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正岡貞雄のブログ一覧

2021年01月12日 イイね!

あの「ミーシャ」をカラオケで歌える日を夢見て

あの「ミーシャ」をカラオケで歌える日を夢見て〜「アイノカタチ」か「逢いたくていま」か〜






大晦日に『N H K紅白歌合戦』を観る習慣が、随分前から消えていた。
それが2020年末の当日は、ボクシングの『世界王者同士の対決』井岡一翔vs.田中恒成戦の8ラウンド TKO決着を見届けたところで、躊躇なくch1に切り替えた。

 理由は二つあった。一つは白組の氷川きよしが前日に生放送されたT B S の《レコード大賞》に出演し、23日に彼岸の人となったばかりのなかにし礼さんへの想いを、素顔に近い純な表情と声で語っているのを、偶然に観てしまった。

「母」   歌手:氷川きよし 作詞:なかにし礼  作曲:杉本眞人

♬離れていても そばにいてくれる  淋しくなると つい呼んでしまう
その人の名は・・・母 ぼくの母さん
・・・・・・・
希望の星を 追いかけろ あきらめなければ 負けないと
励ましつづけてくれた人ああ 母ありてこそ 母ありてこそ
だから母さん 生きていてください 永遠(とこしえ)に–−–。



 デビューして20年、ここまで育ててくれた母への想いと、それが最後の作詞となったなかにし礼さんへの感謝。それだけの想いが重なった歌を、ひょっとしたら紅白の舞台でも彼は謳い上げてくれるのだろうか。失礼ながら、礼さんの作詞にしては心に刺さるものに欠ける。それをいまの氷川きよしがどこまで自分の歌にできるのだろうか、興味があった。

 二つ目の理由は、紅組のオオトリを務めるミーシャである。2019年、年末恒例のガンさん邸忘年餅つき会からの帰り道、ベスモ同窓会の下邑真樹君のテスラモデル3に同乗し、最先端を走るE V車を味見した時に聴いてから、すっかり馴染みを重ねたミーシャの「アイノカタチ 」を、改めて紅白の晴れ舞台で、ぜひ聴いてみたかったのだ。



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 そういえば、その時のことをFace Bookのわたしのページに『手放しの歌』と題して、記憶を残しておくための小文を載せていた。

手放しの歌

東名高速・御殿場ICから東上。いよいよ鮎沢SAでテスラモデル3のステアリングを預かる。真っ先に試したのがこれ。オートパイロットと先ほどRJCカーオブザイヤーのテクノロジー賞を獲得したスカイライン「プロパイロット2.0」との比較。目の前にあるでっかいモニターとのコラボでテスラの方が思い切って「自動運転」に踏み切ることができた。



 そのまま東名・都夫良野トンネルに突入。と、助手席の下邑君が何やら大ぶりなモニターをいじっていた。と、いきなりミュージック!

♬あのね いつの間にか 気づいたんだ  愛に もし カタチがあって それがすでに わたしの胸に はまったなら

これがいい!男心をグイと手掴みする歌声。ポルトガルのファドに近い情感。
「これ、誰?」「ミーシャ」「これいい! タイトルは?」「アイノカタチ」
ありがとう。老年の心に染み込む素敵な時間、もう一度、ありがとう。
  それ以来、テスラ=MISIAの図式がわたしの中で出来上がったのだ。

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 そして最近、このミーシャの「アイノカタチ 」を聴くことが増えた。綾瀬はるかが主演したTBS火曜ドラマ「義母と娘のブルース」の総集編が放映され、その主題歌として流れていたし、2020〜2021日本カーオブザイヤーのグランプリカーに選ばれたSUBARUの新型レヴォーグが「アイノカタチ 」をCMの主題歌に採用して、ふんだんに放映しているじゃないか。

 午後9時半。紅白歌合戦は後半の部に入っていた。前もって出場歌手の順番も曲名を確認したわけではないが、例の下村くんからはミーシャがトリで選ばれたことを知らされていた。氷川きよしも白組の終わりから3人目だという。間に合った。しかし残念ながら彼が披露してくれたのは『限界突破×サバイバー』。
 
 結局、紅白という舞台はド派手なエンターテインメントを彼に選ばせたのだろうか。





 ミーシャの自分の全てを叩きつけるような熱唱が祈りとなって光り輝き、紅白のフィナーレは観るもの、聴くものを陶然とさせた。
「大晦日の紅白はミーシャのためにあった。圧倒的な歌唱力。ターバン。歌ってこんなに凄いパワーで人の心を鷲掴みするものなのか。アッと思った。この無国籍であることの魅力。テニスの大坂なおみがそこにいる、と!」



 これもわたしがFace bookに記しておいた一文である。そして正月休みの間中、You Tubeをサーフィンしながら「ミーシャ」の世界を渉猟しまくった。
そのお陰でミーシャという名の歌姫の築き上げたソウルと祈りの世界と、彼女はすでに日本という枠を乗り越え、インターナショナルな評価とファンを持つ存在であることを知った。わたしが大坂なおみを連想したのも当然だった。それに、プロアマを問わず、ミーシャの歌に挑戦する歌い手の、なんと多いことか。そして「ミーシャの世界」を、それなりに手を入れて、例えば結婚式のお祝いで熱唱し、花嫁が感激のあまり泣き出すシーンも。

