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正岡貞雄のブログ一覧

2012年01月29日 イイね!

プレス専用ファミリアの『怪挙』 ~これにてドン亀パルサーを卒業~

プレス専用ファミリアの『怪挙』 ~これにてドン亀パルサーを卒業~ そのころのファミリアは売れに売れて、ある月などカローラを抜いて2万台を記録したほどだ。ということは、いずれ中古車市場にファミリアが溢れてしまうのを意味していた。
 だから――というわけではあるまいが、ファミリアの、とくにサスペンションのよさをアピールする一環として、ファミリアNP仕様ワンメークレースが発足した。その頃、パルサーで悪戦苦闘していたぼくから見ると、NPファミリアの走りは軽快だが、ややパワー不足。スポーツ走行で混走している時など、100Rであっさりかわされても最終コーナーから直線で抜き返せたものだ。

 で、機会あって東洋工業(いまではMAZDAと表記すべきか)広報部と懇談した折に、
「モータージャーナリスト用にファミリアのNP仕様をつくってみては?」
 と進言したところ、瓢箪からコマ、そのものズバリがマツダスピードの手で完成してしまった。なんと当時の広報部主任の吉田槙夫さんが、
「カラーリング、どうする?」 
 と、20枚近くのデッサンをもちこんできたのである。


*シェーイク・ダウン中のPファミリア。ぼくのパルサーと併走。ドライバーは飯塚さん。

*その日のピット風景、右の黄色のレーシング・スーツ姿が飯塚さん。左の紺が、鈴木俊治さん。
  早速、CARトップ誌のトップレーサー(?)雀こと、鈴木俊治クン(今やCOTY実行委員長)に声をかけ、3者でデザイナーのかなり奔放な力作を検討しているうちに、この年のモンテカルロラリーで大健闘したファミリアのカラーリングにしようと、3者の意見が一致した。哀れ、徹夜までして描き上げたデザイナー氏のものは不採用となった。

 FISCOのメインスタンド前に晴れがましく置かれた「モータージャーナリスト専用」のP仕様(その年から呼称変更)ファミリアは春の薄陽を浴びてうれしそうだった。フロントからブルーを基調としたカラーが段々と淡くなるボディカラーは、力強さこそないが、新入社員のように初々しい姿態を、いっそう際立たせていた。1984年3月30日、P仕様ファミリアのシェイクダウン日だ。

 駆けつけたのは、CG誌の熊倉重春さん(鈴鹿のシティブルドッグ戦にも登場)、オートテクニック誌から飯塚昭三編集長(日産レーシングスクール修了生)、それに「雀」とぼくの4名。この軍団がリレー式で富士フレッシュマンレースに挑戦することになった。

  おっと忘れてはならない。もう一人の特別ゲストがいた。モンテで大活躍して、ご褒美に招待されて来日中のフィンランドの女性ラリースト、M・シランコルバ嬢(22歳)がテストに参加してきたのだ。

*モンテカルロ・ラリーで活躍したご褒美で来日したM・シランコルバ嬢
*最初の実戦のステアリングは、ぼくが握った
  はじめにドライバーズシートにおさまった飯塚氏。野太いエクゾースト音を残してピットアウト……。10分が経って、ぼくの順番がきた。
 マツダスピード第1技術課の野上敏彦君がP仕様ファミリアの素姓をこう説明してくれた。
「エンジンはもちろんノーマルですが、バルブスプリングは強化し、バランスはとりました。足回りは、ダンパー、スプリングともマツダスピード純正。スタビライザーはノーマルで、改造費に50万円近くかけました」

  ぼくに与えられた許容回転数は6000。4速から3速にシフトダウンして100Rにとびこんでみると、ファミリアは軽くお尻を流す。まるでFR車の身のこなしだ。軽くステアリングを当てただけで100Rを駆け抜けるではないか。寺田陽次郎選手のお髭が自慢げにピクリと動く顔が目に浮かぶ。彼は豪語していた。100Rにバッチリの足回りにしておきますからね、と。
 
 そしてレース当日。4月8日がきた。’84富士フレッシュマンレース第3戦。ベストカーMAZDAファミリアは⑨のゼッケンをつけてデビューした。じゃじゃ馬パルサーで鍛えたぼくの腕が通用してくれればいいが。プレッシャーがいつになく重くのしかかってくる。で、午前中の予選は2分8秒86で14位にとどまった(20台出走)。

 トップとは2秒強の差だ。
 タイヤはブリヂストンの新製品、RE71Sを特に装着、ホイールも超軽量ラリーホイールとして登場したばかりの「R・A・P・038」ときめこむ。この組合せのせいか、各コーナーでいつもより踏んばれる。

 生みの親を抜く快感を味わった

 午前11時55分、シグナルは青に! 4500回転でクラッチをミート。前輪がうまくグリップしている。それ行け! INに入りこめた。前を行く予選11位98番のお尻に吸い寄せられる。左側18番と⑤がまるで後ずさりするように視界から消えた。



