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正岡貞雄のブログ一覧

2018年09月14日 イイね!

EXA⑩の『祝婚歌』は信州葡萄の味

EXA⑩の『祝婚歌』は信州葡萄の味あれから30 年。「フレッシュマン時代」に乾杯しようぜ!





 季節が秋に移ってくれるのを待っていたかのように、信州・塩尻から葡萄の詰め合わせが1箱、いつものように届けられてきた。

  シャインマスカット。
  サニールージュ。
  種なし巨峰。
  それにもう1種類は、無銘の逸品である。

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 それぞれが2袋、計8袋もある。家人などは、さっそく10kmほど離れた近郊に住む孫娘に届けに行くんだといって各1袋、つまりそっくり2分の1を別の箱に移し、さあ、出かけましょうとこちらを促す気の早さ。浮き浮きしたハッピーな時間の始まりである。

 こうやって「信濃の味覚」が毎年、わが家に長野の年下の友人から届けられるようになって、もう何年になるのだろう。その源泉が、実は「富士フレッシュマンレース」だとしたら、話は出来過ぎかな。

 ま、31年前に『ベストカー』の’87年8月26日号に掲載された記事『結婚祝いのEXAレース』にその辺のいきさつを触れているので、紹介させていただく。『富士フレッシュマン戦・純情歌』の一篇としてとても気に入っているレースレポートでもあり、それは先に動画付きで紹介した『EXA⑩のラストラン』の続編でもあった。

 サブタイトルは《’87富士フレッシュマンレース第4戦(6月14日)ベストカーEXA奮戦記》。クレジットなしで第三者が書いているスタイルをとっているのを見ると、筆者はわたしではなかったらしい。あのころはすでに「ベストモータリング創刊」にすべてをシフトしていたはずだから、恐らくベストカーの山本亨クンに任せっきりであったろう。

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 PHOTO by  安川 肇(特にお願いして、当日の⑩平林クンの走りっぷりを探し出していただいた)

——昨年のフレッシュマン戦のEXAで、局長のよきライバル(?)だった(長野・塩尻の)百瀬孝仁クンのメインテナンスを担当している平林稔クンから局長に一通の手紙が届いた。

 レースが好きで⑳百瀬のほかに④花村、塩原正幸EXAのメンテを引き受け自分でも何度かレースに参戦しているが、結婚するために、レース資金も貯金しなければならず、さりとてレースにも出てみたい。そこで’87富士フレッシュマンレースの第1、2戦は加藤隆弘クンが乗ったが、第3戦からはドライバーがいないというベストカーEXAになんとか乗せてもらえないだろうか。

 そんな内容のベストカーEXAに対する熱いラブコールの手紙だった。彼がこれまでにどんなレースをやっているかなど、便箋12枚にビッシリと書かれている。

 平林クンのラブコールに応えて。かれの結婚祝いとしてベストカーEXAを貸してあげることにしたのだった。

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 そして、5月24日に長野県の塩尻市からFISCOまで練習かたがたクルマの様子を見に来た。この際、エンジンをOHし、タコメーターを見やすくするなどの手を入れ、6月13日(土)朝7時に塩尻を出発、その日は充分ではない練習走行を行い、本番に向けてのマシン調整をやる。

 いよいよ決勝当日、プラクティスはなんと5番手に、そして決勝は8位という結果に。なかなかやるもんですな。局長だったら・・・・・・。

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 レースが終わってから、また平林クンから手紙が。今度は便箋17枚の熱走報告が届いたのであった。彼の昂奮した様子が手に取るように感じられた。新婚間もない彼は、「なんとも言えない満足感を得ることができた」という。これからも頑張ってもらいたい。

☆        ☆       ☆       ☆
 わずか3段しかスペースは与えられていなかったが、しっかりベストカーEXA⑩を挟んで、平林クンと婚約者・弘美さんの2ショット写真に、レースシーン、リザルトがそえられていて、情報量に不足はない。ふと、レース結果の末尾に目がとまった。平林の僚友、百瀬クンも出走していて、9周でリタイアしていた。

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 それからの「平林夫妻」の船出に贈った祝砲。これに過ぎる物はなかっただろう。それからは毎年、欠かさず平林夫妻から、西瓜だったり、林檎だったり、今年のように葡萄だったり、選りすぐりの「信州の味覚」が届くようになった。
地元のJAに勤務する平林クンが、今年は何にしようか、と気を配ってくれる姿が、いつも目に浮かんでいた。