いまわたしは「アイノカタチ 」より「逢いたくていま」にとり憑かれてしまった。そう、かつて大ヒットしたT B S系日曜劇場『仁-JIN-』の主題歌だが、その当時のわたしはドラマの方に気を取られていてミーシャは素通りしてしまっていた。それが今になってなぜ? 何かの拍子に、ひょいと「逢いたくていま」の歌い出しを、ハミングしてしまう。そのうちぜひ、恥ずかしながら、カラオケに挑戦したい、と夢見ているようだ。

  ともかく一度、この歌を聴いてやって欲しい。聴くたびに家人に見られないよう、こっそり滲む涙を拭いてしまう。ともかく、ミーシャが凄い。主題曲のテーマに取り組むため、ミーシャは鹿児島・知覧という特攻機の飛び立った古い基地の町を訪れ、死と向き合った飛行士たちの遺書や手紙に逢いにいったという。
その辺からのことは次回更新に譲るが、ともかく‥‥‥この機会に、下段にYouTubを用意してあるので、ぜひ聴いていただきたい。

「逢いたくていま」
 こちらはT B S系日曜劇場『JIN-仁-』の主題歌である。

♬ 初めて 出逢った日のこと 覚えていますか
過ぎ行く日の思い出を 忘れずにいて
あなたを見つめた全てを 感じていたくて
空を見上げた今はそこで わたしを見守っているの? 教えて









Posted at 2021/01/12 01:37:06 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年12月31日 イイね!

『昭和を共に生き抜いた仲間』への弔鐘、鳴り止まず

『昭和を共に生き抜いた仲間』への弔鐘、鳴り止まず〜雑誌編集者なればこその
  『想い出ボロボロ記』〜


⬅️ (講談社文庫サイトより)なかにし礼の人生と音楽が、小説の形で融合‥‥

 矢口高雄さんとの別れのご挨拶に、自由ヶ丘まで足を伸ばした日のことを「みんカラ」にアップし終えたその日の朝日夕刊を開いて、息を呑んだ。矢口夫人に『元気の出る対談』で残念ながら、どうしても都合がつかず諦めた人の名前をあげた一人、なかにし礼さんの訃報が乗っていたからだ。

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「なかにし礼さん死去」‥‥‥82歳「北酒場」「長崎ぶらぶら節」12月23日午前4時24分、心筋梗塞のため都内の病院で死去した。葬儀は近親者で営む。後日、お別れの会を開く予定。喪主は妻中西由利子さん。

 あの礼さんもとうとう、力が尽きたのか。スッと訃報の意味を受け止めた。10年ほど前に食道癌に罹ったことをすすんで公表、それを陽子線治療で克服し作家活動に復帰したものの、5年前に再発、それでも執筆を絶やさなかった。ひときわ、逆境に強い人だった。

iMacに礼さんと肩を組んだツーショットが保存してあるはずだ。SPOTLIGHT検索に彼の名を打ち込んでみた。しばらくして、モニターに浮かび上がったスーツ姿のなかにし礼さん。「講談社」のネームカードを首から垂らしたわたしの肩に左腕をのせている。何のパーティだったろうか? 恐らくその頃、全盛だったワタナベプロの新年パーティでなかっただろうか。そういえばカードのデザインに「W P」のロゴデザインが施してある。

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  *わたしの胸のネームカードにご注目を。「講談社」と記してある。

 まだ作家としてではなく、売れっ子のナベプロ専属作詞家。となるとわたしは女性週刊誌『ヤングレディ』の副編集長だった時代か。芸能界との交遊も大事な仕事で昵懇の音楽評論家、安倍寧氏を交えて、ひとしきり「石坂浩二と北大路欣也」の比較論で盛り上がったところで、礼さんが話題を報知新聞主催の演劇人野球大会に切り替えた。

「あなたは《劇団四季》から出ているんだって?」「どうして知っているの?」
「だって、こないだの《劇団青俳》戦でホームランを打ったでしょ?《報知》にイニングスコアと本塁打だけは選手名が載るんですよ。おや?と思って四季の野球部の人に訊いてみたら、あなただって‥‥‥」

 そこまでご存知なら、と率直に『四季』の助ッ人として参加した経緯を説明したのを、今でもはっきり記憶している。
『劇団四季』の主宰者・浅利慶太さんと昵懇だった関係で、何かの折にお互いが野球チームに関係していて、じゃあ練習試合を、と話がまとまった。四季vs.講談社戦の舞台は昔懐かしい上井草球場。スコアは覚えていないが、大差で我が軍が勝利して、その時、一塁を守る5番打者の浅利さんが、初めて左利きと知った。率直に言って、大味なアッパースイングで変化球には、からきしダメだった。
 四季のエースのカーブを、右中間にライナーで持って行ったわたしに、浅利さんが不思議がった。「どうやって持っていったのかな? うまくヘッドを残して振り切っていたけど‥‥‥」

