若い頃にあれこれ読んでいた渡辺淳一の本の中に、「花埋み(うずみ)」という作品がある。
内容はというと、明治時代に日本で最初の女医として公認された荻野吟子の生涯を描いたもので、その荻野吟子の生家跡が熊谷市の外れあり、今はその場所には記念館が建てられている。
前から一度見ておきたいと思っていたものの、なかなかその機会もないままであったが、小雨が降ったりやんだりの生憎の天気の休日に、遠出する気も起きずダラダラとネットを見ていたところ、熊谷市の妻沼に有形文化財に指定されている坂田医院旧診療所があることを知った。
記念館と場所も近いこともあって、ならば一緒に見てこようと思い、出かけて来た。
記念館は利根川のすぐそばにあり、木造の平屋の建物である。

資料が展示されている部屋はそれ程大きなものではなく、資料自体もパネル等がメインで、遺品などの展示はあまり多くはなかった。
荻野吟子は17歳で親の決めた相手と結婚したものの、夫から淋病をうつされたことが原因で離婚し、その後の治療で男の医師から診察を受けることに羞恥を感じ、同性にはそのような思いをさせないために女医になることを決意した。
明治の世においては男ですら医師になることは大変難しく、女性でありながら医学を学ぶことや開業試験を受けることは困難を極めたが、それらを乗り越えた末に開業試験に合格し、東京の本郷で産科婦人科の開業を果たしている。
当時の医者は威厳と社会的地位があり、偉くて近寄り難い存在であったが、小柄で細身の女性がやさしく診察するために評判となり、繁盛していたとのこと。
年表の所々には「花埋み」中の一文が引用されている。

医師になるための勉強に使われた本。
平成10年には「花埋み」を基にして、三田佳子の主演で舞台化されている。
隣はその時の衣装である。

開業後はキリスト教の活動を通じて知り合った14歳年下の相手と、周囲の反対を押し切って再婚したが、理想郷を創るために北海道に渡った夫の後を追って自らも赴き、最果ての地に開業した。
しかし、医学はどんどん進歩していく中、知識や技術は時代遅れになると共に、夫も若くして帰らぬ人となってしまうなど、人生の後半は恵まれたものではなかった。
北海道に渡らずそのまま東京で病院を続けていたとしたら、後世によりその名を残せた医師になったかも知れないことを考えると、人との出会いがその後の人生を大きく左右することもあるということか。
ところで、渡辺淳一の著書の中には「遠き落日」という、同じく医学者である野口英世の生涯を描いた作品もある。
野口英世と言えば幼い頃に手に火傷を負い、その後は貧乏の中、努力を重ねて立派な医学者になった偉人、というのが誰もが小さい頃に読んだ伝記での人物象だったと思う。
しかし、この本を読むとそれは作り上げられた偶像の部分があり、実際には恩師や知人から幾度となく多額の借金を重ねていたという、金銭感覚においては人格破綻者であったことが分かる。
象徴的なのが、恩師が米国留学のために莫大なお金をかき集め、英世に渡したものの、当の本人は留学直前にたった一晩で仲間を集めての遊興で使い果たしてしまったというくだりである。
それでも恩師は再びお金を何とか工面し、英世は留学できているのだが・・・。
かなり度を越しているものの、決して聖人君子ではなく、人間であったということ。
しかし、こんな人物がお札の絵柄になっているのだから、世の中おもしろい。
一体、何を書きたいのか自分でも良く分からなくなってきているが、気にせず先に進もう!
記念館を後にして、妻沼の坂田医院旧診療所に向かった。
この病院は昭和6年に建てられたものであるが、鉄筋コンクリート造りでデザインもこのようにずいぶんとモダンな建物で、今の時代でも全く違和感を感じない。
映画やTVのロケでも使用されているとのことで、映画では「東京タワー~オカンとボクと、時々オトン~」や「ゲゲゲの女房」などがあるそうだ。

平成16年に有形文化財として登録されているが、プレートがとても立派で重みも感じられる。

ところで、この建物の内部が一般公開されるのは限られた日だけで、残念ながら当日は施錠されていて中に入ることはできなかった。
でも、何とか見てみたい!
で、窓から覗きこんで撮影した。

中の調度品も外観に劣らずモダンである。
ハサミとか鉗子とか、こういったステンレスの医療器具にとっても惹かれてしまう私は、きっと危ないのだろう・・・。
歯医者で、自分の前のテーブルに置かれる治療セットなんかも欲しくなる。

なお、この診療所は昭和50年の前半まで使用されており、昭和61年には新しい診療所が設立されたとのこと。
ちょっと「医」な半日であった。
Posted at 2015/11/29 18:28:56 | |
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