この記事は、
16年目・・・。について書いています。
もう16年も経つんですね。
震災の2ヶ月前に生まれた娘もそういやぁ16歳です。
年末までインドネシアにい滞在していて帰国。
里帰り出産していた妻と長女、生まれたばかりの次女を当時住んでいた明石へつれて帰り家族で正月を過ごしました。
年明けて会社に出ますが子供が生まれたのでしばらく長期出張は免除。
長期海外出張に出た先輩の変わりに会社で管理の仕事に就いて直ぐに震災は起こりました。
僕の住んでいた明石は震度6
でも、不思議と我が家はほとんど壊れたものはありません。
たまたまレイアウトが良かったんですね。
家を片付ける必要も無かったので少し遅れて出社。
会社へ行く道も何時もとそんなに違いは無しでした。
部長の指示で出勤者の確認。
直属の上司は自宅前が崩れて車が出せず未出社。
工場に行って出勤者を確認して回ります。
その後は現場に出ている社員の安否確認。
海外出張者の留守家族の安否も確認。
工場は仕事にならず午後から休業になり退社しました。
電車が不通でバスを乗り継いでえらい目にあいながら出社した後輩を加古川まで送り届けて念のために車に給油。
家に戻ると水の確保。
ミネラルウォーターは売り切れなので氷を大量に購入。
溶かせば呑める。
電気は直ぐに復旧しましたが水道は出たり出なかったり。
水道が復旧したタイミングでキャンプ用の蛇口付きポリタンクに水をためて飲み水確保。
トイレは風呂の残り湯で流しました。
近くのスーパーは営業出来ず閉店。
団地内のお店と移動販売で牛乳とかは確保。
夕食はともかく水を使わない料理と後片付けも水を使わないように皿にラップを巻いて使いました。
翌日から僕の仕事は出勤者確認と安否確認。
そして次々と届く救援物資の仕分け。
避難所に避難していることがわかると頑丈な若手社員に救援物資を持たせて安否確認に向かわせます。
僕のように明石やそれより西や北にに住んでいた社員はそれほど被害も無く少し不便な程度でしたが、神戸市内方面に住んでいた社員は大変なことに。
自宅崩壊で家に居られずに会社に避難してきた方も大勢いました。
自宅が崩壊した社員は希望があれば寮に受け入れ。
僕も後輩家族を迎えに早朝、神戸市内を抜けて東灘の後輩が避難している避難所へ出かけました。
当時はランクル60に乗っていたので自分の車で出かけたほうが確実に行き着けると思い社有車を使わず。
避難所で初めて被災者を生で目の当たりに。
未だ5時前後だと言うのにやたらざわついていました。
校庭の隅でぶつぶつつぶやいている方がいたのでこりゃぁ・・・
と、思ったら中継前のアナウンサー。
レポートの練習をされていました。
後輩を探し出して彼の自宅まで行き荷物を積み込んで寮へ。
3日目に僕も顧客の要請で三宮へ現場の被災状況確認に出向きました。
阪神高速が使えないので山手から三宮に向かいましたがビルが崩壊してJRの南側に出られません。
テレビで見た惨状が目の前にあります。
ともかく通れる道を抜けて南側にある顧客の本店ビルへ。
依頼を受けた機器は特に問題なくついでに他の設備も点検したところ大変なことに。
よくも事故にならなかったもんだ。
直ぐに会社に連絡して復旧作業の段取りをつけます。
日本中から集められた警察官が神戸の街中で交通整理。
道を聞いても知らないだろうなぁ。
遺体運搬中と紙が貼られたライトバン。
災害派遣の自衛隊がゴミを大型トラックで運搬してゴミ処理場や埋立地に向けて走る。
落ち着いたのは何時ごろだったろうか?
あれから16年。
見た目はすっかり復旧した神戸の街。
長女は未だあの時の揺れと恐怖を覚えているでしょうか?
僕自身、年に一度しか当事のことを思い出しません。
三歳だった長女が手を振った自衛隊のトラック。
隊員の方が笑顔で手を振り替えしてくれたのが印象に残ってます。
Posted at 2011/01/17 23:58:51 | |
トラックバック(0) |
その他 | 日記