「ボールを点で捕まえるんじゃなくて、線で追うんです。バットのヘッドを縦に残してぶつけるんです」
「なるほど。今度、うちの若いのに教えて。ユニホームを送るから、演劇人の対抗戦に来て貰えるかな」

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*とっておきの「バッティングフォーム」を初めて公開

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*一振! 打球は左翼の頭を越えて・・・(本当の話)。

「うちも《なかにし商会》というチームを持っているんだけど、一度やらない? 準硬式のボール使用だけど」
「え!? トップボールで? そりゃ本格的じゃないですか。軟式ボールでしかやったことのない講談社チームじゃ無理です。礼さんは昔、硬式チームでやっていたの?」
「いやいや、高校生の時、アルバイトで地方の県営球場のバットボーイをやった程度。でもうちのメンバーのほとんどは硬式出身だから」

 立ち話はなんだから、ともかく青山の事務所へ近くお伺いします、と約束したのだが、結局そのままになったのを今でも悔いるつもりで、矢口さんとの対談相手に礼さんが浮上した時、即座にあの時のお詫びを兼ねて「恋文」を書くことに決めた。六本木にある事務所に連絡をとり、対談のお願いを兼ねて、久しぶりにお目にかかりたい旨を伝えた。

 すぐに了解のレスポンスがあった。ところが、である。礼さんから指定のあったその日時を矢口さんに伝えたところ、なんとその日時に、矢口さんの方で約束をとった劇画家の小池一夫さんの都合とバッティングしてしまった、という返事。当然、なかにし事務所に連絡を入れて変更をお願いする。が、指定した日以外はとても無理ということで、再会の機会はあっさり消えてしまったのである。

 なかにし礼さんはその後、2000年には『長崎ぶらぶら節』で第122回直木賞を受賞、作家としてさらに巨きく翼を広げていった。仮に、わたしが車メディに舵を切らないで雑誌編集者として本来の道を行っていたなら、きっと同じ舞台で、クリエイティブな出会いがあったかもしれない魅力あふれる存在だった。

     ☆      ☆      ☆

 2020年、旅立っていった人への鎮魂の弔鐘をもうひとつ、搏(う)たねばならなかった。同じ「朝日新聞」の12月25日朝刊「惜別2020」欄に前日本写真家協会長・熊切圭介さん(86歳)への惜別の辞が掲載されていた。

 ひと月前の11月27日に誤嚥性肺炎のため、鬼界の人となっていた。わたしが週刊現代の創刊に合わせて配属され、西も東もわからない「新入り編集者」になったとき、熊切さんもほとんど同じ時期に「活版ページ」専用のカメラマンとして編集部に出入りするようになった。

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 どんな小さなテーマのページであろうとも、誠実にシャターを切り、現像室にこもって注文されたカットをプリントアウトして、「これでいいでしょうか?」と含羞の笑みと一緒に、届けてくれるカメラマンだった。

 3年半後、わたしは当時の講談社の看板月刊誌『日本』に転籍し、早速、巻頭のグラビアページで、石油コンビナートに侵蝕されつつあった瀬戸内海を撮ってこい、という指令を受けた。その時、わたしが指名したカメラマンが熊切さんだった。

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 まず東海道本線と山陽本線で岩国(山口)へ。その頃は余程のことがない限り、空路を利用するなんて許されなかった。岩国からは広島に戻って、フェリーで松山へ。」音戸の瀬戸を抜けるとき。熊さんが記念だから、と言って海峡に見入るわたしにカメラを向けてくれた。その後、松山城の天守閣でも居合わせた女性群と一緒に瀬戸内海を背景に‥‥‥。その時の写真を後生大事に保存しておいてよかった。ひときわ完成度の高いショット。熊さんの味が素直に伝わってくる。

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 実は松山こそ、わたしの父祖の地でありながら、この時初めて足を踏み込んだ。この時のグラビア『変わりゆく瀬戸内海』の旅が、後年、わたしの現役引退後の「ライフワーク」とも大きく関わるのだが、それは別の機会に。

 同じ時代に、同じ修羅場で闘ってきた仲間たちが「惜別」とか「墓碑銘」といった欄に登場することが多くなった。想い出ボロボロ。せめてもの追悼の想い。  

  もうすぐ、2020年の幕を閉じる除夜の鐘が鳴る。

 数えてみると、『みんカラ』ブログのアップ数は12に過ぎなかった。月1は何とも情けない。それでも、心を通わせる仲間との交流は諦めていない。

 新しい2021年もどうぞよろしく。
関連情報URL : http://矢口高雄 
Posted at 2020/12/31 21:01:03 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年12月23日 イイね!

