我が故郷の
【茂原市】を紹介します。
(現在は隣町に住んでますが・・・)
千葉県の房総地域で、内房の『木更津市』、外房の『茂原市』と2大中核都市を成しています。
共に房総全体の過疎化に伴い衰退の一途を辿っており、アクアラインの開通により木更津は活性化するかと思いきや・・・やっと近年になって木更津金田IC付近が栄えてきました。
茂原市は圏央道の開通で「茂原」を冠するICが3つも出来たが相変わらずです。
“茂原”と言われても、特に他県の方はピンとくるものは何も無いと思いますが、
天然ガス産出量日本一だったり、日本3大七夕祭りと言われた(現在は関東3大らしい)
「茂原七夕祭り」くらいしか無いかな・・・
私より若い世代の方には、茂原と言ったらやはりこの方でしょうか?
そう、コリン星からイチゴの馬車に乗ってやってきた「りんごももか姫」(苦笑)
コリン星は爆発して消滅したと言われてますが、実は
『茂原市』だったのです!
私としてはせめて
『双葉電子工業』の茂原と言われたいですね。
日立製作所茂原工場の下請けとして戦後間もなくこの地に創業し、真空管やブラウン管の部品製造で発展した会社です。
双葉と言えばピンとくる中高年のおっさんは多いのではないでしょうか?
ラジコンのプロポで世界的に一世を風靡した
『FUTABAのプロポ』です。
『BACK TO THE FUTURE(part1)』冒頭で、タイムマシンのデロリアンに愛犬アインシュタインを乗せ無人で1分間のタイムトラベル実験をしたシーン、ドクがリモートコントロールしていたのが
『FUTABAのプロポ』です。
『双葉電子工業』は現在も茂原に本社を置いています。
しかし、ともに今ではちょっとインパクトが弱いでしょうか?
そこで
『素掘隧道の街 茂原』と
『戦跡の街 茂原』を紹介したいと思います。
まずは第一弾、茂原に多数存在する
『素掘隧道』を紹介します。
実は10年程前まで、茂原には1本しかトンネルがないと思っていました。
それが
『澁谷隧道』(しぶや)。現状はコンクリート製の普通のトンネルです。
昭和8年頃素掘で開通し(3つの素掘隧道が連なっていた)、昭和47年に道路拡張にともない2つの隧道は切通し化され、澁谷隧道のみ現在の姿で残ったそうです。
そして9年前、
詳細地図とGoogle mapを頼りに多数の素掘隧道を発見します。
この時は現地周辺の人しか知らないであろう、大発見だっ!と思い喜んでいましたが、ちょっと調べると茂原が「隧道マニアの聖地」であったと知り驚きました。
この時は「詳しい資料は無い」と言いましたが、市が発行する冊子がありました。
右下の
写真でみる もばら風土記 『トンネルのはなし』を購入したついでにイロイロ買い込んできました。
知らなかったトンネルもあったのでこれを参考に巡ります。
あとYouTubeにも多数の動画が投稿されています。何事にも
マニアは存在しますね。
これもかなり参考にさせていただきました。
上の
『澁谷隧道』の旧道、
『三宅谷隧道』(みやけやつ) 明治末頃
9年前は問題無く通り抜けられましたが、現在は西側が廃道状態。
ここから更に藪漕ぎしながら100m程進みましたが、もうどこが道なのか判らない状態。半ベソかきながらバックで戻りました。(涙)
隧道はぬかるんでいるくらいで問題無いですが、その先は車では止めた方が良いです。
豊田小学校脇にある
『御領隧道』(ごりょう) 大正中頃
今回の探索の為にLEDライトを購入しました。最大光量40000lm、最大照射距離2000mと某国製らしい過大スペックですが、確かにかなり明るい♪
『御領隧道』の手前にある横穴。
数年前までもっとキッチリ塞がれていました。ココが海軍地下壕の入口だと思い込んでいましたが、覗いてみれば燐家の庭に出るプライベート隧道でした。
少し離れた謎の川廻し隧道。通常の川廻しとは違う・・・(謎)
川廻し隧道の近く、名称不明の素掘隧道。恐らくプライベート隧道。
ゴルフ場の下を通る
『小山隧道』(おやま) 明治中頃
今回の隧道で最古か?
『長谷隧道』(ながや) 明治15年
過去近くにあった薫風小学校の通学路として掘られた、寺から山を越え寺に繋がる道。小学生は相当怖かったのでないだろうか?北側は完全に廃道状態。
南側は坑口横に墓地があり、今でも道らしき痕跡は残っています。
昭和30年に薫風小学校は茂原市立西小学校と改称し市役所近くに移転したので、この隧道の役目は終わりました。
次はお隣の長柄町山根地区へ移動。
高校の部活の一つ下の後輩にココから来てるヤツがいました。ほっぺの赤い田舎者丸出しの少年でしたが、「ドコから来てるんだ?」と聞くと、「やまんねです」と・・・
「やまんね」なんて聞いた事ねーぞと言うとどうやら長柄の山根らしい。
それから彼は卒業まで「やまんね」と呼ばれるようになりました。
最近、地図を見ていて気付きました。「山根」って「やまんね」と読むんだっ!