 第1コーナーをアウトにふくらむことなく駆けおりた。と、予選7位82番と8位23番が軽く接触した。ふらつく23番に僕の前を行く98番が激突! 大きく左へはねあげられる98番、大丈夫かな? そう考えたのだから、かなり冷静だったようだ。宙に舞う98番の真下をくぐり抜け、S字へむかう。レースに参加して、先頭集団を手の届く位置で確認できたのははじめての経験だった。

 それからの8周は82、88番と3車でお互いのスリップを利用しながらのシーソーゲーム。ふと気がついた。82番は、ぼくらのファミリアを仕上げてくれた野上クンではないか。彼は昨年優勝した経験もあり、予選ではついていけなかった相手だ。

 その82番は、先行する11番に挑んで100Rで軽いスピン状態に。それを避けながら、ぼくは88番とのバトルに熱中した。


*ヘアピンの出口は横Gを計算して丁寧にシフトアップ。

 最終ラップの第1コーナー、INをつこうとする88番を制して、いつもよりさらに息を殺してブレーキングを遅らせた。にもかかわらず、マシンは姿勢を崩すことなく、正しいラインで回りこむではないか。バックミラーに映る88番は大きく後退して小さくなっている。あとはシケインの出口でシフトミスしないことだ。ゆっくりと、丁寧に2速から3速へ。うまくいった。

 そしてチェッカー。ピットで黒沢監督以下、心配のあまり応援に駆けつけてくれたMAZDA広報室の面々が万歳する姿が見える。
「あれ、ひょっとしたら、かなりの成績かな?」
 首をひねりながらコースを1周。「NPのおしん」などと笑われながら、ひたすら走り続けた2年間、どうやらマシンに傷一つつけることなく完走できるようになったことのほうが、待望のヒトケタ台(7位)に入れたことより、ぼくにはうれしかった。

■1984年富士フレッシュマン第3戦 P-1600 (A)正式結果


 さて次戦からはパルサーEXAで挑戦する。沼津を本拠とするマジョルカで着々準備中である。P仕様ファミリアは、CGの熊倉さんにバトンタッチする。

                 (ベストカー/84年6月号所載)

     

Posted at 2012/01/29 01:21:18 | コメント(3) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年01月27日 イイね!

ドン亀パルサーに春は来るのか ~「屈辱」と闘った2年間~

ドン亀パルサーに春は来るのか ~「屈辱」と闘った2年間~ またまた、あの国沢君がFISCOでの記憶を呼び覚ますきっかけを作ってくれる。
「逆噴射」で改めて注目を集めたパルサーの「変形前進5速、左上Rギア」のシフトパターン(ヒューランドパターンシフト)について、こんなコメントを寄せてくれる。

――このパルサーのバックギアは左上で間違いありません。ただ平常時であればストロークが全く違うので明確に解ると思います。同時にバックギアに入ると「ピーピー」という識別音が鳴ります。当然ながら気合い入っているときはストローク感の違いなど判別できず、ヘルメットかぶって景気よい音を出すマフラー付いていると警告音も聞こえません。             国沢より


*サーキットの孤独はこのあとやってくる!

 確かに、そうだった。スターティング・グリッドについてしばらくは、ガンさんや、国沢君、そしてメカニックがいて、なにやかと世話を焼いてくれているのが、「メカニック退去」の笛が吹かれ、まわりにだれもいなくなる。ここからは、なにが起ころうと、自力ですべてと対応しなくてはならない。はじめて予選をパスして、FISCOのとてつもなく長いコース上でその状況に放り込まれた。あのときの孤独感、おののき。まだ闘争心のかけらも湧いてこなかった。その上、ヘルメットで頭を締め付けられている。シフトするギアへの神経など、とっくに上の空だった。

 それが、いろんなミスを積み重ねながら、その場に自分がいることに、快感すら覚えるようになるんだから、不思議としかいいようがない。

 ニュープロダクションのパルサーは82年から84年の前半までで、新しく登場するEXAに乗り換える。それからのミラージュCUPへのステップ・アップ。しかし、スタートにつくときの孤独感は、最後まで克服できなかった。ああ、もう一度だけでいい、その場に戻ることはできないものだろうか。

 さて、ぼくはまだパルサーで修行中であった。 ‘83富士フレッシュマンレース第5戦(7月17日)は、雨と霧に禍いされて、第1レースを除く6レースが11月20日まで、決勝が延期された――ということから、その前に行われた公式予選の悪条件が想像できるだろう。
初戦は予選落ち、2戦目はブービー賞の22位、そして今度は、なんと39台がエントリー。
黒沢監督あたりは、内心、午前中でお役ご免を期待していたみたい。予選落ちの確率がいつもより高いのは厳然たる事実! 
ところが、である。結果からさきに報告すると、予選は17位。ウエットの条件で1分58秒32は、自分のドライのタイムより速かったのだ。で、今回は、なぜそんな不思議なことにあいなったか。