柚子湯に心も温まった師走の午前2時

柚子湯に心も温まった師走の午前2時〜「9年で花咲く」男たちからの贈り物〜

 妙に身体がホカホカして目が覚めた。時計を見ると午前2時。もちろん窓の外は真っ暗だ。どうしたのかな?
 おお、そうか! いまは夜が一年で最も長い「冬至」の真ッ只中だった。「冬至」には健康を願って、南瓜をいただき、柚子湯に浸かる。その古くからの慣わしを、家人が忠実に守ってくれて来た。

 12月21日の午後5時、いささか早めの夕餉の食卓には、さりげなく南瓜の煮物が盛られていた。南瓜は「ナンキン」とも呼ばれ「ン(運)気」を運ぶと重宝されて来た。メインはイベリコ豚のしゃぶしゃぶだった。箸を運ばせながらの会話‥‥‥。
「これから明るい時間が、一日、一日、長くなっていくのね」
「ああ、コロナ禍の方も一歩、一歩、抑えられていくといいね」
「柚子湯も用意してますよ」
「お、嬉しいね。桃、栗三年‥‥‥その続きは?」
「柿、八年」
「その続きは?」
「知らない」
「柚子は九年で花が咲く‥‥‥」
「へえ、そうなの。じゃあ柚子が実るのはもっともっと先ね」

 そんなやりとりがあって、午後9時過ぎには熱めに用意された「柚子湯」に浸かった。コロナ厄禍に揺さぶられ続けた2020年もあと10日か。なんともほどよいお湯加減に、気のせいか柚子の香りがさりげなく染み込んでいて、蕩然としてしまう。その蕩然とした気分が、午前2時に突然、復元されたのだ。なぜだろう?

 どうやら、柚子湯に浸かりながら「柚子は九年で花が咲く」の続きを己れに語りかけていて、その余韻を引きずったままベッドに入ったためらしい。
「柚子は九年で花が咲く」には続きがあった。「柚子の大馬鹿十八年」とも言われる。柚子は、九年をかけてやっと花を咲かせ、さらに同じ九年をかけてやっと実を稔らせる、その見事な「大馬鹿」ぶりを言い当てているのだ。
それで気がついた。わたしが請われて『みんカラ』ブログを始めたのが2011年6月15日。『ファストラン』と題して、おそらく3〜4歳ごろのわたしが故郷・北九州八幡の写真館で撮った、ブガッティもどきのブリキ製スポーツカーのステアリングに手を添えて姿を披露している。
よろしければ、こちらへどうぞ。

『ファーストラン』(クリック)


 それからなんと、九年半か。まだ花が咲き終わったとは言えないまでも、『つれづれなるままにクルマ一代』を通して多くのお仲間と触れ合うことができた。だからこのところ、発信回数の落ちて来たのを申し訳なく、己れに鞭を当てようとするのだが、もう一つ「弾(はじ」けてくる」ものがない。

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*『元気の出る対談』5人目のゲストはグレートサスケさん。

 そんな折、『釣りキチ三平』に矢口高雄さんの訃報が届けられた。11月20日に膵臓癌で逝かれていて、公けになったのは23日であった。1週間後、師走月の初日、やっとご焼香に伺える日が来て、自由ケ丘のお宅へ向かうことになった。
東京の北西郊外にある西武池袋線富士見台駅から、東横線自由ヶ丘駅には、近年、乗り換えなしに1時間足らず、一本で繋がれている。つまり西武秩父駅からでも、横浜元町・中華街駅までが、練馬駅からは東京メトロ副都心線をちょいと拝借して東急東横線に合流することで、2時間20分で移動できる時代となっていた。

 それならば車中、本が読める。しかし小説は駄目だ。夢中になって、何度も電車を乗り過ごした苦い記憶があるからだ。
何故だか、一度は読み終えているはずの葉室麟さんの随筆集『柚子は九年で』(文春文庫)を選び出していた。


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 昼下がりの車中はゆったりと座席に腰を落とし、「葉室麟の世界」に浸ることができた。葉室さんは2001年、50歳になった時、「このままでいいのだろうか」と思い直して、若い頃に抱いた作家になる夢に挑むべく、西日本新聞社記者の職を離れた。出身は松本清張さんを生んだ北九州市小倉。つまりわたしと同郷。2006年、佐賀鍋島藩の支藩を舞台に「もののふ」の純心・純愛を問うた作品「いのちなりけり」で初めて直木賞の候補に選ばれる。わたしも親交のあった五味康祐さんの再来か、と注目したが、それからの直木賞受賞までの道のりは厳しかった。

 その辺の様子と心情を書き留めたエッセイが『柚子は九年で』に収められていた。何度も直木賞候補に推されながら、その度に決まった選考委員に強烈にダメを押される苦痛との闘い。その分、葉室さんの心がどんどん豊穣になっていく。文壇デビューから10年目。後に役所広司主演で映画化された『蜩ノ記』で第146回直木賞を受賞する。気がつけば柚子よりも花が咲くのは一年遅れた、と葉室さんは清々したその想いを‥‥‥共感しているうちに、自由ヶ丘駅に着いた。

