DVDの映像はまだ1分を過ぎたあたりまでしか紹介していなかった。中部博さんは丁寧に書き取ってはいるが、それは音声からのものに過ぎない。キビキビと闘いに備える男たちの動き。それを、ぼくは補足していきたい。
掃除機のノーズがグリーンのボディサイドを舐めるように、せわしなく動き回っている。磯部アナウンサーの声が重なる。
「辻本さん、これは掃除機で何をはらっているのですか」
辻本「タイヤのカスですね。タイヤのカスが飛んできて、マシンのあちこちにつきます。ドライバーがクルマから降りてきたときによく分かりますように、レーシングスーツの膝あたりに、たくさん飛んできていますね」
磯部「最初は何かのホコリかなと思ったのですが、タイヤのカスですか」
カメラはレーシングカーのむき出しのサスペンションからリアウィングを大写し、視聴者をぐいぐいとレース観戦の特等席へと誘ってくれる。
田中「それとかね、ラジエターのところにタイヤの屑なんか入りますと、オーバーヒートの原因になります」
磯部「よく夏なんか夜、虫が飛んできて、塞いじゃいますよね」
田中「いまね、磯部さん、このサスペンションまわりの、たとえばキャンパーを調整しているわけですが、先ほどのタイヤに熱がこもるというなら、タイヤを少し起こそうとか。これ、トーイン・キャンパー・ゲージと申しまして、一般のクルマあたりでも車検なんかに使う同じ道具を使って、精密にやっていますね」
磯部「極限状態で走りますから、細かいですよね、点検が……」
熱のこもった口調で田中健二郎さんが応える。
「そのとおりです」
近年のモータースポーツの番組では考えられない分かりやすさだ。丁寧なメカニズム解説を映像がカメラワークで確実にフォローする。と、ここで宮廷音楽のような厳かな笛の音が、木漏れ日と一緒に登場したかと思うと、ハープの弦が奏でる華麗な旋律にとって代わり、レースの開始を待つ観客たちの様子が紹介されだした。
中部さんの記述はこの部分を、「コマーシャルが入っていると思える録音中断があった」と片付けざるをえなかったようだが、じつはこの間の映像にぼくは吸い寄せられてしまった。
なんという明るいモータースポーツファンの姿。芝生で弾けるように笑っているカップル。まるでお花見に来ているように陽気にはしゃぐ親子づれ。鉄板を持ち込んでバーベキューを楽しむグループ。焼きそばを口いっぱいに頬張る小学生兄弟。そして、おそらく第1コーナーあたりだろう、金網張りのフェンスによじ登ってコースを見下ろす若者たち。
説明は何もいらない。こんなに底抜けに陽気なレース観戦光景は何を物語るのか。
音楽はいつの間にか、そのころ流行していたに違いないグループサウンズの歌声にすり替わっていた。コマーシャルのテロップ・ロゴが控えめに、画面の雰囲気を壊さないようにひっそりと流れている。「シック2枚刃スーパーⅡ」と「雨につよいカーマニキュア・ポリシールド」。
1974年ごろのモータースポーツファンが、この日のレースを、心の底から楽しみにしているのが、ストレートに伝わる貴重なシーンだった。それだけに、この後に訪れる衝撃的なアクシデントの意味合いが、どのように問われたのか、容易に予測できてしまうのだ。
「間もなく第2ヒートが始まろうとしています。20周で争われます第2ヒート。第2ヒートの如何によっては、健二郎さん、黒沢選手の優勝もあるわけですね」
磯部アナウンサーの呼びかけに合わせてカメラはコース上でグリッドについた各マシンを、1台1台、紹介し始めた。レースクイーンと談笑する長谷見昌弘選手が、なんとも若々しい。このあたり、まだまだスタートまで時間がありますから、和やかな雰囲気です、と磯部アナウンサーのフォローが入る。
ここでやっと30秒のコマーシャルが2本、挿入された。先刻、テロップ・ロゴが流れただけの『スリーボンドのクリーンガン』と『シック・スーパーⅡ』が登場する。
隊列を整えてスタートを待つマシンの間を縫って「3分前」のボードを掲げた赤いオープンカーが右から左へ駆けていく。「スタート3分前です」という場内アナウンスが流れている。
磯部「レースクイーンの高草純子さんが、いまスタート3分前を提示しました」
コース員が吹いたであろうホイッスルの音がする。スターティング・グリッドにいる人々に退場をうながす合図のはずだ。
磯部「今日も5万6千という観衆がつめかけました富士インターナショナル・スピードウェイ。グラン300キロレース。第2ヒート。まもなくスタートが切られようとしております。さあ、健二郎さん、3分前が提示されました」
田中「はい、はい。やはりね、こういう時にはね、第1ヒートの自分のコンディション、それから成績、そういうのを検討しながら、いろいろ作戦を練ってね。やるんですけれど、こういう時が、いちばん嫌ですね」
場内アナウンスが「スタート2分前」を告げている。17台のマシンのエンジンにいっせいに火がはいる。クランキングして、やわらかくウォーミングアップするエキゾーストノートにまじって、勇ましいカラ吹かしがところどころに聴こえる。まさにレースのスタート直前の緊張が伝わってくる。
磯部「じーっと、こう耳を澄まそうとする表情が北野選手ですが」
田中「そうなんです。これは黒沢選手ですね。いろいろね、自分が第1ヒートで失敗した、あのスタートがね。今度はどういう具合にやるか。それをあれこれ、いろいろ考えている時期なんですよ」
