための勉強に使われた本。




平成10年には「花埋み」を基にして、三田佳子の主演で舞台化されている。

隣はその時の衣装である。




開業後はキリスト教の活動を通じて知り合った14歳年下の相手と、周囲の反対を押し切って再婚したが、理想郷を創るために北海道に渡った夫の後を追って自らも赴き、最果ての地に開業した。

しかし、医学はどんどん進歩していく中、知識や技術は時代遅れになると共に、夫も若くして帰らぬ人となってしまうなど、人生の後半は恵まれたものではなかった。

北海道に渡らずそのまま東京で病院を続けていたとしたら、後世によりその名を残せた医師になったかも知れないことを考えると、人との出会いがその後の人生を大きく左右することもあるということか。



ところで、渡辺淳一の著書の中には「遠き落日」という、同じく医学者である野口英世の生涯を描いた作品もある。




野口英世と言えば幼い頃に手に火傷を負い、その後は貧乏の中、努力を重ねて立派な医学者になった偉人、というのが誰もが小さい頃に読んだ伝記での人物象だったと思う。

しかし、この本を読むとそれは作り上げられた偶像の部分があり、実際には恩師や知人から幾度となく多額の借金を重ねていたという、金銭感覚においては人格破綻者であったことが分かる。

象徴的なのが、恩師が米国留学のために莫大なお金をかき集め、英世に渡したものの、当の本人は留学直前にたった一晩で仲間を集めての遊興で使い果たしてしまったというくだりである。

それでも恩師は再びお金を何とか工面し、英世は留学できているのだが・・・。

かなり度を越しているものの、決して聖人君子ではなく、人間であったということ。

しかし、こんな人物がお札の絵柄になっているのだから、世の中おもしろい。



一体、何を書きたいのか自分でも良く分からなくなってきているが、気にせず先に進もう!



記念館を後にして、妻沼の坂田医院旧診療所に向かった。

この病院は昭和6年に建てられたものであるが、鉄筋コンクリート造りでデザインもこのようにずいぶんとモダンな建物で、今の時代でも全く違和感を感じない。

映画やTVのロケでも使用されているとのことで、映画では「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~」や「ゲゲゲの女房」などがあるそうだ。





平成16年に有形文化財として登録されているが、プレートがとても立派で重みも感じられる。




ところで、この建物の内部が一般公開されるのは限られた日だけで、残念ながら当日は施錠されていて中に入ることはできなかった。

でも、何とか見てみたい!

で、窓から覗きこんで撮影した。




中の調度品も外観に劣らずモダンである。




ハサミとか鉗子とか、こういったステンレスの医療器具にとっても惹かれてしまう私は、きっと危ないのだろう・・・。

歯医者で、自分の前のテーブルに置かれる治療セットなんかも欲しくなる。




なお、この診療所は昭和50年の前半まで使用されており、昭和61年には新しい診療所が設立されたとのこと。

ちょっと「医」な半日であった。
Posted at 2015/11/29 18:28:56 | コメント(3) | トラックバック(0) | museum | 日記
2015年10月25日 イイね!

嘉穂劇場

実家に帰ってから父親の墓参りに行き、その後は弟の車に乗せてもらい、母親とドライブがてら飯塚市にある嘉穂劇場に行ってみた。

嘉穂劇場は飯塚を中心とした筑豊地方が、かつて炭鉱で栄えていた時代に建てられた劇場で(昭和6年~)、その後は石炭産業の衰退により年間興業数はかなり落ち込んでいたが、平成15年の大水害による被害をきっかけとした芸能人の呼びかけ支援もあって、以来、復活を遂げているそうだ