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 東急東横線自由ヶ丘駅に降り立ったのは何年ぶりだろう。ロータリーのエンジェルとハートマークのイルミネーション。陽が落ちればさぞかしロマンチックな出迎えになってくれるだろうが、午後1時半ではお洒落なこの街も雑踏の中。歩いて10分あまり、狂いなく矢口高雄邸に到着する。(このくだりだけは12月1日の《何シテル?》欄に記述済み)。

 矢口夫人と次女のカオルさんにご挨拶を済ませてから、矢口さんの位牌と遺影に向きあった。遺影は矢口さんのお好みだった、シルエットのような横顔であった。ついつい見入ってしまう。

 2003年から2年半。月2回刊行『釣りキチ三平CLASSIC』の連載企画『矢口高雄の元気の出る対談』の構成作家を引き受けて以来、何度、この矢口邸にお邪魔したことか。

 その折々の思い出話に花が咲く。そんな中で、対談をお願いした28人の話題で盛り上がる。素晴らしき仲間たちばかりで、特に同じ秋田出身の藤あや子さん(角館町)と目黒雅叙園で待ち合わせた日などは、朝から緊張の連続で、まるで三平少年に変身したようで、と矢口夫人も笑う。

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 それにしても、とかねがね残念に思っていたことを伝えることにした。
 矢口さんの好きだった井上陽水をどうしても引っ張り出せなかったこと。スケジュールがどうしても調整できなかったなかにし礼、楽天の三木谷浩史社長、ファッションデザイナーの山本寛斎。このメンバーもくわえることができていたなら‥‥‥。

 矢口邸を辞す時、矢口夫人からそっと渡されたものがある。
『矢口高雄オリジナルカレンダー2021』

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 最後のカレンダーだな。大事にめくらせていただこう。そうか。柚子湯をいただいた夜のホカホカ感は、矢口邸弔問の前後の記憶の火照りだったのか。

 2020年も残すところ、あと8日か。年賀状の表書きはまだ手付かずだ。「次号更新まで」も、いくつか、そのままだ。年末恒例の『箱根ガンさん邸の餅つき大会』も残念ながらお流れとなってしまった。心を鎮めて、ジタバタしないで、行く年、来る年を待つとするか。

 そうだ。書き漏らしたことがある。直木賞作家・葉室麟さんは2017年12月23日、半年余の闘病の末、帰らぬ人となった。66歳だった。そうか。当稿UPのこの日が御命日に当たるのか。手元に葉室さん最後の長編歴史小説『星と龍』がある。

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「夢に生き、夢に死のうとも、“正義”だけは失わぬ。
 不世出の猛将かつ知将・楠木正成を描いた未完の傑作。(帯より)

 1行、1行、己れの夢と祈りを紡ぐようにして描き続けたこの葉室作品。じっくり取り組ませていただこう。
Posted at 2020/12/23 18:05:04 | コメント(2) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年11月02日 イイね!

久しぶりのNEW CAR試乗記

久しぶりのNEW CAR試乗記

ヤリスが眠っていた虫を‥‥



 まるまる5ヶ月の勝手な休息、どうぞお許しあれ。

 有難いことに「みんカラ仲間」「Face bookつながり」の知己から「どこかお悪いのか?」「何かあったのか?」などと、多くの励ましをかねた様子伺いを頂戴している。
まあ、コロナ、コロナで何をやってもモチベーションが昂まってこないこの半年。充電を兼ねた休息だと、己れに言い聞かせ、週3回のランニングマシン、ストレッチ体操は欠かさず通い続けているうちに、ランニングマシン(トレッドミル)にいたっては2分を5.5km/hの速度で歩き、続けて3分間、6.3〜6.8km/hのテンポで走り、それを5回やってクールダウン。近頃は無理なく完走できるようになったのが嬉しく、こうやって報告する気になった次第。体重も2kg近く減量できた。

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 そうした日々の中、しっかり一本だけ試乗記をまとめ上げているので、「みんカラ復帰」の挨拶がわりに紹介したい。わたしの所属する「RJC 自動車研究者ジャーナリスト会議」では年間活動のハイライトである2021年次カーオブザイヤーを、独自の工夫を凝らして催行すべく、各メーカー、インポーターの協力を得て、9月28日のVWの T-ROC、T-Crossを皮切りに、対象ニューカーたちの試乗機会を用意してくれていた。
 その中でわたしが試乗記執筆を担当したのが、TOYOTAヤリス。秘かに「今年はこれかな?」と興味満々。いそいそと試乗に赴いたのは、10月20日の朝であった。

ヤリスが眠っていた虫‥‥  

 新世紀に突入した2000(平成12)年から連れ添ってきたT O Y O T Aプログレ NC300 iRを、2018年 の暮れに断腸の想いで手放してしまった。その日から2年近く、S U VのR A V4以外のT O Y O T A車に全く触れることがなかった。
 それが2021年次R J Cカーオブザイヤーの選考対象車であるヤリスを試乗できる機会に恵まれ、久しぶりにT O Y O T A車の「いま」と対話することができた。