 公式予選がはじまる直前、フレッシュマンの常連の一人がぼくの55番パルサーのタイヤをみて目を剥いた。
「エッ! 局長もアドバンのDタイプで行くの? この雨で大丈夫かな? Dタイプは4台しかないよ」
「困ったね。やはりCタイプ?」
「もちろん。でも、もう履き替える時間はないですよ」
 えい、ままよ、とぼくはピットロードにとびだした。たしかにDタイプでは第1コーナーはおっかないだろう。で、へっぴり腰で早めにブレーキングし、丁寧にコーナーに入る。こんな慎重さが好結果につながったのかもしれない。

 調子に乗るって恐ろしい。3周目から、とくにヘアピンを過ぎて全開で行ける。ピットは2分00秒をしらせてくる。まずまずのペースじゃないか。7周目、ピットサインを横目でにらみながら、思い切ってブレーキングポイントを気持ち、10mほど前において第1コーナーに進入してみて驚いた。お尻がズルリとくるどころか、真横になってアウトに流される。オットットとアクセルを踏みつけたが間に合わない。左後輪を縁石に激しくぶつけた瞬間、ガクンと腰が折れたようになって、スピン。リアアームの破損で、レッカー車のお世話になってしまった。



 それからが大変。1万円を払って車両保管を免除してもらい、破損箇所を修復しなければ、決勝に出れない。日産のサービスにそんな部品はありはしないという。窮余の一策で、わが社のパルサーが運よくサービスカーとして来ていたので、そいつからリア・アームを頂戴して、どうにか間に合わせた。ところで、FISCOは深い霧にすっぽり包まれ、結局は延期決定で、スターティンググリッド中団に並ぶ、ぼくの興奮は、あっさり冷やされてしまった。やり直しの再戦は11月弐〇日に持ち越されてしまったのである。! そのやり直しは再戦は、無難に17位で完走。フィニッシュしてからマシンをクールダウンさせながら1周、コーナーに差しかかるたびに、各ポストでぼくらのレースをサポートしてくれたオフィシャルの皆さんが旗を振り、拍手を送ってくれる。はじめて知る、感動があった。



*ローテンブルグの城壁のまえの五木寛之さん。クルマはMAZDAカペラ


 そのころから、ぼくのスケジュールは強烈に多忙をきわめはじめていた。作家の五木寛之さんのお伴でヨーロッパを3000キロ、クルマで迷走する旅であったり、再びピレりの招待でスペイン・ハラマサーキットでの試走会に跳んだりと、、パルサーに割く時間が厳しくなっていた。それでも、83年は7戦中6戦にエントリーしていた。
五木さんもそんなぼくを冷やかし半分、本気半分で、こんな風に励ましてくれる。
「あなたのゼッケン(競争番号)は55でしたね。どうです、その番号にちなんで55歳までフレッシュマンに挑戦したら? なんだったらTV番組でドキュメントにしましょうか」
 それにはげまされて、1月29日の‘84フレッシュマンの第1戦に臨む。ゼッケンも、応援のガンさんたちに遠くのピットまで歩いてもらうのはしのびないので、予選では近いピットが貰える⑥に変更。こうして屈辱にまみれた55番は一度として栄光を浴びることもなくFISCOから消えることになってしまった。



*ゼッケンを⑥に変更 

 パドックに整列したときの仲間たちの反応がおかしかった。 たとえば、⑦の神山秀之君。
「あれッ、局長、おれより前を行こうっていうの?」
 なにをいうか。この⑦はいつもぼくの前後をチョロチョロ走ることで有名。55にくっついて走っていれば、確実にBCGのページに写真がのって、スポンサーに顔が立つという計算から、と本人が正直に明かす。
 そうはわかっていても、こちらににしては嬉しい存在で、こいつより前にいれば調子がよいとわかるわけだし、この日の決勝においても、ぼくの5秒遅れでゴールインしてくれた謙虚な男でもあった。

 この日、予選15位は、ヒトケタ入賞をマジに狙いたいぼくにすれば、不本意。(なんと、⑥の後ろに11台がいるんですゾ)、ピット・クルーにしてみれば初めての体験、決勝スタート直後の第1コーナーでぼくがくしゃくしゃにされることを早くも危惧している様子。                             


*雪、雪、雪のヘアピン。ちょっとでもはみ出したら、即。アウト!

 ともかく、この日の富士スピードウェイは走行路以外は雪、雪、雪。ちょいとでもコースからはみ出そうものなら、即、サヨナラ。加えまして、300Rにシケインが新設されて(いまではダンロップコーナーあるいはBコーナーと呼んでいる)おり、どのドライバーも10秒落ちのタイムだった。
「シケインのコツはネ、右へ折れるところで充分にクルマ(の車速)を殺し、左へ折れたCPから全開で出てくること。すると、シケインを出てからの登り坂で差がでるはず」
 これ、ガンさんのアドバイス。

 さて、スタート。もう逆噴射の時代は終わった。スルスルと2台ばかりをパスして、第1コーナーへ。43番がブロックする。仕方なく、INへ逃げている間に、ドドッとOUTから3台が前へ行く。

 まあ、それからは⑨、45、29、⑦の5台と団子レース。みんな20歳代の血気さかんな若者だ。ムリして、100Rでフラフラ、ヘアピンで横をむく、ついにはシケインの入り口で⑦が飛び出して、大きく遅れてしまう。



 無事、10周を終えて、各コーナーのオフィシャルの拍手に片手でこたえてパドックへ。みんなが寒さにガチガチふるえているというのに、体中に「ホカロン」をはりつけたように、汗を流す爽快さ。結局はこのところの定位置である17位どまり。それでも3カ月後の4月8日の富士フレッシュマン第3戦で、ちょっとした内容を報告できる出来事が待っていた。
 

Posted at 2012/01/27 00:54:00 | コメント(2) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年01月22日 イイね!