磯部「さあ、1分前がでました。やはりあの、耳でエンジンの音を聴いたりね、油圧が大丈夫かとか、いろいろ、こう……」
田中「はい、はい。磯部さん、いま、国光君のヘルメットが動いていますね。右、左を見ていますね。バックミラーを見たりと、なかなか、ベテランでも落ち着かないんですよ」
第2ヒートに臨むにあたって真っ新な白いヘルメットに替えた国光選手が、さかんにレーシング・グローブでヘルメットのおさまり具合を気にする様子を捉えている。
スタート1分前。エンジン・ウォームアップのエキゾーストノートがたかまっている。スタートにむけてエネルギーをためこんでいる音だ。
田中「それと、今度はね、先ほどの第1ヒートで1位をとったもんですから、高橋君が、第1ヒートで黒沢君がポールポジションと同じで、高橋君がようするに先導役ですね」
磯部「さあ、ローリングが始まりました」
走り出す17台のマシンのエキゾーストノートが重なって聴こえてくる。レースファンをして興奮がたかまるサウンドだ。
磯部「ローリング開始であります。(正岡註:選手紹介は省略する)第1ヒートにくらべて、タイヤのいわゆる調節をはかるという、あの左右に動くのが、少ないようですね」
田中「これは我われが言ったことが通じたかどうか、知りませんけれどね、こうして温度(気温)もあがっていますからね、第1ヒートのような、あんな無茶苦茶なことをする必要はないですね」
磯部「ま、一応、第1ヒートで、タイヤがどのくらいもつかということは、分かってますね、もう。確認してますよね」
ヘアピンにさしかかる各車。遠く箱根の山並みが見える。
田中「そういうことです。磯部さん、ちょっとペースが速いね」
磯部「そうですか。ヘアピンをたちあがって行きます。ペースカー先頭に17台が連なっています。高速コーナーです。今度はわりと間隔があいていますね」
田中「そうですね」
最終コーナーを、まるでレースが始まったようなスピードで駆け上がる各車。黄旗を振る安友競技長。
磯部「高速コーナーから最終コーナーをたちあがってきましたペースカー。篠原孝道さんがステアリングを握っております。ポールポジションの高橋国光が左、その右側のほうに黒沢。さあ、今度は、どうでしょうか、辻本さん。(ペースカーは)はいりそうですか、一度で」
辻本「えーと、ですね。ペースカーがたとえ入りましてもですね、競技長のグリーンフラッグがふられないかぎり、レースがはじまりませんから」
磯部「ああ、そうですね。安友競技長のフラッグはイエローのままです」
辻本「もう1周です」
磯部「もう1周ですね」
息をのんでグリーン・フラッグの振られる瞬間を待つ観客の表情が挿入されている。30度バンク。ぺースカーの真後ろを国光選手と2番手を行く黒沢車がほとんど並んだ状態で突入するが、そこから黒沢車はややイン側へとラインを変えた。各車が横山コーナーへと舐めるように移っていく。
田中「うーん」
磯部「隊列はわりと整っていたような感じはしたのですが、もう1周ですね」
田中「何か、競技長が念を押したいというような気持ち、だと思うんですがね」
磯部「そうですか、もう1周、ローリングであります。20周で争われます第2ヒート。第2ヒートで、もし黒沢選手が勝つようなことがありますと、黒沢選手の総合優勝ということになります。したがってポールポジションの高橋国光選手も安閑としてはいられません。Sターン・カーブです。ペースは、やはり第1ヒートに比較すると速いですね」
田中「うん、これはね、約ね、80キロぐらい速いね」
S字から100R、そしてヘアピン、いまにも鎖から解き放たれそうな予感をたたえつつ、各車が300Rへ消えていく。
磯部「さあ、17台のマシンが高速コーナーに消えました。最終コーナーをたちあがってきました。ペースカーです。さあ、今度はどうでしょうか。入りそうですか。左、赤いクルマが高橋国光です。安友競技長のイエローフラッグ。ペースカーは、右のウインカーを出しました。ピットロードにそれます。安友競技長のイエローフラッグは、いまグリーンに変わりました。いま、第2ヒート、一斉にスタートです!」
安友競技長がグリーンフラッグを背中からひねり出す瞬間が大写しされた。
全開走行を開始した17台のレーシングマシンがかなでるエキゾーストノートに、エフェクト処理がなされ、リバーブ(残響)してたかまり、やがて静かにきえていく。砂浜に大きな波がおしよせ、ブレークして広がり、やがて引いていくようなイメージだ。
このシーンの映像が包み隠さずぼくの目に飛び込んできた。左右に各車が大きく広がる。カメラはストレート・エンドからのアングルだ。先頭の赤いマシン、つまり国光車が、向かって右側に寄った。背後のマシンに自分のスリップを使わせない意図が看てとれた。と、次の瞬間、右端の白いマシンが片足をグリーンゾーンにはみ出させた。そして、あの瞬間が、あっという間に始まり、あっという間に惨劇と化してしまう。思わず、一時停止のボタンを捺してしまった。カウンターは12分09秒を指していた。 (以下、次回のアップまで)
★「題名のない映像」は37年前に12CHから放映されたもので、その資料性に鑑みて、ぼく自身が静止画からスキャンして、あえて掲載したものです。