福岡で炭鉱というと筑豊のイメージが強いが、私の実家の近くにも炭鉱があって、今やマンションが立ち並ぶこの辺りはかつてはボタ山だったところである。




私の祖父は一代限りであったが、1台のトラックで運送屋をやっていて、石炭を貨車に積み下ろしたり、いろんな所へ運んでいたりした。

当時はスコップでの積み下ろしだったが、大変な重労働だったはずである。

小学校に入る前はボンネットトラックの助手席に乗って、佐賀や熊本とかに一緒に行っていた覚えがある。

私のドライブ好きはこれが原体験になっているのだろう。


実家から東に向かって一時間程度走り、飯塚に到着。

道に平行して流れるは遠賀川。




劇場の正面には公演予定のポスターがいろいろ掛けられていたが、一番目を引いたのは喜多郎のそれであった。

学生時代にNHKでシルクロードというドキュメンタリー番組が放送されていたが、その主題曲に使われていたのが喜多郎の絲綢之路 というシンセサイザー演奏の曲であった。

当時、ロマンと幻想に溢れたこの曲がとても好きで、レコードを買い何度も聴いた。

それ以来、喜多郎の名は耳にした記憶がほとんどなかったが、調べてみると以後は世界を舞台に活躍されているようで、前述の水害を機に嘉穂劇場でコンサートを開くようになったとのこと。

思いがけない場所での再会となった。




嘉穂劇場については芝居小屋のイメージしかなかったが、実際に中に入ってみると思った以上に大きく立派で、1,2階席を合わせると1200名のキャパがあり、中に柱が無いことが特長となっている。




花道横の座席の木枠はちょっと立派。

照明飾りも凝っている。




舞台に上がり、左奥にある奈落への階段を降りて行くと、




そこには回り舞台の駆動部があった。

これを人力で回しているとのことで、写真にはないがせりの上下も人力によるものであった。





劇場の廊下には当時の公演ポスターが時代毎に並べられていたが、一番馴染みがあるのはこのあたりか。




ポスターやチケットを作るのに、ブロマイド写真が使われていたようだ。

山口百恵も来ていたのか (@_@)




2階席からの眺めは、ちょっとニューシネマパラダイスの世界。




このデカい回り舞台を人力で回すって・・・。




入場料が¥300ということもあって、あまり期待せず気軽に入ったが、満足度はとても高かった。

ここで聴く喜多郎は、きっと素敵なんだろうな。

Posted at 2015/10/25 14:53:29 | コメント(3) | トラックバック(0) | museum | 日記
2015年07月19日 イイね!

遠山記念館

埼玉の川島町に、遠山記念館という登録有形文化財に指定されている建築物があることを、マイファンの方のブログで知った。

これまで古い街並みや建築物を写真に撮ることはあったが、そのほとんどが外観ばかりで、内部の写真はというと廃墟しかないという、かなり偏りがある状態であった^_^ゞ

そこで一度、中の写真をじっくり撮りたいと思っていたところ、遠山記念館は撮影が可能とあったので、6月末日に行ってきた。

ここは川島町出身で、日興証券の創立者である遠山元一が母親のために生家を復興して建設した邸宅であり、蒐集された美術コレクションと共に有料で一般公開されている。

場所は首都圏中央連絡自動車道の川島ICの近くであるが、周囲は田んぼばかりで、はたしてこんな所にあるのかと思いつつ車を進めたところ、ちゃんとありました!

以下は記念館にあった当館の上空写真。




門の前にはお堀が設けられており、この時点では蓮はまだ蕾のものが多かった。




門からしてかなり立派。

さて、中に入ってみよう。




門をくぐると、右手に美術館がある。

一応入ってみたが、当日公開されていたのは1階部分のみで展示物も少なく、あれっ、これだけ?って感じだった。

でも、メインの目的は邸宅の方なので、気を取り直してそちらに向かう。




こちらが玄関。




このように廊下も畳敷きとなっている。




昭和8年に建てられたとのことだが、この時代にはもうトップライトがあったのか。




遊び心のある畳で、さりげなくお金がかけられている感じ。

部屋の中はやや暗めで落ち着いた感じがあり、そこに屋外からの光が緑や障子を通して優しく射している。

後で写真を見て改めて気づいたが、室内灯も含めて光の使い方がとても絶妙で、そこまで考えられて設計されているのかと感心させられる。




決して豪華絢爛という訳ではなく、むしろ控えめに装飾が施されている。




中から見ると明暗のコントラストがとても良く、心地いい。

こういったのを本当に贅沢な佇まいというのだろうか。




外に出て、中庭に向かう。




初夏の日差しを浴びて、今、ここに遠山邸が蘇る(イヤ、前からあるが)。




当時のここでの暮らしぶりに思いを馳せ、ひと時ではあるが、ゆったりとした贅沢な時間を過ごすことができた。

さて、明日からは実家に帰省。

一年ぶりに地元のソウルフードを食べてきますか!
Posted at 2015/07/19 17:15:25 | コメント(4) | トラックバック(0) | museum | 日記
2015年06月11日 イイね!