やっと予選通過レベルにたどり着いた ~‘83富士フレッシュマン3,4戦

やっと予選通過レベルにたどり着いた ~‘83富士フレッシュマン3,4戦「逆噴射事件」の犯人、左上Rギアについて早速、みんカラともだちの「TAKUV35」さんからご教示をいただいた。
「このころの日産のインジェクション仕様に使用されていたヒューランドパターンシフト方式だったですね。私も一度、チェンジパタンが表記させていない車を動かすとき恐る恐るでした」
「TAKUV35さん」は大分在住でスカイラインV35MTをメインにしてセカンドカーをコンバートEVミニカに。かなりのクルマ通じゃないと、こうした組み合わせはない。『みんから友達との黄金の日々』は日々、更新されていく。ありがたいことだ。

 ご常連の「CMO」さんは大笑いしてくれる。
「局長にもそんな武勇伝があったのですね。TopGearで同様のパロディがありましたが
大真面目な舞台でのパロディの方が後々の語り草としては面白いですよね♪笑」
ミラージュ同窓生の「隠密同心」君はもうちょっと事情通。
「ヒューランド(レーシング)パターン、、、僕のスーパーFJもコレです。ヒューランド製ではありませんが、左下が1速なのは同じです(正岡註=うん?ぼくのは左上だったよ)。僕もレースに出る時はテンパってバックしないように気をつけよう。(笑)
 局長の逆噴射は事件の数年後に大森の日産スポーツコーナーで聞いたような気がします。(笑)当時、マーチスーパーカップに出てて時々大森に顔を出してましたから。
手書きのリザルト、スゴいですね!僕が手にしたリザルトはこの3、4年後ですがもう印刷だったような??? 競技長は誰の頃ですか?もう山梨さんの時代でしょうか?」
 
 早速、返答。
「さすが隠密同心殿。いいところを衝いてきたね。
計時委員長、西山孝、競技長、飯田貞夫、そして審査委員長が〈安友義浩〉」。どうだ、凄いだろ」



*おお国沢光宏さんですね。筑波でガンさんと3人で走りっこした時の貴重なショット


 さて、1983年に入ってからタイトルを「47歳の挑戦」に変更してだんだんレース活動が本格化していく様子を、記録している。
―― 3月5日の富士スピードウェイ。フレッシュマン第2戦。車番55のわがベストカーパルサーは、NP1600Cグループで出場する。ドライバーは<47歳のフレッシュマン>であるぼく。

 というのも、前戦でレース気狂いの国沢君を出場させたばっかりに、栄光?の55番・ベストカーパルサーの名を汚してしまったため、ぼくがお詫びのしるしに出場することになったのだ。

「局長、こんどのレースはエントリーが10台だそうです。予選落ちはないから気楽ですね」
 どこで聞いてきたのか、その国沢君が注進してきた。
「そんなことより、マシンは直ったのか?」
「はい。土曜(3月4日)の朝には届いてますよ」
 調子よく答える国沢君を信用したのがまずかった。
 土曜の朝、ぼくのマシンはまだ板金屋さんのガレージで大手術をうけていた。加えて、エントリーは37台。もし、そばに国沢君がいたらぶん殴っていただろう。

 で、当日の朝。マシンとご対面したのはいいが、前夜の雪を被ったままだし、ブレーキを点検したところ、フロントのパッドは1周くらいしかもたないほどに擦り切れたままだ。
ともかく車検だけはパスして超特急で日産大森の人たちの手をかりて、ブレーキ・パッドをとりかえた。もうそのころにはたった15分の予選が開始され、コースを回るエンジン音が、ぼくを絶望の淵に追いやる。

 シート合わせもそこそこにコースIN。ピットを駆け抜けるときに何度かブレーキングしナジミをとろうと努力しながら第1コーナーへ。どこのだれがブレーキを調整しないでサーキットを全開で走るものか。星野一義だって、即座に家に帰ってしまうだろうに。
 コースのIN側を様子を見ながら1周したところで、タイムアタックに入る。

●挽かれものの小唄を聴いてくれ

第1コーナーあたりは路面補修がされていて、前ほどクルマは跳びはねない。左側に見える残り距離の標示看板とパイロンをにらみながら、ぼくにしては思い切りレートブレーキングで1コーナーに入った。横Gに耐えながら、車首をCPに合わせてマシンをコントロールした瞬間、腰から下がゴツンとショックをうけ、ぼくの体はドーンと後方へもっていかれ、その反動で前方へ弾き返された!