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 そんな彼もそろそろ定年退職を迎える計算だ。自慢の愛息ふたりも、揃って地元の高校で野球部に籍を置き、特に次男坊はエースとして春の甲子園のマウンドに立ったほどの「お宝」に育ってくれたのだから、2重丸、いや3重丸の日々を送ってきた、というべきだろう。

 葡萄の箱が届いたその夜、種なし、皮なしの「シャインマスカット」を堪能したところで、平林クンにお礼の電話を入れた。ことしの葡萄はとくに甘みに磨きがかかったので、それを届けたくて発送が遅くなった、と平林クン。その分、極上の葡萄を賞味できたから、と、改めて礼を言ったところで、「あの予選落ちの常連だった百瀬クンはどうしてる?」と問うてみた。即座に返ってきた内容が気に入った。地元の市役所で今も「建設部長」をやってます、というのだ。

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 つい先日のFBで、百瀬クンが最後のヴィッツレースに出場し、それが通算100戦目であったと教えたくれたフレンドがいたが、この二つの情報をつなぎ合わせてみると、また新しい「富士フレッシュマンレース」STORYを紬ぎだせるのではなかろうか。ゼッケン⑳EXAの百瀬孝仁クンはあれからずっと、サーキットで走り続けていてくれたとしたら、これは驚きだ。                                       (以下、次の更新へ)


2018年08月29日 イイね!

美女軍団とミラージュ勇士に囲まれた日々

美女軍団とミラージュ勇士に囲まれた日々〜1988年ミラージュCUP名人の部・第1戦FISCO〜






最初に硬い話をちょっぴりさせていただこう。

 

 1987年のミラージュCUP最終戦、富士のヘアピンで土手っ腹に激突され、哀れや「転倒虫」と化した⑫ベストカーミラージュはそのまま廃車に。まあ、普通にいけばミラージュ CUP参戦は、このアクシデントによって、2年目にしてジ・エンドである。


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 さて、今だから書けるが、その年(30年も遡る)の1月15日に、馬齢52を重ねて、身辺は変革の渦のなかにあった。4月末に、新会社を設立、その代表取締役社長であり、VIDEOマガジン『Best MOTORing』の編集長も兼ねた。何分にも、新事業に失敗は許されない。講談社の厚い庇護はあるといっても、映像事業はまったくの未知の領域。ましてやクルマを主題として、ビデオによる月刊定期刊行するには、生半可のエネルギーでは、軌道に乗せるのも難しかろう、と周囲は見ていた。

 

音羽通りの光文社、キングレコードのビルと隣り合わせたマンションに、20坪あまりの小さな事務所を設けた。『ベストカー』のあるビルとは700mばかり離れてしまった。


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 『ベストカー』の方の専務兼編集局長の役割は継続しているものの、新事業の目途がつけば、いずれ籍を抜くつもりだった。6月、講談社・野間惟道社長の急死。続いて足沢禎吉専務までが急逝。この新メディアの必要性を理解し、わたしのポテンシャルに期待を寄せられたお二人を失って、正念場に立たされていた。そんなさなかに、はたして、レース活動に今までのように精力を傾け続けていいものだろうか。

 

 創刊号は6万8000部を発行して、80%の実売。物珍しさも手伝って、ひとまず滑りだしは成功した。が、2号以降、ズルズルと低落。6号目には発行、3万をやっと保っているに過ぎなかった。『ベストカー』を単純に映像版にしただけでは、通用しない。独自の路線を創り出す必要があった。ますます新会社に籠る日々が続く。

 

1988  Best-Motoringミラージュと改名して熱狂参戦3年目


ミラージュ参戦は続けることにした。映像にレース活動は不可欠だ。企画のひとつの柱であるドライビング・テクニックはレース活動で磨かれるし、人脈もそこに集約されていた。が、もう『ベストカーミラージュ』というわけにはいかぬ。加えてエキスパートの部はニューモデルが採用され、結局、新車が用意された。そこで、新しくカラーリングも替え、『ベストモータリングミラージュ』とした。パステルカラーのブルーとイエローがボディで波打ち、いかにも映像向きだった。


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 この新事業への胎動は、わたしのサーキット挑戦にあった。サポート役の松田昭広青年が回してくれた8ミリビデオを黒澤元治さん宅に持ち込み、レーシング・ドライブの指南を乞ううち、映像のもつ訴求力の虜になった。これからの自動車メディアは映像だ! これが率直な原点だった。