30数年ぶりに「やまんね」に会えたら一言謝りたい。訛ってんのかと思ってたと。w
そんな山根で人知れず朽ちていく道へ・・・
山の尾根と尾根の間に細く奥深くまで続く水田を「谷津田」と呼ぶそうだが、その最奥。もう道は途切れると思いきや、山を開削した切り通しの道が。更に進むと・・・
林道から分かれて素掘隧道が・・・尾根の向こうの「山根稲荷神社」への参道道として昭和7年に開削されたらしい。現在北側は完全に廃道化。重機の無い時代にここまでの大規模工事をしてまで参拝したかった神社へ行ってみた。
鳥居が埋もれそうな程の雑草が生え、横の宮司宅と思われる家は廃墟に・・・
開けっ放しの扉からは仏壇と並んだ遺影が見える。
調べると2019年の台風で土砂崩れにより拝殿は半壊し、辛うじて本殿は残る。
数年前までお祭りでは露店が並ぶほど賑わっていたようだが・・・
参道とともに神社もこのまま朽ち果てていくのだろうか。
この日は最後に長南町千田地区の
『千田谷隧道』(せんだやつ)を通って終了。
睦沢温泉に浸かり、茂原で蕎麦を食し帰宅しました。
別の日に茂原一(日本一?)の素掘隧道密集地、
『押日素掘隧道群』を巡りました。茂原市街地のすぐ近くに押日の里山は広がります。
『細田隧道』(ほそだ) 明治33年頃
私が茂原で最も好きな隧道。八幡宮下の今にも埋もれそうな小さな穴に吸い込まれるように突入すると、S字に曲がったなんとも美しい光景が広がります♪
平成10年発行の
『トンネルのはなし』によると「近く切り通しにする計画がある」との事。近くの住人の生活道路として利用されているが軽自動車サイズでは確かに厳しいでしょう。でも何とかこのまま残してほしいものです。
『坊谷隧道』(ぼうやつ) 昭和39年
この日初めて訪れました。最も新しい隧道ですが、既に廃道化しています。
昭和39年、時あたかも東京五輪が開催された年。
上空にはジェット機が飛び交い、鉄路には時速200キロ以上で新幹線が走り、都心上空には首都高速道路が建設され自動車が上空を走る。
そんな時代にツルハシ1本で素掘隧道を造るとは・・・
そしてなんと完成した直後に別の道が引かれ、すぐに使われなくなったらしい。
『後呂隧道』(うしろ) 明治末~大正初期
この隧道群で最も大きな口径です。小型トラックなら通れるでしょうか。
『猪喰隧道』(ししくい) 昭和10年頃
後呂隧道を抜けてすぐY字の道を戻る方向に進むと現れます。
坑口を入るとすぐ右に曲がっており、隧道内もカーブしています。
これは両側から掘ってズレたのか?
『狸谷隧道』(むじなやつ) 昭和10年頃
現在でもよく使われるのか?中には照明が設置されています。
東側坑口は綺麗な観音堀の5角形ですが、西側は崩れたのか?
『花立隧道』(はなたて) 昭和10年頃
花立隧道は初めて訪れました。廃道化しており西側坑口が見付かりません。
この辺りのはずと草むらを掻き分けて行くと、微かに道であった痕跡を見付けて前進、すると廃道化した隧道の更に旧道、尾根越えの道に出てしまいました。
戻る途中に暗い坑口を発見。すぐ横を通ったのに気付かないとは・・・
『野本隧道』(のもと) 昭和20年代
この隧道は新興住宅地に向かう道のすぐ横にあり、簡単に見付けられるはずが鬱蒼と茂った雑草で素通りしそうになりました。あまり使われていないのかな?
『木生坊隧道』(きしょうぼう) 明治末~大正初期
野本隧道のすぐ横にある押日でも古い隧道。古い地図には山を下って茂原街道に抜けられる道があったようですが、2~3mの藪に遮られ抜けれません。
『戸田谷隧道』(へたやつ) 大正12年
隧道群から少し離れた場所にある隧道。Google mapでは『押日第九隧道』と表記されています。(押日の他の隧道も『押日第〇隧道』と表記されている)
これにてこの日も終了。腹減った~ ビール吞みてぇ~w、近くの『銚子丸』へ。
茂原市発行の
『トンネルのはなし』には28本のトンネルが紹介され、その内10本が切通し化。1本が入口閉鎖と記載されています。
しかしマニアの方によると、茂原市には現存するだけでも40本程あるらしい。
なかには軍用道路の隧道もあり、探索するには本気の装備が必要そうです。
次回は
『茂原に残る戦跡』の予定です。
今回も少し探索してみましたが、この時期は水没してたりコウモリや虫の活動期だったりでかなり厳しい。冬になったら探索開始したいと思います。