2014年01月12日
自分のことですが、望んでいないのですが自分は特殊です。
興味として五感に訴えてくる速さに対する興味は、ロケットまで及びます。
自動車は機械であって、工作機械や建築物、ダムまで機械の範囲が及びます。
機械は歴史があり、産業革命後の19世紀(1800年代)からのモノ作りの変遷を調べます。
評価指標は都度変化し、先を見て評価指標がどう変化するのかを判断するためには文化、政治、経済も調べる必要があり、素直に調べ、先を読む力も付けてきました。
一番違うと感じるところが、評価の部分だと思います。
良し悪しの判断が難しいのは分かりますが、自分のことだけなら問題なくても影響を与えて他人の迷惑になるようなことは避けねばなりません。
そこで法律などのルールに沿ってさえいれば問題ないという考え方はしたくありません。
迷惑は迷惑ですよね。
そもそも法律を迷惑に感じていることも多く、ルールが優先、という考えは危険性が潜むと考えちゃいます。
私は優秀な人ではありません。
だから努力します。
で、努力の方向が自分にあり、あまり他の力を頼ることを選びません。
考え方が違うからです。
※すいません、良くない文章だったので一部削除しました
今後は気をつけます
Posted at 2014/01/12 10:49:53 | |
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2014年01月11日
プリウス。
誰もが認める満足感の高いクルマ。
社会性が高い上にガソリンの消費も少なく、税での優遇、信頼のあるトヨタ品質。
加速性能、ブレーキ性能、コーナリング性能、安全性、静粛性、価格。
1990年代後半であれば「夢のクルマ」です。
ただし、このプリウスに当時のタイヤ、同じクラスならコロナST190(175/70-14)、同じ車格ならマークⅡのJZX90(205/55-16)のものだったらどうなるか?
現在のアジアンタイヤよりもはるかに劣るレベルでしたよ。
ドライで走っても現在のタイヤでウェットで走るくらいのタイムしか出ません。
私が走り始めたのが1996年くらいからで、ALTは2000年からです。
ALTのHPで排気量別ランキング(2004年~)でも確認出来ますが、速い人は同じ、いじり方も同じ、タイヤが変わっただけです。
私はNA6ロードスター、’73 911、インプレッサ、NB8ロードスターと10年で4台の車両でテストし続けました。
この20年近くの間、進化したのはタイヤだけで、Sタイヤは2000年発売開始のA048を超えるものはなく、ラジアルの進化が劇的でした。
1995年頃のSタイヤのタイムと現在のラジアルは同じくらいかそれ以上です。
特に最近はA048で始まった内輪の引掛りグリップを生かした柔らか構造のタイヤが主流で、サスペンションの差は本当の限界でしか見えません。
この内輪を使うタイヤの出現によりLSDの有効性がなくなり、安全に速く走れる基礎が出来ました。
自動車メーカーはタイヤの進化におんぶにだっこで努力する範囲を狭め、売れるクルマが正しいという企業論理のままにクルマを開発し続けました。
1996年の道路交通法の規制緩和に伴いユーザー車検の許容、整備士以外の人が整備を行える時代になり、アフターパーツメーカーが大手を振ってエンジンパーツ、足回りパーツの販売を開始しました。
車高調が一般に販売されてからまだ15年くらいしか経っていないのです。
また、その間に海外生産も当たり前になり、20万円のものが数万円で買える時代になりました。
成熟期はこれからです。
そして自動車メーカーから「答え」が出つつあります。
2007年、R35 GT-Rが販売開始。
誰も興味のないニュルのタイムでポルシェと揉め、速さの価値の何かが変化し始めました。
GT-Rはタイヤ任せのクルマです。
ただ、タイヤに期待し、それに応えるクルマを作った。
マクラーレンMP4-12Cは速さよりサスペンションに拘った。
そして最新の911(991型)GT3は4輪操舵によりタイヤを使いこなすように。
荷重移動なんていうのは死語になり、コーナリング性能はタイヤそれぞれの接地面荷重の積分で表現され、ハンドリングはスリップアングルの静的でなく動的な変化の質を問うやりとりになる時代が始まります。
そうすると車高やらトラクションやら抽象的などうでもいい良し悪しの指標は排除され、設計値と再現性の話でまとまる。
楽しみですね。
(たぶん私だけ)
Posted at 2014/01/11 12:55:24 | |
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2014年01月10日
あけましておめでとうございます
新年ということで、少し自分の考えを書きます。
私はクルマのことについて、機械として興味があって自分で改造を始めました。
兄の影響や環境から、物心ついた時からですが、構造や機械として進化していくさまが興味深く、時代背景やクルマ好きを熱くさせるなど文化的にも特別な機械で私にとって特別な存在でした。
で、何故か私が欲しいもののほとんどが「答え」でありクルマから直接得られる満足感とかは二の次なんです。
「答え」を得る為に改造が必要と考えて今までそれを実行しています。
そして改造の結果と「答え」はイコールでなく、手段や影響度のような数値的でない「答え」も多いです。
私の欲しい満足感は私固有の感覚であり、クルマが与える刺激などからの満足感は人それぞれで違うので、理想のクルマはオーダーメイドの服のように、形や色だけでなくオーナーの生き方や表現や主張、個性などを含めた上での満足感が得られるクルマです。
そして現在はほとんどのユーザーが「答え」を求めてなくて満足感のみを求めていること、わかっています。
クルマは無機質の金属とゴムの大きな塊であり、ガソリンという優秀でない燃料を無理やり燃焼させて使い難いエネルギーを試行錯誤してなんとか成立させている効率が悪い機械です。
この無駄さ、難しさの上の達成感も満足感にもなっていて欲しいです。
数ある矛盾や問題点の中には明確な「答え」があり、現状を基準として良くなったと誰もが判断出来る指標も存在します。
という考え方がベースで、自分がより多くの「答え」を持っていることに満足感を感じる人間です(笑
ところがある時期を境に、クルマが生き物であるかの表現とかが文系の価値観だけでなくエンジニア達の「答え」を覆す現象があまりに多いことで、それに対し怒りの感情が芽生えてしまったのです。
五感への刺激による満足感の前にまず機械であるべきはずのクルマが、麻薬やゲームのようにバーチャルな五感への刺激を最初に優先されてれば良いという価値観はまずいです。
速く走れるようになった、曲がるようになったことがほぼタイヤの進化であってドライバーやサスペンションの進化でないこと。
壊れなくなったことが設計がよくなったのではなくて生産技術=測定および評価技術が向上したからであること。
ほとんどが誤解の上に成立した満足感であり、それが証明されるのがサーキット走行、ということなんです。

Posted at 2014/01/10 23:30:05 | |
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