 

 スタートすれば、すべてを巻き込むしかない。ガンさんは『ベストモータリング』の看板キャスターのひとり。中谷明彦、土屋圭市の両君もメインキャスターとして深く巨きな存在である。大井貴之がベストカーから転籍してきて、水を得た魚のように編集部を牽引してくれた。注目の新人だった#55の田部靖彦も重要な編集部幹部。サーキットの女豹、小林里江もわが社の経理部担当。松田昭広青年は制作部チーフに、といった具合に。


 講釈はここまで。ここからは1988年4月17日の富士スピードウェイを舞台に繰り広げられた「ミラージュCUPエキスパートパートの部・第1戦の模様をご覧いただく。ベストモータリング1988年7月号のレース収録企画として、カメラ部隊が投入されていた。


 予選が始まる前の陽気なパドックの様子から、である。美女たちに囲まれて、こんな風なサーキット・ライフを楽しむ束の間の至福。何しろ、あの高名な女優が見事に孵化する前の、ピカピカした時代も紹介できるとは、ああ!  ともかくご覧あれ。


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*この美女軍団のなかに、あの高名女優の孵化寸前の姿が・・・。

 ●映像




 ミラージュCUPはこの日のレースカレンダーでは主役ではなかった。この日の様子を、わたしは、「ベストカー」のモータースポーツ・ページにこう記していた。  

  

        ☆         ☆          ☆


 417の富士スピードウェイに新しい衝撃が走った。F3000F3の2つのレースでどちらも20歳台のチャンプが誕生したことだ。

 鈴木亜久里と黒澤琢弥。亜久里はポールポジションからのスタートだった。ぽんと飛び出してから、あとは独走、独走のひとり旅。ジェフ・リースが2周目の第1コーナーで黄旗なのに強引に突っ込んでアウト側にはらむ大チョンボ。星野一義は関谷正徳をパスするのに精力を使いはたした感じで、亜久里にとってこんな楽な展開は予想外だったに違いない。ぼくら中年の目には、亜久里のマシンに星野がご丁寧に亜久里のヘルメットをかぶってドライブしているとしか映らなかったのである。

  いつの時代にも、新しいヒーロー誕生の向こう側には、ギリギリまで王座を死守してきた男の滅びの美学があるのだが、その節目に直面したらしい。

 

 F3を3戦目で制覇した黒澤琢弥にしてからが、ご存じガンさんのジュニアである。

 

 なにかがすっきり新しくなる予感がする。各チームを華やかに盛り上げているレーシングギャルも大増員だ。随分といろんな企業が力を入れはじめたから、彼女たちには、一つのやってみたいカッコいい、実入りのいい職種になってきている。観客席も当然、若い世代に移りつつある。主催者発表、5万2000人、信じていい数字だ。


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 そんな舞台のサポートイベントであるミラージュ・インターナショナル・ラリーアートカップに、ことしも第1戦からエントリーしてしまった。モデルチェンジした今年のマシンは、ニュープロプロダクションのリプレのカテゴリーにあるとはいえ、ほとんどがTSに近い。ストレートエンドでは時速230キロに達してしまう。そこからのブレーキングはハンパじゃない。リアをふられることもたびたびだった。予選17位、決勝17位は、スタート直後のシフトミスで27位までドロップしたことを考えれば、まだ成長過程にあることを立証できた上出来のレースだった。52歳の特別プレス席もあと何戦かは、すわらせもらえるみたいだ。今シーズンもよろしく。


 わたしのこの「熱走報告」を最後に『ベストカー』誌上から、ミラージュCUPは消えたのである。  


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 この項、このあと、適宜、手を加えて、完成させます。
 感想のメッセージ、コメントをお寄せ下さい。お待ちしています。





2018年08月14日 イイね!