丸木美術館

埼玉の東松山市の市街地からはちょっと外れた都幾川沿いに、この美術館がある。

車の往来する通りから細い横道に入り、しばらく都幾川に向かって進んでいくと、こんな所に美術館があるとはとても思えない、ひっそりとした場所である。




初めて来たのは、8年程前だっただろうか。

知り合いに、日本スリーデーマーチというウォーキング大会のイベントに誘われて参加したが、そのコースの途中にある休憩ポイントの一つが丸木美術館であった。

ここは、今は亡き丸木位里、俊夫妻が、広島の原爆をテーマにして描かれた原爆の図が常設展示されており、この時に見た印象はやはり衝撃的であった。

ウォーキング大会の途中だったのでじっくりと見ることができず、またいつの日か見てみたいと思っていたが、最近になって美術館のHPを見ると、原爆の図の15作品のうち6作品が6/13からのアメリカン大学美術館での展示のために貸し出されており、代わりに長崎、大阪、高野山などに点在している、先の15作品以外の原爆図が集められ、特別展示されているとあった。

今年は戦後70年、つまり被爆70年の節目の年にあたることもあって、この機会に再訪してきた。




以下はHPからの借り物画像であるが、実際にあった光景であることを考えると、胸が詰まる思いである。

丸木夫妻は、夫の位里氏の故郷が被爆したため数日後に広島入りし、その時の想いを伝えるべく、原爆図を作製されたとのこと。

奥様の俊氏がデッサンを描かれ、位里氏がその上から水墨を施されているそうである。






美術館にはこれ以外に、長崎の原爆、ビキニ水爆実験、水俣病、南京大虐殺、アウシュビッツをモチーフにした作品も展示されている。

人間は、かくも愚かな生物なのかと思うと同時に、いたたまれない気持ちになった。

美術館の奥の2階には、当時アトリエとして使われていた部屋が休憩室として開放されている。

部屋には丸木夫妻が集められたと思われる、原爆関連の書籍が並んでいた。




写真の左側より、位里氏と俊氏。




小学校、中学校の修学旅行ではそれぞれ長崎、広島を訪れ、平和記念像や原爆資料館を見ており、それなりに感じるものはあったかもしれないが、ほとんど忘れてしまっている。

形は違えど今回改めて見てみると、決して忘れてはならない事と感じた。
Posted at 2015/06/12 00:49:46 | コメント(4) | トラックバック(0) | museum | 日記

プロフィール

「[整備] #86 サウンドクリエーターの遮音 https://minkara.carview.co.jp/userid/2133117/car/2696956/5118250/note.aspx
何シテル?   01/04 18:47
cocoichiです。よろしくお願いします。 ちなみに、ココイチにはまだ行ったことがありません。 20代はバイクで駆け回ってましたが、スプラッシュで...
みんカラ新規会員登録

ユーザー内検索

<< 2025/7 >>

  12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

リンク・クリップ

D1 chemical SOD-1 Plus 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2022/09/04 05:56:57
満天の星空目指して 
カテゴリ:その他(カテゴリ未設定)
2021/07/27 21:57:10

愛車一覧

トヨタ 86 トヨタ 86
スプラッシュでワインディングロードを駆け回る度に、さらなるエンジンパワーとブレーキ制動力 ...
その他 カメラ その他 カメラ
これまで単なる記録でしかなかった写真が、その瞬間、一枚の絵に変わった。 画質は非常にク ...
ホンダ ライフ ホンダ ライフ
軽自動車を何台か乗り比べた中で、走った感じはまずまず。 癒し系の外観に加え、内装が明る ...
スズキ スプラッシュ スズキ スプラッシュ
初めて乗った車は、学生時代に友人から安く買ったポンコツ・チェリーで、排気量は1200cc ...
ヘルプ利用規約サイトマップ
© LY Corporation