エンジンとモーターとの違いが感知できない
 ピックアップしたのは「ヤリス」「GRヤリス」「ヤリスクロス」の3タイプあるのうち、最量販モデルの「ヤリス」のハイブリッドGである。なんでもヤリスは2020年の4月、5月、7月、9月とランキング1位で、4-9月の上半期で販売台数(普通乗用車)でも1位だという。

 黄ばみ始めた神宮外苑銀杏並木の下で待ってくれていたヤリスGは、コンパクトカーらしく小ぶりながら引き締まったボディから、W R Cを戦い抜いた戦士のオーラを強く感じさせる。そのせいか赤を主調にした配色が似合っている。ルーフ、ドアミラー、フロントグリルを黒く染めた押しつけがましい色合いまでが、妙に新鮮な魅力を感じたのはなぜだろう。ちなみに、このボディカラーをメーカーでは「コーラルクリスタルシャイン✖︎ブラック」と呼んでいる。

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 さて、試乗開始。説明員はいない。手探りでエンジンの始動を試みる。ブレーキペダルを踏み、スターターのプシュボタンを押してやり、ハイブリッドのシステムを起動した。次にゆっくりとシフトレバーをNにセットしてから、手動式のサイドブレーキを解除した。ありがたいことにT O Y O T A車は、どのタイプもスイッチなどの位置や使い勝手に差異がないように配慮されていて、初めての出会いでも、T O Y O T Aユーザーなら違和感なく対応できるようだ。

 ひとまず銀杏並木を絵画館へ向かって直進し、噴水にぶつかったところで左回りの外苑周回路にはいる。

 走り出して5分。首を傾げてしまった。このスタートして加速に入るまでの上品な挙動はなんだ。どこまでが電気モーターによる走りなのか、どこで1.5ℓ、3気筒のガソリンエンジンにバトンタッチされたのか、全く感知できない。まるではじめから6気筒3ℓエンジンを走らせてでもいるような快適で高品質な時間‥‥‥。

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WRC戦士のオーラを強く感じさせる。そのせいか赤をメインにしたボディカラーもよく似合う。

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 トヨタの本気まざまざ。クロスやG Rにも試乗したい

 1周、1400メートルほどの周回路を2周半してから、国立競技場の脇でヤリスを停めた。近く世界中が熱狂するはずの新しい舞台をバックにして、この新しい魅力の塊を記念撮影しておきたかった。

 ここから市街地走行に入った。外苑西通りに滑り込み、そこから一気に大京町を抜ける坂道を駆け上がり、四谷4丁目を右折して20号線を一気に外濠の半蔵門を目指した。と、右側を伴走するヤリスG。同じカラーリング。ホイールだけはメーカーオプションがおごられている。


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 最近のトヨタにはデザインに凝っているモデルが多い。ヤリスのリアデザインもかなり複雑だ。R20 で遭遇して半蔵門までランデブーランしたヤリス仲間

 四谷3丁目、麹町を通過。ランデブーランが続く。ドライバー氏もこちらを意識している。こうしたケースはその車がヒットしている証拠で、気分もいい。やがて半蔵門にぶつかる。当方、そこを左折して次なる撮影ポイント、千鳥ヶ淵公園に向かうため、左折のウインカーを出し、左端車線に移る。その動きを確認したのだろう、ランデブーランの相棒はハザートランプを点滅させた後、ダッシュをしながら右折ラインへと進入していった。
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 定刻5分前、スタート地点の銀杏並木通りで次の会員試乗者にヤリスをバトンタッチしながら、心に決めたことがある。ヤリスには6速のM T車があって、これが絶品のお薦めマシンだという。加えてスポーツマインドを追求したG Rヤリス、S U Vタイプのヤリスクロスを順次、味見して行きたいな、と。T O Y O T Aの本気が窺えた。

 八十路半ばにして、またムズムズと蠢くものがある。

  ☆   ☆   ☆   ☆

 この試乗記は、R J C 自動車研究者ジャーナリスト会議のホームページ
 http://www.npo-rjc.jp(クリック)
に掲載されていて、同じ会員の中川和昌さんが「トヨタ ヤリス(2)」として、ヤリスの真髄を正確に見抜いたレポートで共演しているので、ぜひあわせてご一読いただきたい。

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 1999年にTOYOTAがコンパクトカーの世界戦略車として送り出したヤリス。日本仕様は「ヴィッツ」。その4代目にあたる新型車が、満を辞して国内でも「ヤリス」を襲名するまでの開発ストーリー‥‥いずれ、取り組んでみたいものだ。

 そんな想いを温めながら、10月最後の土曜日、ベストモータリング同窓会の若手幹事グループから呼び出しがかかった。なんでも「九郎田一馬」が念願のNB6C マツダロードスターSGリミテッド(5MT)=17年落ちを入手したこと。「えむしい34」 君がなんともキュートな伴侶を射止めたことなどの報告会をやりたい、とのことだった。

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 この呼び出しが契機となって、幾つもの眠ったままの「以下、次回更新まで」を解凍していく気になりはじめた。      (以下、次回更新まで)
 

Posted at 2020/11/02 20:04:30 | コメント(4) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
2020年04月20日 イイね!