富士フレッシュマン・EXA⑩のラストラン

富士フレッシュマン・EXA⑩のラストラン
〜動画の後でレースレポートと併せてどうぞ〜

 こんどの夏こそ、広島の原爆の日が来ても、8月8日の北九州・八幡の大空襲、そして8月9日の「長崎の日」を迎えようとも、そして8月15日の「終戦の日」が来ても、こびりついて離れない『鎮魂の夏』の記憶に落ち込まないように、と心を決めていた。歯を食いしばって、1945年の出来事をもう思い出さないでいよう、とした。が、やっぱり駄目で、気張った分だけ心が落ち込んでいった。

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 そのブルーに落ち込んでいく正体は「こちら」にあって、その72年前の「記憶」については、すでに以下のように紹介済み。よろしかったら、是非ご一読いただきたい。語り残しておきたい昭和11(1936)年生まれの「昭和史」の一部でもあるので。いずれもクリックで、お読みいただけます。

●鎮魂の夏① 『長崎の鐘』と『終戦の日』の狭間で

●鎮魂の夏② 8月9日、もしもあの時… 

●8月、ああ「鬱の色」に染まってしまう


 この後ろ向きの気分を払拭する特効薬が一つある。新しい車に乗ってみることだ。お誂え向きに、SUZUKI新型ジムニー&ジムニー・シエラのRJC向けの試乗会が、日頃は立ち入れないスズキの聖域、横浜研究所を基地にして、用意されていると連絡が入っていた。

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 ジムニーか。3代目を送り出してから20年目のモデルチェンジ。世界での販売台数は285万を超えるという。特に地方の田園地帯、山間の村に行くと、一家に1台、ジムニーが用意されている。

 新しくなった「小さな巨人」。無性に逢いたくなったところで、新しい別の朗報がもたらされたのである。したがってジムニー試乗記はお預けとなった。

45歳から挑戦した富士フレッシュマンレースも、B110サニー、N10パルサーと乗り継ぎ、1984年のシーズンから挑戦したEXAのラストランの模様が、動画にアップできたと、いつものMD i遠藤さんからLINEメッセージが入ったのである。

 これはわたしのフレッシュマン時代の一つの区切りで、すでにわたしの心は、この前年からステップアップしていたミラージュCUPに吸い取られていて、EXAをどう生かすか、頭を悩ましていたところだった。ま、わたしの事情は別にして、あの当時のフレッシュマンレースを、まずは観戦されたし。このレース、予選は行われず、スターティンググリッドは申し込み順。ベストカーEXAは17番目からのスタート。

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◎富士フレッシュマン耐久レース春季大会 EXA1時間耐久の部 ’87年3月22日 



 さて、ここで新しい試み。あの頃のわたしは、自分の参戦したレースを、律儀にレポートしていたこともあって、動画と同時に、そのレースレポートも用意してみた。
 
 忠実に、活字と写真の記録を同時にそっくり「ベストカー」1987 年4月26日号から転載しておこう。動画の内容と重ね合わせると、結構、あの時代を、懐かしく、あるいは新しく読み取っていただけることを願って・・・。

●富士フレッシュマン耐久レース春季大会(1987年3月22日)

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6位入賞!  なぜ突然に戦闘力が高まったかを教えよう

 モータースポーツは間違いなく、底辺からも、大変な勢いで盛り上がりつつある。その証拠に各地のサーキットのレーススケジュールは、毎週びっしり埋まっているし、平日にスポーツ走行しようとしても、自動車メーカーや、タイヤメーカーの専有使用が優先されていて、それもままならないことが多い。

 だから、週末くらいにしか練習時間のとれないフレッシュマンクラスのドライバーや、フレッシュマン志望の若者にとっては、レース開催のない週のサーキットが頼みの綱。ところがどっこい、そんな訳でみんなが殺到するから、大混雑でまともに走れやしないし、腕も違えばマシンもさまざまの混走。となれば危険なこと、この上なし。

 富士、筑波、鈴鹿、どこも同じ不満が渦巻いて、いまや爆発寸前なのである。

 それでは——―春と秋の2回、フレッシュマンだけの1時間耐久レースをやってあげましょうと新しく設けられたのが、この「富士フレッシュマン1時間耐久」である。発表と同時に大反響で、EXAの第1戦をぼくの代理で走ったチョビ髭の22歳、加藤隆弘クンなんぞは、「ね、ね、一緒に出ませんか。優勝賞金は20万円、6位でも3万円貰えるんですよ。もちろん、ファーストドライバーは局長に譲ります。ベテランの巧みなテク。そ、そうです。若いぼくらにお手本を見せて下さい。お願いします!」

 と、もう大騒ぎ。参加料8万円はチト高いが、企画そのものには、大賛成。早速、準備にとりかかった。

*傷つき疲れたマシンにまず愛の手を!

