ぴったり800ページ。B5判(182mm×257mm)だから、いわゆる週刊誌サイズで、厚さが350mmのボリューム。つまりベストカーを5冊も積み重ねて、上からグイと押しつけた高さと厚みを思い浮かべていただきたい。
1978年に生まれたベストカーが創刊30 年を記念して《クロニクル》を2008年7月に『別冊』として発刊した。定価、1200円。売り切れ御免!!と称して10万部を刷った(これは、確認済み)。なにしろ売れ行き業界1位を誇る「クルマ雑誌」。親会社の講談社販売部も鼻息が荒かった。ともかく表紙の売り文句通り「BCの歴史がぎっしりつまった保存版」として、いまや貴重な遺産となっている。
わたしにも、
【『ベストカーガイド』はこうして誕生した……創刊前夜】と題して4ページの内幕を書け、という注文があり、浮き浮きと仕上げた原稿と一緒に往時の貴重な写真も添えて、この企画の責任者であった宇井弘明君にお届けするべく、江戸川橋まで足を運んだ記憶がある。今回の稿を書くに当たってクロニクルの刷り部数を確認したお相手も、当然、編集責任者であった宇井ちゃんということになる。
そんなボリュームの怪物保存版が本棚に収まるはずはなかった。どこに蔵(しま)ったのかな? 1Fにある専用のトランクルーム(ここ3年間のベストカーを保存)もチェックしてみたが、無駄だった。
「さて?」と仕事場にあてがわれている小部屋の、デスクトップ型PCモニターも置ける、硝子戸つきの書棚に気がついた。パソコンを動かし、引き戸を開けてみた。
「おお、あった!」右端の然るべき場所にちゃんと納めてあるではないか。近年、探し物に振り回される日々の、なんと多いことか。
早速、國沢光宏君とやりとりした『レコード大賞』の会場からスター歌手たちを『紅白』の舞台・NHKホールまでの移動をバッチリ、スピードガンで『隠れ測定』したはずのページ探しにとりかかった。しかし、なんといっても「懐かし過ぎる名物企画満載の想い出玉手箱」である。ページをめくる手が、すぐに止まってしまう。が、ここはその誘惑には目を瞑(つむ)って、前進するしかない。
*おお懐かしや、梁山泊の面々。徳さんやガンさんの声が聴えてきそう
☆ ☆ ☆ ☆
《編集部総出で、いつも一生懸命作りました》
これが巻頭特集のタイトルで、MID4/Ⅰと2年後に発表されたMID4/Ⅱを前にして、それぞれ日産技術陣と編集部員一同がズラリ記念撮影。
つづけてページをめくると今度は《ベストカーを支えてくれた協力者たち》が……そして、徳大寺有恒九変化。梁山泊の面々だ。そこから《今、明かされるスクープ秘話》が用意されていて、やっと到着したのが『人気企画 30年前からいろんなものを測っていた!! スピードガン測定ことはじめ』が待っていてくれたじゃないか。ところが紅白歌合戦のもう一つのステージ「東京サーキット」については、何も触れられていない。喜ぶのが速すぎた。
どうやら国沢メの勘違いだったらしい。う〜ん、抗議の電話でもしてやるか。腕組みしたところで、ふと目についたのが左ページの外側に【詳しくは238ページ】と但し書きがされている気配り編集。おお、そうであったのか。お陰で、一気に200ページほどをパスすることができた。
むむ! そこには【桜田門も協力! 紅白歌合戦への大移動!!】とあって、東京サーキット族は、この日、12月31日、このコース帝劇⇔NHKだけは解禁!!
このタイトルの踊ったモノクロ4ページグラビアページにたどり着いた。ただし、レポーターは、かつて富士フレッシュマンを舞台にしたレース仲間だった、今は亡き秋山武史君だ。う〜ん、こいつはどこかで話が捩(よじ)れていないか!ま、それはそれとして、掲載フォトと【桜田門公認 帝国劇場➡NHKコースMAP】案内だけは紹介させていただくか。掲載した月号も明記されている。
‘83年3月号。ということは’82年大晦日の取材だから、紅白の第33回にあたる。トリは都はるみ《歌唱:涙の連絡船》と森進一(蔭を慕いて》が務めた。
ともかく、このままでは、いかにも消化不良だぞ。スピードガンによる《隠れ測定》を敢行したはずの、そのページはいったい、どこへいったのか。
こんな時には、不思議と助けの矢が翔んで来てくれるはず。ことしの初詣も「大吉」のお神籤をいただいたばかりじゃないか。ここは一息、入れるとするか。
*秋山ザウルス(武史)君を交えて筑波のメディア対抗(パルサーレースだったかな)に出場したこともあったっけ
まるまる10ヶ月の空白からやっと復帰した《みんカラブログ》のお陰で、このところご無沙汰続きだった仲間からの「メッセージ」や「コメント」が次々と届きはじめた。やっぱり、ほっこり、嬉しいものです。
最新の《紅白歌合戦とわがラブストーリー》をアップしたのは1月14日の午前1時38分だったが、その内容に寄せて「あっくんりょうパパ」さんから、午前7時56分に有り難いコメントが届いたのである。ご本人の了解はいただいていないが、頼みにした「神の矢」が早速に届いた状況説明上、引用させていただくのをお許しいただきたい。ちなみに「あっくんりょうパパ」さんと交信しだしたきっかけは、現在ではもう廃コースとなってしまった北海道倶知安のスピードパークについて、ベスモでガンさんのドラテクロケがあった、と懐かしんでくれたのが、始まりだったように記憶している。
——おはようございます。
北海道出身の大泉洋さんが司会を務めているので、北海道民としては「紅白」は外せませんでした。そしてその流れで見る「ゆく年くる年」は、もう、我が家の恒例になっています。
さて、国沢さんがスピードガンで紅白に出られる方々の車を測定した話、ベストカーYouTubeチャンネルで、大井さんと話している回があります。
検索バーで「昭和のベストカー編集部 事件簿」で検索してみてください。前編です。笑えました(笑)
そうだ! おっしゃる通りだ。國沢vs.大井の「昭和のベストカー編集部 事件簿」は前後編とも、わたしは視聴済みだが、そのやりとりが面白すぎてどんな内容だったか、記憶が定かで亡くなっている。
早速、Googleで検索してみたところ、間違いなく、紅白歌合戦を ターゲットにして、YouTubeで仕上げていた。もう講釈は要らない。なにはさておいで、《あっくんりょうパパ》のお奨め通りに、検索バーで、
【昭和のベストカー編集部 事件簿 前編】を呼び出していただきたい。17分55秒物だが、12分あたりで、司会役の本郷編集局長に「これは素晴らしい企画ですね」とうまく乗せられた、國沢&大井のハチャメチャコンビのおしゃべりは、たしかに絶品。
さて、今回はここで小休止させていただく。その幕間のうちにぜひご視聴あれ。次回はいよいよ、わがラブストーリーに踏み込んでみたいのだが・・・。
おっといけない。忘れ物が二つあった。迫力の800ページの最終ページもご覧いただこう。《音羽の不夜城》とも呼び慣わされていた梁山泊の様子が2シーン、収められていた。
そしてわたしの寄稿した《創刊前夜》のページ。ああ遙かなり、1978年。