*これが実戦中のFISCOの第1コーナー。飛び込むのに、最初は度胸がいったが、やがてそれが快感にかわって……

 シードベルトがこのごろ前へせり出した腹を万力のように締めつける。苦しい!
どうやら、シートを固定するツメがはずれたらしい。これではまともに走れるわけがない。ヘアピンの先でグリーンに入れてからシートをセットし直し再スタートしたが、もう残り時間はほとんどない。それでも、速そうなクルマをパスさせて、その背後にはりついたところ、結構はなされずについていくばかりか、直線ではスリップストリームがつかえる。

結局、トラブルから2周目にチェッカーをうけた。ピットの計測では最後の1周は1分57秒3という、ぼくにしては驚異的なタイムを叩き出している。その前の周が1分59秒43、これならいままでのレベルでいけば、軽く予選をパスするはずだ。

 ところが――である。30分後に発表された予選順位をみるとどんじりの32位! ガンさんが慰めてくれる。
「ま、正直いって、いままではトップグループと差がありすぎたけど、今回は最終ラップが計測されていれば3秒差、この次はいけるよ」

 たった15分のために、ほかのドライバーは充分に準備をしてのぞんでいる。ぶっつけ本番で仲間入りしようなんぞとは、神をおそれぬ所業だ。次回はたっぷりと準時間をかけて、またまた懲りずに挑戦してみるか。 (ベストカー83年5月号所載)

■富士フレッシュマンレース第3戦 







 4月24日、富士フレッシュマンレース第3戦。 快晴。
ぼくがNP1600Cクラスで決勝のスターティ ンググリッドについたのは久し振りだ。しかもぼくの背後には4台のマシンがいる。予選タイム1分58秒39で24位。あと1秒、タイムを削ることができれば15位あたりまで上がれるだろう。

 ともかく、前回(第2戦)のレースでのブッツケ本番的、綱渡りはもうやめよう。ほかのチームに申し訳ないから、準備だけはきちんとやろう、と心に誓ったてまえ、黒沢元治監督以下、わがチームは珍しく緊張してこのレースに臨んだ。

 レース前の走り込みは充分とはいえないが、2週間前にスポーツ走行して第1コーナー、100R、ヘアピンのアプローチを復習して、すくなくとも1秒はタイムを削ったはず。 タイヤをダンロップからヨコハマのアドバンHF-Rに履き替え、ホイールもヨコハマのアルミで、バネ下重量を軽減。これで0・5秒は短縮できる。

 レース前日から、チームは富士に集結して、マシンのメインテナンスに細心の注意を払う。この3点は忠実に履行されたようだ。予選では、はじめてなんのもめごともなく、ピットから7番目にスタート。15分間を走り抜いた。残念ながら、56秒台はマークできなかったが、決勝では中団には食い込めるだろうと、チーム一同期待する。

「局長、シフトミスしないように!」
 黒沢監督は、メカニック退場の指示が出たにもかかわらず、心配そうに囁く。もちろんスタートでギアをRにぶち込み逆噴射させるな、という意味ではなく、コーナーを立ち上がるときのことだろうと、こちらは善意に解釈した。

 シグナルが青になった。絶妙のタイミングで飛び出したつもりだが、動きが鈍い。あっ!今度はサイドブレーキを解いてなかったのだ!

 ド、ド、ド。第1コーナーの小さな出口に30台からの集団が先を争って飛び込む。こちらは巻き込まれては損だから、ゆっくりと様子を見ながらクリア。いつもなら、そこで2~3台がこけているはずなのに、今回はだれもいない。

 S字から100Rへ。先行する集団の動きに注意した。いったん左にふくらんでから、ブレーキングして、100Rを抜けようとしている。
 よし、いまだ! ぼくの55番ベストカーパルサーはノーブレーキのまま(実はアクセルをちょっとあけてしまうが)クリッピングポイントに飛び込みざま、4速から3速にシフトダウン。そのまま、アウトにふくらむマシンを、アクセル全開でおさえ、坂を駆け上った。あっという間に2台をインからパスしてヘアピンへ向かった。


*一人前にストレートでスリップに入って、前にでる!

 ヘアピンでは27番を右にみながら、立ち上がりでこれもパス。250R、300Rも先行集団にじりじり接近しながらクリア。そして、最終コーナーから直線へ。黒沢監督が親指を上に突き立てている。もっと速度を上げろのサインだ!