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 耐久レースとなると、たとえ1時間といえども、マシンをしっかり点検しておかねばならない。ちょうどいい機会だ。わがEXA、この1年間、ドックに入れた記憶がない。それどころか、昨年の終盤2戦でうけたボディのダメージは、叩きだしとガムテープでなんとか応急手当をしているにすぎない。

 コ・ドライバー任命と引き替えに、加藤クンは傷つき疲れたEXAを、スリーテックのガレージから引き取り、武蔵境にあるRS中春の工場まで運ばされたのである。いくら走りたい一心からとはいえ、それからの加藤クンの献身的な働きは、特筆ものだ。

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*加藤隆弘君のお陰で、青春後期も賑やかにサーキット暮らしを楽しめましたぞ!

「局長、うちのEXAのひどさったら、なかったスヨ。開けてびっくり。まず足回りから始めたンすヨ。そしたらフロントのベアリングがダメで、交換。ドライブシャフトのブーツは破れて、グリスもないから焼きつく寸前でして。
 次にリアのブレーキドラムを開けてみたら、もう最悪! ライニクングはないし、がたついてるンスヨ。よくあんな状態で走っていたなって、みんなで感心しちゃった」

 エンジン調整、エアクリーナーの掃除、スロットルバルブ等の点検、タベット調整。目にみえない、こうした基礎的な作業に力を入れる——これを毎レース終了のたびに欠かさない。RS中春の強さの秘密はそこにあった。もちろん、それだけではない。仲間同士の奥深いコミュニケーション。豊富な練習量。レースへのシビアな姿勢……。ぜひ、手本にしてほしい。

 さて、3月22日。富士山麓は薄曇り。ワンデイレースで予選なし。スタートのポジションはエントリーの受付順だという。出走17台で15番目。たっぷり抜き甲斐があるじゃん!

 この日はパルサーとEXAが混走だったほか、サバンナRX-7とファミリア、スカイラインとレビン・トレノ、スターレットの各1時間耐久が3レースとVWゴルフポカールレースが用意されていた。

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*Aコーナーから100Rへ。「珍しいアングルでしょ?」と安川肇さんに渡された。ありがとうございます。

  3カ月以上もEXAに乗っていないぼくにとって、たった20分でも練習走行できたのは有難かった。ヘアピンを立ち上がったところでにわかにエンジンがバラつき始めた。慌ててピットイン。ボンネットを開けてみると、プラグコードが1本抜けていた。本番でなくてよかった。再びコースイン。2分7秒台が出たのを確認してから、加藤クンとのドライバー交代の練習にピットへ戻った。足回りは別のマシンみたいにコーナーで踏ん張ってくれるが、直線での伸びは今イチだった。

*7位で加藤クンにバトンタッチ、いざ!

 午前11時45分、ローリングスタート開始。ゆっくりと1周して、シグナルが青に変わったところでアクセル全開でメインスタート前を駆け抜けた。耐久とはいっても、ぼくの持ち時間は長くて40分まで。スプリントのつもりで攻める。1周目だけは丁寧に第1コーナーへ。①浅井建次が○19田部靖彦に押し出され、トップから5位あたりにドロップしたのをしっかり確認しているのだから、かなりの余裕。

 コンスタントに6秒台前半で周回、どうやらEXAグループの7位まで浮上できたらしいので、早めにバトンを渡すことにした。

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*バトンを渡された加藤隆弘君の熱走!

 残り時間は35分、フルフェイス型ヘルメットの中の、緊張した加藤クンの目。交代に17秒も使って、飛び出していった。あとで聞いたところによれば、同じ背格好の②清水佐織/小林里江組はわずか9秒で入れ替わったそうで、そのマージンもあってか、堂々と優勝をさらってしまうのである。

 6秒台、5秒台と周回ごとに加藤クンのタイムがよくなっていく。○12横田憲治に追いついたあたりから、さらにペースがあがって、ついに4秒台! 満タンで走ったぼくに較べると少しは有利だが、それでもイイ線いっている。10秒差近くあった先行2車を捉えるのも時間の問題。この日応援に駆けつけてくれたEXAメイトの岡部松恵クン、メカの石村クンと3人で熱くなったのは、当然のなりゆきだった。チェッカーが振られた。加藤クンが先行グループの中に突入している! さあ、どうか? 