西麻布・霞町慕情2020

西麻布・霞町慕情2020序章としての「タンボフレンド撮影会」
PART②
 


【ベスモ組。大井、山本、本田の3人が欠けたものの、この笑顔が嬉しい】


*『みんカラフレンド』の皆さま、恙(つつがな)きや。このコロナウィルス厄災との闘いは、それぞれが耐え抜くしかありませんが、どうかメゲないで、平和を取り戻しましょう。それぞれの健闘を期待します。そして明るく、健康な日々を取り戻しましょう。

 さて、前回からの《序章としての『タンボフレンド撮影会』》を書き継ぐとしよう。
        
      ☆     ☆          ☆          ☆

 大都会のド真ん中‥‥。たとえば六本木ヒルズ森タワーの鼻面を舐めるように、東西へ横切っている首都高速3号渋谷線沿いに併走する、西麻布方向への下り坂をぶらり歩きでもわずか10分か。そこへ青山1丁目から青山斎場傍を広尾方面へ抜ける外苑西通りが、谷底あたりで合流してくるのが西麻布交差点である。

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*GOOGLE Mapより

 ‘60年代の終わり頃までは「霞町」と呼ばれ、一軒家のフランス料理店で女性連れにぴったりだった「クイーンアリス」や、アメリカの大統領と日本の首相がお忍びで鮨をつまみに来た「居酒屋 権八」とか、洒落た隠れ家カフェバーも点在し、夕方以降に不思議な魅力を持つ一帯であった。

 カメラマンの北畠主税さんがいい出した『おともだち撮影会』の舞台が、この西麻布交差点の角にあるマンション2階にある『スタジオ・カッシー』だと、田部靖彦君に伝えられた時、
「ああ、昔の霞町だね」
 と答えたが、六本木で遊んだ後、芸能界の住人やマスコミ人が流れていく、ちょいと胸の悸(とき)めく町だったと、もう彼の世代あたりは知らないらしい。

「霞町ですか?」
「うん、時間があったら、ちょっとぶらり歩きをしたいなあ」
「わかりました。早めにお迎えにあがります」
 相変わらず、キビキビとした田部君のレスポンスが嬉しかった。

 それから1週間が経って‥‥‥3月15日の午後4時。約束の時間ぴったりに田部靖彦君が、迎えにきてくれた。

「さあ、どうぞ」と助手席側にまわって、ドアを開いてくれる。ダークグレーのマーチである。その、ちょっと狭めなナビシートに納まりながら、問いかけた。
「あれ、B MWのX3はどうしたんだい?」
「ああ、X3ではなく、いま乗っているのは3シリーズのツーリング(正岡註:
セダンのみだった3シリーズのラインナップに加わった、ワゴンモデル)ですが、ソータ(正岡註:愛息の創汰クン=今春、無事に四国・今治にある船員養成の専門短大を卒業)が免許をとって乗り回し、あっちこっちをやっちゃって修理に出した代車です」

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*田部クンのお宝が見事に孵化。おめでとうさん。

「そうか。それにしてもマーチとは懐かしい。憶えているかい? 筑波レース・ド・日本のマーチレース。ぼくはマッチ(近藤真彦君)のマーチを借りて1戦だけ走った。その時の3位がキミで、そのマーチのシリーズチャンピオンになった勢いで、次の年はEXAレースで富士フレッシュマンに、きみはデビューしたんだから」
「ご縁です‥‥ね」
遠い目をする田部君。あの頃は彼のヘッドも黒々としていて、その若武者ぶりは際立っていたのに‥‥‥。思い出したように早口で報告し出した。

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*マッチのマーチ#12を試乗ドライブ。(1984年)

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*本番はニスモのマシン(#23)に乗り替えたものの結果は15位だった

「あ、大井(貴之)さんはイベントをやっていて、撮影の時間には間に合わないみたいで。山本(亨)ちゃんは娘さんの卒業式が重なり、本田(俊也)君もちょっと体調不良でN Gです。だから、杉野(勝秀)ちゃんと3人組でお願いします」
折角の機会なのに、残念だな。6人が揃えばそれだけでニュースだし、久しぶりの賑やかな時間を期待していたのに。

 田部君のドライブするマーチは、目白通りを都心に向かって東進する。
 彼にとっても「勝手知ったる」ルートらしく、早稲田を過ぎたところでT字路を右折、柳町、四谷3丁目、信濃町とそれぞれのポイントをパスし、HONDAの本社ビルのある青山1丁目をグイグイと、真っ直ぐに抜けていく。右側に青山墓地。これで外苑西通りに流入したわけだ。一気に広尾方面に駆け下りる。
 南青山方面から418号線が合流してきたところで、かつての霞町の交差点だ。