 再び第1コーナーへ。心臓がノドからせり出すのを抑えながら、前のクルマ(10番オーテックパルサー)がブレーキングするまでブレーキは我慢。尾燈がパツと赤く点滅。ホッとしながらこちらもブレーキング。そして、シフトダウン。4、3、2と落としたところで、鋭角的にインへ切り込み、10番をパス。あとは8番オートスポーツパルサーをなんとか捉えたいものだ。

 3周目、ぼくの背後にはなんと7台がいたという。ところが4周目に第1コーナーを抜け、2から3へシフトアップしようとしたところ、異様な音がしたと思ったら、ギアが3速に入ってくれない。焦りながら、こんどはゆっくり、シフトアップしたところ、うまくいったが、その間に、2台ばかりがぼくを追い越していく。
ヘアピンでも同じ症状がきてしまう。直線でも、ついにはタコメーターが4速で5000回転まで上がらないようになり、ぼくはズルズル後退をはじめ、ついには23位でフィニッシュ。


*第1コーナーで転倒してしまった可哀そうな⑱(予選1位)と第3戦のリザルト

「強力な横Gがかかると、シフトする手の位置が狂ってくる。それを柔らかく抑えこんでシフトしないで、強引にねじり込もうとしたから、ミッションを壊したんだろう」

 と黒沢監督が指摘する。「しかし、やっとレースらしい走りかたをしてくれた」との評にこちらは大満足どころか、よし、もう一丁いくか、という気になるから、不思議だ。     (ベストカー83/7月号より)

Posted at 2012/01/22 14:25:26 | コメント(3) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年01月20日 イイね!

「局長、なにをするんですか!」

「局長、なにをするんですか!」~語り草となった「逆噴射事件」の真相~


 1982年7月のできごとだから、30年も昔の噴飯ものの記憶なのに、つい昨日のことのように目を輝かせながら夢中になって語り合おうとは! かつてはいつでも、どこでも、若者たちは夢中になってNEWカーや、レースのことを話題にして時間の経つのを忘れたものだった。

 自動車ジャーナリストの両角岳彦さんと、代官山にある小ぢんまりしたバルで開かれた、身内だけのパーティで一緒になった。話題は、男はどうやってドライビング・スキルを磨いてきたか、となったとき、いきなりモロちゃん(以下、両角氏の愛称で)が、バラしてしまう。



*理論派で鳴る両角岳彦さん。右が巨匠:徳大寺さん


「局長の《逆噴射事件》、ぼく、目撃してたんですよ」
「え!? パルサー・フレッシュマンレースのあの事件を」
「そ。あのとき、グランドスタンドに仮設された放送ブースにいましたから、目の前ですよ。全車がスタートした瞬間、局長のパルサーだけがいきなりバックする……」
「そ、そ。予選はどん尻近くでうしろに誰もいないからよかったものの、前代未聞のチョンボだよね。で、左となりが、当時オートテクニック編集部員だった山口正巳君(いまや、F1専門レポーターとして世界をかけめぐっている)で、スタートした途端、いきなりぼくがバックしたもんだから、急に自分が速くなったと思ったそうだ」
「(爆笑しながら)でしょうね」


*ガンさんがいつもそばにいてくれたあの頃。スタート地点へ。最後尾は遠かった……
*’82富士フレッシュマン第6戦の公式プログラム
*手書きのリザルトなんて、いまや貴重品だな。それだけ手造りの時代だった

 あれで一躍、《局長、なにをするんですか》が業界ではやり言葉になった。その年の2月に日航機が羽田空港に着陸する寸前に、機長が逆噴射装置に手をつけて不幸な事故を起こしたばかりだった。その時の副操縦士が思わず発した悲鳴のようなコメントが《機長、何するんですか、やめてください!》。それをうちのスタッフがパロディにしてしまったのだ。

 モロちゃんが訊いてくれる。
「あれってどうしたんですか?」
 モロちゃんの仲間である森慶太君も、興味津々の様子である。ぼくにしたところで、細かいことは憶えていない。が、確実に言えることは一つ、スタートに備えてギアを左上の1速に入れておいたつもりが、そこがバックギアになっていたということ。サイド・ブレーキを下してアクセルを踏めばどうなるか、考えただけでもゾッとする。

 ことの発端は、その年の4月にパルサーで参戦した際、右前を損傷したのを、日産大森モータースポーツ部の好意で手直してくれたのはいいが、ついでにミッションをレーシングパターンに組み替えてくれていた。それを、全く練習もできないままのぼくが、決勝当日のスターティンググリッドで、すっかり失念して不用意にも、いつものようにギアを左上にセットしてしまったというわけだった。
「そうだったのか。前進4速ならHパターンに、バックのギアを左下につけ加えておくんだが、前進5速だと、確かにそうなりやすけど、ストッパーがついてなかったんだね」
 モロちゃんもそれで得心がいったのか、そこでぼくをヨイショと持ち上げてくれる。
「45歳でフレッシュマンに取り組んだ熱心さが素晴らしいと思ったけど、そんな大チョンボをしながら諦めないで、どんどんステップアップして、最後にはミラージュでマカオGPまで走ったんですよね」
 森君も上手に驚いてくれる。
「え!! マカオの市街地レースまで。そこまでとは知らなかった」



*1987年、念願のマカオGPのミラージュレースに出場


*アデレードでのF1GP前座有名人レースに出場。コルディアを知ってるかい?