 コンマ3秒の中に3台がひしめいた激戦だったが、結局、6位に終わった。
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 表彰式。小さいけれど、ずっしり重量感のある楯と、3万円の賞金を手にしたとき、これがベストカーEXAの、初めての晴れ姿だと気づいた。次はやっぱり表彰台だ! その役目、こんなにマシンに愛情を注いで甦らせてくれた22歳、加藤クンにあとは任せよう。          (この項、終わり)

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*このレース終了後、ベストカーEXAはこの優しい青年のもとへ引き取られて行った・・・

PHOTO BY 安川肇
2018年07月31日 イイね!

悪夢か、郷愁か。転倒虫の語り草

悪夢か、郷愁か。転倒虫の語り草〜1987年10月18日 富士GC、3万7000の大観衆の前で〜

 ふた月前の「丹沢そば本店」での『富士フレッシュマン同走会』で、久しぶりにレーシングドライバーの影山正美君に再会した。
 握手した瞬間、その分厚い、力強い巨きな掌が妙に嬉しかった。
 わたしの記憶の中の「マチャミ君」はいつも兄の正彦君の影のような存在の少年だった。

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*素敵な「若者」に挟まれて
 
 1987年10月18日は富士グラチャンとあって、快晴の秋空の下、三万七〇〇〇の大観衆が詰めかけていた。ミラージュCUPエキスパート第6戦は、その前座に組み込まれていて、注目度も一段とアップ。眞田睦明、中谷明彦、清水和夫に小畑栄、横島久といったミラージュ乗り、それに金石勝智、影山正彦といった若手のホープに、フレッシュマン組から田部靖彦も挑戦していた。当時51歳のわたしもシニア代表(?)として、悠々と予選を通過、後ろに4台ばかりを引き連れて・・・。

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 マチャミ君に会うと、決まってこの日のことが思い出されるんだよ、と伝えると、彼もよく記憶していて、今や語り草となっているその日のことで大いに盛り上がった。そこで思いついた、その日のDVDが手元で眠っているはずだ、ということで、動画化を思いついた。やっと今、それが出来上がった。

 オープニングは想像を絶する予選の模様から。まず鉄砲玉の田部靖彦が、第1コーナーに飛び込んだ!

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*ヘッドフサフサ時代の田部靖彦君

 お楽しみあれ!

 動画制作・遠藤幸和


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 すでに詳しくは「ここ」に書き残してあるので、どうぞゆっくりとお読みいただければ、幸いです。

 題して「痛恨のクラッシュ ~「あの事故」と同じ舞台で体験したあの瞬間~」

今の後、引き続き、EXAレースなど「富士フレッシュマン」の実像を、引き続き動画に変換中です。ご期待ください。
2018年07月11日 イイね!

シリーズ《この人に逢いたい》は生きているぞ!

シリーズ《この人に逢いたい》は生きているぞ!消えた『A・セナの命日にめぐり逢えた
《あの時代》』との不思議な連環〜



《この人に逢いたい》という「ブログカテゴリ」で、これまで5人のビッグに登場を願っている。

 第1回目はノンフィクション作家の佐野眞一さん。お目にかかったのは2011年7月3日。佐野さんの講演があるから聴きに来ないか、と「日向読書会」から誘いを受け、開業の迫っていたスカイツリーの真下にある代表的な東京下町の一つ、東向島の図書館まで赴いている。

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 講演のテーマは東日本大震災後の日本人の生き方。東電のもつ「隠ぺい体質」を本当に暴けるのは、大文字の論評ではなく、たとえば原発から1キロと離れていない地点にあるほうれん草農家を探し当てることからはじまる小文字のノンフィクションレポートではなかろうか、という取り組み方に同感した。

 当時の佐野さんは『週刊ポスト』でソフトバンクの社長・孫正義の生き様ドキュメントを連載している注目の書き手だった。彼のルーツについても、佐野さんは徹底的に取材する。韓国の大邱(テグ)まで足を伸ばす。そこまで御存知なら、と孫正義も笑顔で認め、むしろ積極的に取材に応じるようになったという。

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  講演会が終わると、近くの蕎麦屋の二階で『佐野さんを囲む会』があるというので、そちらへ移動。出席者は25人ほどにしぼられていた。幸い、佐野さんの隣りにわたしの席が設けられていて、彼の単行本のタイトルのつけ方や、共通の友人の近況など、結構、踏み込んだ話をすることができた記憶がある。

  彼の好きな言葉は、宮本常一の「記憶に残ったものだけが、記録にとどめられる」を言い換えて「記録にとどめられるものしか、記憶にのこらない」と。……いい仕事を積み重ねている人に逢いに行くシリーズ。その始まりであった。(詳しくは、こちらを参照に)