 躊躇(ためら)いなく、高速道路真下の交差点を右折した田部君のマーチは、そのまま高速道路下の有料駐車場へ。どうやら田部君もスタジオ・カッシー西麻布を何度か使っているらしい。
 マーチから降りると、目ざとく獲物を見つけたように駐車場の奥を、田部君は指差した。白いボディの横ッ腹に、チェッカーフラッグに見立てて赤いステッカーを貼り付けたようなデザインのスポーツセダンが駐車している。

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*筑波での限界性能テスト(ドライバー;松田次生)で59秒361を叩き出した日産GT-R NISMO 2020モデル

 うん!? どこかで見た記憶がある。横浜ナンバーの日産GT−R NISMO 2020年モデルじゃないか。もしかして、つい先日、筑波で1分切りをした話題の怪物かもしれない。

 田部君も気付いていたらしく、「(タンボフレンド)撮影会にきた同業者ですね」といってから、ニヤリと‥‥‥。つまり日産の広報車、というわけか。だれが乗って来たのだろう?

 駐車場を出ると、目の前が「スタジオ・カッシー西麻布」のあるマンションだった。そういえばタンボさんの招待告知の中に「パーキングから徒歩30秒」と明記してあった。

 時計を見る。わがグループに割り当てられた時間まで、40分 近くの余裕がある。「お茶しますか?」わかっているね、さすが田部君。しかし、一歩踏み出した霞町界隈は、まだ眠ったままだった。適当にコーヒーを注文できるような店などありはしない。スターバックスくらい、あってもいいじゃないか。そういえば、昔からそうだった、と思い出す。

 3月の夕暮を吹き抜ける風は冷え冷えとしていて、コートなしにはこたえる。
コーヒーを断念して、早めに「スタジオ・カッシー西麻布」に顔を出すことにして、「外苑西」の大通りを戻りかかって、ひょいと向かい側に視線を向けると、懐かしいガソリンスタンドが目に飛び込んだ。石坂浩二さんが浅丘ルリ子さんと広尾のマンションで暮らしていた時代に、よく使っていた。創刊時の『ベストカー』に《なぜフェラーリに惹かれるのか》と熱い想いを寄稿してもらって318を撮影に持ち出した時、いつもここを使っているんですよ、と立ち寄った遠い記憶。

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*1978年当時、石坂浩二さんの愛車F318

 そういえば、この大通りの広尾寄りに『ミケロッティ』のショールームがあって、その頃乗っていたBMW320につけるフォグランプを買いに行ったリ、サーキットキャップを調達した記憶が蘇ってきた。挙げ句の果てには、ガンさんをドライバーに鈴鹿のシビックレースに遠征するときめ、五木寛之さん、徳大寺有恒さんと『風の仲間』を結成、そのファッションスポンサーにミケロッティJAPANを指名したはずだが、どこかに確認できる写真があったかな。よっしゃあ。探してみせるぞ。

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*五木レーシングチームを結成して鈴鹿CIVICワンメークレースに参戦。このミケロッティのキャップがお気に入りだった。

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*チーフメカの小野昌朗さんとお揃いのブルゾンを。五本の木をあしらったデザインは林ミノルさんのものである。

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*その頃のヒット作《四季 奈津子》にも協賛を。

 気を取り直して、交差点まで戻り、いよいよ、タンボさんの待つスタジオへ。出迎えてくれたのは「ベストモータリング」の3代目編集長をつとめてくれた杉野勝秀君だった。その前身は『GT-Rマガジン』(交通タイムス社刊)の創刊編集長。
「ということは‥‥‥」
  杉野君があの怪物でやって来たのか。
「いえ、いえ」
 慌てた感じで田部君が割って入って、杉野君と談笑していた長身の紳士を紹介しようとする。
「こちら、ご存知でしょう? GT−Rのチーフ、田村(宏志)さんです」


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*田村宏志さんのFBページより

 あ、そうなんだ。腑に落ちた。早速、名刺の交換。日産商品企画部チーフ・プロダクト・スペシャリストの肩書が眩しい。が、こちらはこれから撮影が始まるので、あまり踏み込んだ話はできない。ただし、短い時間の間に、彼がハコスカに憧れて日産に入社しながら、思うところがあって、在籍2年で桜井真一郎さんの創ったオーテックに転籍、そして今、GT−Rを任される立場にある、とご本人から伺ったのは大収穫だ。

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*インドでのワールドプレミアから

 こちらの撮影が終わるまで、お待ちいただけると嬉しいのだが‥‥‥。
(以下、次回更新まで)

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Posted at 2020/04/20 18:51:11 | コメント(3) | トラックバック(0) | 還暦+白秋期の24歳 | 日記
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「翔平177号目のニュースは秩父の蕎麦屋で手打ちの絶品を啜っている時に知った。虎は18時から雨の横浜でベイと対決、9回表、1-3とリードされていたのを代打糸原、近本、中野のヒットで満塁とし、それを森下の死球、大山の安打、最後に選球眼のいいノイジーが押出し四球で逆転、虎が強くなった。」
何シテル?   04/25 11:42
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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