 マカオGPは5年後の87年。自慢ついでに言わしてもらえば、85年にはオーストラリア・アデレードのF1の前座レース、コルディア・レースに招待されて、往年の名ドライバー、ジャック・ブラバムやバーン・シュパンと一緒に競ったことも、この際、いっておこうかな。

 それにしても、逆噴射と異国での市街地レース出場とでは、落差がありすぎる。たしか、そのあと、どうやら自動車レースは不向きじゃなかろうか、と冷えた気持ちになっていたような気がする。帰宅してから、往時の資料を漁ってみたところ、「公式プログラム」やら、ガリ版刷りの「結果成績」が出てきたのである。予選は28台中27位、②の山ちゃんはコンマ8秒差で26位、そして決勝は山ちゃん20位、ぼくは完走組のどん尻、23位と記録されていた。

 いい体験をさせていただいたことだし、レースもほどほどに。そんな気分でいたところ、年が明けてフレッシュマン第1戦に、当時、ぼくのサーキット巡礼のサポート役であった国沢光宏編集部員にシートを譲ったところ、えらいことをやらかしてくれた。その「暴走報告」を彼自身が、担当していた「みんなの駐車場」というコラムに「読者投稿小説」というかたちで書き残しているので、ぜひ読んでやってほしい。こうした型破りの若手編集者が、実は「ベストカー」というメディアを面白く、タメになるものにしてくれていた。こんな風に、彼は自分を売り込む。



*「アクア」の発表会で。国沢君はぼくの「愛するメフィストフェレス」であった

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*「ベストカーガイド」1983年4月号より。国沢君執筆の「熱走報告」

(前略)そんなダメな編集部員が唯一、人間らしくなれるのが、サーキットを走っている時である。(中略)国沢のデビューレースは82年の7月。第2戦は同じ年の9月に行われたスーパーシビックレースだ。この時は2周目に160km/hもの高速からスピン、ビリに落ちながらも17位でゴールした。3戦目の富士フレッシュマン最終戦は、まったくメインテナンスされていないクルマで出場。一時は8位まであがったのだが、後半はストレートでかるーく抜かれて14位であった。そして今回が4戦目のチャレンジである。
(中略=黒沢元治さんや星野一義から盗んだラインやテクニックををさんざ自慢したところで、いよいよレース報告)
 レースの予選は9時45分からスタートした。出場台数は26台。練習では使わなかったスリップストリームを使う。(中略)手元のSEIKOのレースウォッチは1分56秒80秒を示した。これはブッチギリで速い2台をのぞくと3番手から0・6秒遅れの10番手だ。(中略)
 国沢は気合を入れてスターティンググリッドに並んでいた。少し前にあんまりかわゆくないレースクイーンが30秒前の表示を出した。シグナルが赤になるとすぐにスタート。
 さあスタート!! 国沢はいいスタートを切ったが、第1コーナーまでに2~3台抜かれた。第1コーナーでは3台を抜き返し、得意の100Rでは一気に5台近くをかわす。ヘアピンは5位で進入……したが、よくばりすぎた国沢は温まっていないタイヤで無理をするという、非常に初歩的なミスをしてしまいスキッド!! 縁石に乗り上げジャンプして25番の小川秀明選手にヒット。小川選手はスピンしてしまう(注・本当にごめんなさい!!)
 8番手に落ちたあとでストレートで3台抜かれ、運命の第1コーナーがやってくる。国沢は両側2台に囲まれて第1コーナーにつっ込んでいった。ところが左側の一台が強引に……」

 と、まあこんな具合で、あちらこちらで物議を醸すレースぶりだったようで、たとえば温厚で鳴るオーテクの飯塚編集長からも、強硬なクレームがつけられる始末。

「このレースで国沢は落ち込み、みんなにけなされ顔は深海魚のようになってしまった。あーあ、もうレースに出られないかしら……」
  国沢君自身がこう書いていたくらいだから、ただではすまされぬ。というわけだで、お詫びを兼ねて、ぼくの『どん亀熱闘録』は閉じることなく、むしろ、ギアが1段上にシフトアップされたように、ヒートアップして行った。



Posted at 2012/01/20 04:58:07 | コメント(5) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
2012年01月13日 イイね!

NPパルサー「ドン亀熱闘録」~ああ、茨の道をなぜ往くのか~

NPパルサー「ドン亀熱闘録」~ああ、茨の道をなぜ往くのか~ 2011年8月16日に《「新・編さん」の茨の道③》をアップして以来、「わが青春のFISCO」は久々の登場である。「ドン亀熱闘録」と改題して書き継ごう。

 1981年。HONDAが鈴鹿を舞台にシビックのワンメイクレースをはじめるにあたって、協力の依頼があった。そのころ、超売れっ子作家の五木寛之さんに「ベストカー」で連載企画をお願いしていたし、ご本人も大変なクルマ通。くわえて、鈴鹿耐久8時間に通いはじめた時期でもあった。そこで、ご縁ができたばかりの黒沢元治さんをドライバーに、参戦するプロジェクトが結成された。総監督・五木寛之、監督・徳大寺有恒、チーフメカがレーシングデザイナーとして高名な小野昌朗さん。初戦2位。そんな経緯から、責任者としてサーキット通いが増えるにつれ、自分でも実戦で走りたくなりベストカーの「おんぼろサニー」で参戦したのはいいが、参加60台中、60位というていたらくであった。