●ノンフィクション作家 佐野眞一さん
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23029597/

その4日後は「七夕祭りの日」だった。逢いたい人に、逢いに行く。その第2回目に選んだ人との約束の時間には、まだ20分ほどある。

  改装工事中の歌舞伎座を横目でみながら東銀座をめざす。電通別館を過ぎると「銀だこ」。ここのたこ焼きと鯛焼は、通りがかるときにはかならず買ってゆくのだが、この日は残念ながら、パス。そのかわり、その地点から携帯電話で、訪問先に確認の連絡を入れる。

  1Fにうなぎ屋さんのあるビジネスビルの6F。エレベーターが停まると、もうそこは訪問する事務所の入り口だった。声をかけ、ドアを開けると、こちらを振り向く男性。片山右京君の陽焼けしてひきしまった顔がそこにあり、それがぱっと笑顔に変わる。

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 そんな、心を弾ませ、足取りも軽いイントロ部分があって、『片山右京・不死鳥伝説の美学』を書き上げている。

  その頃の右京君は、2009年暮れ、富士登山の訓練中に遭難し、同行した友人二人を失い、以後、活動を休止するという失意の状況に追い込まれていた地点から、再び新しい挑戦のテーマを設定して、翔び立とうとしているところであった。
いや、片山右京は確実に蘇っていた。未来を担う子供たちから「ほんものの元気を引き出す」チャレンジスクール、自転車レース参戦、モータースポーツでの新しいスタイルによる活動(スーパーGT)など……。

 別れ際、右京君から嬉しい誘いの言葉が……。
「今度の菅生に来てくださいよ」

  そうだ、ご無沙汰したままの菅生へいこう! 右京君がスポーティングデレクタ―をつとめる「グッドスマイルレーシング」は、さきごろのマレーシア・セパンサーキットでのGT300クラスで優勝したばかり、つまり凱旋レースをどう闘うのか、ぜひ、見てみたいし、何よりもエースドライバーの谷口信輝君は、ガンさんの「ドラテク特訓道場・中山サーキット編」で、一躍注目を集めたべスモ卒業生。加えて、「初音ミク」をあしらった痛車デザインのマシン、個人スポンサー制度など、この目で「新しい風」を確かめたい。

  当然、7月31日の菅生を観戦するために、その前日、わたしはプログレを駆って東北自動車道を北上していた。

●片山右京・不死鳥伝説の美学
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/23082768/

  ☆    ☆         ☆         ☆

  それから2年後の7月10日、3人目の「この人に逢いたい」に登場するのが、女優の長谷直美さんだった。《『美女と野獣の凸凹コンビ』30年ぶりのデート》と題して……。

 なぜ、そんな嬉しい時間がやってきたのか。説明の要があるだろう。ことの起こりは「みんカラ」にあった。およそ2年前の8月14日付けのBLOGで《「新・編さん」の茨の道》の第2回として『雨中の激走! 美女と野獣の凸凹コンビ』というレース挑戦にひきずり込まれてゆくレポートを紹介しているが、その時の伴走者として、当時、眩しい青春のシンボルだった長谷直美さんを起用。なかよく「日産レーシングスクール」を受講したものだった。

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 その翌年、凸凹コンビは日産レーシングスクールをそろって修了し、それぞれのカテゴリーからレースデビュー。とくに直美さんは、日産がラングレーのレ―シング仕様でレディース軍団「チーム・エンジェル」を結成した際に、専属ドライバーの一人に抜擢され、スポットライトを眩しく浴びたものだが、あれから30年近く経って、いまはどうしているのだろうか。聞くところによれば、幼馴染と結婚してフランスに住み、ルマン24時間レースのどこかのチームの広報担当として活躍しているらしい。1956年生まれか。逢いに行きたい人の候補としてリストアップしておこう……などと、フレッシュマンレース時代のエピソードにかこつけて、ひそかにラブコールを謳いあげていたものだ。

 それがなんと、つい一月前に、わたし宛にこんなメッセージが、みんカラBLOGを通して届けられた。

——ご無沙汰です。長谷直美です。
大変ご無沙汰しています。お元気のご様子、何よりです。こちらはいろいろあって、長い外国暮らしから、昨年日本に帰ってきました。正岡さんのブログ、時々拝見しています。先だっては懐かしい頃のお話を書いていただき、ありがとうございました。今日は、実はお願いがあり、思いきってメッセージさせて頂きます。正岡さんとモータスポーツを楽しんでいた頃の、私の写真がありましたら、お借りできないでしょうか? TBSの番組内で使用させて頂きたく、お願いメッセージしました。これを機会に、またよろしくおねがいします。
                            直美