 そこで年が変わった1982年度からは、日産の協力もあって、パルサー(1397cc)の新車でレース活動を行うことにした。そして4月25日午後1時。82富士フレッシュマンレース第3戦(主催カーフレンドームエコー)NP1600レースの決勝に臨んだわけだった。

 スターティンググリッドに並んだ29台のパルサーが一斉にスタート。全車一丸となって第1コーナーへ向かう。周回数10周だ。BCGパルサー55番のスターティングポジションは、最後尾の12列目。
「どうにかやっと決勝を走ることができたなぁ。やれやれだ」
 これが、メカ担当/マス坊(編集部・増田成則君の愛称)のいつわりない心境だったと聞く。事実、決勝までにはいろいろなアクシデントがありすぎた。

 決勝前日の4月24日。本チャンのためエンジの慣らしもかね、ともかく練習走行に赴いた。。
「局長、5000回転ぐらいで抑えてください。20周走ったらタイムアタックをしましょう」
 これ、マス坊の指令。パルサーのリアウインドには<ナラシ中>とガムテープを貼り、平均2分30秒で周回を重ねたところで、いよいよタイムアタックだ。

 1周目は2分秒39、2周、3周と計測を行ない26周ほど走った。最高タイムは2分5秒32。チーム監督のガンさん(黒沢元治選手)も5秒を切ればいいといっていたから、これなら明日の予選は大丈夫かな、と確信したところで、
「今日はここまでにしましょう。エンジン調整もやりたいから」
 と、マス坊が指示を出したのに、
「いや、まだ時間があるから」
ぼくが強引にコースイン。マス坊の悪夢はここからはじまった。



 1周目にいきなり2分3秒39をたたき出して、<こりゃ凄い>と思わせながら2周目の第1コーナーのブレーキングでリアロックさせて大スピン。同じく練習走行にきていた後方の37番メッカパルサー(関博司さん、ドライブ)もスピンして接触。右フロント部をグシャグシャにさせてしまった。ホィールアライメントが狂っていないのを確認したマス坊が、すぐにガレージを借りているスリーテックで修理を始めた。

 こちらも沼津の日産部品に手配して受け取りに往復したり、結局、夜の10時過ぎまでかかって、どうにかかっこうをつけることができた。交換したパーツは、右フロントフェンダーとバンパー、右サイドウインカー、右ヘッドランプASSYである。メカニックの大変さを、このとき、はじめて実感した。

 明けて25日の朝7時、受付を終え、車検も無事パスし、いよいよ公式予選。時間は15分。しかし、他のエントラントが走りだしているのに、ぼくがカメラマンとの打合せに気を取られていて(いや、舞い上がっていて、予選時間の開始時間を間違えていた)、やっとコースインできたのは予選終了7分前。大チョンボである。結局、1周しかタイムは計測されず、しかも、予選通過基準タイムの2分10秒25に2秒も遅れる結果となってしまった。
「もうダメだ。かえりましょうか」

 マス坊が切れるのは当然。しかし、日産レーシングスクールの辻本征一郎校長と監督のガンさんが「一応、出走願いをだしてみたら」というアドバイスもあり、気を取り直して、チームエコー事務局へ書類を提出した。祈るような気持ちで待つこと数十分。審査委員会でOKがでたときの喜びといったらなかった。



 午後1時25分、ぼくの初めてのパルサーレースが終わった。決勝戦の結果は22位。29台走って22位である。ただし、最終コーナー手前で事故があり、4台がつぶれ、1台は出走しなかったのだ。このときの最終コーナーのクラッシュのなかにいたのがタレントの岩城洸一で、このあとミラージュカップまで一緒にステップアップするなど、交友がはじまる。

タイヤの向きに注目。どアンダーなのだ! 
 レース終了後のガンさんコメントはなし。 辻本校長と一緒に応援にきてくれた女性ドライバーの下山恵子さんから「クラッシュにまきこまれないで完走することが大事です」と慰めてもらえたのと、この日の教訓を生かしてか、5月9日の『筑波レース・ド・ニッポン』で、8位に無事入賞したと「ベストカーガイド82/7月号」に記録されているのが、せめてもの収穫であった。

 このレースの1カ月後、ニュルブルクリンクの魔力の虜になるわけだが、ヨーロッパから帰ってすぐのレースで、ぼくはとんでもないことをやらかす。「逆噴射事件」と自分で名づけていながら、すっかり失念していたら、先日、その時のことを目撃している人物がいたのだから、世の中、狭いものだ。その件は次のアップで。
Posted at 2012/01/13 04:07:39 | コメント(3) | トラックバック(0) | サーキットに生きる | 日記
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「翔平177号目のニュースは秩父の蕎麦屋で手打ちの絶品を啜っている時に知った。虎は18時から雨の横浜でベイと対決、9回表、1-3とリードされていたのを代打糸原、近本、中野のヒットで満塁とし、それを森下の死球、大山の安打、最後に選球眼のいいノイジーが押出し四球で逆転、虎が強くなった。」
何シテル?   04/25 11:42
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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