そこで7月9日の暑い午後、有楽町で待ち合わせたわけである。

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そのあたりの微妙な息遣いは「こちら」からどうぞ。
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/30553806/

 そして第4回目は、いまは亡き徳大寺有恒さんである。足取りのしっかりした徳さんの姿は、この時が最後だったような気がする。

 
『2014年版 間違いだらけのクルマ選び』&NAVI CARS vol.10 巻頭特集「徳大寺有恒、という生き方。」刊行記念トークイベント+サイン会が代官山蔦屋で催行され、その開幕前に「ちょっと一服」と前置きしてあるが、すでに徳さんの影は薄かった。

●『徳大寺有恒、という生き方。』ドラマの共演者たち
https://minkara.carview.co.jp/userid/1135053/blog/32270393/

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 お読みいただくなら、その1ヶ月前に、代官山蔦屋でのトークショーの予告をかねて、久しぶりに用賀まで逢いいに行った日の「徳さん」がいい。

●もう一度、徳さんと一緒に仕事がしたくなった!
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 そして、第5回。TOYOTAの豊田章男社長から2017年のルマン24時間耐久レースで、ポルシェの後塵を拝する結果に終わったことを詫びるコメントがメールで届いた。
一読、胸が熱くなった。ここまでモータースポーツの本質を理解され、すでにそれが血となり肉となっている61歳のメッセージであった。そこで、そのまま、そっくり、手を加えずに「みんカラ仲間」にお届けたもので、こちらがインタビューした訳でもない。だから、このカテゴリーには馴染まない。

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   したがって、これから仕上げようとしている『この人に逢いたい』は、正確には第5回に当たるのだが、困ったことに、ゲストはお二人。さて、どうしたものか……というところで、やっと「7月4日12:00」に予告しておいた「何シテル?」に繋がったわけである。

——梅雨明けというのに、空は厚い雲がのさばったまま。風も強い。が、この日の夕刻は楽しみが待っている。富士スピードウェイで同時代のモータースポーツ・ライフを共有した男3人でお喋りを。どんな話が俎上に載るか。石臼挽きの自家製手打ち蕎麦、庭の盆栽が評判のこの店で。徳大寺さんも好きだったな。

 元「オートスポーツ」編集長の熊谷睦さんと、ひたすら富士フレッシュマンを撮り続けたアマチュアカメラマン、安川肇さんと、徳さんの好きだった荻窪の 『本むら庵』に集合し、あの時代の魅力や裏話、今だから話せる特ダネものを、この際公開し合おうじゃないか、という趣向であった。

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  いそいそと約束の15分前には駐車場着。で、お店の暖簾をかきわけて案内を乞うと、すでに熊谷君が席についていて、こちらに会釈を送ってくるではないか。軽快なポロシャツ姿。久しぶりに顔を合わせるクマさん。やっぱり若いや。と、感心していると、背後に人の気配。振り向くと、そこにはトレードマークの、背広にピシッとネクタイを締め込んだ安川さんの柔らかい笑顔があるではないか。

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  さて、この組み合わせがここにやって来るまでの舞台裏を、次回にはぜひまとめ上げたいものだが、そのきっかけは5月22日に《不思議なこともあるもんだ!!》として、その2週間ぶりに開いたわがPCを襲った大異変、『A・セナの命日にめぐり逢えた《あの時代》』がすっぽりと抜けていたあの日に立戻らなければならない……。     
                                                                                      (以下、次回の更新へ)

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スペシャルブログ 自動車評論家&著名人の本音

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「翔平177号目のニュースは秩父の蕎麦屋で手打ちの絶品を啜っている時に知った。虎は18時から雨の横浜でベイと対決、9回表、1-3とリードされていたのを代打糸原、近本、中野のヒットで満塁とし、それを森下の死球、大山の安打、最後に選球眼のいいノイジーが押出し四球で逆転、虎が強くなった。」
何シテル?   04/25 11:42
1959年、講談社入社。週刊現代創刊メンバーのひとり。1974年、総合誌「月刊現代」編集長就任。1977年、当時の講談社の方針によりジョイント・ベンチャー開...
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